0.再会の夜
ゲラン暦 418年 ―春の候
――北門の端。門番の兵に見咎められない垣根の横に、クーニャの兄は座り込んでいた。
十になるかならぬかのまだ幼い少年で、迷い子のように不安げな様子であったが、レルファンに抱えられたクーニャを見てとると、敵意をむき出しにして睨みあげてきた。
「誰だよ、あんた」
少年は、ツギハギだらけの服を身に纏っていた。荷物と言えば、綻びた麻の袋が一つだけ。
これではお布施など不可能に近かろう。
「クーニャを連れてきてやっただけだ」
短い髪を隠していた上着を取り、クーニャを降ろす。少女は兄に向って一目散に駆けて行った。
「兄ちゃん! この人ね、あたしを連れてきてくれたんだよ。きしだんの、おんじんなんだよ!」
「騎士団? 恩人?」
妹を抱きとめた兄は、己が睨みつけた男の素性を知り、顔色を変えた。狼狽えたようにレルファンを見上げる。その不安が溢れた顔に、レルファンはにかりと笑って見せた。
「まあ、そういうことだ。さあ、早くここを発て」
幼い兄弟の頭に、ぽんぽんと手を乗せた。
「母親が待ってるんだろう? 早く帰って、顔を見せてやれよ」
「あ、ありがとうございます!」
レルファンに悪意はないと分かったのか、少年はがば、と頭を下げた。妹もそれに倣う。
「ありがとーございました!」
「礼などいいから行け。追っ手が来ても困る」
エスタは無事に誤魔化せただろうか。見つかってはいないだろうか。何しろ無防備に(本人にそのつもりはないだろうが)ひょっこり顔を出した女だ。どうなったかわかったものじゃない。
「! は、はい! 行こう、クーニャ」
兄に急かされたクーニャはこくんと頷いた後、服のポケットをごそごそと探った。何かを見つけ出し、それをレルファンに差し出す。
「なんだ?」
小さな手のひらに乗っているのは、赤い天鵞絨のリボンだった。
「これ、お母ちゃんがくれた、あたしのたからものなの。神殿に行かなくちゃいけなくなったときに、これを髪に結ってくれた、大切なものなんだ。エスタ姉ちゃんに渡して」
「母親から? どうしてそれをエスタに?」
「エスタ姉ちゃん、ずっとあたしを守ってくれたの。だから、ありがとう、って」
余命幾ばくもない母親からの贈り物。それは遠からず、この娘にとって大事な遺品となるだろう。それを渡してでも礼の気持ちを伝えたいと言う少女の思い。
エスタという巫女は、余程この子を可愛がってきたに違いない。
いや、そうでなくては神殿を抜け出してまで逃がそうとは思わないか。
「きしさま、おねがい」
じ、と見つめられて、レルファンはため息をついた。ひょいとリボンを摘み上げる。
「仕方ねえな。騎士の名に懸けて、渡してやるよ」
「ありがとうございます!」
クーニャは、ぱあ、と晴れやかな表情を浮かべた。その肩を、兄が抱く。
「騎士様、ありがとうございました。これで、母にクーニャを会わせられます」
「早く行け。ああ、万が一神殿から問い合わせが来たら、知らぬ存ぜぬで通せよ」
「はい!」
クーニャは兄としっかと手を繋ぎ、レルファンに見守られながら北門をくぐり、消えて行った。
見えなくなるまで、何度も何度も振り返り、レルファンに手を振る。レルファンもそれに最後まで応えてやった。
「……しかし、随分な頼まれものだな」
手の平の中で温まったリボンを握る。近いうちに、神殿に持って行ってやるか。
自分に咎があると必死に庇っていたほどだ、無事に兄と旅立ったと言えば、喜ぶに違いない。あの泣き顔に、笑顔が宿るところが、見たい。
レルファンの脳裏からは、もうマルティナの存在も、未亡人の存在も消え失せていた。どうしてあの道を歩いていたのか、その理由すらも覚えていない。
瞳を交わしただけで思考回路を全て止めた、エスタのその姿だけが頭を占める。
「神殿に忍び込むのか……、難儀だな」
億劫そうに言ったその顔は、しかし楽しげだった。リボンを握りしめ、レルファンは帰路へと着いた。