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5.試練の毒

ゲラン暦418年 ―秋の候


 大巫女サヴァンは、死の淵を覗こうとしていた。

 エスタが行方不明になったその日から、彼女は気が触れたのではないかと思うほどの執心を持って、祭壇に詠唱を捧げていた。神の救いを信じ、一切の飲食、睡眠を止め、潔斎しての祈願を行ったのだ。しかし、老いた体は三日と持たず、床に伏してしまった。

 その祈願で命の火を燃やし尽くしてしまったかのように、サヴァンの容体は見る間に悪化した。体は燃えるように熱いのに手足は氷のように冷え、意識は混濁。意味の分からない言葉をぶつぶつと零した。国王が遣わした医師は、あと数日もてばよい、と宣告した。


「……、……」


 聞きとられることはなかったが、サヴァンの言葉の大半は、いなくなったエスタへの語りかけであった。熱に浮かされた瞳は何度となく愛しい娘の姿を映したが、それは全て手を伸ばせば消える幻だった。

 どこかでエスタが泣いている。一人で泣いている。私の可愛いエスタ。

 映るエスタの姿は様々だった。一番幼い姿は、出会った頃、エスタが五、六歳の時分だ。大きな瞳に涙をいっぱいに溜め、私を見上げてきた。抱きしめてあげれば、声を上げて泣いた。

 それから、巫女として神殿入りの儀式を受けた時。初々しい笑顔を向けてくれた。バルグ典を済ませた時。随分成長したものだと驚いた。

 そして、神託を受けた時。あの子はすごく驚いて、それから恐れ多いと泣いたけれど、私は嬉しかった。優しく、利発な可愛い子。神にも愛される、私の子。


 儀式の前夜。形見のつもりで、自分の首飾りをエスタに渡した。エスタの為に急ぎで作り変えた首飾りは、彼女にとても似合っていた。少しだけ泣きそうな顔をしたエスタに、私は何を言おうとしていたんだったか。言わなくてはいけないことだったのに。

 大切な娘。しかし、手を伸ばせばそれはふつりといなくなる。そして聞こえる、いつかと同じ泣き声。

 エスタ、どこにいるの? 泣かないで。戻っていらっしゃい……。


 床に伏して、十数日目の、朝。

 苦しみの底を漂っていたサヴァンが、そっと瞼を持ち上げた。不思議と、体が楽になっている。


「サヴァン様!」


 泣きはらした巫女が自分を見下ろしている。エスタの姉巫女だったレイラだ。


「よかった……、このままお目覚めにならないかと……っ」

「……エスタ、は……?」


 枯れ切った声で問うと、レイラはただ、横に首を振った。落胆したサヴァンだったが、瞳を閉じることでそれに耐えた。

 もう、私はエスタには会えないだろう。


「レイラ……、私の命はもう長くありません」


 レイラがはっと目を見開く。


「ペリウスの膝元に参ります。しかしその前に大事なことを……伝えなくては、いけない、の……」

「サヴァン様! ご、ご無理をなさらないでください!」


 苦しそうに言葉を紡ぐサヴァンに、レイラが縋った。


「いいから! 騎、騎士団長を呼んでちょうだい……、お願い……、早く……っ」

 

 レイラの腕を掴んで、乞う。レイラはその指に全く力が入ってないことが分かると、きゅ、と唇を引き結んで頭を振った。何かを断ち切ると、はっきりと答えた。


「すぐ……すぐお呼びします!!」


 神殿から早馬が出された。要人の生死に関わる際に着けられる紫の馬具を取り付けてある。何人もこれを止めることが出来ぬ早馬は、半刻もせずに、レルファンが騎乗して神殿へと戻ってきた。

 呼吸を整える間もなく、長い回廊を走り抜ける。息を荒げたまま、レルファンはサヴァンの部屋へと入った。


「失礼する! サヴァン殿……」


 レルファンは、一瞬息を止めた。部屋には、死臭が満ちていた。


(死はもうそこまで……)


 サヴァンの横たわる寝台の周りには、巫女や神官、医師が揃っていた。皆、もうすぐ来るであろう死の瞬間を待っているのか、悄然としていた。


「レルファン殿……か……?」


 葉がさざめくような、微かな声がした。


「はい、遅くなりました。申し訳ありません」

「ありがとう……、すまぬが皆、席を外しておくれ」


 巫女の一人が驚いたように腰を上げたが、医師が止めた。首を振って諌める。


「最後の願いです。レルファン殿と……二人に」

「分かりました。騎士団長、御無理をさせぬよう」


 医師がそう言うと、皆静かに退室した。ぱたんと扉が閉まるのを見て、レルファンはサヴァンの傍に寄った。死の間際の、眼球の落ち窪んだサヴァンは、じ、とレルファンに視線を向けた。


「お窶れに、なりましたな……」


 ハインツやカルヴァのお蔭で多少の休息はとれたものの、レルファンは変わらず面窶れしていた。


「サヴァン殿、申し訳ありません」


 レルファンは深く頭を下げた。


「エスタ殿を連れ帰ると申し上げたのに、まだ出来ぬ。本当に申し訳ありません」

「……でも、見つけて、くださるでしょう?」


 サヴァンの声は、レルファンを責めるような色はなかった。頭を下げたままだったレルファンはそれに気付いて、サヴァンに顔を向けた。


「サヴァン殿……?」

「きっと、見つけて下さるでしょう? レルファン殿なら」


 サヴァンは、ふるふると震える手を差し出した。それに気づいたレルファンが両手で受け止める。熱や水分を失った枯れ木のような手は、力なくレルファンの手を握り返した。

 レルファンは、どうして自分が呼ばれたのか、分からないでいた。

 未だにエスタを発見できないでいる自分を非難されると思っていた。エスタが見つからないことを責められるのだと思い、それを全て受け止めようと覚悟してきていた。

 サヴァンの命の火も、自分がエスタを見つけさえすれば、消えることはなかっただろうと思うと、何度頭を下げても足りない。

 しかし、向かい合っているサヴァンの瞳には、そんな非難の色など微塵もなかった。であればどうして自分が?


「驚いて、いますね……」

「はい。叱責を覚悟で参りましたゆえ」

「ふふ。叱責とは、エスタに恋を仕掛けたことですか?」


 レルファンは、ぽかんと口を開けた。その表情に、サヴァンは柔らかな笑みを零した。


「私は、あの子の母のつもりでした。母は、娘のことを知るものです……。逢瀬を重ねていたこと、承知してましたよ」

「な、んと。それ、は……」


 サヴァンは知っていた。

 どう知り合ったのかまでは分からないが、エスタに想い人ができたこと。向こうもそう思っているのか、神殿に忍び込んでまで逢瀬を重ねていたこと。そしてその男が、国家騎士団の団長その人であること。


「もちろん、禁忌です。最初は、貴方を呼び出して真意を問うつもりでおりました。けれど、余りにエスタが貴方を想うから、終わりを告げるような真似はできなかった……。

 私も、エスタと同様神に背いてしまいましたね」


 騎士団長と出会って、エスタは変わった。怠惰になったのではない。日課の修行も、勤めも、以前にも増して熱心に、真摯になったのだ。神に対する後ろめたさもあったのかもしれない、でもサヴァンはそれだけでないと考える。エスタは騎士団長に出会って、真に、この世に生まれたのだ。新しく生まれたこの世界が余りに瑞々しく、美しいが故に、エスタは変化を遂げたのだ、と。

 そんな大切な、稀にしか経験できぬような恋を、老婆が摘み取って許されるわけがない。


「神託が降りた時……、エスタはできぬと言いました。自分は神に、ふさわしくないと」


 エスタがそう言ったのは自分と二人きりの時だった。


『私のような者に、ペリウスの妻になる資格などございません』


 静かに涙を流すエスタに真向かったとき、サヴァンの心は揺れた。

 巫女としての幸せと、女としての幸せ。私はこの娘にどちらを望んでいるのだろう。


「しかし、言えませなんだ。レルファン殿の元に行きなさい、とは。神殿から追い出された巫女が、ヴェンバルグ家の子息の妻になどなれぬ。愛人がせいぜい……。私はエスタを、神妃にもなれる子を、そんな下賤な身分に落としめたくなかった」


 しかし首飾りを渡した時、エスタの涙を湛えた瞳を見た途端、サヴァンは自問した。これでよかったのか。私は自分の本心に背いてはいないか。この子の幸せを、見極め違いをしていないか。


『想う男性の元に行きなさい』


 そう、言わねばならぬのではないか。

 逡巡する間に、エスタは付き巫女に付き添われ、行ってしまった。


「言えばよかった。お行きなさい、と。そうすれば、あの子はどんな形であれ女の幸せを手に入れられたでしょうに……」


 サヴァンは、遠くに視線を彷徨わせた。その瞳の端に涙が溜まり、ゆっくりと頬を伝ってゆく。レルファンはそれを、呆然と眺めていた。


「……貴方様は、エスタをどう思っていらっしゃる?」


 ふいに問われて驚いたレルファンだったが、す、と背筋を伸ばした。

 ここまで告白されては、本心で答えるしかない。


「儀式の前夜、攫うつもりで神殿に侵入しました」


 ほ、とサヴァンは声を上げた。掠れていたが、嬉しそうに、ほほ、と笑う。


「攫う、とな。それはそれは。騎士団長の責はどうなさる? ヴェンバルグ家の家督は?」

「身分や家など捨てるつもりでした。エスタと二人、異国の地でひっそり生きていくつもりでおりました」


「それは……それは……」


 笑顔であるのに、サヴァンの頬を伝う涙は止まらなかった。


「でも、逃げなかったのですね、あの子は。そこまで想われて、尚。馬鹿な子……、なんて、馬鹿な子……」


 重荷になったのは自分だろうかと、サヴァンは心の中のエスタに問う。私のことなど、忘れ去ってしまえばよかったのに。私が望むのは、あなたの幸せだけだったのだから。

 強く瞼を閉じ、悲しそうに笑むエスタの残像を消してから、サヴァンはレルファンに視線を向けた。


「レルファン殿、今もエスタを想ってくださる?」

「変わりません」

「では、エスタに言伝てをお願い致します。

 大巫女サヴァン付き、エスタ。偉大なるペリウス神に対する背信行為があるとして、巫女の位は剥奪。神殿追放を言い渡します」


 は、とレルファンが息を呑んだが、サヴァンは続けた。


「これから後は一人の女として、一つしかない幸せを掴むがよかろう。私は母として、それを望みます」

「サヴァン殿……!」


 驚き、腰を浮かしかけたレルファンに、サヴァンは言った。


「ペリウスには、これから私が直接お会いして、詫びます。娘の不始末は、親が拭わねば。

貴方様は、エスタを取り戻すことだけ考えて下さればよい」


 弱々しかった表情に、すうと生気が戻った。しかしそれは大巫女の顔ではなく、一人の母親の顔つきだった。


「エスタを、助け出して下され。私は遂に見られませんでしたが、幸せな花嫁に、してあげてくだされ」


 命が霞み、濁っていた瞳が、一瞬だけ澄み渡る。レルファンは老母の枯れた手を強く握り返した。


「誓おう。貴女の娘御を見つけ出し、この世で一番幸せな花嫁だと言わせてみせよう」

「よろしく、お願い致します……」


 ふふ、とサヴァンは笑った。

 可愛いエスタ。神の叱責は私が全て引き受けましょう。だからあなたは、幸せになって頂戴。この人ならきっと、あなたを幸福へと導いてくれる……。

 サヴァンは眠りに落ちるように、意識を失った。

 そしてその二日後、一度も目覚めることもないまま、亡くなった。

 大巫女の死は、盛大な葬儀を持って追悼された。



 


 ――悲しみが続く神殿内を、レルファンとリルは闊歩していた。

 目指すは、神殿内にある書庫。神殿特別書庫という名称のそこは、限られた人間しか出入りを許されない、禁域の一つである。


「失礼する」


 鉄製の重たい扉を開くと、古い書物特有のかび臭い臭いが鼻をついた。広がるのは壮観なまでの書の山である。


「王宮騎士団団長、レルファン=ヴェンバルグだ。こちらは従者のリル。国王の許可を頂いて入室する。人はおらぬか」

「……はい、はい、と」


 所狭しと並ぶ書架の隙間から出てきたのは、真っ白い髭を垂らした、小柄な老人だった。杖を突き、よたよたと歩いてくる。


「お客も珍しいが、それが騎士団長殿とはまた驚きだ。私は神殿書官顧問の、ウェバー=コロリです」

「顧問殿ですか、よろしく。少し見せて頂きたいものがあって参った。よろしいですかな?」

「ええ、そりゃもう。そちらにおかけ下さい」


 明り取りの窓の下にある、年季の入った椅子を指差され、レルファンはそこに腰かけた。リルがその背後に立つ。


「早速だがまず、エスタ殿がここに入ったときの書類をお見せ願いたい。神殿入りする際には、出自等を書いた書類を作成すると聞いた」


 捜査は一向に進んでいなかった。王都内は溝や川の中まで浚って調べたが、何も見つからない有様。

 そこで、レルファンは一度エスタについて調べ直すことにしたのだ。過去のエスタを調べても何も得られないかもしれないが、しないよりましだ。

 カルヴァ辺りに任せてもよい仕事かもしれないが、レルファンはどうしても自分の手で、エスタの過去を調べたかった。

 サヴァンとの会話が、心に大きく残っているからかもしれない。


「ああ、神妃様。今回は恐ろしいことですなあ」


 皺ばかりの顔を益々しわくちゃにして、ウェバーは言った。


「お待ちくだされ」


 奥に入っていったウェバーは、すぐに紐綴じの書類の束を持ってきた。表紙にふう、と息を吹くと、埃が光を受けてキラキラと舞った。


「あれは、確かエスタ様が六つか七つでしたな。あの当時巫女宮だったサヴァン様が連れてこられたのですよ」

「ん? ウェバー殿、その時のことを知っておられるのか?」


 レルファンが心持ち、身を乗り出した。


「はいはい。私とサヴァン様は年が同じでしてな。神殿入りしたのもほぼ同じ、同期のようなものですからな。まあ、あの方は神に近い大巫女にまでおなりになったが、私は相も変わらず役人書官のままですが、ふぉふぉ」


 よいしょ、とレルファンの前の席に腰かけたウェバーは、書類をぱらぱらと捲って該当ページを開いた。


「これですな、エスタ様のものは」

「失礼」


 受け取ったレルファンは、それにざっと目を通した。

 貧困街の慰問に訪れたサヴァンが拾い、連れてきた子、とある。年は適当に見積もったのか六つと記載されている。

 エスタの年は二十一歳。ということは、十五年前ということになる。


「エスタという名を与えたのも、サヴァン殿なのですか」

「ええ、そうでしたな。覚えておる者も少ないのですが、エスタ様は名前どころか記憶が一切なくてですな。生まれ落ちた赤子同然じゃった。満足に言葉も喋れなくて。口の悪い神官には、これは下女にもなれぬと言われ、サヴァン様はお怒りになったもんでした」


 レルファンは、エスタから一度だけ聞いたことがあった。孤児であった、と。しかし、記憶がないとか、喋ることすらままならなかったなどは初めて知ることだった。


「何に怯えておるのか震えてばかりで。最初の内はサヴァン様が抱きかかえてお眠りになっっていたほどで。その子が神妃の神託を受けるとは、驚きでしたなあ」


 レルファンは後ろに控える従者を振り返っていた。従者もまた、ありえないものを見たような顔をいていた。


(同じ、じゃないか……)


 自分も、貧困街で子供を拾った。記憶もなく、言葉も怪しい子だった。怯えていたので、幾晩か抱いて眠った。


「ウェバー殿。その、貧困街とここに記してあるが、一体どこだ?」

「ん? 書いているはずですが。記入漏れですかな?」


 老人は視力が落ちているのか、書面の細かい文字が見えないらしい。ぐう、と目を細めてみたものの、諦めたように首を振った。


「いかんな、年のせいか字が読み辛くて。おーい、ケネスくん! 拡大鏡持ってきて!」


 書架の奥に声をかけるが、返事はない。


「ふむ、どこかに出ておるのかな?」

「ウェバー殿、ここに地名は書いていない。どこの貧困街か、お分かりか?」


 豊かなハヤディールでも、治安の悪い街がある。貧困層ばかりが暮らす荒んだ街も、数か所存在していた。


「はて……、どこだったか」


 ウェバーは天井をぼんやりと眺めていたが、は、としたように皺に埋もれた目を微かに開いた。


「おお、そうじゃ。東にある、リューズじゃ! 八年ほど前に中止になって以来行っておらんので忘れておった。あそこの礼拝所に行ったときですな」


 レルファンとリルは、ほぼ同時に息を呑んだ。

 リューズは、八年前に二人が出会った街だった。


「……八年前と言えば、カストナの残党がそこで一掃された。十年ほどそこに潜み、反乱軍を立てようとしていた奴らだ。殲滅戦は三月ほど続いた」

「さすが騎士団長、よく御存じですな。その戦のせいで――いやせいでと申し上げるのは失礼ですな。その戦の混乱の中、慰問などできんでしょう? それで取りやめになりました」


 レルファンは心臓の鼓動が高まるのを感じていた。どういう偶然なのだ。いや、偶然で済ませていいのか。

 


 カストナとは、二十数年前にハヤディールが戦で下した、東の山間の小国である。

 好戦的で戦上手の前国王が直々に指揮を執り、時の騎士団長――レルファンの父――が先陣を取った。

国こそ奪ったものの、王家の人間、直系の王女を一人取り逃がすという手落ちがあった。

 カストナは女系王家で、女王を冠する近隣では珍しい国であった。であるので、王女がいれば国の再興も可能。そのせいで、国を追われた一部の者たちが、国の奪還を夢見て密やかに、反乱を起こす計画をたてようとしていたのだった。

 それにハヤディールが気付いたのは、八年前。敵は、リューズから王都を狙いにいけるだけの兵力をつけようとしていた。

 十六歳だったレルファンは、騎士団に入ってから三年目。バルグ典を済ませ、ようやっと騎馬が許されたばかりで、敗北国の残党が結成した反乱軍狩りは、当然の如く出陣した。

 

 掘立小屋や山を削った洞窟に、残党は多くの武器を隠し持っていた。兵の数も相当数揃えており、戦は熾烈を極めた。三月ほど激しい衝突を繰り返し、国軍にも疲れが見えだしたころ、ようやく、終結を見たのだった。

 しかし驚いたのは、反乱軍を焚きつける存在であった王女が、依然消息不明であったことである。持ち上げられているはずの人間はおらず、中枢に置かれた仮の玉座には王家の紋章が刺繍されたマントが一枚かかっていたのみであった。

 王女の存在だけをよすがに辛酸を舐めてきた大半の者たちはその事実に絶望し、心を折った。その為、反発する気概すらなくなり、戦いの事後処理は驚くほど円滑に進められたのだった。


 王都に引き上げることになった、その日。荒野と化した街を、レルファンはカルヴァ以下数名の仲間と共に調べて回っていた。敵の生き残りがいないか、隠し財産はないか、最終確認のようなものだった。

 瓦礫を払い、くすぶった家屋を覗く。川縁に出てみれば、木くずや死体が流れを阻もうとしていた。

そのまま下流に足を向けてみれば、木々に覆われた、隠されているかのような洞窟を見つけた。

 中に入ってみると、数名の女子供がいたが、皆死んでいた。残党の家族が、これまでと思い自決したようだった。まだ幼い乳飲み子までおり、見るに堪えない現場だった。

 しばらく生活していたのだろうと思わせる跡はあったが、捜索目的の金品や武器といった類はない。


『出よう』


 長くいるものじゃない。その場を後にしようとしたレルファンたちだったが、洞窟を出たところで、立ち止まった。

 ほんの少し先に、一人の子供が立ち尽くしていたのだ。

 さっきの集団の仲間だろうか、いや、違う。

 集団は、一般的な庶民の格好―綿や麻の服―を着ていたが、目の前の子どもはボロボロの布きれを体に巻きつけていただけだった。髪は伸びきってぼさぼさで、顔も体も垢にまみれている。どうしてだか泣いていたらしく、髪がべたりと頬に張り付いていた。

 そして、棒切れのような手足の先には、物々しい拘束具が垂れ下がっていた。


『……なんだ、坊主。まるでどこかに監禁されていたみたいじゃないか』


 カルヴァが驚いたように子供に足を踏み出した。むき出しの、骨がごつごつした肩に触れようと手を伸ばす。

 と、鉄製の鎖をだらりと垂らした子供の、髪の毛に隠された瞳がギラリと光った。次の瞬間、跳びかかってきた子供は、カルヴァの腕に噛み付いた。


『痛っ!?』


 運悪く、カルヴァは先の戦闘で籠手を失っており、腕は無防備な状態であった。そこに、子供の薄い歯が食い込む。

 咄嗟のことに力加減を誤ったのか、カルヴァは力任せに子供を振り払ってしまった。

 弾き飛ばされ、ごろごろと転がった子供は、木の幹に衝突して、ぐたりとなった。


『おいおい、大丈夫か?』

『あ! レルファン様!?』


 小さな子供とはいえ、敵意を向けている。なのに、レルファンはカルヴァが咎めるのも聞かずあっさりと子供に近寄って行った。


『おい、こら。平気か?』 


 意識が朦朧としていたらしい子供が、レルファンに揺らされて覚醒する。途端、ば、と飛び退くと、ぐうう、と獣のような唸り声を発して威嚇行為を始めた。


『なんだ、こりゃ。獣っ子かぁ?』

『理性がないのか? 一体どうしてこんな所に』


 仲間たちが呆れたように呟いた。

 レルファンは、少し離れた距離にいる子供を観察していた。

 鎖には随分長く繋がれていたらしい。手首、足首に嵌める部分は革でできていたが、その周囲の腕が一段と細くなってしまっていた。

 服(と呼べるようなものではないが)は破れ、泥まみれ。よくよくみれば、乾いた血のような赤黒い滲みまである。

 栄養状態も悪い。垢と泥がこびりついた髪は細く赤茶けており、アバラは浮き、頬はげっそりとこけて、特異な瞳だけがぎょろぎょろと大きかった。


(オッドアイ、ってやつか……)


 異なる色合いの双眸。話には聞いたことがあったが、現物は初めて見た。中々綺麗なもんだ、宝石みたいじゃないか、と思う。


『カストナの者でしょうか?』


 いつの間にか傍に来ていたカルヴァが訊いたが、レルファンは首を横に振った。


『あれが味方に対する扱いに見えるか? 奴ら、どっかから子供を攫ってきてたんじゃないか。で、どういう理由か知らんが、監禁していた、と』


 戦のどさくさで、この子供は逃げ出せたのだろう。


『確かに。しかし、反乱軍が何故……。しかも、子供をあれほどに拘束しなくとも』


 子供は手足全てから鎖を垂らしている。見れば年は五つ、六つくらいか。これほどにしなくとも、逃げ出したりできないだろうに。


『趣味悪いよなあ。こいつ、人間に怯えてるって感じだぜ? 一体何しやがったんだか』

『一応、師団長に報告してきます。ここはお任せしても?』

『ああ』


 カルヴァが馬で駆け出していく音を背後に聞きながら、レルファンは子供に、にか、と笑いかけた。びくり、と小さな体が震える。


『ほら、こい』


 ちょいちょい、と手招きするも、子供は動かない。


『怖くねーって、ほら、ほら』


 今度は両手で手招き。子供は訝しそうにレルファンを見ている。


『レルファン殿も、物好きだな。そんな獣、構わずともよいのでは?』

『カストナの者でないのなら、捨て置けばよいのです。疫病でも持っていそうではないですか』


 遠巻きに見ていた仲間たちが、汚らわしいものでも見るかのように言い捨てる。その好意のない声に、子供は再びびくりとなった。


『おまえら黙ってろ。ほら、こい』


 瞳の輝きが、次第と変化していく。威嚇が怯えに、それから戸惑いに変わったのを、レルファンは読み取っていた。


『よしよし、こい。な?』


 躊躇いがちに子供が一歩踏み出したのを、レルファンは見逃さない。即座に近寄り、がば、と抱き上げた。


『があああっ、があっ!』

『怖くねえ、って。な?』


 驚き、暴れる子供をレルファンは笑みを崩さないまま抱く。体などついぞ洗ったことはないのだろう、異様なまでの悪臭がしたが、そんなこと気にもしていなかった。


『お前、言葉分かるか? 大丈夫、もう大丈夫だ。安心しろ、な?』


 ゆっくりと噛み砕くように言い、最後ににかりと笑う。空いた手でくしゃりと頭を撫でれば、子供はすっかり大人しくなった。物珍しそうに、レルファンの顔を覗き込む。


『ア……、ウ……』 

『よし、利口だ。なんだ、お前。よく見たら可愛いツラしてやがるな』


 あはは、とレルファンが笑ったところで、師団長を連れたカルヴァが戻ってきた。

 師団長も、子供の酷い有様から、カストナの者ではないと判断した。そして、殲滅した反逆軍の趣味の悪さを詮議しても仕方ないとして、子供の処置はレルファンに一任し、このことは終わった。

 そして、レルファンは子供を連れ帰ったのだった。

 子供は、落ち着いてみれば、多少の言葉を話すことができた。しかし、どうして監禁されていたのか、誰かそばにいたのか、そういったことは全て記憶から抜け落ちていた。気が付いたらレルファンたちの前にいた、と言う。


 余程、酷い環境下にいたのではないか。逃げ出せたことにより、脳が辛い記憶を消去してしまったのではないか、見立てた医師はそう言った。

 確かに、そうだろうと思わせることはあった。子供は――名前も覚えてないと言うので、レルファンがリルと名付けた――リルは夜になると、がたがたと震えて泣いた。暗闇に何を見ているのか、怯え叫んだ。

 レルファンはリルを幾晩か抱きしめて眠った。腕の中に閉じ込めてしまえば安心したのか、リルは涙を流しながらも、眠りに落ちたのだった。



(エスタも、リルと同じ、だと……?)


 そこに、何らかの繋がりがあるとしか思えない。動揺しているオッドアイを見つめながら、レルファンは思考を巡らせた。リルとエスタ。二人にどんな繋がりがあるというのだ。


「リル、リューズの時の記憶は」

「ありません、何も」


 だよな、と思う。ないことくらい、よく知っている。

 一度、リューズに行ってみるべきか。いや、あそこは戦の後から大きく変化した。街並みすら違っていると聞く。何も残っていないかもしれない。

 どこかに、二人が繋がっていることが証明できることはないか。どこかに……。

 と、レルファンがか、と目を見開いた。自分は重要なことを忘れていた。


「どうかなさいましたかな?」


 様子の変わった主従を、ウェバーが不思議そうに見ていた。


「いや。知らぬことだったので、驚いてしまった」

「ふぉふぉ、そうでしょうなあ。ここは秘密主義ですから、巫女の出自なども公表致しませんのでな」

「では、もう一つ教えて頂きたいことがある」

「はい、何なりと」

「試練の儀とは、なんだ?」


 しわの中の瞳が、ぴくりと動いた。レルファンはそれに気付いたが、続ける。


「巫女宮、大巫女の位につくにはそれを越えなければならぬという試練の儀。人非ざる力を発露せねばならぬというな? その力と言うのが、治癒力だと聞いている」


 リルが、再び目を見開いた。治癒力……?


「情けないことに、どうやって治癒力を調べるのかなど、深く考えたことがなかった。せいぜいが、傷の治りでも見る程度だろうと思っていたのでな。その辺りを教えてもらえないか?」


 エスタが巫女宮に上がるのは、フローラの再来とも思うような力を発揮したからだ、とレルファンは聞いていた。治癒力が高いなんて、健康でいいことだ、くらいにしか考えていなかったのだが、リルという人間を知ってしまった今、話は大きく変わってくる。

 二人に何かあるというのなら、エスタの示した力と言うのは、もしかして。

 ウェバーはゆっくりと首を横に振った。


「大神殿の、秘儀にございますゆえ。お許しを」

「いや、教えてもらわねばならん。エスタ殿が連れ去られたことと関係があるやもしれん」

「……」

「サヴァン殿は残り少ない命を賭して、エスタ殿を頼むと俺に託された。騎士として、一人の男として、それに応えたい。秘儀だとしても、お教え願おう」


 ウェバーは沈黙した。感情の窺えない顔をレルファンはただ見つめていたが、しばらくの後、老人は声を発した。


「……毒を、呷るのですよ」

「は?」

「カジタリスという毒を、致死量に足らぬ程度ですが、飲むのです。カジタリスに体を支配されて、そこからどれだけ早く回復できるか。それが試練なのですよ」


 レルファンの背に一筋、冷たい汗が流れた。カジタリスといえば、摂取量によっては命すら奪う猛毒である。


「騎士団長殿は、フローラ様の伝説をご存知ですな? 稀なる力を持って、ゲラン王の施政を助けた、という。しかしそれはどういった形かまでは、知れ渡っておりませぬな」

「ああ。俺も具体的には、知らんが」


 ウェバーは頷いて見せてから、続けた。


「毒見、なのです。彼女は国王の口にするもの全て、己が先に口にし、毒の有無を確認しました。舌に乗せただけで毒の種類を判別し、馬すら即死するという猛毒であっても、フローラ様のお命は奪われなかったといわれています。

ですから、どんな間者であれ、ゲラン王を毒殺することはできなかった」


「事実なのか?」

「はい。これは王宮特別書庫の、国史典にも記載されておるそうです。この書庫の中にも、その旨が記された正式な文書がございます」

 国史典は、偽りのない真実だけが記される。その性格上、閲覧するにはそれ相応の身分、理由が必要で、その上酷く面倒な手順を踏まなければならなかった。その史実を元に、試練の儀が作られたのです。

 手順は、まず微量の毒を飲み、それから経典の一巻、一章のペリウス生誕を最後まで詠唱する。それだけです。これが出来たら、巫女宮になれる。そこでまた修行を重ね、しかるべき時に同じように試練の儀を成功させれば、大巫女ですな」

「それは、成功率は低かろう……?」


 書庫の中は酷く蒸し暑かった。窓は開けられているものの、風の流れを書物が邪魔しているせいだろう。レルファンのこめかみから、一筋の汗が流れ落ちた。

 レルファンの問いに、老人は口角を上げて肯定した。


「巫女宮、大巫女の数をみれば、一目瞭然でしょう? カジタリスは内臓を焼く。口にすれば皆、血を吐き、のた打ち回ります。詠唱など早々出来るはずがない。

一般には知られておりませんが、巫女たちはこのために、毒を少しずつ飲んで耐性をつける修行もしているのですよ」 


 想像だにしていなかった儀式の内容だった。


「では……、エスタ殿がみせた、類稀な力と言うのは」

「毒を飲んだその直後から、詠唱を始めたそうです。苦しそうなそぶりもなく、いつもの日課のように、朗々と。共に儀式を受けた別の巫女たちはまだ、床に臥せっておるようですよ」


 レルファンは、思い出していた。あの、エスタに最後に会った夜。彼女は酷く不安そうに、自分が気持ち悪くないかと問うた。

 あれは、そういう意味だったのか。なのに自分は、無知ゆえに傷つけることを言ったのではなかっただろうか。


「あのサヴァン殿も、血を吐き、苦しみながら詠唱したものです。ですから皆、エスタ様はすぐにでも大巫女まで上り詰めるだろうと噂したものですが、まさか神妃とは。いやはや、神は確かに下界を見ておられるのですなあ。

 お、っと。すみませんが、これは内密にお願い致しますよ。祭司長に伝わったら、懲罰ものですのでな」

「……ご心配なく。ウェバー殿から聞いたとは言いません」


 レルファンは動揺していたが、それを表に出すような真似はしない。にこりと笑って見せた。それに安心したらしい、ウェバーはほっと胸をなでおろして見せた。


「何か役にたてばよいですが。あ、いやこりゃ失礼。茶の一つも出さなんだ」

「いえ、お構いなく。もう帰り」

「先日部下が辞めましてな。ただでさえ人手が不足してましたので、困ってる次第なんですよ。おーい、ケネスくん! ケネスくん!」


 今度は、「はーい」と間延びした声がした。


「お茶! お茶淹れてくれないか。騎士団長様がおみえなんだ」


 レルファンはもう立ち去るつもりでいたのだが、老人は礼儀を欠いたまま騎士団長を返すわけにはいかないと熱心に言った。結果、レルファンは新人書官がお茶を持ってくるのを待つ羽目になってしまった。


「少しお待ちくだされ。おーい、ケネスくん! 何しとるんだね?」


 ケネスとやらは随分要領が悪いらしい。余りに遅いので、ウェバーは杖を突きながら奥へ様子を見に行ってしまった。

 その背中を見つめながら、レルファンが呆れたように呟きを漏らした。


「……禁域と言う割に、のんびりしたものだな」


 同感だったのあろう、リルも遠慮がちに答えた。


「はい、入り口までは物々しかったですけど……」


 ここに入室する前に二度、警備の神兵に入室許可証の提出を求められた。レルファンの持参したのは国王の印が押された正式なものだったが、念入りに調べられた。そうしてようやくたどり着いた場所だったが、中は拍子抜けするほど穏やかである。

 奥の方から、老人と若い男性の声が小さく届く。安価なお茶の葉を使おうとしていたことを叱責しているらしいのが、漏れ聞こえた。

 遠くにいる二人の他に人間がいないことを確認して、レルフは口を開いた。


「毒は、平気か?」


 小さく問うたのは、リルに、である。

 カルヴァから、リルの回復力がすさまじいことは報告を受けていた。ハインツもそれを知っていたという。まだ直に見たことはないが、瞬きする間に傷口が癒えると聞いた。

 その回復力は、毒にも有効なのだろうか。

 少し考えるように口を閉じたリルだったが、


「多分。いえ……、平気です」


そう、はっきりと答えた。レルファンの鼓動が早まる。


「その根拠は。経験が?」

「共にありません。でも、毒は平気だと思うんです」


 リルの言葉には、どうしてだか自信のようなものが感じられた。経験もないと言うのに、どこからその確信を得ているのだろうか。

 振り返って問いかけようとしたレルファンだったが、やめた。茶器の支度をして、老人と青年が戻ってきたのだ。


「お待たせ致しました。いや、手間取りまして、申し訳ない」

「書、書官の、ケネス=セグウェイです。お越しになっているとは知らず、御無礼を致しました。お許しください」

 おどおどとした様子のケネスは、そばかすの浮いた、色白の背の高い男だった。ひょろりとしていて、こじんまりしたウェバーと並ぶと、その身長差が目立つ。

 それを気にしているのかどうだか、激しい猫背だった。


「レルファン=ヴェンバルグだ。よろしく」

「こ、高名な騎士さまにお目にかかれるなんて……光栄です!」


 ケネスはお茶の支度を始めたが、緊張しているのかどうも要領が悪い。茶葉は零すわ、カップは取り落とすわで、見かねたリルが作業を引き継いだ。しかしお茶の葉はこれぞというものがあったようで、質の良い芳しい香りがすぐに室内を満たした。


「いや、申し訳ない。今、ここの管理はケネスくんと二人きりでしてな。何をするにも戸惑ってばかりで」


 リルからお茶を供されたウェバーがきまり悪そうに頭を下げた。


「ああ、どなたかお辞めになったと仰ってましたね」

「ええ。仕事熱心でよく気の付く者だったんですが、田舎の親が病を得たと言って、里に帰ってしまいまして。彼にいろいろ任せていたんだが、急にいなくなるものだから、困りましてな」

「……僕はまだ未熟ですし、ウェバー顧問にはご迷惑かけ通しです」


 ケネスはしゅんとして、ただでさえ丸い背中を益々丸めた。


「新しい人材を入れてもらうようにしているのですが、神殿内もざわついていてそれどころじゃないようで。でもまあ、彼の後では、誰が入ってもしばらく苦労しそうですわい」

「大変ですな。辞めたというのは、いつ頃?」


 カップを優雅に口に運んだレルファンが訊いた。その一挙一動を熱い視線で追っていたケネスが答える。


「神妃祭の少し前です。祭の期間中は儀式が立て続けに行われるから、僕たち書官もこき使われるのです。なのにヴェルトさんがいないものだから、大変でした」

「前、ね」


 何気なく、確認を済ませたレルファンである。

 国王は、エスタ捜索の為に別途詮議団を設け、神殿内の捜査を行わせた。大巫女から下女、厩番まで、当夜の行動を調べさせたのである。あの警備を抜けるには、内部の者の手引きがあった可能性が高いというのが、有識者の見解だったのだ。

 その詮議団の捜査範囲に、神妃祭前に離職した者も入っていたと記憶している。ヴェルトとやらも、それに含まれたに違いない。



「――なかなか香りのよいお茶だった。馳走になりました」

「いえいえ、では、何かありましたらまたお越しください。お待ちしておりますよ」


 ウェバーとケネスに見送られて、レルファンたちは書庫を後にした。

 おっとりとした二人と別れれば、レルファンの顔つきが変わった。


「お前とエスタには何か深い繋がりがある。」

「はい」

「屋敷に戻る。さっきの話の検証をしたい。いいか?」

「大丈夫です」


 手にした事実に、レルファンの身は震えていた。

 もし、エスタと同様にリルが毒に耐性を持っていたら。

 それは一体どんな関係だというのだろう。どんな事実が潜んでいるというのだろう。




 その晩、ヴェンバルグ家の屋敷にはハインツがジュードを伴って訪れていた。

 昼夜なく奔走していたレルファンが、今夜は小休止だと夕食に誘ったのだった。

 ヴェンバルグ家の料理長が手をかけた食事をゆっくりと終えたハインツとレルファンは、のんびりとした食後の会話を楽しんでいた。ハインツはまるで自室であるかのように寛いでおり、カウチに寝そべり、ぶどう酒を舐めている。


「お前が王宮に顔を出さなくなったせいで、女官たちが冷たい」


 つまらなさそうに言うハインツに、同じようにグラスを傾けていたレルファンが鼻で笑った。


「そりゃ、髭面のジジイに口説かれても嬉しくないんだろう。ハインツも年だからな」

「まだ三十四だ! この髭だって大人の魅力なんだよ。それが分かんねえんだよな、ガキは」

「その漂う加齢臭を魅力というか?」

「うそ、マジか!? おいカルヴァ、おまえちょっとここ嗅いでみろ! この襟足の辺り! 

「お断りいたします」


 話を振られて、二人の近くの椅子にひっそりと腰かけていたカルヴァが目を細めて微笑んだ。その上品な笑顔とは裏腹に、さらりときつい一言を付け加える。


「だって、くさいじゃないですか」

「な!? ここの奴ら、酷くないか? 俺がお前たちの為にどれだけ仕事を引き受けてやったと思ってんだ」

「普段はお仕事されていないのですから、たまにはよろしいでしょう。騎兵隊隊長のドーシュ様が、いつも姿がないとこぼしておられましたよ?」

「や、あれは隊長殿が仕事熱心だから、気を使ってさぼってやってるんだ」

「仕事しろよ」


 レルファンとハインツは、年こそ離れているものの、仲が良い。であるので、すぐに軽口を叩きあうのだ。


「で? そんな話をしたいだけで俺を呼んだのか? ジュードまで連れてこい、何て言って」


 ちらりとハインツが視線を流す。部屋の壁際には、ジュードとリルが控えていた。胸板が厚く、肩幅も大きなジュードの横では、リルが益々子供のようにみえた。実際、四十を近くに見るジュードの娘といっても通るだろう。


「まさか。お前じゃなく、ジュードに頼みがあるんだ」


 カタン、とグラスを置いて、レルファンはジュードを見た。いくらか酒を飲んでいたが、ぶどう酒などではレルファンは酔うことはない。

 あくまで素面で、レルファンはジュードに言った。


「リルに毒を飲ませてくれないか」

「は?」


 厳めしい、髭を豊かに蓄えた熊のようなジュードが、間の抜けた声を上げた。濃茶の瞳が動揺の色を見せる。


「お前が一番毒の扱いに長けてる。カジタリスを致死量に満たない量で、リルに用意してくれ」


 ジュードは意図が分からぬというように、己の主に視線をやった。ハインツは寝そべったまま、にやにやと笑う。


「何言ってんだ、レルファン。従者に毒を盛ってどうする?」

「いいから、やってくれ。重要なことなんだ」


 レルファンの様子に真剣な色を見て、冗談ではないと分かったらしい。ハインツはす、と表情を変え、体を起こした。


「どう重要だっていうんだ。毒を与えりゃ、こいつがエスタに変化するとでも言うんじゃねえだろうな」

「ハインツ、俺はふざけてるわけじゃない」


 す、とリルが一歩前に出た。判断しかねている様子のジュードにぺこんと頭を下げる。


「お願いします。証明したいことがあるんです」

「リル、何を証明するっていうんだ?」


 ハインツの問いに、リルはレルファンを見た。従者の視線を受けて、主がそれに応える。


「リルは毒を飲んでも平気かどうか、だ」


 クライナム家の主と従者は顔を見合わせた。カルヴァは先に聞いていたのか驚いた様子はないが、それでも眉間に皺を刻んでいた。ありえない、と顔で語っている。


「あー、と。あれか。こいつの回復力のことから考え付いたのか? それなら、ちょっと短絡的だろう。外傷と毒は違う」


 がりがりと頭を掻いて、ハインツが言った。


「いいから、見ていてくれ。頼む、ジュード。お前なら絶妙な匙加減ができるはずだ」

「お願いします、ジュードさん」

「かしこまり、ました」


 レルファンとリルに乞われて、ジュードは訳が分からないながら頷いた。

 リルの回復力に一番先に気付いたのは、直接指導にあたっていたジュードであった。その為、その能力の高さも異常さも、よく知っている。肋骨が折れた時も、内臓の一部が損傷した時も、リルは常人の数倍のスピードで回復した。しかも、傷跡も後遺症も残らず、怪我などしていなかったかのように、まっさらな状態に戻る。それは、神が撫でたのではないかと思うほどだった。

 その力は、毒までも効力をなくすというのか。いや、もしかしたらありえるのかもしれない。


 己の探究心もあったのかもしれない。ジュードは主が許可を出すと、リルの体重から計算し、ギリギリ持ちこたえられる量を用意した。万が一を考慮して、クライナム家の秘する解毒剤(万能ではなく、猛毒のカジタリスには効力は望めないかもしれないが)と、胃の洗浄の為の大量の水を用意した。


「いきます」

「いいか、無理だと思えば吐き出せ」

「いえ、大丈夫です」


 四人の男が見守る中、カジタリスを溶かした水をリルは飲んだ。

 細い喉を鳴らして液体を嚥下する。しかしリルは一瞬の間を置いて、吐血した。倒れこんだかと思えば、激しく痙攣する。


「レルファン様! やはり無理です」

「落ち着け、カルヴァ。もう少し待て」


 真っ青な顔をしたレルファンが、リルに駆け寄ろうとしたカルヴァを止めた。


「しかし早く胃を洗浄しなくては! 内側から毒に喰われます!」

「待て!」


 転がらんばかりにして悶絶していたリルだったが、ふいにその動きを止めた。果てしなく長い一瞬ののち、緩慢に体を起こした。けほん、と咳をすると、絨毯の上にぴしゃりと血が落ちた。


「リ、ル……?」

「……もう、平気です」


 枯れていたが、はっきりとした声。肩で息をつき、手の甲でぐいと口元を拭うと、赤黒い血がついた。

 レルファンが片膝をつき、リルの顔を覗き込んだ。


「大丈夫、なのか?」


 脂汗を浮かべたリルの顔色は悪かった、大量の血を吐いたせいで、血が足りないのだ。唇は真っ青になり、端には血の跡がある。地につけた手は微かに震えていた。

 しかし、リルはぎこちなくだが、にこりと笑って見せた。


「はい。もう……平気です。なんともありません」


 レルファン以外の三人が、息を呑んだ。


「そうか……。無理をさせた、すまなかった」


 小さな頭を抱き寄せて、レルファンは言った。汗をかいた頭をくしゃりと撫でる。


「いえ……」


 レルファンの肩口に顔をつける形となったリルは、目を閉じ短く答えた。


「湯浴み、できる元気はあるか? 侍女をつけてやる、湯を使って来い」

「え、でも……」

「いいから。な?」


 血を吐き、そこに倒れ込んだせいでリルは自分の血にまみれていた。レルファンが優しく言うと、リルはこくんと頷いた。


「ありがとうございます、でも、一人で平気です」

「いや、血が不足しているはずだ。万が一湯場で倒れでもしたら大変だろう」

「はい、すみません……」


 呼ばれた侍女は、室内の惨状に腰を抜かしかけんばかりに驚いた。が、誰一人として怪我をした者はいないと聞き、動揺を隠せないまま、リルを連れて下がって行った。


「五分、いや三分くらいだな。それだけで回復しやがった」


 侍女とリルが退室したあと、呆然としていたハインツがどさりとカウチに座り込んだ。


「ジュード、リル可愛さに毒を加減してはいないよな?」

「神に誓いまして、ございません。それはこの大量の血が証明するでしょう」

「だよな。こりゃ、胃の腑がぶっこわれていてもおかしくない」


 ハインツが乾いた笑いを零して、置いたままにしていたぶどう酒を一息に呷った。大きく息を吐く。今さっき、己が見たものが信じられない。あれほどに苦しんだのに、何事もないように歩いて出ていくとは。


「こりゃ、すげえ特技だな、久しぶりにぞくぞくしたぞ」

「レルファン様、そろそろお教え願えますか? どうしてリルが毒を飲めるとお思いになったのか」


 強張った顔つきのカルヴァが訊いた。昼間、主とリルは二人で神殿に赴いていた。そこで何を知ったのだろう。

 レルファンは、リルの吐血の跡を見つめていた。腕を組み、何か考え込んでいたが、顔を上げる。自分を見ている三人を見渡した。


「エスタとリルには、間違いなく繋がりがある。もしかしたら、姉妹かもしれん」

「はあ!?」


 ハインツがグラスを取り落した。繊細な器は、甲高い音を立てて砕けた。


 


 場所を別室に移して、レルファンは昼間の出来事を語った。

 ハインツでさえも、大神殿の試練の儀については知らなかったらしい。唖然とした様子で耳を傾けていたが、驚いたのはその先だった。


「苦しむこともなく、ってそりゃ人間業じゃねえぞ!? リルですら血を吐いて苦しんでたんだ」

「ウェバー殿が言うには、巫女たちは普段から少量ずつ毒を飲む修行を積むらしい。エスタもそれを行っていたようだから、リル以上に耐性をつけていたのだろう」

「……ふ。む。そういうことならあるかも、な」


 ハインツはそれに納得した。毒を微量ずつ摂取することによって体が慣れ、抗体を作るのは知っている。数分で回復したリルであれば、摂取を繰り返せば平然と飲み下すことも可能になるかもしれない。


「だがな、お前はそれだけで二人を姉妹だと関連づけるのか、レルファン?」


 ハインツの手には、エスタの肖像画があった。レルファンが一番似ていると評したジノリ作のものである。

 ハインツは、エスタの顔を良く覚えている。佇まいだけで瞳を奪われた女だ、忘れられるはずがない。


「両方見知ってるから言うが、タイプが違いすぎるんじゃねえか? 片や麗しの巫女姫に、片や元気少女だ」

「重要なのはそんなところじゃない。二人の生い立ちだ。皆、カストナを覚えているか?」


 カルヴァが頷いた。


「リューズですね。殲滅戦のあとリルを発見したのですから、よく覚えています」

「あ、俺行ってねえ。あの時騎兵隊は王宮の警備を任されてたからな。でもまあ内容は知ってる」

「私も、おおよそは存じております」


 三人の言葉を聞き、レルファンは続けた。


「そのカストナ殲滅戦の六年前。リューズを訪れたサヴァン殿が拾った孤児が、エスタだ。記憶がなく、赤子同然だったという。エスタは酷く怯えており、サヴァン殿は震えるエスタを幾夜も抱いて眠ったそうだ」


 全員が、ありし時のリルを思い出した。


「時は違えど、同じ場所、同じ状態。そして同じ能力。繋がりは疑う余地もないと考えている」


 沈黙が支配した。確かに可能性はぐんと高くなる。ここまで状況が一致する上に、体質も似通っているのだ。


「カストナの残党と関係があるのでしょうか?」


 カルヴァが問い、レルファンはふむ、と唸った。


「場所を考えると、リルを監禁していたのはカストナの奴らだろうとは、思うんだ。だが、どういう風に利用しようとしたんだ? そこが、分からねえ」


 特異性を思えば、逃げられないように監禁するというのは理解できる。しかし、幼い子供には過剰すぎるほどの拘束具だった。そこまでして逃げられまいとする、その理由がわからない。カストナの連中の仕業だとして、その目的は何なのだ。


「エスタがサヴァンに拾われたのが、十五年前か。その頃には奴らはリューズに潜伏していたから、奴らの仕業だと考えてもおかしくはねえな。時系列にも沿うし、エスタも奴らに拘束されていたのか」


 指を折って確認しながらハインツが呟いた。


「エスタもリルと同様に震えていたんだろ? リルの時も思ったが、よっぽど酷いことされたんだろう。

 で、俺が思う理由としては、人体実験、じゃねえか?」


 レルファンが視線で、続きを促した。


「あの回復力だぞ。どこまで持つか、など下衆なことを考える人間もいるかもしれねえ。下劣なことを考える人間なんざ、いくらでもいる」


「ハインツ様の意見に賛同いたします。確かカストナには、異端を悪魔とみなして排除してきたゴーグ教なる一派がおりましたな。もしそやつらに知られたなら、リルの能力など悪魔の力と扱われたかもしれませんぞ」


 カストナが信仰していたセーランジャ神は、人外の力を認めていない。その部分を重要視し、異端を強制排除しようとする一派をゴーグ教と言い、神の名の下に行われる残忍かつ非道な懲罰法は、他国にも知れ渡っていた。

 ジュードはそれを思いだしたらしい。苦々しく呟いた。その言葉を受けて、ハインツが応える。


「だよな。仮にゴーグ教が関わっていたとしたら、殺されなかっただけマシかもしれんぞ。仮に姉妹だとして、どこから連れてきたのやら。

 あ、いや。あれか? カストナにそういった一族でもいたんじゃねえか? その末裔が、リルやエスタ、って感じだったら、ありえねえ話じゃねえぞ」


 レルファンは、二人の意見に信憑性を感じた。ゴーグ教の悍ましい活動は、レルファンも耳にしたことがある。二人の有効活用法ばかりを考えていたレルファンにとっては、新しい意見だった。


「……ふむ、それは、調べる必要があるな。まあ、亡国の過去をどれだけ探れるか、難しいところだが」


 ゴーグ教はカストナと共に消え去った、歴史に埋もれた宗教である。亡国の一宗教に関してどれだけの記録が残されているかなど、期待の持てない話である。

 レルファンがため息をつく様子を、ハインツがちろりと見た。


「レルファン。そのことと、今回のことは関係してると思うのか?」


 エスタとリルには繋がりがある。それはハインツも確認した。あんな能力を持つ人間がそうそういるはずがない。同じ場所にいたことから考えても、二人には何かあるのだろう。

 しかし話の本筋はそこではない。それが今回の誘拐事件にどう関わっているのか、それが重要なのである。

 レルファンは肯定するように頷いた。


「エスタが攫われてから二十日が過ぎた。クラリスが死体になって帰ってきたこと以外、犯人側からの動きはない。神妃を攫って世を騒がそうとする愉快犯や、狂信的な信者の犯行ならば、とっくの昔に何か起こしてるはずだ。

『エスタ』本人に目的があったとしか思えない。そこに何らかの理由をつけるとしたら、『これ』しかないように俺は思う」


 ふむ、とハインツが呟いた。


「確かに特異な能力だが、今更攫って何の役に立つというんだ? 言えば、生命力が高いだけだ」

「学者、医師であれば興味深いと思いますが」


 ジュードが答えれば、カルヴァも続いた。


「もしかしたら出自が特殊なのでは? ハインツ様も先に仰いましたが、そういう一族がいたのかもしれません。希少種であれば、欲しがる者もいるかもしれませんし」


 その結果、エスタの出自を調べ直すのが先決だろうと話はまとまった。そこが分からなければ、調べようもないのだ。


「もう一度、神殿特別書庫に行ってみるか」


 今日出会った小さな老人は、あの時分のことを覚えている者は少ないというようなことを言っていた。あの人にもう少し話を聴く必要がある。

 ハインツが仕方ねえな、と言った。


「俺は王宮特別書庫を当たってやろう。カストナについての記録も浚ったほうがいいだろ」

「頼む」

「しかし、まさかこんな話になるとはなあ。麗しの巫女姫の誘拐も、ややこしくなってきたもんだ」


 ハインツは手にしたままだった肖像画に視線を落とした。


「それも、リルと姉妹、ねえ?」


 似ていない、いや似ているのか? 比べるには、余りにも系統が違う。

 エスタの体は女性らしい起伏に富んでいるし、そっと微笑む様はどこまでもたおやかで女神のように美しい。儚さを纏った、極上の女である。

 対して思い出すリル。肉が薄くしかついていないぺたんこの体に、少年のような溌剌とした笑顔。従順な子犬を思わせる、健康的な愛らしい子。

 ハインツは勿論、リルを可愛いく思っている。彼女なりの良さも感じている。あれはあれで、アリだ。しかし比べる相手が悪い。圧倒的戦力差だ。


「んー、今のところリルの分がちょっと悪いかなー。こんな女を相手に比較しちゃ酷だよな」

「おい、ハインツ。言ってる意味、違うだろ」

「おっと、すまん。姉妹かどうかだったな。

 女は成長すれば別人になるし、化粧でも化けるからな。見た目だけじゃ何とも言えん。どうだ、カルヴァ、ジュード」

 

 いつの間にか、ハインツの背後からカルヴァとジュードも肖像画を覗き込んでいた。

 顎髭をつるりと撫でたジュードがしみじみ呟く。


「私はリルのほうが良いと思いますぞ。守るのではなく、共に戦える相手の方が好ましい」

「ほう、ジュード。お前に幼女趣味があるとは初耳だな」


 主にからかわれて、ジュードは厳めしい髭面をぽ、と染めた。


「ち、違いますぞ! 二択であればの話です! カルヴァ殿、どう思われます?」

「そりゃあ、エスタ様の方が女性的な魅力に溢れているでしょう。いや、でももし本当に姉妹であれば、リルもこのように成長するかもしれないということか……」

「おお! いいぞカルヴァ! それだ!」

「それだ! じゃねえ!」


 怒ったレルファンに、部下二人は顔を見合わせ、ハインツはけらけらと笑った。



 夜遅く、ハインツとジュードは帰って行った。

 静まり返った屋敷の片隅。小さな明り取りの窓がある質素な小部屋にリルはいた。

 リルに与えられた、自室である。寝台の上で膝を抱え、差し込む月明かりをぼんやりと眺めている。こうして元気でいる自分は何者なのだろう、と思う。

 毒を飲んでも平気だと思った。体を蝕まれることはないと、直感していた。事実、多少苦しんだとはいえ、自分は何事もなく生きている。


(どうしてあたしは、平気だと思った?)


 確信に近いものがあった。毒では死なないと自信があった。

 リルは、レルファンに出会ったその時以前の記憶が全くない。笑顔で手招きするレルファンを警戒しながら見ていたのが、一番古い思い出だ。それ以降、この年に至るまで、毒に関わった記憶はない。

ということは、レルファンに出会う以前。失った記憶の中で、自分は毒に関わっていたということだ。毒を飲んでも生き永らえると知っていたのは、それは経験していたから……。


「……っ」


 ぶるりと震えた。自分はあの時、幼い子供だった。年端もいかない頃から、自分は毒を与えられていたことになるのか。


(あたしって、人間じゃないのかな……)


 怪我の回復が早いというのは長所の一つに過ぎない、とジュードに教えられた。大したことじゃない、と器の大きな師は言い切り、それどころか、回復力を過信すれば命取りになると注意を促された。そんな教えのせいか、己の回復力を深く意識したことなどなかった。

 だが、今回は違う。内臓を破壊し、命を奪うほどの毒を受け入れて尚、生きているのだ。

 長所とか特技とか、そういう次元をはるかに超えている。人の常識の範疇を優に超えている。

 主は、自分をどう思っただろう。気味悪く感じたのではないだろうか。あのジュードやハインツでさえ、呆然とした様子で自分を見た。レルファンだって、同じ気持ちだっただろう。


(もう、お傍に置いて貰えないかもしれない)


 何者かに毒を与えられて育った、身元の分からぬ自分。服毒しても平気な自分。気味悪がられても仕方ない、と思う。

 けれど、ようやく会えた大切な人に、こんな形で嫌われてしまうなんて。

 レルファンの顔を思い浮かべれば、涙が出る。あの笑顔が自分の前でぎこちなくなるかもしれないなんて、想像もしたくない。

 ず、と鼻をすすった時だった。控えめに、扉がノックされた。


「はい……?」


 夜はもう随分更けている。こんな時間に自分の部屋を誰が訪問してくると言うのだろう。慌てて目元を擦り、訝しく思いながらドアを開けたリルは、目を見開いた。


「レルファン、様?」

「よ。起きてたか?」


 ランプを掲げてみせたのは、とっくに就寝したはずの主だった。レルファンは驚いて固まっているリルの横をすり抜けて、室内に入ってきた。


「ど、どうかなさったんですか? 用があればあたしの方から参りましたのに!」

「ちょっと顔がみたくてさ」


 レルファンは先ほどまでリルが座っていた寝台に腰掛けた。サイドテーブルにランプを置くと、暗かった室内がほわりと明るくなった。


「気分、悪いのか?」


 レルファンはリルの顔を見て眉を寄せた。

 もしかして、泣いていたことを気付かれてしまっただろうか。明かりの届かない場所まで後ずさって、リルはもごもごと答えた。


「い、いえ、別に」

「そうか?」


 レルファンの顔は、険しかった。眉間の皺はそのままで、不機嫌そうに口を引き結んでいる。


(やっぱり、あたしが気持ち悪いんだ……)


 同じ部屋にいるのも、不愉快なのだ。そう思った瞬間、リルの大きな瞳からぼろぼろと涙が溢れた。


「うわ!? な、なんだ!?」


 急に泣き出したリルに、レルファンは慌てて立ち上がった。


「やっぱ気分悪いのか? 医師を呼ぼうか? それとも薬飲むか? 言え、リル」

「あ、」

「あ?」


 振り絞るようなリルの呟きをレルファンが問えば、小さく消え入りそうな声がした。


「あたし、気持ち悪いですか……?」


 暗がりに響いた、心からの言葉。レルファンは聞き終える間もなく、リルの腕を引き、抱きしめていた。

 小さく細い体を、強く抱く。それはすっぽりとレルファンの腕の中に納まった。


「レ、レルファン様……!?」

「馬鹿をいうな。気持ち悪くなど、絶対にない。あれはお前を構成する上の、単なる一部分に過ぎん。人間を否定するようなものではない」


 偽りの感じられない、はっきりした言葉には、苛立ちが含まれていた。

 温もりの中、リルの頬に涙が伝った。この人はやっぱり、あたしが命を懸けるに値する人だ。いや、あたしの命なんかで支えきれないほど、大きな人だ。

 よかった。レルファン様を想っていて、本当によかった。


「あ、ありがと……ございます」


 息をつくのも苦しい。溢れた感情はすぐにも氾濫してしまいそうで、堪えるのがやっとだった。ふ、ふ、と呼吸を荒げたリルの背を、レルファンは優しく撫でた。


「礼を言うのは俺だ。後、詫びも。従者に毒を飲ますなど、酷い真似をさせてしまった。すまん」


 こんな小さな体に、確証も得ぬまま服毒させてしまった。知りたかったからとはいえ、やらせたのは主としての横暴だ。

レルファンの不機嫌は、自己嫌悪から来ていたのだった。

 しかも、横暴を忠義で答えてくれた子に、気持ち悪いかなどと言わせてしまった。主としてあるまじき失態である。

 リルを抱く腕に、レルファンは一層の力を込めた。


「どう詫びていいかもわからん。許してくれないか」

「い、いいんです。あたしも、自分の直感を試してみたかったんです……」


 本当に毒を受け入れられるのか。本能では大丈夫だと思っていたが、それを証明して見たかった。

 温かで苦しい胸の中でそう言うと、レルファンはそっと力を緩めた。リルの顔を見下ろす。


「やらせたのは俺の責任だ、すまなかった。体は、平気か?」

「はい。お医師様も、問題ないと仰いました」


 レルファンは、あれから医師を呼んでいた。リルの健康状態を診させたのである。

 結果、貧血だと診断され、医師は血の気によく効く薬を処方して帰って行った。服毒したことなど、気付きもしなかった。


「そうか」

 ようやく、レルファンはほっとしたように笑った。


「あの後ハインツに叱られた。他にもう少し調べようがあったんじゃないかってな」

「ハインツ様……、あの、何か仰っていましたか? その、ジュードさんも」


 リルにとって、ハインツとジュードは父親のような存在だった。優しくて、守ってくれて、大きくて。その人は、自分のことをどう思っただろう。


「俺と同じようなもんだ。すごい特技だな、だとさ」


 に、と笑ってレルファンは続けた。


「カルヴァもそんな感じだ。最初は驚いたようだが、別にどうこう思っちゃいない」


 じわ、と涙が再び湧き上がった。


「あ、でもジュードは慢心するなって言ってたな。調子に乗ると痛い目に合うぞ、ってさ。あいつ生真面目だよなあ。

 って! うあ、もう泣くなってマジで。ごめんって、な」

「…………っ」


 首を振る。つかえながら、リルは言った。


「あたし……もっと頑張ります。役に立てるようになります。だから、これからも傍に置い下さい……っ」

「……おう」


 笑って、レルファンはリルを再び抱きしめた。そのまま寝台にごろんと転がる。


「ひゃああああ!? な、何ですか!?」

「いや? 久しぶりにこうして寝たくなった」


『傍に置いて下さい』


 数年前、ハインツへ預ける際に、リルが零した言葉だった。自分が役に立つようになったら、傍に置いて下さい、と。八年後もそう言ってくれたことが、可愛くてならなかった。


「あ、あたしもう十六ですよ!? 子供じゃないですぅぅぅ!」

「バルグ典がようやく済んだ程度だろうが! まだガキだ!」


 もがもがと暴れるリルを抱いて、レルファンはシーツにもぐりこんだ。いつだったかと同じように、ぎゅ、と包んでやると、リルもまた、同じように大人しくなった。


「ふうん、少しは太ったんだな」


 改めてきゅう、と抱きしめてみれば、子犬のように柔らかかった。昔は骨と皮ばかりでごつごつとしていたものだったが。


「失礼です、レルファン様は!」

「褒めてんだぞ。あー、これ、落ち着くな。たまにはこうして寝るかな」


 ふわふわとした髪に顔を埋める。鼻腔を石鹸の香りが擽って、レルファンは忍び笑いを漏らした。これは、なかなかに良い抱き枕だ。


「あの、あたし、一応成人してるんですけど」

「だから?」

「だから? じゃなくて……」


 しかし、反論する気はないらしく、リルは口を噤んだ。体の力を抜いて、もぞもぞとレルファンの胸に顔を埋める。と、そこに顔を擦りつけながら、ぽつんと呟いた。


「やっぱり、ガキでいいです。これ、安心するから、その」


 ふは、とレルファンが笑う。素直なところもまた、可愛いと思う。


「じゃあお前がもうヤダっていうまで、抱き枕の任につかせよう」

「えへへ、謹んでお受けいたします」


 腕の中で、リルはにっこりと笑んだ。その顔にはもう、萎縮や恐怖などなかった。

 よかった、とレルファンは思う。あんな泣き顔、見ていたくはない。


「ほら、もう寝ろ。疲れただろ?」

「レルファン様こそ、お疲れでしょう?」

「全然元気」


 くしゃくしゃと柔らかな髪を撫でると、リルは嬉しそうに目を細めた。そして心地よさそうなため息を一つついて、五つ六つ数える間に、寝入ってしまった。


「何がバルグ典だ、ガキみてえな寝入り方しやがって」


 くっくっ、と小さく笑ったレルファンだったが、そっとリルに触れた。額にかかった髪を指先で払う。


『気持ち悪いですか……』


 リルの一言は、否が応にもエスタの言葉を思い出させた。

 エスタも、同じような思いで口にした言葉だったのだろう。なのに自分は、深く考えずに答えた。

 ぐ、と唇を噛む。あの時、別の言葉を投げかけていたら。そうすればエスタはどうしただろう。あの顔に、笑みを宿してくれただろうか。


「むー、んむ……」


 と、気が抜けそうな寝息が聞こえた。視線を落とせば、リルが楽しそうな夢でも見ているのか、へらりと笑っていた。


「罪がねえなあ」


 この子の笑顔を壊さなかっただけでも、よしとしよう。リルを抱いて、レルファンも眠りに落ちた。

 久しぶりの温もりは、二人に穏やかな睡眠をもたらしたのだった。


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