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6.騎士団長の焦燥

ゲラン暦418年 ―秋の候 


 翌日、レルファンとリルは再び神殿特別書庫を訪れた。

 のんびりとした二人は、人手が足りないと言う割には、さほど職務に追われていないらしい。嬉々として茶の支度を始めた。


「ここには余り人が訪れませんでな。お客がみえるとつい喜んでしまいまして」

「いつもの誇りまみれの部屋も、騎士団長様がいらっしゃるだけで違ってみえますよね」


 テーブルについたレルファンの前に、湯気の立ったお茶と焼き菓子がサーブされる。今日は、どうにか自分一人でお茶の支度ができたケネスである。

 向かいに座った二人と、レルファンは和やかに会話を始めた。


「連日お伺いして申し訳ない。お務めの邪魔にならなければよいのだが」

「いやいや、御心配なく。しかし、お忙しい騎士団長様が、今日は何をお調べになりたいんですかの?」

「いや、昨日のエスタ殿とサヴァン殿の巡りあわせをもう少しお伺いしたくてな」


 優雅にカップを傾けるレルファンに、ウェバーが髭を扱く。


「ほう? しかし、もう随分前のこと、大したことは覚えておりませんぞ」

「それで結構。何か掴めたらと淡い期待を持っているだけだ」

「今回のことと、関係がありますのか?」

「分かりませんな。しかし少しでも可能性があれば、調べなくてはいけぬのです」 


 ウェバーは不思議そうに首を傾げたが、それでも口を開いた。


「では、私の覚えていることをお話しすればよろしいので?」

「ああ、頼みます」


 頷けば、ウェバーは遠い目をして、十五年前の記憶を語ってくれた。しかし、前回の話とさほど変わり映えのない内容だった。


「申し訳ありませんなあ。ああ、そうじゃ。あの方を訪ねてはいかかだろうか」

「あの方?」

「エスタ様の姉巫女の、一級巫女のレイラ様ですわい。あの方はサヴァン様付きになってから長くての、確かリューズの慰問にも同行した覚えがありますのでな」

「ほう、姉巫女、ね」


 死の床についたサヴァンに面会した時、傍についていた巫女がそんな名前だった。三十をいくつか越した様子だったから、十五年前のことも記憶しているだろう。


「帰りに面会を願い出てみよう。いや、助かります」

「いえいえ、お役にたてたなら幸いと言うもの」


 ふぉふぉ、と笑ったウェバーの横で、ケネスがもごもごと口を動かしているのに、リルが気付いた。

 上司の顔と、レルファンの顔を交互に見ているが、何か言いたげなそぶりである。


「ケネス様、どうかなさいましたか?」


 出過ぎた真似かもしれないとリルは思ったが、余りに訝しい行動であったため、訊いた。は、としたケネスは、曖昧に笑って、何でもありません、と答えた。

 レイラという新しい情報源以外には、得るものはなかった。

 またおいで下さい、と先日と同じように二人に見送られ、レルファンたちは書庫を去った。


「次はレイラだな」

「はい」


 足早に進んでいると、「お待ちください!」と大きな声がした。振り返れば、先ほど見送ってくれたケネスが走り寄って来るところだった。


「どうなされた、書官殿?」

「あ、あの! す、少しよろしいですか?」


 おどおどと言うケネスに、レルファンは頷いた。


「構わんが、何だろうか?」

「あの、ヴェルトさんのことなんですが」

「ヴェルト……? ああ、辞めたという書官だな」

「はい。そのヴェルトさんなんですが、里を北だと言ってたんです。マリナという町だと」

「冬の厳しい土地だな。で?」

「でも、違うんです。言葉の地域性があっていないといいますか。マリナの地方と、ヴェルトさんの言葉にはイントネーションにズレがあってですね」


 要領を得ず、もたもたと話すケネス。それを遮ることをせず、レルファンは向き直って話を聞いた。


「ふむ、続けてくれ」

「じゃあどこだろうとずっと考えてたんですけど、さっきの顧問の話を聞いて気付いたんです。ヴェルトさんは東のリューズ辺りの出身です。つまり、ヴェルトさんは出身地をごまかしているのです」


 ふ、とレルファンが息を吸った。ゆっくりと吐く。


「リューズ辺り。根拠はあるのか?」

「僕、本当は言語学者になりたかったんです。地域性と付随する言語の変化というのをもっと調べたくて。まあ、書官も十分魅力があるんですが。失われし歴史を紐解くのもまた素晴らしものですし。過去とは言え未知の領域ですから、踏み込むのは震えがきます。

 あ、話がそれましたね。それで、僕、イントネーションや単語の使い方には詳しいつもりなんです」


「じゃあ、ヴェルトとやらがリューズ周辺の出身だというのに間違いはないんだな?」


 ケネスは何度も頷いたが、誰も見ていないことを確認するかのように周囲を見渡した。

 無人だと分かると、再び口を開いた。


「顧問はヴェルトさんのことをすごく買ってますから、評価を下げるようなことを言うと叱られてしまいます。なので黙っていてほしいんです。でも、神妃の出身地だっていうし、それに出身地を偽装するなんておかしいし、それで少し気になったので……」


「約束しよう。ありがとう、いい情報だ」


 レルファンがそう言うと、ケネスは子供のように頬を紅潮させた。


「い、いえ! 騎士団長様にそう言って頂けるだけで充分です! では!」


 興奮気味に言って、ケネスは書庫へと走って行った。


「ヴェルトか。確かに、怪しいな」


 レルファンが唇を舐めながら言った。

 神殿の構造を知っている、内部の人間。出入りは容易に違いない。そして、上司のウェバーが知っているのだ、試練の儀の内容だって、知りえただろう。

 そして、隠していた真の出身地。ケネスの言うようにリューズ出だとしたら、ヴェルトは過去のエスタを知っている可能性もある。カストナの生き残りというのも考えられる。


「カルヴァさんが、今王宮で詮議団の詮議内容の書類を調べていたと思います。ヴェルトという人間についても、そこにあるんじゃないでしょうか」

「よし、リル、すぐにカルヴァのところに行け。ヴェルトと言う人間について、洗いざらい調べ上げろ」

「はい!」

「俺はこのままレイラのところへ行く。調べがつき次第、報告しろ。

 ああ、もし現在の居場所が分かるようなら、カルヴァに言って細作を出すように言え。周辺を調べろ」

「はい!」


 駆け出していくリルの背を見ながら、レルファンはようやく、敵の背中を見つけたかもしれないと思っていた。

 これが大きな一歩になれば、きっとエスタを助け出せる。


「……レイラに会いに行くか」


 呟いて、レルファンは回廊を再び歩き出した。




 面会室に現れたレイラは、やせ細り、顔色も酷く悪かった。黒髪は艶を無くし、満足に櫛を入れた様子がない。髪と同じ色の瞳は、精彩を欠いていた。足取りも覚束なく、少女巫女に支えられ、よろよろと椅子に腰を下ろした。


「お加減が悪いようですな。お呼び立てして、申し訳ない」


 余りの様子に居た堪れなくなったレルファンは、頭を下げた。


「いえ……、これも務めですわ」


 妹巫女の失踪に続き、師のサヴァンの死が重なったせいなのだろうか。最後に会ったときはこれほどに衰弱していなかったと思う。


「体が弱いもので、直ぐに体調に出てしまいますの。いけませんわね」

「手短に済ませますのでお許しください」

「いえ……、エスタ様のことをお知りになりたいとか。先の詮議団の方に、前日の様子などはお話致しましたけど?」


 小首を傾げるその顔には表情がなく、あまり好意的でないように感じた。


「十五年前のリューズでの話をお伺いしたい」


 レイラは驚いたのか、微かに眉を上げた。


「ま、あ」

「レイラ殿はご存じだそうですね。その時の話を、ぜひ」


 レイラは、背後に立つ少女に、か細い声で下がっていてと指示を出した。赤毛の少女は素直に頷いて、退室していった。それを確認してから、レイラはレルファンに顔を戻した。


「騎士団長様は、随分昔の話をご存じなのですね」

「ええまあ。しかし、詳しくは存じぬ。ですから、エスタ殿とサヴァン殿がどう巡り合ったのか、その辺りをお聞かせ願いたい」

「……それで、エスタ様は戻ってきますの?」


 レルファンを見つめる瞳に、力がこもった。


「と、仰いますと?」

「どこまでご存知か知りませんが、エスタ様の過去は、神妃としては些かふさわしくないと思われがちな過去です。それを暴くからには、それ相応の行動を見せて頂きたいのですわ」


 辛辣な物言いである。今にも倒れそうに見えたレイラであったが、その心は怒りで満たされているようだ。

 目の前にいる騎士団長をき、と見据えて続けた。


「国王陛下は、エスタ様がすでに神に召し上げられたと仰ったそうですけど、私はそうは思っておりませんの。しかるべき儀も済んでないまま、神の元へ行けるはずがありません。見つけ出せないことを、口車でごまかしておられるのですわ。

 頭がそんなものだから、部下も腑抜けばかり。あの詮議団の連中をご覧になって? 必死さと言うのがついぞ感じられませんでした」

「や、それは……」


 憤懣やるかたないといった言葉を、レルファンは戸惑いで受け止めた。

 仮にも国王の判断を、こうも悪しざまに言い捨てるとは。見た目とは違い、気丈夫な人であるようだ。


「軽い気持ちで神妃を貶めるようならば、お断り申し上げます。お引き取り遊ばして」

「軽くなどはない。私はサヴァン殿に必ず助け出すと約束した。そのために必要だと思うからこそ、こうして貴女にお願いしている」

「サヴァン様……。そうでしたわね」


 ふ、とレイラは表情を和らげた。


「母とも慕ったお方。そのサヴァン様の最後の会話の相手は、貴方様でしたわね……。何か、仰っていましたか?」

「エスタ殿を必ず見つけ出してくれ、と」


 命を懸けての母の懇願だった。自分は、必ず助け出すと誓ったのだ。


「そう、では、貴方様はそれに応えて下さろうとしているのですね?」

「ええ」


 頷いてみせる。レイラはその本心を見抜こうとするかのように、しばらくレルファンを見つめていたが、納得したのだろう。微かに頷いた。


「……よろしいでしょう、サヴァン様が見込んだ方です、私も信用いたしましょう。ですが、このことは騎士団長様の胸一つに納めて下さいませ。悪戯に広めたくありませんの」

「お約束いたしましょう」


 頭を下げてレイラを見ると、ふ、と息を一つついて、レイラはゆるゆると語り始めた。


「あれは十五年前、私が十七のことでした。サヴァン様は貧困街の慰問には随分尽力を注がれておりました。

 騎士団長様は巫女の慰問活動をご存じ?」

「いえ、勉強不足でして、申し訳ない」


「あら、素直でよろしいわ。その土地の礼拝堂に赴いて、教典の詠唱と説法を行うというのが一般の知識なのですけど、そんな自己満足的なものじゃありませんの。礼拝堂の修繕から、街の清掃。仕事のない者には、神殿側が仕事を斡旋するということもやりますわね。それに加え、炊き出しを行いまして、礼拝堂に来た方全てに食事を振る舞います。

 サヴァン様は慰問に少なくとも三日から五日の日にちをとり、その間は絶えず炊き出しを行いました。勿論、サヴァン様自ら、食事をよそわれましたのよ」


 レイラは妹弟子に語って聞かせるように饒舌に喋った。決めたからには、全てを語ろうと思ったようだった。


「十五年前も、そうでした。確かあの時は五日、リューズに滞在したと記憶しています。炊き出しは好評で、礼拝堂の前には人が列をなしておりました。そりゃもう目が回るほどの忙しさでした。

 確か、三日目だったでしょうか。その人だかりの中で、ざわめきが起きたのです。中心には、一人の子供がおりました。異臭を放ち、ぼろ布を纏っただけのみずぼらしい子でした。リューズの人々もつぎはぎだらけの質素な服装でしたけれど、あんなにも酷い有様の人間はいませんでしたわ。

 驚いたのはそれだけじゃありません。その子の両手足には、忌まわしくも荒縄がぎちりと結ばれておりましたの」


「荒縄……」


 リルの場合は頑丈な革と鉄製の鎖だった。エスタが逃げ出したことを踏まえて、強化したと考えられる。となればやはり、エスタとリルを監禁していたのは同一人物か。


「そう。どれだけそうされていたのか、縄の食い込んだ部分は色が変わっていました。そして、縄の先は食いちぎったように、切れていた。サヴァン様は、この子が噛み切ったのだろう、そうしてどこからか逃げ出してきたのだろうと仰いました」


 思い出したのだろう、レイラはぶるりと震えた。


「あんな幼子に与える仕打ちではありませんわ。痩せこけ、髪は泥がこびりつき、体は垢塗れ。体に染みついた異臭はどんなに洗っても、数日は消えませんでしたのよ」

「どうしてそんな扱いを受けたのか、分からないのですか?」

「分かれば、そんな恐ろしいことをした者を処罰しております。

 あの子は、一切の記憶がなかったのです。名前も、年も、今までどうしていたのかも、言葉さえも。ただ、夜になると何かに怯えるように震えておりました。

闇が恐ろしいということは、日の差さない暗がりに置かれていたのではないかしら」

「ふ、む……」


 ここまでは、ほぼリルと同じである。詳しく聞けば聞くほど、リルの過去と重なる。

 同じ人間に監禁されていた二人。その目的は一体何だろうか。あの、毒すら威力を発揮せぬ回復力に、何かあるのだろうとは思う。


「監禁するような輩がいる街に、記憶も何もない子を置いていけぬでしょう? 同じことの繰り返しになってはいけません。

ですので、サヴァン様は連れて帰ることにしたのです。神殿は、身寄りのない女児は巫女見習いとして受け入れていますし、何より安全でしょう?

かくいう私も、孤児院の出ですのよ」


 くすりとレイラが笑った。


「サヴァン様は身寄りのない子供にお優しかった。神殿内には、サヴァン様を母と慕う者は多いのですわ。

 もちろん、エスタ……今だけは昔のままエスタと呼ばせて頂きますわね。

エスタもそうでした。名を与えられ、一時期は抱きしめられて共に眠ったのですものね。私たちよりも、思い入れがあったのではないかしら。そりゃあもう、サヴァン様に懐いていたものです」


 レイラは、懐かしむように瞳を細めた。頬には僅かに赤みが差し、口元には笑みさえ浮かぶ。目の前に、いつかの日々が巡っているのだろう。


「サヴァン様はゆっくりと時間をかけてエスタを教育なさいました。中には心無いことを言う輩もいましたけどね、サヴァン様が一喝なさったものです。気性の穏やかな方でしたけど、いざというときは恐ろしいのですわ。あのお体のどこからそんな大声が出せるのかと言うくらい、ふふ……。

 そうしてあの子は、最初こそ野生の獣のようでしたけど、みるみるうちに成長し、立派な巫女になった。面差しも大きく変わり、あの日の浮浪児の面影は全くなくなりましたわ。そして、私のことを姉と呼び、慕ってくれた。勤勉で、優しく、心の清い子です。神が望まれるのも当然ですわ」


 黒い瞳の端に、きらりと涙の粒が見えた。


「エスタは奇跡のような力を見せた、稀なる巫女。私の愛しくも誇らしい妹巫女です。その子に、こんな恐ろしい真似をするなど、許されるはずもありません」


 夢から抜け出るかのように、レイラは頭を振った。それからす、と居住まいを正し、レルファンに深々と頭を下げる。


「気高き騎士団長様にお願い申し上げます。どうか、どうかエスタをお助け下さい。私の命を捧げても構いません。神に望まれた妹を、助けて下さりませ」

「騎士生命を賭けても、お救いする所存。サヴァン殿にもそう約束いたしました」


 レルファンがそう言うと、レイラはにこりと穏やかに笑った。


「ありがとうございます。お頼み申し上げます」

「ええ。しかし、レイラ殿も神の大切な巫女です。そのお命を捧げて頂くわけには参りませんな」

「ふふ、私はもう、神の選別から落ちておりますのよ。エスタと引き換えならば安いものですわ」

「選別とは?」

「……試練の儀はご存じかしら?」

「ええ。先日知って、驚きました」

「私ね、あの儀式で胃を殆ど無くしましたの」


 鳩尾辺りを撫で、ふふ、とレイラは笑った。


「酷いものでしたわ。血を吐き、悶え、詠唱などとてもとてもできませんでした。そんな中、神は私を認めなかったのだとそればかりが頭を占めてました。いっそもう死んだほうがいいと諦めたものですが、どうにか生き永らえましたの」

「それは、また……」


 内臓を失うのは命を削ることである。レイラの顔色の悪さは、そこからもきているのかもしれない。


「試練の儀とは、神に認められるか否か。そこから外れた私は、神の選別から漏れたということですの。

 そうそう。実を申しますと私、少しだけ、エスタに嫉妬したのですわ。同じように修行してきたと言うのに、信心には劣らなかったはずなのに、エスタはカジタリスを受け入れられたんですもの。

 神は金髪がお好きなのかと罰当たりなことも考えましたわ」


 悪戯っぽく言って、肩を竦めてみせたが、ふと顔に影が差した。


「ですから、エスタにきつく当たったことがあるのです。健康を害すことなく、神に益々近づけるエスタが羨ましくてならなかった。こんな人間じみたことを考えるからこそ、ペリウスに認められなかったのだと、今なら思えるのですけど」

「レイラ殿は素晴らしい巫女ではありませんか。一級巫女だとて、大変な修行を積まねばならぬはず」

「ありがとう。そう言ってくださると嬉しいですわ。でも、エスタには謝らなくてはなりませんわ。姉巫女として、許されぬ愚行でした」


 ふ、とレイラはため息をついた。


「そうでしょうか。人として、当たり前のことだと私は思いますが」

「ふふ、人として、でしょう? 神の教えを抱く巫女には、あるまじきことですわ」


 生真面目な人なのだろう。きっぱりと言って、レイラは寂しそうに笑った。


「エスタは、私を軽蔑したかもしれないわね」

「そんなことないでしょう。エスタ殿が神に認められた巫女なれば、軽蔑などと言う感情はないはずでは?」

「あら。騎士団長様は、もっと厳めしい方かと思ってましたけど、お優しいのね。そうね、そうかもしれない」


 レイラは再び、頭を深く垂れた。


「お会いできてよかったですわ。では、吉報をお待ちしております」

「ええ」


 来た時と同じように、少女巫女に支えられて、レイラは退室していった。

 無人になった部屋で、レルファンは椅子に深く腰掛け、大きく息をついた。

 サヴァンに、レイラ。二人は深くエスタを愛していたのだろう。いや、もっと多くの巫女がエスタを大切に思っていたのだろう。エスタはここで、たくさんの愛情に包まれていたのだ。


(だから、俺についていけぬと言ったんだな……)


 エスタが優しい女だということは、レルファンはよく知っていた。だからこそ、己に注がれた愛情を裏切ることはできなかったのだ。

 その選択を責めることなど、レルファンにはできない。出会った二人の巫女は、己を顧みず、エスタを一心に想っていた。その心を無碍になど、どうしてエスタに出来るだろう。


「いい女だよ、ホント」


 どこにいるのか分からない、たった一人の愛しい女。知るほどに、愛しくなる。

 だからこそ、必ず見つける。一人の女としてでも、神妃としてでも、お前の望む道を開いてやる。その先に絶対の幸福があるようにしてやる。だから、待ってろ。

 


 ヴェルト=カザフは、詮議団の調査から漏れていた。

 尋問どころか、本人の確認すらできていなかった。

 神殿の記録上では、ヴェルトは神妃祭のひと月ほど前にフローラを去っていたことになっていたらしく、捜査範囲外となったようだ。それでも里にまで調査員を派遣するべきだっただろうに、遠いことを理由に、当日の行動を問う書簡を送っただけに過ぎないのだという。

 レイラの言ではないが、詮議団のやる気がまるで感じられない捜査内容だった。


「マリナに団員を出しましたが、マリナにはカザフ家というのは存在しないそうです。王宮からの書簡も、カリフという全く関係のない家に届いておりました。

 ケネスという書官の申すように、出身地を偽装しているようです」


 カルヴァの報告を、レルファンは苦々しい思いで聞いていた。詮議団の致命的なミスだ。調査の時点で分かっていれば、もっと早く行動できたのに。


「書官として神殿に入殿したのは十一年前、ヴェルトが二十一歳のことです。書庫に務めるにはそれ相応の貴族の推薦が必要なのですが、ヴェルトはマリナの領主の推薦書を持っていたそうです。が、これも偽造ですね、推薦書の控えを求めたところ、領主からはヴェルトなる人物は知らぬと回答がありました」

「最初から、役人の仕事はザルだったのだな」


 レルファンが皮肉に笑った。いくら強固な警備を敷こうと、こうも易々と身元不明の人間を深部に入れてしまえば意味がない。


「このヴェルトという者、頭の回転が良く、人当たりもよかったようです。仕事ぶりもよく、書庫顧問のウェバー殿に話を聞きましたが、信じられぬの一点張り。何かの間違いではないかと主張しております」

「ああ、随分信用しているようではあったな。ヴェルトの交友関係はどうだ」

「顔は広かったようですが、特にこれという者はいないようです。浅く広く、ですね。休日も書庫に籠もっていることが多かったとか」

「ふ、む……。単独なのか? いや、仲間がいなくては今回のことは難しいよな」


 巫女二人を拉致するのだ。男一人では難しいだろう。手引きをして誰か呼び入れたと思われる。


「そうですね。ヴェルトが顔を出していたとされる店も捜索してみます。そのどこかで誰かと接触していたかもしれません」


 カルヴァが頷いた。


「そこで、もう一人の書官、ケネスの話を元に、ヴェルトの似顔絵を作成しました。これを元に捜索を開始しようと思うのですが」


 一枚の巻紙を渡されて、レルファンは広げた。


「これはまた、書官というよりは武官だな」


 墨で描かれていたのは、髪を短く刈った、逞しい男だった。吊り上った太い眉に、奥目の黒い瞳。大きな鷲鼻に、強く引き結ばれた唇。がっしりした猪首が、その下にあるだろう体の大きさを示していた。

 但し書きとして、三十三歳。筋肉質で背が高い、とある。


「身長は俺より高いじゃないか。騎士団の身体審査も余裕で通る。ちまちま文書を読んでるタイプじゃねえだろ」

「いえ、それが」


 ヴェルトは勤勉で、暇さえあれば書を読んでいるような男だった。書庫の蔵書の大半は目を通しており、古語や歴史に精通していた。

 上司のウェバーがヴェルトを可愛がっていたのも、ヴェルトに訊けば、欲していた書物が即座に差し出されるほどに仕事が出来たからだった。

 その見た目から、巫女たちには怖がられていたが、人当たりはよく、男たち(警護兵、神官等)には好かれていた。


「ふう、ん。人当たりがいいねえ」


 くるりと紙を巻き直して、レルファンはカルヴァにそれを返した。


「ヴェルトは間違いなく神妃祭の最中もフローラ内にいただろう。三の門、それからクラリスの発見現場辺りに、これを持って調査に行け。厳つい男だ、そこそこ目立っただろう。見かけた人間がいるかもしれん」

「既にリルが数名の団員と共に行きました。この絵の複写も持たせています」

「そうか、じゃあお前も行って指揮を執ってこい。俺は王宮に行く。詮議団のミスと、ヴェルトについて報告せねばならん」

「は」


 苛立ちを隠せないまま、レルファンは王宮へ上がった。


 エスタが攫われて、三十日を過ぎていた。神殿はサヴァンの死も重なって憂愁に閉ざされているが、王宮に置いてはそのような悲嘆は一切感じられなかった。

 白亜の優麗な王宮は、何事にも揺るがぬ、重厚な空気が変わらず満ちている。それは、国王の政事が安定しているからに他ならないだろう。


「おや、騎士団長。珍しいな、そなたがここにいるとは」


 臣下が居並ぶ謁見の間に現れた国王は、膝をついて待っていたレルファンを見て軽口を叩いた。

 ハインツの従兄弟にあたるコーネス王は、御年三十六。男盛りの美丈夫である。波打つ金髪を後ろに流し、透き通るような碧眼を露わにしている。日に焼けており肌艶はよく、大きな体躯はしまった筋肉で覆われていた。

 しかし、このコーネス王の真価は武術ではなく、知略に長けた治政であるといえよう。

 幾つかの貧困街がその泥沼から引き上げられたのは、コーネス王の手腕があってこそだと、学者どもは口を揃えて言うほどだ。


「申し訳ありませぬ。神殿に詰めておりました」


 顔を伏せたまま、レルファンは答えた。


「例の賊は、どうなった? まだ手がかりが掴めぬのか?」

「は。先の詮議団の調査に漏れていた、神妃祭前に退官した者が怪しく、現在捜査を開始しております」

「調査漏れ? それはどういうことだろうか?」


 国王の視線が、レルファンの背後に控えていた貴族の一人、キュリア卿に向けられた。恰幅の良いキュリア卿が、さと顔色を変える。 


「は、い、いや、私は厳密に調査を」

「ヴェルト=カザフという神殿特別書庫の書官ですが、出身地・入殿時の推薦状を偽装しておりました。現在行方知れず。キュリア卿はその者の偽りの出身地に、当日の行動を問う書簡を送っておられたようですが、届くわけもなく。私の部下が全くの他人に送付されていたのを回収いたした次第」

「ほう、それは見事な手抜きだな。キュリア卿、私は貴公に厳密な調査をと命じたはずだが、どういうことだろう?」

「は、いや、しかしそれは、全てを内密に行うようにというご指示でしたので、それに従いますれば手をかけすぎると言うのも目立ち……」


 目に見えて狼狽えだしたキュリア卿は、額に脂汗を滲ませて口ごもった。愚かな、とレルファンは冷ややかな眼差しで見据えた。

 コーネス王は、滅多に声を荒げることのない冷静な王だ。静かな声音で、諭すようにキュリア卿に言った。


「不完全な調査はそれだけで全ての意味を失ってしまう。ほら、現にこうして綻びが出たろう? 貴公が数日を要した調査も、結果何一つ得るものはなかった。いや、むしろ重要な人物を見逃したのだから、失ったのだよ」

「は……、それは、その」

「貴公の今回の行動は大きな失態だ。それを理解したのなら、すぐに退室するように。しばらくの謹慎を言い渡す」

「き、謹慎など、そんな……。その、そんなつもりはなかったのです。申し訳ありません」


 キュリア卿は滝のような汗をかきながら、ぺこぺこと頭を下げた。しかし、同室した他の者は国王以下皆、視線一つ合わさなかった。

 それでも退室せずにいたキュリア卿だったが、見かねた宰相に追い立てられるようにして、出て行った。


「あれを詮議団の頭に据えたのは、私の過ちだった。君の足を引っ張ったようだね、騎士団長。すまないな」

「いえ」

「民に気付かれぬよう、秘密裏に。これをきちんと理解できない者が近くにいたとはね。私もまだまだ未熟だということだ」

「そんなことはございません」


 頭を垂れたままレルファンは答える。と、国王が人を払う気配がした。さざ波のような衣擦れの音がし、しばらくして顔をあげよと命が下った。


「失礼いたします」


 室内には、レルファンと国王の二人しか残っていなかった。レルファンの顔を見た国王は、小さく笑った。


「ほう、これはまた随分様変わりしたものだね」

「ハインツ殿にもそう言われました。外観に影響するなど、私こそ未熟の極みです」

「責務を全うしている証拠だろう。君の真剣さを、さっきのキュリア卿に分けてやりたいくらいだ」


 豪奢な緞子張りの椅子にどっしりと腰かけたコーネス王は、ハインツとよく似ている。

 ハインツの瞳の色を変え、向う傷を消せば、双子と見まがうかもしれない。


「して、そのヴェルトという者が今回の犯人なのかな」

「分かりません。しかし、犯行一味の中の一人であることは間違いないかと思われます」

「ふ、む。エスタが攫われた理由は、分かったのかな?」

「……陛下は試練の儀の内容をご存じでしょうか?」

「ああ。体を壊す巫女が絶えぬので、毒を軽減するように再三言っているのだが、一向に聞かぬのが悩みでね。しかしエスタは難なくこなしたと聞いた。それが、理由だと? 

 稀な事だろうが、カジタリスとエスタの相性がよかっただけかもしれないよ。毒の耐性をつける修行もあると聞いた」


 国王は、エスタが服毒後どういう状態であったのか詳しく知らないらしい。いや、聞いていても、信用していないかもしれない。賢王と呼ばれるコーネス王は、不確かなもの、理論的でないものはまず信じない。己の目でしかと見るか、納得のいく充分な説明がなければ認めないのだ。

 エスタのそれも、同様だろう。


「聞き及んだ内容では、エスタ殿が現したのは人非ざる力といえます。それを目の当たりにしたとき、神のそれと思わず悪魔のものという輩もおりましょう」

「そういう思考の者が、悪魔征伐の目的で攫ったと?」

「可能性もあると思います。エスタ殿のみせたという力が特殊であればこそ、そこに特殊な意図を持つ人間もいるのでは、と考えます」

「ふむ」


 国王は腕を組んで、しばし考えるように目を閉じた。


「悪魔討伐の儀、新興宗教起ち上げ、そういったことしか思いつかないな。しかし、そんな動きはどこにもないのだろう?」

「全くありませぬ」

「……エスタという巫女、美しかったな」

「は?」


 急に話が変わり、レルファンは間の抜けた声を漏らした。


「私も何度か儀式で顔を合わせたことがあるが、いや、あれほどに美しい女はそうそうおらぬだろう。普段は巫女の容姿など気にも留めない私だが、記憶にあるくらいだ」

「は、あ?」

「なあ、レルファン。単に、エスタに恋い焦がれた男の成したこととは考えられないか?」

「……!?」


 驚くレルファンだったが、国王は続けた。


「ヴェルトと申す者、神殿関係者ならばエスタを遠くからでも見知っているだろう。恋慕の情から、無理やり攫ったのではないだろうか。哀れな付き巫女たちは、その男に惨殺されてしまった、と」


 己の言葉に納得するかのように、国王は頷いた。


「こういう事案には、人間臭い理由が絡んでいる場合も多い。調べてみれば、エスタを一人の女として求めた男が浮き上がるやもしれない。レルファン、その辺りの調査はどうだ?」

「いえ。そちらは、何も……」


 その方向では想定していなかったレルファンである。二人の巫女は、余りにも惨い死を与えられている。それに、リルとの関連性や、リューズでの監禁の件がある。そのことが今回に無関係だとは、到底思えない。

 リューズでのことを口にしかけたレルファンだったが、噤んだ。レイラとの約束を反故にはできない。内容が内容だけに、知らしめたくないと言う気持ちは理解できていた。

 確信を持ち、必要に駆られれば吝かではないが、今はまだ、話すことではないとも思う。

 黙ったレルファンを、国王は柔らかく見つめた。


「幾度も浮名を流した騎士団長にしては、想像力が足りないようだな。いや、だからこそか。世の中には焦がれた女性に、想いの余り卑劣な扱いをする者もいるのだよ」

「……」

「案外、的を射てると思うのだがね。まあ、よい、その辺りは調べさせよう。さて、私は君に一つ、用件があったのだよ。参上してくれて手間が省けた」

「なんでしょうか」

「まずは、今回の巫女誘拐の件、よい働きであった。元老院は少し不満があるようだが、私は騎士団長以下、国家騎士団員全員が最善を尽くしてくれたと思っている」

「は、ありがとうございます。しかしまだ」

「当初は国を混乱に貶めようとする反乱分子の犯行ではと思ったが、どうもそうではない。数人、ないし個人の私的な理由からのようだ。

 であれば、団長自らが動く案件ではない」

「陛下、それは……」

「巫女誘拐の捜査は別途調査団を作り、そこで調べさせることにする。団長以下、騎士団全団員は、このことから手を引いてよい。今日よりは通常通り、修練に励み、王都の守護に努めるよう。ひと月もの間、大義であった」


 呆然とするレルファンに、国王はゆったりと笑んだ。


「そなたの国への忠義はよく分かった。褒賞はまた後日として、先に休暇を与えよう。ゆっくり休むがよかろう」

「いえ! 私は巫女を連れ戻すまではこの任に就きたいと思っております!」


 人に任せられるわけがない。レルファンは声を張った。サヴァンにもレイラにも約束した。何より、エスタを助け出すのは自分の手だと誓っていた。

 しかし、国王は首を横に振った。


「騎士団長をこれ以上使うわけにはいかないな」

「しかし!」

「言い方を変えようか。そなたがこのまま奔走していては、何事かあったのではと人心に不信感を植え付けるのだよ。今までは、神妃祭後で浮足立った神殿、王都全体の警護を強化したということでごまかせたが、そろそろそれも難しい。

神妃祭は滞りなく終わった、エスタも恙なく神に嫁した。これが正式な事実であり、今更それを怪しまれるようなことはあってならない。分からぬ騎士団長ではないだろう?」

「…………」


 国王の言うことも、正しい。厳重な箝口令を敷いたとはいえ、どこで漏れるとも限らない。その時、騎士団長が先頭に立ち、何か必死に捜査しているとなれば、事実の裏付けととられかねない。実際そうなのだから。


「心配せずともよい。キュリア卿のような者に任せたりなどしない。ガイナー伯爵に任せることにしているのだよ。彼にはもうその旨を打診してある」


 ガイナー=カリーニン伯爵と言えば、南の国境警護軍を率いた、百戦錬磨の猛者だった人である。二年前、齢六十を数えたことをきっかけに引退なさった。

 現在は王属騎兵隊の武術指導にあたっているのだが、その人間性の豊かさや実直な仕事ぶりは確かである。レルファンは、騎士団との合同演習という名目で、団員の教育をお願いしたこともあった。

 そのガイナー伯爵であれば、キュリア卿のような愚かしい真似はしないであろう。国王の意を汲み、世を騒がせることなく秘密裏に行動するに違いない。一線を退いた人であれば、人目を引くことも少ないだろう。

 国王の人選は、今回は間違っていない。


「君が今知り得ている情報は全て書面にしてガイナー伯爵に提出して欲しい。彼はきっと、君と同等の活躍をしてくれることだろう」

「……承りました」


 国王の決定は、覆せない。先の発表の時でそれを強く実感したレルファンだ。懇願すれば好転するものでもない。であれば素直に了承するしかなかった。


「分かってくれてなにより。では、休暇を取る前に書類を作成し、ガイナー伯爵へ渡しておいてもらおうかな。話はそれだけだ、退出してよいよ」

「は。失礼いたします」


 立ち去ろうとしたレルファンだったが、ふ、と足を止めた。向き合って、膝をつく。


「陛下、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」

「なんだ?」

「神を、信じていらっしゃいますか」


 ふいの質問を、国王は愉快そうに瞳を細めて受け止めた。


「神の加護をうけているハヤディールの国王に、面白い質問をするものだ」


 ペリウスの力で創成したといわれる国である。信じると言うべきが国王であろう。しかし、少しの間を置いて、コーネス王ははっきりと言った。


「戦場でも、執務室でも、傍らに神の存在を感じたことなどないよ。私が信ずべきは己、そして忠誠を誓ってくれた臣下のみだと思っている。勿論君も含まれているがね、レルファン騎士団長」

「……光栄でございます」

「存在も見せぬ、感じぬ、ただ祀られているだけのものに心を寄せても仕方ないだろう」


 ふふ、と声を漏らして笑った顔は、ハインツが浮かべるそれに良く似ていた。が、それをす、と引き取って続けた。


「信仰は人を救う、それは違いないだろう。しかし、国王にそのような救いはいらぬ。現実を見据え、国を、そこに住まう民を生かしていかねばならん。

国が生きることに必要であれば、私は迷わず、神を虚構の産物に堕とすよ」


 それは、国王の確固たる信念だった。国を背負う身に、偶像という拠り所は必要ないのだ。レルファンは深く頭を下げた。


「申し訳ありませぬ、愚かな問いでした」

「いや、私も再確認するによい機会だった」


 国王は背もたれに体を預け、息をついた。表情は普段の穏やかなものに戻っていた。


「しかし、一つ言い足しておこうか。大義の前に三人の命を軽んじているわけではない。二人を殺害し、一人を攫っている罪深き者は、これからも追い詰め、捕らえ、それに相応しい罰を受けてもらう。

 私は常に最善の策を講じているに過ぎないよ」


 エスタ捜索について不満を残している自分に向けられた言葉だった。息を呑んだレルファンに、国王は慈愛の瞳を向けた。


「ペリウス神、神妃にも忠義を示す君を、国王として誇らしく思うよ」


 そうではありませぬ。思わず漏れかけた言葉をレルファンは必死に飲み込んだ。神など信じていない。そんなものの力を感じたことなど一度もないのは、自分も同じだ。

 一人の女を取り戻したい。危険にさらされているだろうその身を救いたい、それだけだ。

 国王に信仰心のかけらがあれば、そこから前言撤回させられるのでは。そんな浅ましい考えだった。それも、崇高なまでの信念に、みっともなく消え入った。

 恥じ入りたかった。騎士として、受けてはならぬ称賛だった。大海を見据え、指揮を執る王を、一兵士の己が軽んじるとは。


「……ガイナー伯爵との引き継ぎを即座に行います」

「頼むよ」


 今度こそ、レルファンは静かに退室した。



 絢爛な王宮の中を、レルファンは一人歩いていた。すれ違う人と挨拶を交わす余裕もなく、ただ歩を進める。

 この手でエスタを探すことが出来ない。心の臓をくり抜かれたような空虚さと、張り裂けそうな焦燥感が混在していた。

 騎士として了承したが、男としての自分は納得できずにいる。共に生きたいと願った女を、この手で救い出したい。それは誤りなのだろうか。


(ぐだぐだと、みっともねえ……)


 己の非力さや、矮小さばかりが露わになる。あんな陳腐な駆け引きを国王相手に行うなど、どうかしている。


「色男は苦悩する様もまた、麗しいねえ」


 前方から、にやけた声が投げかけられた。見れば、金髪髭面の男が少し先に立っていた。


「……ハインツか」

「キュリアのおっさんがやらかしたんだって? 出しゃばりのくせに能無しなんだよなあ」


 一応キュリア卿に気を使っているのか、小声で言って苦笑する。先ほどの謁見の間に、ハインツの姿はなかった。それなのにもうその情報を仕入れていたらしい。


「ん? 結構な失態だとは聞いたが、そんなにヤバいのか」


 強張った顔つきのレルファンを見て訊く。その面差しは国王に良く似ていて、レルファンは皮肉に笑った。


「まあそれなりにな。そうじゃなくて、今はお前の顔は見たくなかったと思ったんだ」

「何だそれ。じゃあ、よく見せてやろう。ほれ、ほれ」


 ぐいぐいとにじり寄ってくるハインツを、レルファンはすこんと頭を叩いて止めた。


「おっさんの濃いツラなんぞいらねえよ。まあいいや、ちょっと付き合え、ハインツ」

「? おう」


 ハインツと連れ立って、レルファンは東翼側の庭に降りた。

 白亜宮とも呼ばれる王宮は、大きな白鳥が東西に羽を伸ばしているかのような形をしている。翼にあたる部分はその方角のまま、東翼・西翼と呼ばれているのだが、その翼の先には離宮があり、それぞれ王妃が住んでいる。

 東翼側には南方の国から嫁してきた妃がおり、その妃の為に南国の植物が多く植わっている。今も、ハヤディールには珍しい、原色の鮮やかな花々が咲いていた。


「綺麗だが、見ごろが短いんだよな。気候が違うから、仕方ないんだろうが」


 艶やかな赤の花弁を指でつま弾きながら言うハインツに、レルファンが鼻を鳴らす。


「花を愛でる趣味があったとは意外だな」

「花は女にやるときしか興味ないね。ただ、南国の美女もこうなのだとしたら、悲しいと思うのさ。異国の地であっても、長く美しくあってほしいだろう?」

「シャーリーン様は今も美しいだろ」

「まあ、ね」


 レルファンは、点在している東屋の中で、一番開けた場所へと移動した。華奢な、これまた南国風の椅子に腰かける。向かい側にハインツが座り、すぐに口を開いた。


「ああ、先に謝っておく。すまん、カストナのことはこれというのは調べられなかった。まともな記録が残ってねえ」

「そうか。まあ、そうだろうな」


 レルファンもあまり期待は持っていなかった。神殿特別書庫に至っては、カストナの文字すら見つからなかったほどだったからだ。


「カストナの者なのかどうかさえ分かってないんだ。元々難しいとは思っていたさ」

「まあ、そうかもしれんが、役に立てなくて悪い。で、こんなところまで来てなんだ? レルファン」

「陛下に、エスタ捜索の任を解かれた」


 ぼそりと呟いたレルファンだった。聞いたハインツの茶色の瞳がふい、と動いた。遠くに舞う鳥に視線を流す。


「ふうん、そういうことか。まあ、おかしくない時期ではあるな。お前はどうにも目立つ。神殿に足しげく向かっていれば、怪しむ者も出てくるだろう。後任は?」

「ガイナー伯爵だ」

「ほう、今度は的確な人事だ。今後はひっそり調べさせるおつもりかね」

「のようだ」


 テーブルに肩肘を付き、世間話でも楽しむかのようにゆったりとハインツは構える。遠目には、騎士団長と騎兵隊副隊長が休憩しているようにしか見えないであろう。


「いいと思うぜ? あの人は真面目だし、頭の回転も速い。人の扱いにも長けてる。もしかしたら、お前より冷静に事にあたるんじゃねえか」

「お前に指摘されずとも分かってるさ。だが、人任せにはしたくない。エスタは俺が助け出したいんだ」

「だろうな」


 言って、ハインツは視線をレルファンに向けた、。


「しかし、それでそんなにしょぼくれてやがったのか。可愛いとこ、あるじゃねえか」

「どこが。自分が情けなくて嫌になってるんだぞ、こっちは」


 投げやりに言い捨て、レルファンはテーブルに伏した。普段見ることのない、金の頭のてっぺんを見て、ハインツは思わずそこをぺしんと叩いた。


「何すんだよ」

「なんとなく」


 ハインツは微かに笑った。いつも生意気なくせに、こんな時だけ弟のような顔して甘えてくるレルファンを、内心では可愛く思っている。

 ごく普通の女を選んでいれば、嫌がるほど祝福してやったと言うのに。どうして面倒な女を好きになってしまったのだろう。


(馬鹿だねえ、俺も、お前も)


 自嘲気味にハインツが笑った。

 と、遠くから、かわいらしい子供の声がした。数人の女の声もする。


「ん? ザイール王子のお声か?」


 レルファンが立ち上がって周囲を確認する。ハインツも立ち上がると、奥離宮の方角から、人がやって来る気配がした。


「王子、危ないですよ」

「やーだぁ、へいきだもん」


 数人の侍女を連れて現れたのは、シャーリーン妃とその御子、ザイール王子だった。

 真っ直ぐに流れる細い金の糸のような髪、しっとりした蜜色の肌、澄んだ青の瞳を持つシャーリーン妃は、五年前に南のクウガ国王家から嫁してきた第二妃である。クウガ国一の美姫と言われたほどの、美しい方だ。

 その御子ザイール王子は、御年三歳。母譲りの褐色の肌に、父譲りのくるりと巻いた金髪。豊かな海を掬い取ったような碧眼。ハヤディール第一王子である。


「あー、ハインツだぁ!」


 東屋にいるハインツとレルファンに気が付いたザイール王子が走り出した。


「おっと」


 ハインツがそれに気付いて駆け寄る。躓き、転びかけた王子を、ハインツはひょいと抱え上げた。

 柔らかな笑みで王子の顔を覗く。


「危ないですな、王子。ご無理をなさいませんよう」


 いつもはふてぶてしい口調であるのに、優しさが滲んでいた。その言葉を向けられた幼子は、嬉しそうに顔をほころばせた。


「だいじょうぶなの。きょうはすごくげんきなんだよ。だからね、お母さまにたのんでおさんぽしてるんだあ」

「元気だからとて、無理はいけません。ほら、母上が心配なさっておられる」


 二人の近くまで、シャーリーン妃が走り寄ってきていた。細い体を折り、はあはあと息をついている妃に、ハインツは笑いかけた。


「大丈夫ですか? 貴女様のほうが、きつそうです」

「……ええ、平気。ごめんなさい、王子が急に走り出すものだから」


 シャーリーン妃は、少し紅潮した顔でハインツを見上げた。その視線を受け止めてから、ハインツは腕の中の王子をやんわりと諌めた。


「ほら、王子、お母様を心配させたのですよ。男たるもの、女人に心配かけさせてはいけませぬ」


 王子は素直に、こっくりと頷いた。


「はい。きをつけます。お母さま、ごめんなさい」

「いいのよ、ほら、こちらにいらっしゃい」

「やだ」


 ザイール王子は、以前からハインツに酷く懐いている。差し出された母の手を無視して、ハインツの首にしがみついた。

 追いついた侍女たちが、そのほほえましい光景にくすくすと笑う。


「おやおや。こんなに強い抱擁を与えられるとは光栄な」

「ハインツ、しばし王子の相手をして差し上げろ」


 抱きつかれたまま苦笑するハインツに、レルファンは声をかけた。妃の前に膝をつく。


「シャーリーン妃、ご機嫌麗しゅう」

「こんにちは、騎士団長。久しぶりに会うような気がします。息災ですか?」

「はい」

「きしだんちょー。こんにちは!」

「王子、御無沙汰いたしております。おや、今日は本当に顔色がよろしいですな」


 レルファンの言葉に、王子は誇らしげに笑った。

 ザイール王子は体が弱い。気管支が弱い上、喘息も持っている。そのせいか床に臥せることも多い。発作から高熱を発することもあり、王子が母と住まう奥離宮には医師が常に詰めているほどである。

 その気苦労からか、南国の華と言われた艶やかなシャーリーン妃も、美しさに影が差し、元々大人しい方だったが、儚さを纏う気弱な女性になってしまった。 


(次のルイーダ妃の子が男だったら、どうなることか……)


 レルファンは西翼の奥離宮に住まう、もう一人の妃を思い出した。

 国王のもう一人妃は、東の大国ドルマ国王家から嫁してきた、ルイーダ第一妃である。

シャーリーンのような華やかな美しさはない。しかし、兵法を学び、女だてらに武術を嗜む逞しい女性である。母国では女騎士団を作り、その騎士団長を務めたという実績もある。

気性が荒く、ヒステリックな部分が目立つので、レルファンは正直なところ苦手に思っている。

シャーリーン妃よりも三年早く嫁してきたルイーダ妃は、姫を二人生んでいる。

そのルイーダ妃が、王子が倒れる度にちくりちくりと嫌味を言うのだ。


『あれほどにか弱き王子では、国など到底背負えませぬことよ』

『北風が吹けば体が震えるなど、我が姫たちよりも繊細でいらっしゃいますわね』


 第一王子を生んだシャーリーン妃へのあてつけに他ならない。臣下の前でも平然と誹るルイーダ妃は、何度も夫である国王に諭されていたが、気にも留めておらず、どころか軟弱な王子を庇い立てするのかと激高した。

 シャーリーン妃は王子が気がかりで反論する気力もなく無言を貫いていたから、ルイーダ妃はこれ幸いと口撃を止めず、二人の妃の関係は悪化する一方。祭事であっても、同席することすらない状態だった。


 そして現在、状況は益々悪くなりそうだった。


 ルイーダ妃が懐妊なさったのだ。ルイーダ妃は先の二人の時も悪阻もなく健やかで、しかも安産で産後の肥立ちもよかった。

 今回も、問題なく数か月が過ぎていた。数ヶ月もすれば、元気な御子を出産されることだろう。噂によれば、腹の御子は男らしいと聞く。国王をも取り上げた産婆が、今回ばかりは紛うことなく男腹だと言ったらしく、ルイーダ妃がそれを大喜びで吹聴しているのだ。

 その御子が本当に王子だとしたら、ルイーダ妃の言動が激化するのは目に見えていた。虚弱な王子を、気弱な生母を、彼女は益々責め立てるであろう。


(女であってほしい)


レルファンはそう思っていた。この頼りない幼子が、儚い妃が、醜い権力闘争に巻き込まれるところなど、見たくはない。今は虚弱でも、成長し、体力をつければ一人前の男として、一国の王としてふさわしくなるに違いない。優しい母に育てられた王子はきっと、よい王となるだろう。

自分でもこちらの母子に肩入れしすぎだとは思うが、いつか己の上に立つ王ならば、好ましい人であってほしいと思う。


「ねえ、ハインツ。いまから僕とあそぼう? かくれんぼしたいんだあ」

「お加減が良いからと言って、無理はいけませんな。そうだ、お部屋で木馬にでも乗りましょうか」

「やだ、あきたもん」

「では、絵本なりと」

「やだ、ぜんぶよんだもん」


 室内で遊ぶのが常の王子には、そういったものは飽きてしまっているのだろう。

 駄々をこねる王子をあやすハインツを、シャーリーン妃が眉尻を下げて見つめた。


「王子、我儘はいけません。ハインツ様が困っておりますよ」

「だってお父さまはぜんぜんきてくれないもん。だからハインツと遊びたいの!」

「私では父王の代わりは務まりますまい」

「そんなことないもん! ハインツ大好きだもん」


 ぎゅう、と小さな腕に力を込める王子の背を、ハインツは優しく撫でた。

 巫女誘拐やサヴァンの死などで、国王も忙しかった。それに、妊娠中のルイーダ妃の機嫌を損ねないために会う回数を自重しているらしいとも聞く。

 王子は、よく似たハインツを父代わりにしようとしているのだろう。


「申し訳ありません、ハインツ様」

「いえ、貴女様も今日は随分顔色がよろしい。そんなところまで似かよるとは、親子というのは不思議なものだ」

「最近ザイールの具合がいいからかしら。夜、よく眠れるの」


 シャーリーン妃は頬を微かに染めて、ハインツを見つめたまま答えた。それを、ハインツは静かに笑みを湛えた瞳で受け止める。

 この二人の間には、立ち入れぬものがある。

 国王と妃の婚姻が整った際、国使としてクウガ国に頻繁に通っていたハインツと、それを歓待していたシャーリーンの間に何があったのか。それは、レルファンすらも詳しく知らない。


(まあ、俺が口出しできることじゃねえ。できるのは邪魔しないことくらい、だな)


 レルファンはその様子をそっと見つめたのち、さて、と言葉を吐いた。


「そろそろ、御前を失礼させていただきます。仕事を残しておりましたゆえ」

「いいのか、レルファン」


 途中で話を止めていたのを覚えていたハインツが訊いたが、レルファンは構わないと言った。少しでも弱音を吐けた分、落ち着いていた。


「ではまたね。たまには奥離宮まで来て下さると嬉しいわ、騎士団長」

「きしだんちょー、こんどあそんでね!」

「はい、喜んで」


 小さな木の葉のような手を振られ、レルファンは笑んだ。

王宮を出て馬車宿りに向かえば、着いたばかりらしいカルヴァと鉢合わせた。馬を使ったのだろう、息を切らしていた。


「どうした、カルヴァ。調査に何かあったのか」

「ヴェルトと思しき死体を発見いたしました」

「なんだと!?」


 レルファンの指示で市街を捜査していたカルヴァは、似顔絵の男に心当たりがあるという花売りの女に行き会った。クラリスの発見現場から目と鼻の先にある長屋に、そんな容姿の大男がいたと言うのである。

 そこに突入して見れば、リリイやクラリスと同様に顔を潰された男の死体があった。

布で厳重に包まれた死体は随分前に殺害されたらしく、腐乱していた。布を解けば一帯に異臭が満ち、ひと騒動になった。


「ケネスを連れ出し死体を確認させたところ、背恰好がおおよそ一致すると証言しました。室内には神殿特別書庫の蔵書が数冊と、エスタ様のものと思われる経典が一冊、髪飾りが発見されました。所持品から見ても、ヴェルトに間違いないかと思われます」


 これを、とカルヴァは布で包んだものを差し出した。開いてみれば、それは使い込まれた経典だった。レルファンはその古びた本に見覚えがあった。

 あの晩、自分が手にしたものに違いない。掴む手に力が入った。


「……エスタはそこにはいなかったのか」

「何者かが連れ去った模様です。ヴェルトらしき死体は腐乱が酷く、死亡時期は詳しく調べられませんが、クラリスと変わらないのではないかと」


 クラリスとほぼ同時期。ヴェルトは主犯の者に利用され、殺害されたのか。


「周辺を現在調査しております。現場にて指示をお願い致します」

「ああ。あ、いや……」


 レルファンは唇を噛んだ。何かに耐えるように瞳を閉じる。


「レルファン様?」

「……お前はすぐにガイナー伯爵の元に行き、このことを報告せよ。エスタ捜索の全権はガイナー伯爵に移行した」

「な!? なぜです!」


 掠れたレルファンの呟きに、耳を疑ったカルヴァが声を上げた。


「国王陛下が、騎士団の関わる事案ではないと仰った。本日より騎士団は通常通りの任務に戻るように、と。お前は一切の情報を書面にし、ガイナー伯爵に渡してくれるか」

「は。しかし……」


 カルヴァは途中で口を噤んだ。その命に抗いたいのは、他でもない主なのだ。もうとっくに、異を唱えたであろう。でも、無理だったのだ。


「……わかりました。では、この報告の為にガイナー伯爵の元に向かいます。引き継ぎを行い、書面も追って提出いたします」

「頼む」

「リューズでの件は、どこまで?」


 エスタの過去をどこまでガイナー伯爵に伝えるか、という問いだった。少し考えて、レルファンは言った。


「サヴァン殿に拾われた。浮浪児のようだった、それだけでいい」


 レイラとの約束を、ぎりぎりまで守った形だ。しかし、任を解かれてしまった時点で、約束を守れなくなったのだ、と思う。


「は。レルファン様は、これからどうなさいますか?」

「屋敷に戻る。お前に全部任せてしまって悪いが、少し休ませてもらっていいか?」

「いえ。お休みくださった方が、安心です」


 力なくカルヴァは笑った。ここまで無理を重ねてきたのだ、一度ゆっくりと休んでもらった方がいい。


「すまないな、では、全て終わったら報告してくれ」

「は」


 レルファンを乗せた馬車を見送りながら、カルヴァは胸がざわめくのを感じていた。これからどうなるのだろう。

 相手は三人も惨殺している、凶悪な人間だ。それに囚われているエスタ様の身を思えば、馬を駆って捜査の先頭に立ちたいであろうに、それが許されぬとは……。

 馬車が王宮正門の向こうに消えた頃、ようやくカルヴァは動いた。気持ちを切り替えるようにぱん、と頬を叩き、留めてあった馬まで駆け出した。


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