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4.覚悟の誓い

ゲラン歴418年 -秋の侯


 浄化の儀は、少しの遅れはあったものの滞りなく行われた。

 神妃となられる巫女が、余りの重圧に耐えかねたのか、直前にお倒れになったから、というのが神殿側の弁である。確かに巫女はお強い方ではないのか、終始他の巫女に支えられながら儀式を受けた。

 巫女は薄いヴェールで顔を覆っており、出回っていた美しい肖像画を手にした者たちは酷く残念がったが、神のかんばせを直にみることは罪深いことだと言われ、納得するに至った。


 そして、儀式の五日後。神妃となったエスタは、フローラと同じように、ペリウスの迎えを受け、神界へ去ったのだった。神々しい光の中に吸い込まれていくように消えたエスタは、ハヤディールの繁栄を願う、と言葉を残したそうである。

 長く語り継がれるであろうその奇跡に、人々は再び興奮した。

 祭りの気分は抜けるどころか盛り返す一方で、王都に住まう民はひたすらに宴を重ねた。

 新しい神妃も、神界へ迎えられた。この国は一層のご加護を受け、豊かになるだろう、と誰もが幾度も口にした。

 遠目にでも神妃を見た者はそれを自慢し、神殿に入れもしなかった者が羨む。神妃のお姿を拝した盲目の女性が視力を取り戻したとか、神妃の肖像画を毎日拝んでいた、死の淵にいた病人が回復したとか、嘘くさい話がまことしやかに語られた。


 エスタが天界に嫁してから三日が過ぎた日のことだった。底抜けに明るい、浮かれきった王都の片隅の路地裏で、溝の中に一人の女の死体が打ち捨てられているのを、くず鉄拾いの少年が見つけた。

 顔から体はめった刺しにされ、判別もつかない。しかし身に着けていた衣服から、神殿関係者、それも巫女ではないかと目星がついた。

 そのことはすぐに神殿と、捜査中の騎士団へと伝えられた。


「……クラリスのものです」


 死体の腕には、革紐を編み込んだ環が嵌っていた。その独特な編み目が記憶に残っていたらしく、環を見た巫女の一人は、血糊のついたそれを胸に押し当てて泣き崩れた。

 連絡を受け、駆けつけてきたレルファンは、その俯せた姿を無言で見つめていた。ぎり、と唇を噛む。

 クラリスとは、エスタと共に連れ去られた付き巫女の名だった。

 レルファンは、クラリスを知っていた。エスタの妹巫女で、一緒にいるのを遠目にみたことがあるから覚えていたのだ。気位の高い猫のような凛とした雰囲気の、美しい黒髪の娘だった。

 その整った顔が残酷なまでに傷つけられているのは、哀れでならなかった。

 そして、己の無能さを悔やんだ。


 悪夢のような祭りの最終日から、騎士団が総力を挙げて、昼夜なく捜索したにも関わらず、エスタもクラリスも見つけ出せなかった。手がかり一つない状態だった。

 王宮と神殿では連日会議が設けられ、国王以下全てが頭を抱えていたが、これといった策も出ない。完全に、行き詰っていた。

 そんな中、五日目に大きな決定が下された。国王が、エスタはもう神に迎えられたことにすると決めたのだった。

 この世からもういなくなったことにしてしまえば、賊が後で何を言い出したとしても、そちらが嘘になってしまう。

 神妃が誘拐、もしかしたら殺害、などという話が流布してしまえば、信仰深き民は恐れおののくことだろう。国の威信にも大きく関わってくる。神の怒りを買った国などといわれ、国交にも支障が出かねない。

 偽りの神妃は偽りのまま、民衆を欺き続けてもらうしかない。

 これに正面から反対を唱えたのは、騎士団長のレルファンだった。

価値がなくなったと分かれば、賊は命を奪うかもしれない。真の神妃をそんな危険に合わせるわけにはいかない。それこそ、神の怒りに触れてしまうのではないか。

 エスタの安全を思えば、そんな発表を許すわけにはいかない。必死だったのに、国王はそれを一笑に付した。


『影武者をあっさりと思いついた者の言とは思えぬな。私はそなたの案を高く評価しておるというのに』


 レルファンの意見は、聞き入れられることはなかった。国王の偽りの公布は恙なく、速やかに行われた。

 その発表から三日後。クラリスは死体となって帰ってきたのだった。

 泣き咽ぶ巫女をそっとしてやろうと、レルファンは部屋を出た。


「カルヴァ、ボウ。いたのか」


 扉の横にそっと控えていた従者たちを、レルファンは見下ろした。カルヴァが口を開く。


「死体を調べた結果が出ましたので報告します。先に殺されていたリリイと同じ刃物を使ったようです。それと、手足に縄の跡がありました。長く縛られていたのではないかと思われます。胃の腑はほぼ空。食事をほとんど与えられていなかったようです」

「……そうか」

「死後二日だとのこと」


 カルヴァの報告に、片眉がぴくりと動く。纏った空気がぴり、と張りつめた。


「……殺害は発表後か」

「そうなりますね」

「そうか」


 レルファンは、手近に立っていた大理石の柱を力任せに殴りつけた。皮が切れて、血がしぶきとなって飛んだ。

 あの時の己の判断が誤っていたとは思わない。影武者を仕立てることは、あの場では最善だった。けれどその後、だ。みすみす死なせてしまった。自分の力のなさで、助けられたかもしれない命が無残に消えた。

 そしてエスタをまだ、危険の中から救い出せない。


『案ずることは何もない。神が事実おわすなら、史実の通りなら、エスタはもう、神の膝元にいるだろう』


 発表後、国王は居並ぶ臣下にそう言った。

 確かにそうかもしれない。神とやらが本当にいるのなら、とっくの昔にエスタを迎え、危険から救い上げているだろう。

 しかし、そんなことあるはずがない。フローラに迎えはなかった。いや、それだけじゃない。神が存在しているというのなら、自分には天罰が下っているはずなのだ。

 エスタはどこかに連れ去られたままだ。助けを待っている、今この時も。


「レルファン様」


 拳から、血が滴っていた。それをカルヴァは白い布を当てて受け止めた。赤く染まった手を眺めていたレルファンだったが、すぐに振り払った。己の頬を一回、音を立てて叩く。悲しみに満たされた沈黙の神殿に、乾いた音が響いた。


(今は悔やむ時ではない。考えろ)


 ボウの手にしていた報告書を奪い取り、目を通す。初めて犯人が動きを見せたのだ。何か掴めるものはないか。何か。


「! ……カルヴァ」

「は」

「人通りのない裏路地、その溝の中に死体はあったんだな?」

「はい。先ほど見てきましたが、酒場の裏手で、薄暗くて陰気な場所でした。しかも溝には割れているものの木板が嵌っておりまして、少年はその隙間を覗いたとのことです」

「……どうしてそんなところに捨てたんだ? 国王の発表に対しての行動なら、もっと人目につくところにしないか?」


 神妃を奪ったことを世に知らしめたいのなら、国王の発表に異を唱えたいのなら、こんな隠すような真似などしないはず。騒ぎになるように、目立つ場所に遺棄するのではないか。


「確かにそうですね。下手をすればしばらく発見されずにいた可能性もあります。人心を乱そうとするのであれば、適した場所ではない」

「発見されずに、か。案外そっちが目的かもしれんな」


 目的がエスタ一人だけであれば、クラリスは必要ない。食事を摂らせていないということから、生かすつもりはなかったと思われる。何らかの事情で共に連れ去ったものの、不要と判断して殺したのだろう。

 報告書に視線を落とし、考え込むようにしていたレルファンが、顔を上げた。


「あえて殺したということは、移動した可能性がある。殺害後二日。犯人はまだ王都内にいるかもしれん。ボウ、第二師団を再び捜索に出すようにアランに指示を出せ。三の門から、この死体発見現場の間を徹底的に。それと、周辺に怪しい者はいないか調べろ」

「はい」


 す、とボウが立ち上がり、去って行った。


「俺は王宮に向かう。クラリスの件を報告せねばならん。お前はこの報告書を持って付いて来い。お、と」


 踵を返したレルファンだったが、ふらりとよろめいた。壁に凭れ、ぶるりと頭を振るう。


「いかんな、よろけた」

「お休みになってないからです。お願いですから、少し休息を取られて下さい」


 レルファンはあの日以来ほとんど眠っていない。肌は土気色になり、がさがさと粉を吹いていた。頬肉もこそげ落ち、麗しい騎士団長の面差しは変わり果ててしまっていた。

 ただ、瞳だけがぎらぎらと光を放っていた。

 このままでは主は倒れてしまう。いつも傍にいるカルヴァは、レルファンの体がどれだけ疲労しきっているか分かっていた。

 レルファン本人もそれくらい分かっているだろうに、首を横に振った。


「休めるわけがないだろう。一生悔やむ様な過ちは二度と犯さん」

「……倒れたらそれこそ後悔する事態になるやもしれんぞ」


 ふいに、背後から声がした。気配を感じなかったレルファンが振り返れば、鳩尾に拳を突き立てられた。


「が……っ」


 ほとんど声を発することなく、レルファンは意識を失った。前のめりに倒れこんだレルファンを受け止めたのは、髭面の男だった。


「よいしょ、と。お、痩せたな。しかしまあ、色男が台無しだな」

「ハインツ様!」

「よう、カルヴァ。これ、連れて帰れ」


 に、と笑うと、力を無くしたレルファンを無造作に押し付ける。自分より大きな主を慌てて抱え上げて、カルヴァは息をついた。


「助かりましたが、些か乱暴ではないですか?」

「こうでもしなきゃ、休まんだろうが」


 確かにそうだが、相変わらず粗暴な人だ。


「しかし、レルファン様はこれから王宮に行かれる予定だったのです。殺害された巫女のことを報告せねばならぬと」

「ああ、そのことね。いい、俺が行ってやるよ」


 クラリスのことも既に知っていたらしい。あっさりと言う。見れば、普段はだらしない恰好をしているハインツが、きちんと身なりを整えていた。


「あの日から五日間、港の検問は完璧だった。身元の確定していない者は国外に出さなかったし、そいつらもその後の調査で全て潔白が証明された。従兄弟陛下にそう報告に行かなきゃならんのでな。ついでだ」

「では、これの提出と共にお願いできますか?」


 手にしていた報告書をハインツに手渡す。ハインツはそれにざっと目を通して顔を顰めた。


「うえ。年頃の女の子になにしてやがるんだ。可哀想になあ」

「前回のリリイ同様、酷い有様でした」

「こりゃ、ジジイどもが喚くな」


 ふ、と息を吐く。


「元老院の奴らときたら、ペリウスから天罰が下りそうにないと思ったら急に元気になりやがって。初動が遅いだの、捜索の手が温いだの、うるせーのなんの。

 これみたらまた、騒ぐんだろうなあ」

「王宮はまだ混乱しているのでしょう?」

「騎士団長様は満足に王宮に顔を出さないからなー。知らねえか。

他国の間者が奪ったんじゃないかとか、国家転覆を狙う反逆軍がいるんじゃないかとか、想像膨らまして怯えてる。まあ、陛下が落ち着いてるから、どうにかなってるけどな」

「反逆軍、ですか。それなら早く名乗って頂きたいものです。この方の怒りの方向が定まりますから」


 カルヴァはレルファンを抱え直した。

 エスタを捕らえた一軍があるというのなら、レルファンは烈火の如く奪い返しに行くだろう。レルファンが率いる騎士団の戦いぶりは、ただでさえすさまじい。そこにエスタが関わるとするならば、彼は最高の指揮官、最強の騎士となり、どんな強国の大軍であっても叩き潰すであろう。


「エスタ様がいるというなら、国一つくらい落としますよ」

「そりゃ頼もしい。でも、違うな、相手はそんなでかいもんじゃねえ」

「はい、レルファン様もそういうお考えです」


 これだけ調べても、綻びが出ない。大きなバックがあるのなら、何か掴んでもよさそうなものなのだ。ここまで足取りがつかめないのは、極少数の人間が行ったから。


「三、四、多くてその辺りではないか、少ない人数で行われたとしか思えない、と」

「だな。熱狂的なペリウス信者とか、そういうのも洗ってみな」

「はい、伝えておきます。にしても、どうしてここが分かったんですか?」

「ん? 可愛い女の子が貴族郭の方の入り口にいたんでな。思わず声かけた」


 カルヴァはああ、と呟く。リルに待機を命じていたのだった。 

 と、ハインツがにたりと笑った。


「そういや、聞いたぜ? お前、あの子を男だと思ってたんだってな。その目は節穴か?」

「……レルファン様にも言われました。観察力がない、と」

 


 カルヴァがリルの性別に気付いたのは、リルと出会ったその夜のことだった。

 クライナム家の服をずっと着せておくわけにはいかないと、レルファンの家、ヴェンバルグ家に一旦戻り、そこで新しい服をリルに用意した。急ぐのでこの場ですぐに着替えろ、と命令したものの、リルはなぜか躊躇いをみせた。


『どうした? 早くしろ』

『あの、その、別室に行っても?』


 どうしてだか頬を赤らめるリルに、気が急いていたカルヴァは手を伸ばした。


『何を恥じらう。そんな暇はないんだ、早くしろ』

『や、ちょ……っ』


 そして、力任せにリルの上着をはぎ取ったカルヴァは、絶句した。

 晒しを巻いた胸元には、ごく僅かとはいえ、しかし確かな膨らみが存在していたからである。


『お前……女、か』

『は、はいぃ……』


 真っ赤に染まったリルは、カルヴァの手から服を奪い取り、胸元を隠した。そのままその場に蹲る。


『女なのに、ジュードのところで? え、どうなってる? なんで男のフリなんか……』

『フリなんかしてないです! ていうか、とりあえず服着させて下さい! お願いしますぅぅぅ!』

『あ、これは、悪い』


 動揺しながら、カルヴァは背を向けた。背後でリルが服を着替える気配を感じながら、訊く。


『ええと、お前、女ならばどうしてそんな姿を?』

『八年前です。レルファン様に、傍にいたいと言ったんです。そしたら、従者になれって。女のような恰好をしていたら、従者としての仕事をこなせません。髪も、邪魔になるので切ってます』


 ぽつぽつと、リルは話をした。

 助けてくれたレルファンから離れたくない。このままずっと、傍にいたいと言った。言葉を知らなかった自分はレルファンが『気に入った』というようなことを口にした。気に入ったから傍に置いてくれと。

 けれどレルファンは、ただの女を置くことはできないと言った。身分というものが間にあり、これを飛び越えることはできない。しかし、本心からそう願うのであれば、従者になれ。そしたら先の未来は自分の傍にいられる、と。

 そして、レルファンはハインツの元にリルを連れて行ったのだそうだ。


『ここで修行して、一人前になったら来い。待ってるから、とそう言われたんです』


 ハインツは、女にそんな教育などしたくないと散々ごねたそうだが、リルが強く望み、渋々クライナム家の見習い従者として育ててくれたのだそうだ。

 ジュードは読み書きから一般常識、貴族の供としての必須教育までリルに施してくれた。

 そして、知識を得たリルは理解した。『気に入った』は間違った表現であり、真に近しい言葉は『好き』だということを。


『身分が違うことくらい、重々承知しているんです。身のほど知らずだとも思っています。でも従者なら、傍にいてお世話をして、お守りすることは許されますよね?』


 着替え終わったリルは、呆然と話を聞いていたカルヴァの正面に回り込んだ。許されなかったらどうしよう、という不安が、顔に滲んでいる。

 その表情を見てようやく己を取り戻したカルヴァはふむ、と頷いた。


『そうだな。従者なら、それが仕事だからな。しかし、』

『ご安心ください。ジュードさんから何度も教え込まれました。自分の感情を持ち込むな、と』


 カルヴァの危惧も、リルはすぐに否定した。


『胸に秘めてるだけです。もう言いません。カルヴァさんに話したのは、あたしの恩人で、先輩だから』


 だから報告しただけです、と明るく言う。本人の中ではしっかりと線引きが出来ているのらしい。

その素直さと分別の良さに、カルヴァも思わず笑みを零した。


『分かった。覚えておこう。しかし、納得がいった。そうか、だからハインツ様はリルにあんな態度をとったのか』


 ハインツは『女』には甘い。際限なく甘い。世界の全ては女の為にあり、全ての女は俺の為にあると豪語する男である。

 対して、男には辛辣だ。ライバル以外の何物でもないから、というシンプルな理由だ。赤子寄りの幼児はともかくとしても、そこから先は容赦ない。

 そのハインツが『男』のリルに優しくするはずがないのだ。『女』だからこそ、優しいのだ。



「――ハインツ様が男の頭など撫でるわけがない。気付かなかったのは私のミスでした」


 言葉に苦々しさが滲んだのを感じ取ったのか、ハインツは不満げに片眉を上げた。


「そこかよ。見ればわかるだろ、あんなに可愛いのに」

「男でも通る可愛さでしょう。第一振る舞いに女性らしさがない。もう少し考えて教育したたほうがよかったのでは?」

「俺は何度もそう言ったんだ。でもジュードが許さなかったんだよな。そんなのは不要です、なんて言い張りやがる。あいつはクソ真面目すぎるんだ。

 でも、役に立ちそうだろう?」

「ええ」


 動きは俊敏だし、反応も早い。仕事も丁寧だ。精神面から技術面まできっちりと仕込まれているのはさすがクライナム家、といったところだろう。ハインツも、いくら女に甘いとはいってもその辺りは分別があったらしい。いやそれとも、ジュードのお蔭か。


「長い間、こいつに会いたい一心で頑張ったんだからな。けどまあ、ちょっと可哀想なことしたかなあ。さすがに時期がまずかった」


 ふ、とハインツが笑う。それに、カルヴァも僅かに応えた。

 八年ぶりにようやく再会できた想い人が、心身を削って、別の女を探し求めているのだ。それは、十五の少女には些か酷な話であろう。ショックだったに違いない。

 しかしリルはそんな様子は微塵も見せなかった。聡い子だからレルファンの焦燥の裏にすぐに気付いただろうに、そんなことは一切口にせず、命じられた仕事をこなし続けていた。


「仕方ありません。この道を選んだのはあの子自身ですから。それにどうせ、辛いときは帰っておいで、くらいのことは言ったんでしょう?」

「あ、バレた? つーか、もう帰ってこいって言ったんだけど、断られた。あいつ男の趣味が悪いんじゃねえかな」

「どうでしょうか? 私には、なんとも」

「ま、いいや。とりあえずそいつを屋敷に連れ帰れ」

「ありがとうございます。では、そのリルのところまでご一緒しましょうか」

「ああ、そうしよう」 

 

 レルファンはいつの間にか、規則正しい寝息を立てていた。乱暴ではあったが、眠りの世界に上手く滑り込めたらしい。

 束の間の休息。せめてこの時だけは穏やかでいてくれるといい。

 と、出入口できっちりと起立の姿勢をとっている少年、いや少女の姿を認めた。向こうも気付いたのか、駆け寄ってくる。


「ど、どうかなさったんですか!?」


 カルヴァの抱えたレルファンを見て、顔色を変える。


「いや、ハインツ様がね。いきなり殴りつけられて」


 カルヴァがふう、と大げさにため息をつくと、リルの顔つきがさ、と変わった。


「な!? お前、カルヴァそんなこと言うなよ!」

「事実でしょう?」

「ハインツ様が!? どうしてそんな酷いことするんですかぁ!?」

「いや、違うってリル。俺は休ませてやろうと思ってな、好意で一発入れたんだって」


 ハインツはやはり、女に弱い。リルに責められて、困ったように眉を下げた。


「好意といっても乱暴なんですよ、もう! あ、すぐに馬車をこちらに回します」


 ぷう、と頬を膨らませたリルだったが、すぐに気付いて走り出した。

 その背を、二人の男が視線で追う。


「髪が短い女の子というのも、新鮮でいいよなあ。よく似合ってる」

「何でもいいんでしょう、貴方は」

「まあね。あ、そうだ。お前、あの子のもう一つのことは気付いたのか?」

「もう一つとは、あの回復力ですか?」

「そう」


 リルは、異常とも思えるほどに回復力が高かった。カルヴァがそれに気付いたのは、ほんの些細なことからだった。

 あれは街のどの辺りだったか。古い家屋を調べていた時、木戸から古釘が飛び出しているのに気付かなかったリルが、そこに手をついてしまったのだった。柔らかな肉に刺さった釘は、身を裂くようにして離れた。

 ぽたた、と鮮血が垂れるのを見て、カルヴァは持っていたハンカチを押し当てた。近くにいた団員に、清水と強い酒を持ってくるように指示を出す。


『傷口を洗ったら近所の町医者まで行って来い。古びた鉄からは病を得る』


 しかし、リルは平然としたもので、『汚してしまってすみません』などと殊勝に謝る。どころか、自分の注意力のなさを恥じている風でもあった。

 そこへ、皮袋を満たした団員が戻ってきた。


『さあ、手を出せ。リル』

『多分もう平気です』


 ジュードは病について教えていなかったのだろうか。事態を軽く見ているリルに呆れながらも、カルヴァは血に濡れた手の平に水をかけた。


『……な』 


 清水で漱いだそこには、裂けたはずの傷口がなかった。当たり前のように、つるりとした皮膚があり、ただ、一部分、怪我をしていたであろう場所だけが、ほんのり赤くなっていた。

 驚いたカルヴァに、リルは平然と言った。この程度の傷なら、すぐに塞がっちゃうんです、と。



「――俺も最初は驚いたね。折れた肋骨が翌日には元通りだって言うんだぜ?」

 

 ハインツがおどけた仕草で肩をすくめて見せた。


「あれ、神力とかいうやつでしょうか」

「さあ? ジュードは健康優良児って言ってたけどな」

「それで済ませますか」


 ふは、と二人は声を重ねて笑った。


「レルファンは何か言ってたか?」

「いや、親に感謝しろ、って」

「それだけかよ。あの従者にしてあの主ありだな」


 しばらく小さく笑いあったが、ハインツが先に止めた。カルヴァを窺うように表情を改める。


「リルは俺が保証する。身元が分からんからって、気味悪がるなよ」

「大丈夫です。大体、あの子を怖がっているようでは、レルファン様の部下は務まりません」

「それもそうだ。お、きたぞ、健康優良児が」


 近づいてくる馬車の御者台に、リルがいた。御者をせっついている様子である。


「かわいいねえ、必死で」

「結局何をしてもかわいいんでしょう?」

「分かる?」


「お待たせしました!」


 御者台を飛び下りたリルは、急いで馬車の扉を開けた。生ぬるい笑顔で自分を見ている二人に気付き、首を傾げる。


「お二人とも、どうかしましたか?」

「いや。さあリル、手伝え」

「はい!」


 リルとカルヴァが主を運び込んでいる間に、ハインツはいなくなっていた。



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