3.神妃祭の悪夢
ゲラン歴 418年 -秋の侯
王都フローラ。
この名は、国の創成王ゲランの妻、フローラからとられている。夫であるゲラン自らが、この偉業を成すには不可欠であったと評した人物であったらしい。
ハヤディールが建国されて、早四百余年。その人となりを知る術は、伝説のように脚色された逸話を、昔語りの婆から聞く他にない。例外的に、文官や神殿書官などという、特別書庫に残る書物を目にする立場になれば、話は別であるが。
そのフローラ妃についての話は、こうだ。
王妃である前に、彼女は類稀なる力を宿す巫女でもあった。その力は、大神ペリウスの神力を憑依させたもので、これがゲランの建国を大きく助けた。フローラは神の力を持ってして、全ての災厄から夫を守ったのだそうだ。このお蔭で、ゲランは思い切った政策を行うことができ、結果玉座についた。
建国後、フローラは大恩あるペリウスの為に王都に大きな神殿を作った。巫女となるべき女を多く集め、彼の為に仕えさせた。この神殿が、ハヤディールが誇るバヌムス大神殿である。国内の知識、技術を結集させた巨大な建造物は、まさに神の為のものだと人々に言わしめるものとなっている。
国が平らかになりつつあったときだった。ペリウスは己に真摯に仕えるフローラをいつしか深く寵愛してしまい、彼女を自分の妃に、と望むようになった。そして、巫女の一人に憑依し、その口を借りてフローラを妻に迎えたい、と告げたのである。
神に嫁すなど、前例がない。神託に国は揺らいだ。
ゲランもまた、深く悩んだ。自分を信じ支え続けてくれた妻を神の下に差し出すということは、失ってしまうことと同じ。
いくら信心深くとも、それを容易に受け入れられないほどに、彼は王妃を深く愛していた。
しかし、ハヤディールの守護神とも呼べる、偉大なる神と共にいた方がフローラの幸せであると思い至り、涙を飲んでフローラにペリウスに嫁すことを王命として告げた。
愛する夫に別れを申し渡されたことにフローラは嘆いたが、ペリウスへの信心は変わらなかった。これからはペリウスの妻として、ハヤディールの繁栄を、夫であったゲランの幸せを願うことを誓った。
すると、光の中からペリウスが彼女を迎えに現れた。ただ驚くばかりの人々に、『ハヤディールに永遠の輝きを』と告げ、フローラは神々の住まう天界へと召し上げられたのである。
これが、最も有名なフローラ妃の話である。国民はそれをいつも誇らしげに語る。この国は神に愛されている妃に加護された国なのだ、と。
そんな伝説が残っているほどなので、ペリウスはハヤディールでは最も愛されている神である。ペリウス神を奉る礼拝所は国内に数多く点在し、人々は敬意と愛情を持って『ペリウスさん』と呼ぶ。ペリウスは本来再生と破壊を司る武神であるのだが、建国に手を貸したという言い伝えの性質からなのか、ハヤディールでは心優しい神と言われている。
そんなペリウス神の礼拝所であるが、祭壇には必ずフローラ妃の肖像画の写しが飾られている。神に嫁し、神妃となったフローラもまた、神籍に身を置く神となったからである。
神々は現身を持たない、というのがこの世界の常識である。その姿を人間が具象化することは、許されていない。祭壇には神具や供物が捧げられるのみである。
ペリウスもそれに洩れない。しかしフローラは人の身から昇華した神であることから、その姿を残した肖像画を奉っているのだ。
描かれたその容姿は麗しい。腰まである艶やかな金髪は優雅に波打ち、それに縁取られる真白の肌。そっと伏せられた瞳は透き通るような薄い青。つんとした鼻に、桃色のふっくらとした唇。
これが絵師の誇張でなければ、間違いなく艶やかな美女である。
『神様だって面食いなんだな』などと軽口を叩く者までいるほどだ。
話は、神妃祭に移る。
フローラ妃が神に嫁したその年、ハヤディールは豊作・豊漁に恵まれた。先の年は日照りや疫病に苦しめられていたので、国民はこれも全て神妃フローラのご加護である、と国を挙げて祝祭を開いた。
それ以来、秋に行われる収穫祭は、『神妃祭』と呼ばれることになったのである。
この神妃祭、地方によって差はあるが、平均三日間、王都フローラでは七日間に渡って行われる大祭だ。
この開催期間中は、国内では様々な行事が行われ、バヌムス大神殿でも多くの神事が行われる。成人の儀のバルグ典などその最たるものであるが、貴族によっては婚儀を行う者もいる。子供の名付けをその時まで待つ親も多い。
それと、一番大きな神事として、巫女たちの昇格儀礼が行われる。
バヌムス大神殿には多くの巫女がいるのだが、その位は、細かく分けられている。最上位の大巫女、巫女宮といった神に近いとされる存在の者から、薬学・医学に携わる典医女、神学を教授する神文官、下には水仕事など雑事に追われる端人まで様々である。
そしてその位であるが、日々の修練の結果如何によって変動する。神に仕える巫女に、人間の定めた身分は当てはまらない。いかに修行を重ね、巫女として成長できるか、それのみである。怠惰な者は、大家の令嬢であっても端人止まりであるし、逆に、貧しい農家の出でも勤勉で神に忠実であれば、神殿の要職にも、或いは地方の礼拝所の祭祀にもなれる。
巫女たちの進退を決め、昇格する者に限り位に応じた儀式を行う、これが最大の神事であり、そして神妃祭のメインでもあるのだ。
下位の進退はさほど話題に上らないが、新しい大巫女や巫女宮の誕生となれば話は別だ。これは国民には大変な祝事である。大巫女や巫女宮には、フローラのようにペリウスの神力が宿った者しかなれないからである。それがどのような力なのか、それは神殿の秘すべきところであるが、人非ざる力だという。
いつかまた、この巫女様が神に望まれるかもしれない。そうすれば、我が国はもっと栄えるだろう。我々は幸せに暮らせることを保障されるだろう。人々はそんな願いを巫女に向ける。
そして、その願いはついに神に聞き入れられたらしい。
神妃祭の、初日のことだった。一人の巫女の口を借りて、新しい神妃を迎えるとの神託が下ったのだ。
それは、フローラの再来かと言われるほどの力を現した、まだ年若い巫女だった。
大巫女サヴァンの付き巫女であったその娘は、本来は巫女宮に昇格する予定であった。それが誰も予想だにしなかった神の御意思により、創国以来二人目となる神妃になることが決定したのだった。
神殿のみならず、国中が酷い騒ぎとなった。神妃とは馴染み深いものではあるが、すでに伝説と化している存在である。誰しもが、自分が生きているこの時に、神妃が新たに誕生するとは思っていなかった。
神妃祭は否が応でも盛り上がった。神殿と王宮の間で緊急の会議が設けられ、神に嫁す為の浄化の儀を祭りの最終日に行うと発表した頃には、神殿に人々が大挙して詰め掛けるという騒ぎにまで発展していた。
誰もが、神へと昇華する巫女を一目なりとも拝まなくては、と必死だった。
騒ぎは国内のみに留まらない。噂を聞きつけた諸国は、ある国は目を瞠るほどの供物を持った使者を遣わし、ある国は貴族どころか王族までもが馬を駆ってハヤディールを目指した。
港には多くの見物客を乗せた船が溢れ、賢王と名高いコーネスとその臣下たちですら、対応に追われた。皆、眠る時間も無かったという。
それは異常な興奮と熱に浮かされた、数日であった。
その、混乱の神妃祭最終日の朝、王都の郊外にある屋敷では、穏やかな時間が流れていた。
早めの朝食を終え、カナシス海を臨めるバルコニーに移動したこの屋敷の主は、カウチにゆったりと身を預けていた。素肌にカルミナ織の羽織を纏っただけの半裸の男である。
年は三十にいくつか足したくらいか。癖の強い金髪に、日に焼けた浅黒い肌。雲ひとつない空を舞う海鳥を見つめる瞳は薄い茶色。向こう傷のある鼻の下には整えられた髭があり、男の見た目を貫禄付けている。
傷は戦でついたものだろうか。羽織の合わせから見える体つきは逞しく、腕も大剣を振るうに相応しい力強さだ。
しかし、手にした細工人形をいじりながら鼻歌を歌っている様子が、その威厳を台無しにしている。細工人形は幼女が好むような愛らしい物であるのがまた痛々しい。
「ハインツ様、お仕度は如何なさいました? 早くなさいませんと、式に間に合わないかと存じますが」
「あれ? どうしてこんなに早く戻ったんだ、カルヴァ副団長」
静かに現れた青年に、ハインツと呼ばれた男が聞いた。
「君はレルファンの出国を手伝うと言っていたろう? まさか、置いていかれたのかい?
あんなに慕っているというのに、可哀想に」
白々しく言い募るハインツに、カルヴァは顔を顰めてみせた。
「どうなったのか、お分かりでしょう? エスタ様は、レルファン様とは行けぬと仰ったそうです」
ふはっ、とハインツが笑った。細工人形を放り投げ、カウチに寝転んで体を揺らす。
「あひゃひゃ。あのレルファンがとうとうフラれたか! ざまあみろ、俺からシルベーヌを奪った罰が当たったんだな」
「シルベーヌ嬢は自らレルファン様を選んだじゃないですか。ハインツ様は単に捨てられたのでしょうに」
貫禄や威厳など、瞬間的に霧散した。大口を開け、下品な笑い声を上げだしたハインツを、カルヴァは呆れた様子で見下ろした。
「うるさい、黙れって。あひゃーっ、おもしれえ! で、俺の愛しき友人殿はどこだよ? 馬鹿面拝んで、あいや、お慰め申し上げてやろう」
「レルファン様は神殿近くの宿に御宿泊されております。今日はそのまま、神殿に向かうと」
「ちぇ、なんだ、いねえのかよ」
腹を抱えて笑っていたハインツはつまらなさそうに表情を引き、がりがりと頭を掻いた。
「まあいいか。あいつとは近い席に座れるだろうしな。その時にでもひとしきり可愛がってやろう」
「残念ですか、レルファン様は一般席からご覧になるそうです」
「何で? あんな遠い場所じゃ、満足に顔も拝めないだろう」
「騎士団長として会いたくないそうです」
「はっ、今更何を言ってるんだか。向こうなんか、身分を超越した存在になるんだぜ」
小さく鼻で笑って、ハインツは立ち上がった。大きく伸びをする。
「いやはや、若い若い。おっさんには無くなってしまった初々しさよな。その若さゆえの暴挙でどこにでも去ればよかったものを。
お蔭でこれから支度をしないといけなくなった。巫女逃亡の騒乱をここからゆっくり眺めるつもりだったのに、面倒だ」
「何だかんだと否定していらっしゃったくせに、行ってしまうと思っていたんですか?」
「そりゃあ、な。あいつなら、と思ってたんだが」
立ち上がり、転がった細工人形を拾い上げる。ドレスを纏った人形を見ながら、小さく笑う。
「馬鹿だねえ。好きな女なら、無理やり攫えばよかったのに」
「そうですね……」
「しかしまあ、あいつがそれを選んだのなら、仕方ねえ。
で、傷心の主を置いて、お前は何しにきたんだ? まさか、ただ報告をしにきたわけじゃあ、ないんだろう?」
視線を流されて、カルヴァは頷いた。声音をぐんと低くする。
「はい。神妃の住まう場所をお調べ願えませんでしょうか。神殿深部か、神殿領だとは思うのですが、私の力では見つけるに至りませんでした。しかし、ハインツ様なら、と思いまして」
「神妃の? そりゃあれだろ。ペリウスが迎えに来るんだろ」
「ハインツ様ならば、それは昔語りだけの話だと知っておられるのでしょう?」
ハインツの祖父は、ハヤディールの前々国王である。一人の王子(前国王)と四人の姫がいた。
その子供たちの中で、父の寵愛を一番に受けていたのは、末のクレア姫だった。母に良く似た美貌と、父譲りの賢さをふんだんに受け継いだ姫を父王は手放すことが出来ず、結果、一番信頼を置いていた家臣に降嫁させた。
そのクレア姫の子が、王属騎兵隊副隊長であるこのハインツ=クライナムなのだった。
一介の騎士であるカルヴァとは、情報力が格段に違う。
案の定、知っていたらしい。ハインツはくすりと笑って見せた。
「ガキの頃、母上がそんなことを言っていたな。夢のないお伽話で、面白くなかった」
フローラは神託こそ受けたものの、ペリウスからの迎えはなかった。王妃を辞し、神妃となったフローラには地上に居場所はなく、苦肉の策として隠れ宮を与えられ、そこで一生を終えたという。
ここまでは、カルヴァがどうにか調べ上げた、ハヤディールの隠された事実であったのだが、それをハインツは幼子のころから知っていたという。王族の血を確かに受け継いでいるからこその業だろう。
だからこそ、この人ならばきっと分かるはず。
「今回も、エスタ様には宮が用意されるはず。その場所が知りたいのです」
「禁典を調べるとはよく頑張ったな、カール坊や。お前もいっぱしの従者になったもんだ」
「いえ、結局は見つけられませんでしたので、未熟です。こうして貴方に頭を下げることでしか、見つけ出す手段がない」
神託が降りてから六日。神妃の行く末はどうにか分かった。しかし、用意されるであろう隠れ宮の手がかりを、何一つ見つけられないでいたのだった。
大神殿の秘密主義は充分知っていた。最も重要な神妃のことともなれば簡単に調べがつくまいと思ってはいたが、雲を掴むように何も分からないまま。この騒ぎの中ですら分からぬのであれば、一所に落ち着いてしまえば手の出しようがなくなってしまうだろう。
深く頭を下げたカルヴァに、ハインツは訊いた。
「場所を知ってどうする? 隠れ宮は国の最上級機密となる。神妃がそこに入ってしまえばもう手は出せんぞ」
「エスタ様がそこにいる。それだけでよいのです」
昨晩戻ってきたレルファンは、切なくなるほどに憔悴していた。『この俺がフラれちまうなんてなー』と軽口を叩いたものの、その笑顔は凍り付いていた。
エスタ様にもう会えないということは、主が一番分かっているはず。しかしそれでも切望するだろうその心に、少しの慰めが欲しい。
「……ふうん。で、ここにお前を遣わしたのは、レルファン? 自分をフッた女の居場所を訊いてきてー、って?」
「まさか。私の判断です。そうですね……我儘な主に、恩の一つでも売っておこうと思ったまでです」
鋭さを隠した問い。それを冗談めかして答える。ほんの一瞬の間を置いて、ハインツは小さく笑った。
「お前があいつに恩ねえ? 面白いこと言えるようになったもんだ」
「お褒めに預かりまして。で、私の願い、きいて頂けますでしょうか。ハインツ様?」
頭を下げると、ハインツは右口角をにやりと持ち上げた。
「ふん、じゃあ俺もそれに一口乗ってやるとしよう。調べてやるよ」
「ありがとうございます」
カルヴァは心から、笑みを見せた。と、ハインツが思い出したように「あ」と声を上げた。
「そうだ、レルファンがここ残るってことは、返すモンがある。あいつも忘れてるかもしれないが、連れて行け」
「返す? 連れて?」
カルヴァの問いには答えず、ハインツは人形を振った。チリン、チリンと綺麗な鈴の音が響く。
いつもながら趣味の悪い呼び鈴だな、と揺れるドレスをカルヴァが見つめていると、すぐにドアがノックされた。
「おう。入れー」
「失礼いたします」
音もなく入ってきたのは、細身の少年だった。身に纏っているのはクライナム家の従者の正装である、少しゆったりとした黒の上下を初々しく着こなしている。緊張しているのか強張った顔つきだったが、カルヴァを見てとると微かに頬を緩めた。
が、カルヴァには心当たりがなかった。ハインツに顔を向ける。
「彼が、何か?」
「預かっていたんだ。あいつがいなくなるんなら、このまま面倒みるつもりだったけどな。残るんなら、受け取れ」
「は、あ?」
分からない。カルヴァはハインツと少年を交互に見た。
(こんな少年に覚えはないが……)
「ん?」
真っ直ぐに自分を見つめ返した少年の、その瞳に記憶が反応した。稀にか存在しないオッドアイ。その色の組み合わせ。
「……お前、あの時の?」
数年前、戦場で主が見つけ、ほんの気まぐれで助けた子供。それは薄汚れ、異臭を放っていた、浮浪の子だった。野犬のような、敵意丸出しの瞳を向けてきた。油断していた自分は、情けなくも傷を負わされた。
そうだ、あの子供の瞳の色は、今対峙している者が持つものと確かに同じだった。
カルヴァの呟き同然の問いに、少年はぱあ、と顔を明るくした。
「はいっ、その節はありがとうございました! 名を、リルといいます。今年、十六です!」
「じゅうろく……」
子供を拾ったのは、確か八年前だったとカルヴァは記憶している。背は低く、骨と皮だけの貧弱な体つき。満足な受け答えもできなかったことからせいぜい六歳程度だろうと思っていたが、それよりも上だったか。
「ジュードが手塩にかけて教育した。奴自慢の教え子だからな、役に立つぞ、リルは」
「彼の教育を、完了したんですか?」
「ああ。その上、稀な人材だと褒めちぎってた」
「まさか!」
感情を余り表に出さないカルヴァが、珍しく声を張った。きょとんとした様子で己を見ている幼い顔をまじまじと見る。
女のように細い首、華奢な骨格。背もさほど高くない。十六にしては些か発達不良にもみえる。こんな子供然とした者が簡単に終えられるものではない。
ジュードとはハインツの側近で、若手の教育係も担っている男だ。勉学だけでなく武術にも精通し、特に体術は比肩する者がない。人格者でもあり、彼が育てあげた人材はすべからく、どこに行っても重宝されるという。しかし激しいスパルタ教育の為、途中で逃げ出す者も多い。夜逃げ同然にいなくなった者を数えればきりがないほどだ。
そんなものを完了したとは到底思えないのだが、少年は肯定するようにこっくりと頷いた。
「ジュードさんには教えることはもうない、と言われました。あとはもう経験を重ねるのみ、と。もう一人前だということで、先日この一揃えと、これを頂きました」
言い終えて、自分の纏った衣服と、腰に差した短剣を指し示した。使い込まれた革のケースに収まるそれは確かに、カルヴァが記憶している、ジュードが愛用していたものと同じ代物であった。
「彼がこれを手放すほど、か。いや、すごいな」
この年でジュードを認めさせるとは。カルヴァは素直にリルを称賛した。頬を染め、嬉しそうに微笑むリル。
「レルファンもすごいんだけどな。よく、あの状態のこいつから素質を見抜いたよ」
ハインツが言うには、レルファン自らがこの子をここへ連れてきたのだそうだ。
「根性ありそうだから育ててやってくれって、ジュードに渡しやがってさ。俺んちは学校じゃねえっつったら、そんなこと分かってる、だと」
「なんと……」
思えば、子供の行く末がどうなったのか、カルヴァは知らなかった。しばらく面倒をみていたようではあるが、ある日ふつりといなくなった。てっきり孤児院にでも入れたものと思っていたが、まさかこの人に預けていたとは。
自分には全く分からないが、ハインツの言うように素質とやらを見極めていたのだろう。あの人はそういう妙な勘を働かせることがある。
「この屋敷には何度も足を運んだのに、全く気付きませんでした」
「南のクラベスタの領地、あるだろ。この間まであそこの屋敷にいたんだ。この屋敷に入る使用人は必ずあそこで訓練させるからな。てなわけで返すぞ」
「よろしくお願い致します!」
リルと名乗った少年は、折り目正しく頭を下げた。
「……ああ、よろしく。カルヴァだ」
ハインツの下で、しかもジュードが育てたのであれば、何の問題もないであろう。従者不足でもある
し、使える人材が手に入るのなら助かる。手を差し出すと、リルは小さな手で握り返してきた。しかしそれは見た目に反して、皮の厚い節くれだった手だった。これだけで、長く剣を握ってきたということがわかる。信じられないが、確かにジュードの教えを乞い、完了したのだろう。
「では、私はこれで失礼いたします。レルファン様を一人にしておくのも気がかりなので」
「おう。お前の依頼はなるべく早く、済ませておいてやるよ」
「よろしくお願い致します。では、行くぞ、リル」
「はい! あの、ハインツ様。今までお世話になりました。ありがとうございました」
深々と頭を下げたリル。ハインツはその頭をぐりぐりと撫でた。
「カルヴァに虐められたら、帰ってこい。俺付きにしてやるから」
「大丈夫です! 頑張ります!」
「はは、その意気だ」
優しい顔で笑うハインツを、カルヴァは珍しいものを見たような思いで見つめた。
何しろ、ハインツという男は同性には非常に厳しい人である。従者を困らせることなど日常茶飯事。無理難題を申し付けるのが当たり前のこの人が、これほど気にかけるとは。
まだ幼いし、子供扱いしているのだろうか、いや、自分はこの年頃の時には随分いびられた覚えがあるが。
「じゃ、カルヴァ、よろしくな」
「は、い」
釈然としないものを感じながらも、カルヴァは黙ってハインツの屋敷を後にした。気に障ることを言って、願いを無にされては困る。
ハインツの屋敷を辞したカルヴァは、乗ってきた馬車で大神殿へと向かった。儀式までまだ猶予はあるが、道はすでに群衆でごった返しており、酷く時間を取られる。数珠繋ぎになった馬車はのろのろとしか動けなかった。
「すごい人ですねえ。あ、ほら。あれは神妃様の肖像画じゃないですか?」
正面に座ったリルは、混雑もまた楽しいようだった。はしゃいだ様子で窓の向こうを見ていた。子供らしい、無邪気な顔である。
「自分はまだ見てないんですけど、神妃様ってどんなお姿なんでしょうか。フローラ様みたいにお美しいんですかね」
「似たような、美女だよ」
カルヴァは遠巻きではあるが見たことがある。フローラの再来と言われる彼女は、神力だけでなく容姿もまた似通っていた。金髪碧眼の儚げな美女。ペリウスは女の好みが一貫しているのだろうか。だとしたら神というのも、人間臭いところがあるものだなと思う。
「へえ。儀式が楽しみだなあ。レルファン様は、もう神殿に行かれてるのでしょう?」
「ああ」
「そうかあ、お会いするのが楽しみだなあ」
えへへ、と頬を赤らめて笑う様子を、カルヴァは少しの憐憫の思いで見た。
ハインツの口ぶりから察するに、レルファンは預けたことすら忘れている可能性がある。まず、主はクラベスタに行ったことすらないのだ。リルはハインツに預けられてからは、レルファンの顔を見ることもなかっただろう。
その笑顔は、忘却と言う形で裏切られるかもしれない。
(それなのにまあ、随分懐いていることだ)
野犬が恩義を感じて忠誠を示しているのか。八年という歳月が間にあっても、尚。あどけない少年の期待に満ちた顔をしばし見つめていたカルヴァだったが、小さく笑んだ。
「リルと言ったね。私のことは覚えているのか?」
「はい! だって、恩人ですから。カルヴァ様と、レルファン様のことは片時も忘れたことがありません」
「様、はいらないよ。私もお前と同じような身分だ」
「そんなはずないです。ハインツ様から、国家騎士団の副団長様だと伺っています。それに、アーロン伯爵家のご子息だと」
「ああ、そうだね。でも、君は騎士団ではなく、レルファン様直属の従者になる。同じ部下だ、身分に大した差はないさ。それに、伯爵家と言ってもしがない三男だしね」
カルヴァは、自分が伯爵家の息子だという自覚は余りない。
実家は確かに大家であるのだろうが、物心ついたときには、実権も爵位も、既に年の離れた長兄が握っていた。次兄は同じく爵位を持つ分家を継ぎ、遅く生まれたカルヴァには家名しか財産が残っていなかった。
跡取りでもないせいか、家の中で大切に扱われたことがない。子息ということで充分な教育は与えてもらえたが、それだけだ。財産や身分がない代わりに、気楽な生活ができたのだから本人はそれでいいと思っているし、己で切り開いた騎士団への道に後悔はない。
レルファンの補佐をする副団長という肩書だけが、誇りだった。
あっさりと言ったカルヴァに、少年は少し考えるようにオッドアイを彷徨わせたが、素直に頷いた。
「分かりました。じゃあ、カルヴァさんでいいですか?」
「構わないよ」
答えると、リルはにっこりと笑った。
「よろしくお願いします。これからご教授下さい、先輩」
「ああ」
人慣れしていない獣のような子だった。牙をむいて威嚇し、実際に腕を噛みつかれた。まともな人間に育つことはないだろう、と思ったものだったが、まさかこんな成長を見せて、再会するとは。
よい意味で裏切られたカルヴァは、満足げに背もたれに身を預け、足を組み替えた。にこやかにリルに話しかける。
「しかし、ジュードには随分しごかれただろう? 彼は容赦ないからね」
「はい! 何度か血反吐を吐きました!」
驚くようなことをさらりと言う。本人はけろりとしているから、別段おかしなことではないと思っているようだ。
「穏やかじゃないね。大丈夫だったのかい?」
「はい、体は丈夫ですから」
「あ、そう」
血反吐を何度も吐いておいて、それで済ますことができるのか。これはまた、主の審美眼を見直さざるを得ない。
「さて、細かいことはおいおい説明するとして。今日は私と一緒にレルファン様についてもらう。レルファン様は神妃の浄化の儀をご覧になる予定だ。一般席からとのご要望なので、それに従う。混雑しているので、警護には充分気を付けてもらいたい」
「わかりました。あの、従者は他には?」
カルヴァは苦笑した。
「神殿には既に数人配置しているけど、レルファン様にはほとんど近づかないことになってる。レルファン様は好みがうるさくて、気に入った者しか傍に置かないんだ。
だから、傍付きは私とお前、それともう一人、ボウくらいかな。まあ、おいおい紹介しよう」
「好みが……。あの、大丈夫でしょうか?」
「君のこと? 大丈夫だと思う。ハインツ様に預けたほどだ、気にいったんだろう」
忘れていたと思うがね、と心の中で付け足す。しかしリルは少し不安になったのか、もぞもぞと居住まいを正した。
「もし嫌われたら、ヤです」
「いや、嫌われることはないだろうね。君は、レルファン様の好みだと思う」
と、ゆっくりとだが動いていた馬車が、完全に止まった。御者台の方が騒がしい。
「何だ?」
「どうしたんでしょう?」
顔を見合わせていると、扉が急いた様子でノックされた。返事とほぼ同時に、神殿にいるはずの仲間が転がり込むように入ってきた。それは、少し前に名前を出したばかりのボウだった。
「カルヴァ! た、大変だ!」
ボウは、騎士団に在籍しておらず、主の家に直接仕えている。三十を越したばかりの小柄な男で、細作と呼ばれる、隠密行動を主に行う集団の頭を務めている。
「どうした、落ち着け」
いつもは冷静沈着のボウが顔色を失っている。まさかレルファン様に何かあったのか。
「リル、扉を閉めろ!」
「は、はい!」
外に漏れて困ることだったらいけない。リルが閉めるのを待って、カルヴァは息を切らせているボウに訊いた。
「どうした? レルファン様に何か?」
「エ、エスタ様が何者かに連れ去られた! 神殿内のどこにも、お姿がない!」
「な……っ!?」
息を呑む。そんなことありえない。昨晩遅く、主がその目で存在を確認しているのだ。
「どういうことだ!?」
「今朝方、神殿内でエスタ様付きの巫女が一人、殺されているのが発見された。もう一人の付き巫女も、行方知れず。エスタ様もどこにも……っ」
神殿の要人たちの間で酷い騒ぎになっている、というボウの言葉を、カルヴァは呆然と聞いた。
大神殿の警護が厳しいのは、昨晩侵入した主や、それを手助けした自分が一番よく知っている。入るだけでも容易ではなかった。それなのにその神殿内で、人ひとり殺害し、尚且つ二人の人間を攫うなど、出来るはずがない。
「神殿は即座に箝口令が敷かれたが、上層部は酷い混乱だ。あれじゃあ漏れるかもしれない」
「レルファン様は!?」
「自分が報告をし、もう神殿に向かわれた。カルヴァも急いでいけ」
窓の外を見る。さっきと変わらぬ、祭りの喧騒。まだ、このことは広まっていない。
「分かった、神殿に向かう。ボウ、お前は何かレルファン様から指示を受けているのか?」
「ああ、ハインツ様に港の検問を依頼せよ、と」
「分かった。お前はこの馬車に乗って行け。逆走するのは容易いだろう。後の指示はハインツ様から受けとけ」
「了解!」
今の状況では走る方が早い。カルヴァは馬車を飛び出した。その後にリルが続く。
「ボウを乗せてクライナム家へ。急げ」
御者台の部下に口早に命じて、カルヴァは人ごみの中を駆けだした。
「カルヴァさん! エスタ様って、あの!?」
「そうだ!」
カルヴァの全力疾走にも、リルは難なくついてきた。身のこなしがよく、綺麗に障害物を避ける。
「あの方を失うなんて、あってはいけないことだ。絶対だ。死ぬ気で見つける」
「……わかりました!」
リルは、それ以上訊かなかった。最重要項だけ理解し、余計な質問をしない。今のこの状況では、上等の判断だった。
熱気に溢れたその先に、目指すバヌムス大神殿がそびえ立っていた。
石造りの巨大な神殿は、その周囲を物々しい出で立ちの兵士が取り囲んでいた。正門では民衆の受け入れを開始してしまったのか、火事場のような騒ぎになっている。我先に入ろうとする群衆と、それを止める兵士。割り込みを咎める声に、反論する声。至る所で小競り合いを起こしている。
その周囲では、たくさんの露店が軒を連ねており、商売に励んでいた。
「末端まではまだ、流れてないな」
少し乱れた呼吸を整えながら、カルヴァは言った。何事もなく儀式が始まると、皆が思っている。
しかし、万が一にでも巫女が行方知れずという事実が流布すれば、この騒ぎは大きな混乱に見舞われてしまうだろう。
「リル、こっちに回るぞ」
「はい」
神殿は、貴族の住居のある貴族郭の近くに位置している。貴族郭からは、神殿へ専用の通路と入口が設けられており、こちらは万人に開放している正門ほど混雑していないはず。遠回りになるが、そちらからなら入れる。主は既に中にいるはず。早く行かなければと、カルヴァは再び走り出した。
「……レルファン様!」
神殿の奥、表の騒ぎも遠くにしか聞こえない、深層部。重々しい扉で封鎖された一室に、辿り着いた頃には、二人ともこめかみから汗を流していた。貴族郭も予想以上に混雑しており、入殿するのに予想外に手間取ってしまった。
その二人を、レルファンは無言で迎えた。表情は、ない。感情が何一つ、窺えなかった。レルファンはカルヴァを認めて小さな頷きだけを返したが、その後ろにいるリルを見て、眉根を寄せた。
「ハインツ様のところより、戻りました」
短く答えるリルに、ふん、と呟く。
「話はあとで聞こう。控えてろ」
「……はい」
答えて、リルはす、と壁際に寄った。
「遅くなりました、申し訳ありません」
乱れた息を整えながら、カルヴァは広くない室内をざっと見渡した。神殿の要人と、数人の貴族。大臣の姿もある。皆顔色を失い、国の沈没を見るような表情を浮かべていた。
そして、彼らが囲む中央には、血がべたりと滲みついた巫女装束が置かれていた。通常の巫女のものよりも遥かに質が高いと一見して分かる。それは、まさか。
「エスタ付きの巫女が一人、惨殺されていた」
レルファンの低い声。その内容に、カルヴァは反応した。
「惨殺?」
「ああ。顔をめった刺し。首筋の黒子でようやく確認できた」
顔の判別がつかないほどとは、悪質すぎる。その巫女に特別な憎悪でもあったとしか思えない。
「名前はリリイ。例の神託を告知した巫女で、それが切っ掛けでエスタ付きに上がったんだそうだ」
神託を受けたから殺されたのか。それとも他に何かあるのか。
「そしてもう一人の付き巫女、こっちは長くついていたそうだが、それも行方知れずになっている。エスタと共に連れ去られている可能性が高い。
二人ないし一人は負傷している。この血液量からすると、早急に医師に診せないと、ヤバい」
レルファンは顎でくいと、床に置かれた衣装を差した。
「……衣装は、一人分ですね」
「エスタのものだ」
やはり、とカルヴァが息を吐いた。先ほど訊いた話を、否が応でも連想する。
「血はどちらのものか分からない。もしかしたら、もう一人の巫女のものと考えられなくもない。が、まあ、微妙な話だな」
本来は純白だっただろう服は、今やどす黒い赤褐色に染められていた。その凄惨さに視線を伏せたカルヴァは、主の拳が微かに震えているのに気が付いた。
あの時、主が連れ出せていたら。神殿の外に出て、新しい人生を歩んでもらえていたら。
そしたらこんなことには。
しかし今はまだそんな感傷に浸る時ではない。
「途中、ボウに会いました。ハインツ様のことですから、もう動かれているでしょう」
「アレフに中央門の一時封鎖を命じた。お前は第三・四師団の団員を北、西、東門に配置するよう指示を出せ。怪しい者は全て止めろ。指揮はセンナに任せておくように。肖像画はジノリ作のものが一番似てる。あれを持たせとけ。決して騒ぎにするな、下の者たちには安全対策だと言え」
「は」
言って、カルヴァは音もなく室内を出て行った。その背中を視界の隅に見送って、レルファンは床に横たわる衣服に視線を落とした。
その横顔を、リルが見つめていた。
(変わっていない……)
数年前、自分を救い上げてくれた人。抱き上げてくれた腕は逞しく、自分一人の重さなど微塵も感じていないようだった。笑いかけてくれた顔は優しく、温かだった。
名を与えてくれて、初めて呼んでくれた人。
ようやく、この人の近くに来ることができた。覚えてくれていないようだったけれど、仕方のないことだ。八年もの歳月が過ぎているのだから。
それくらいのことは、覚悟していた。
「騎士団長様。あの、エスタを、エスタを……」
端に、力なく座り込んでいた老女がふいに声を発し、レルファンに這い寄って行った。涙に濡れたその顔は、乱れた白髪が頬に幾筋も張り付き、血色を失っていた。
他国にも名を馳せた大巫女、サヴァンである。
しかし、今やその威厳もなく、赤子のようによたよたと地を這い、泣いている。
エスタが母とも思ったその人もまた、エスタを娘のように感じていた。愛おしい娘、神に嫁す名誉を一身に受けた大切な子。
それがまさか、こんなことになるなんて。
うわ言のようにエスタの名を呼ぶ。その小さな体を、傍付きの巫女が支えた。涙に濡れた顔で、大丈夫ですからと何度も声をかける。
哀しい光景に、レルファンは膝を折った。そっとサヴァンの肩に手をかける。
「サヴァン殿、ご心配召されるな。エスタ殿は必ずここにお連れする」
「お願い致します、騎士団長様……」
小さく丸まった背中を、レルファンはそっと撫でた。ほろほろと泣いている巫女に、別室で休ませるよう指示を出す。
老女は北風のような泣き声と共に、部屋を出て行った。それと入れ替わるように、カルヴァが戻ってくる。それを見て、レルファンは頷き、周囲を見渡した。
「さて、騎士団は連れ去られた巫女たちの捜索を開始した。貴兄らは外の民衆の対応をお願い致したい」
数名の貴族が我に返ったように言った。
「対応!? 簡単に言ってくれるが、一体どうすればよいのだ。陛下は各国の賓客の手前動かれぬ。宰相は時間を稼げとそればかり」
「元老院なぞこぞって臥せったそうではないか! 普段は口ばかり達者なくせに」
「神殿にようよう駆けつけた我らだけではとても対処できぬ」
口々に言われ、レルファンが微かに、眉間にしわを刻んだ。
「幸いにもここには多くの女がいる。エスタ殿と似た女もいることでしょう。とりあえずは影武者でも立てておけばよい。儀式さえ済めば人心も落ちつこう」
レルファンの言にさっと顔を赤く染めたのは一人の神官だった。
「影武者!? そんな、聖なる神の妃を騙るわけには参りませんぞ! 天罰が下ります!」
「ではこのまま公表するのか? 神妃が賊に連れ去られたと。神の膝元の大神殿で穢れがあったと。押しかけた民は神の怒りを恐れて暴徒と化すかもしれんぞ」
レルファンはそれを即座に切り捨てた。神官はぐう、と唇を噛んで押し黙ったが、納得はしていないらしい。頬を紅潮させたまま、視線をふいと逸らした。不服そうな横顔から全体へ視線を戻したレルファンは、神官だけでなく、全員に向けて言葉を重ねた。
「影武者とは暴動を防ぐ柵に過ぎん。欺くは民衆であって、ペリウス神ではない。
その間に、我ら騎士団は、巫女を必ず連れ戻そう」
大臣の一人が、あからさまに顔を歪ませた。不浄のものを見るように衣装に視線を流す。
「必ずと言っても、この血の量ではエスタ様はとっくに」
「口を慎まれよ」
うわずった言葉を、レルファンは冷え冷えした声で一喝した。炎を宿した瞳で射られて、禿げ上がった大臣はぐう、と唇を噛んだ。
「神妃となる巫女を殺すは神殺しと同じ大罪。許されるわけがない」
「は、確か……、に」
戦神の子と異名をとる騎士団長の前では、何も言えない。大臣は神官のように顔を背けることで、その視線から逃れた。
「では、この場はお願いする。貴兄らのお力があれば、騒ぎなどすぐに静まりましょう。
巫女は必ず戻る。巫女を妃と望んだペリウス神がお守り下さっているはず」
最後の一言に、居合わせた者たちは顔を見合わせ、ゆっくりと頷きあった。
今はそう信じる他ない。神託を受けた巫女が殺されたなど、そんな恐ろしいことがあってはいけないのだ。神はきっと、救ってくださる。
「では、私はもう行きます。伝令がありましたら中央門にお願い致す。行くぞ、カルヴァ」
「は」
まだ動けないでいる彼らを残し、レルファンは部屋を後にした。
カルヴァとリルも続く。長い回廊を早足で歩きながら、レルファンは指示を出す。
「昨晩の警護は神妃祭最中ということで厳しかったが、貴族郭三の門の裏出入口が他より薄かったのは分かってるな。交代の時に三分だけ空白の時が生まれる。そこを突けるのは実証済みだ」
そこから、昨晩は侵入したのだ。
「アレフからの報告で、三の門の路地に、少しの血痕があったそうだ。そこから先は捜索中だが、もう見つからんだろう」
三の門付近の道は、赤レンガを砕いた砂利が敷き詰められている。神妃祭中で人通りは通常より多いし、血痕などあっさり紛れてしまうだろう。
「三の門ですか……、今は田舎の領主が多く滞在していますね」
「どこかの屋敷に連れ込んだかもしれん。あの出血量だ、下手に動かせんだろう」
「団員を出しますか」
「いや、それは目立ちすぎる。細作を出して探らせろ」
「は」
やり取りの最中。ぷつんとレルファンが言葉を切った。何かあったのかとカルヴァは顔を窺い見た。
「……攫えばよかったんだ」
小さな呟き。自信にあふれ、不敵に笑うのが常の主の金茶の瞳に、いつもの輝きはなかった。
「無理やりにでも、かっさらってたら」
「レルファン様」
カルヴァはそれ以上何も言えなかった。
「……カルヴァ」
「は」
一瞬で、瞳に炎が灯った。
「エスタは連れ帰る。絶対だ。賊には命を持って償わせる」
「かしこまりました」
「リル」
レルファンは、己が拾い上げ、名付けた子を覚えていた。名を呼べば、成長した子供は大きく返事をした。
「は、はい!」
「ここに来たのは、ジュードの許可があってのことか」
「はい! 一人前だと言われました!」
少し、レルファンが瞳を見開いた。小さく笑って、リルの頭をくしゃりと撫でた。
「早かったな。助かる。少しでも使える人間が欲しい」
「期待に添えるように頑張ります!」
「ああ。頼む」
優しく言われたリルは、泣き出しそうな自分と戦っていた。こんな状況で涙を流すなど、愚の骨頂。ジュードさんに叱られてしまう。
でも、体が痺れるほど嬉しかった。記憶の隅にでも、己の名前が残っていたことが、嬉しい。
「これから中央門に行くぞ」
「は」
「はい!」
駆け出せば、騒乱が近くなった。神に嫁す巫女を一目見ようとする人々の興奮。
この高ぶりはちょっとの真実で変貌をとげてしまうだろう。神の怒りを恐れ、恐怖に陥ってしまうことは想像に難くない。
国を揺るがしかねない大事を、少しでも早く終結させなければならない。
しかし、レルファンの胸にあるのは、昨晩抱きしめた、たった一人の女の面影だけだった。本当は、国など、神などどうでもいい。一度は全てを捨てることを決意したのだ。
エスタがまた、あの笑顔を見せてくれたら、軽口を叩いてくれたら、それだけでいい。
どんなことをしても、きっと助ける。だから、無事で。