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2.ヴァムの酒場

ゲラン歴419年 -初冬の候


 ハヤディールは、ウェトナ大陸の西端に位置する国である。

 

 この国は、大海カナシスの恵みを一身に享けている、カナシス海によって栄えた国だ。良質な漁場をいくつも有しており、発展した港町も多い。

 その中でも王都フローラは、ウェトナ大陸の玄関口とも呼ばれる大きな貿易港でもある。

 

 『全てのものはここに集い、ここから世界に散ってゆく。宝も人も、全て始まりはフローラに』


 商人たちが好んで口ずさむこの歌からも、その豊かさが知れる。世界の中心、そんなことを思わせるほどの大都だ。

 

 そんな賑やかしいフローラをぐんと北へ向かったところに、ヴァルム山脈がある。頂が常に白雪で覆われている険しい峰が連なる山脈だ。そして、肉を食らう荒々しい獣の巣窟でもある。

 ヴァルム山脈を挟んだ北の隣国ポトトスへ向かうには、この山を越えることが最短なのだが、時を金で買うと揶揄される商隊ですら、これを避けた大きく迂回する順路を選ぶ。時間よりも大きな損害を受けてしまう可能性のほうががよほど高いのだ。

 実際、どんなに旅慣れた者でさえ、ほんの一時油断しただけであっさりと牙をむかれてしまう。ここで消えた命は数知れない。侵入者に慈悲を与えない、荒ぶる神のおわす山々である。

 今は冬。頂のみならず、その体全てを真白に染めたヴァルムが、一番荒む頃である。嵐のような吹雪が絶え間なく舞い、山に棲まう獣たちすらその身をひっそりと潜めている。

 

 そのヴァルム山脈の裾野にあるヴァムの町の酒場で、とぐろを巻いた少年の姿があった。


「ムカつく」


 ダンッとテーブルに叩きつけた木杯から、プラム酒が零れた。

 その飛沫からお気に入りの臓物煮込みの皿を庇った青年が、非難の声をあげた。


「もうその話はいいだろ。つーか、お前これ以上飲むなよ。べろべろじゃねーか」


 少年の顔は耳たぶまでほんのり赤く染まっており、ギロッと青年を見据えた目は据わっていた。


「大体レルフ様が悪いんですよ! 普通、従者をあんな賭け事に使いますか?

 すみません、プラム酒もう一杯!」


 半分程残っていた木杯の中身を一気に呷り、少年は肩で大きく息を吐いた。


(しまった、こいつこんなに酒癖が悪かったのか)


 テーブルの隅っこに死守した皿を置いて、青年は安易に酒で機嫌を取ってしまった自分を悔いた。

少年は以前からこの甘い酒を好んでいたが、いつもは召使いの度を守って嗜む程度しか口にしていなかった。今晩は酷い吹雪で、一際冷え込んでいることではあるし、じゃんじゃん飲めと勧めてしまったのだ。


「おいリル。もう止めとけ。酔いすぎだって」


 なみなみと酒が注がれた木杯がテーブルに置かれる。それを青年が奪おうとする間もなく、少年はぐいと中身を傾けた。その細い喉元が、正面に座した青年に露になる。少し日焼けした滑らかな肌が、酒を嚥下する度に波打つのが見えた。


(ああもう、この馬鹿従者)


 青年の呆れた視線に気付かず、少年は琥珀色の酒を飲み干した。ぷは、と酒臭い息を吐いて、


「ここのプラム酒、よく醸されてますね! 口当たりが柔らかいです」


 満足そうに、にこりと笑む。その笑顔は主である青年に軽い苛立ちを与えたのだが、本人は気付く様子もなく。再びプラム酒の追加を求めて声をあげていた。


「お前、明日二日酔いになっても俺は知らないからな」

「大丈夫に決まってるじゃないですか。それに、このお酒優しいですから」

「ああそう。もう、いいや」


 諦めたように肩を竦めて、青年は自分の木杯に手を伸ばした。

 こちらはプラム酒のような『優しい』ものではない。ヴァルム山脈からの凍てつく吹き降ろしに晒されるこのヴァムが醸造する自慢の火酒、『ヴァルム』だ。一舐めすれば体内は燃えるように熱くなるというこの酒は、暴力的な程に強い。荒々しさを剥き出した自然の前には、品などかなぐり捨てた強さがないと生き抜けないのだ。

 そのヴァルムを、地元の男たちがそうするように、まるで水のように事も無げに飲み、青年は臓物煮込みへ手を伸ばした。


 さて、この二人であるが、本人たちは気にも留めていないようだが、この小さな酒場で異色を放っていた。

 ヴァムは街道から外れた小さな町である。ヴァルム酒の醸造でその名は知られてはいるものの、それ以外に特出したものはなく、しかも冬の寒さの厳しいこの季節には、立ち寄る者は全くと言っていいほどいない。

 事実、町に一つしかないこの酒場には今、彼ら一行以外に外部の人間はいなかった。いや、町中とその範囲を広げてみても、彼らのみであった。

 

 二日程前にふらりと現れた彼らは、酒場の上にある宿に部屋を求めた。それからはさした目的もないのか、昼間は宿で寝て過ごし、日が暮れたら酒場で酒を呑んだ。

 そのことだけでも奇妙に思われるのだが、加えて彼らは人目を引く容姿をしていた。

 今、プラム酒の被害をかろうじて免れていた燻製玉子を口にした青年は、酒場の主人に『レルフ』と名乗った。そのレルフはがっしりとした体躯をしており、それは戦場を駆ける戦士のように筋肉逞しく、その所作からも、彼が武術に心得があることを思わせた。

腰には使い込まれた銀鼠色の大剣を差している。大振りのそれを使いこなすというのであれば、その力は見た目以上なのかもしれない。

 しかし猛々しさは微塵も無く、笑みを浮かべ酒盃を傾ける様子は、ヴァムにいる年若い男たちとなんら変わりは無い。のだが、彼は人目をそばだてるほどの見目麗しい顔を持っていた。


 年は二十半ばか。針鼠を思わせるつんつんと逆立った髪は光を放つかのような金。眼力のある瞳は薄い茶色だが、光の加減により金にも見えた。す、と通った鼻梁は形よく、その下にはいつも余裕ある笑みを浮かべているように、右上がりに弧を描く唇。それらが日に焼けた浅黒い肌の上にバランスよく配置されていた。

 戦士というよりは、物語で語られるような、姫を助ける勇敢かつ麗しい騎士、と言った風体だ。

 着ている物はというと仕立てのよい上等なものばかりで、椅子の背に無造作にかけられたマントなどは、カルミナの毛を織ったもののようだった。カルミナは王都フローラに住まう貴族たちしか身につけられないと言われるくらい高価なもので、あのマントが一枚あれば、ヴァム辺りの一般的な家庭ならば一年は裕に暮らしていけるであろう。

 国軍に属する騎士なのか。いやしかし、一介の騎士であるはずがない。余りにも豊かな身なりである。名のある大家、伯爵家いやはたまた公爵家の子息、といった所だろうか。


「すいまっせーん! プラム酒っ」


 空になった木杯をぶんぶん振って少年が笑った。

 主の前でずいぶん出来上がってしまっているが、レルフの従者である。名を『リル』という。

 つい先刻まで、この酒場での話題をかっさらっていた。

 さらさらした赤味がかった金髪は、耳を半分覆う長さのショートヘア。くっきりとした二重の瞳は大きく、長い睫毛で縁取られている。その瞳は、右は髪と似た色味の金、左は薄い露草色という、オッドアイである。

 この目を見た者は皆、一度は吸い寄せられるように見つめてしまう。それは珍しさもあるのだが、異なる輝きを持つ両眼は、何か惹きつける力があるように思われた。

 その魅惑的な両眼の下には少し低めの鼻。ぽてりとした唇は酒の力を抜きにしても、紅を差したように赤い。幼さを多少残した、『かわいらしい』と形容される顔つきであるが、その特異な眼差しのせいで妙な色気を感じさせる。

 背は余り高くない。体の線は細く、共にいるレルフと比べたら大人と子供程の差がある。

 が、その様子から察するに、バルグ典(年に一度行われる成人の儀式。ハヤディールは十六で成人となり、その年に達した者は神殿ないし地方礼拝堂にて儀式を受ける)は済ませているようである。先程から少年と記しているが、それは外観のみに因るところである。


「おまたせ。ねえ、リル。あなた大丈夫?」


 リルの前に酒を置いたのは、酒場で働いているダリアだった。鮮やかな赤毛をふんわりを結い上げた彼女は、ヴァムの町で一番の美女であるらしい。確かに、深紅の紅がよく似合う肉感的な女性である。且つ、さっぱりとした気風のよい性格で、彼女目当てにこの酒場に通う客は少なくない。


「へーきへーき」

「ホントに? もう、レルフのせいだわ」


 リルに心配そうに視線をやり、次にレルフに向かったダリアは厳しい顔を作ってみせた。


「あんなこと、もう絶対にしちゃダメよ」

「分かってる。こんな酒乱に付き合うなんざ、もうゴメンだからな。しかしなー、ダリアも少しは悪いと思うんだけど?」

「あら、私はきちんと確認しないといけない立場だったんだもの。店の売上げにも関わる話だから、適当なことはできなかったの」

「うわ、そんな言い方で逃げるか」

「嫌な言い方しないでちょうだいな。あら、お連れの方、いらしたわよ」


 くすくすと笑ったダリアが、階段をゆっくりと降りてくる人物の姿を捉えた。

 レルフのもう一人の従者である。


「カルヴァ!」


 こっち、と声をかけたレルフに、カルヴァと呼ばれた青年はふわりと頭を下げた。

 年はレルフと同じくらいだ。しかし柔和な笑みを絶やさない、至極落ち着いた様子は上かとも思わせる。

 艶めいた黒髪は肩より少し長く、それを深緑の飾り紐で一つに纏めている。銀糸が編みこまれ、端には緑水石を加工した玉が連なった紐は、彼が歩くたびにさらさらと微かな音をたてた。

 瞳は髪と同じ黒。切れ長で、笑うと弓形月のように細くなる。鼻筋は高く、唇は形よく。品のある整った顔立ちだといえる。

 すらりとした、薄く筋肉を纏った体を覆うのは、首元までかっちりと留まったシャツに、黒いパンツ。皮の編み上げブーツ。主の旅に随従する者として、ごく一般的な服装である。

 しかし、カルミナ織の肩掛けをさらりと羽織り、腰に細やかな細工の施された銀の鞘を携えているのだから、話は変わってくる。よく見ればシャツにしてもレルフと同様、仕立てのよいものであるし、ブーツは最上品のリオン皮だ。

 どちらかといえば、従者を従える側の人間のいでたちであると言える。

 むしろ、シャツの胸元をだらしなく開け、上品とは言いがたい臓物煮込みやヴァルムを旨そうに口にするレルフよりも主然としているかもしれない。


「遅くなりました」

「まあ座れ。お前ばかりに仕事を任せて悪かったな、カルヴァ」

「いえ。リル、その様子はどうした?」


 リルの隣に腰を降ろしたカルヴァは、腰抜け状態の仲間に視線をやって、微かに眉を顰めた。


「聞いて下さい! 酷いんですよ、レルフ様は」

「おい、お前は酒はヴァルムでいいか?」


 ぶう、と頬を膨らませるリルの言葉を遮るようにしてレルフが言った。


「ああいや、あの酒は……おや、レルフ様、その樽は?」

「え? あ、いや別に」


 レルフの横に、存在感たっぷりに置かれた樽。上部に穿たれた穴には木杓子が突っ込まれている。

 不思議そうに首を傾げたカルヴァからその姿を隠そうと、レルフが体を楯にしようとするが、遅い。


「賭けで勝ったのよ、レルフは」


 ね? とダリアがリルの頭を撫でた。


「賭け、とは?」

「あたしが『女』かどうかですっ!」


 リルが大きく叫んだ。


「あたしの性別を賭けたんですよ! レルフ様は!」

 

 そう、『少年』とは外観からそう判断され易いだけで、リルは実は十七歳の『少女』であった。

 初対面でリルの性別を正しく判断できる者は少ない。ハヤディールの女性は皆、神に仕える巫女以外はその髪を長く伸ばしている。結い方にこそ差はあれど、公式の場では髪をきちんと結わうのが正装である。なので、髪が短いというだけで男だと先入観を与えてしまう。

 では、それだけが理由か、と言えばそれも怪しい。彼女は女性のもつ柔らかさに『多少』欠けている。その立ち居振る舞いや仕草は、少女のたおやかさではなく、溌剌とした少年のそれに近かった。

 それに、本人がいたく気にしている部分でもあるが、肉体的にも、女性的な丸みがない。こちらに関しては、残念な程に、と注釈をつけたいくらいである。


「ほう。で、そんな樽酒を手に入れたということは」 

「この酒場全員、負けたのよ」


 つい、とカルヴァが室内を見渡すと、カウンターの向こうにいたマスターと目が合った。「やられたよ」と肩を竦めて言われ、主の代わりに頭を下げた。


「しかし樽酒なんて、飲み干せないでしょう。レルフ様、お返ししなさい」

「ちょっと! 問題はソコですか!」


 ぶは、とプラム酒を吹いたリルが抗議の声をあげた。


「後輩が辱めを受けたんですよ! 言うべきことが他にもあるんじゃないですかっ」

「大げさだよ。性別を誤られることなど、しょっちゅうじゃないか」

「今回は違うんですってば」

「自己申告じゃ信じてもらえなくてさー。ダリアに身体検査してもらった」


 あはは、とレルフは大きな声で笑った。

 

 遡る事、半刻前。ダリアとの軽口の流れで、レルフは『こいつが女だったらどうする?』とリルを指差したのだ。


『やだ、そんな筈無いじゃない』


 ダリアは一蹴して相手にしなかったのだが、ヴァルムが程よく回っていたレルフはそこで終わりにしなかった。


『じゃあさ、こいつが女だったら、俺と今晩遊んでよー』

『何それ。じゃあ遊ばなくっていいってことなんじゃないの?』

『さあ、どうかな? こいつ、女でしょうか? それとも、男?』


 にひひ、と悪戯っぽく笑うレルフの意図が掴めない。ダリアは主の目の前に大人しく座った少年を見た。我関せずと言った様子で、パンを咀嚼している。ちらりと寄越した視線は面倒くさそうで、その年頃の女の子が持つ甘やかさが見当たらない。


(男……よね?)


 ダリアはつい少年を見つめてしまう。

 かわいらしい顔ではある。最初に見たときは驚かされた、風変わりな瞳はくりくりと大きく魅力的で、女の子といってもおかしくは無い。けれどその表情は決定的に男の子だと思う。

 それに、と視線を下に向ける。シャツにベストを重ね着しているその胸元には、膨らみがない。まるきりのぺったんこだ。


(うん、男よ。やっぱり)


 少女であればもう少し膨らみがあるはずだ。

 しかし、なぜこんな分かりきった賭けをやるのか。金持ちの子息風であるし、田舎の女でもからかってやろう、などとふざけているのだろうか。こんなくだらない、結果の見えた賭けを持ち込むことが楽しいとは思えないけど、とレルフを見た。馬鹿にしているというなら、多少腹が立つ。しかし、こちらを見返しているレルフの瞳にそんな嘲笑の色は見えない。


『男よ。女じゃないわ』


 断言したダリアに、レルフはにやりと右頬を持ち上げた。


『ねぇ。この子、男の子よね?』


 ダリアは酒場を見渡して訊いた。余り広くない店である。重ねて、レルフたちが目立つこともあってか、皆が二人の会話を聞いていた。


『おう、男だろ、もちろん。わしも男に賭けるぞ。ヴァルム酒三杯!』

『じゃあこっちはヴァルム酒五杯だ! 女だったらよう、オレっちの股間が反応してらぁ』

『あんな短けえ髪の娘なんていないさ。ヴァルム十杯!』

『めんどくせえや。全員で樽一本だ! マスター、いいよな?』


 どやどやと盛り上がる外野に、レルフは答えない。


『……あたし、女ですよ』


 果たして、パンを食べ終わったリルが口を開いた。脇に立つダリアを見上げて、もう一度言う。


『女です。残念ながら』


 綺麗な双眸が、真っ直ぐにダリアを見つめる。生まれて初めて正面から対峙した、左右異なる輝きの眼差しに、ダリアは一瞬息をするのを忘れた。


『女って証拠みせてみろよ! 明らかに男だろ』

『そうだそうだ。ダリア、その小僧の体、調べてこいよ』

『こっちは樽がかかってんだぜ! 騙られちゃ困るからな』


 一層勢いを増した声に、ハッとする。


『え? ええと……』

『検査してもいいぜ、ダリア』


 あっさりとレルフが言った。


『女同士だし構わないよな、リル?』

『はあ?』

『な?』

『……レルフ様の、ご命令なら』


 不満そうだったが、渋々とリルが頷いた。


『じゃ、じゃあ、向こうの部屋で、いいかしら?』


 見惚れるとはこのことなのかしら。少し高鳴った胸を押さえながら、ダリアは聞いた。返事の代わりにすっと立ち上がったリルと並んで、奥の部屋へと向かう。


『小僧! ダリアに手ぇ出すんじゃねーぞぉ?』


 下卑た野次をつまらなさそうに聞く横顔を窺った。その顔は普通の少年にしか見えず、ダリアはさっき感じた程の眼力は何だったのかしら、と小さく首を傾げた。


 そして、結果は先に述べた通りである。

 女だったと宣言したダリアに、酒場にいた男たち――レルフを除いてだが――は悲鳴をあげた。


『ウッソだろ? これが女ぁ?』

『ありえねぇ! マジかよー』


 そんな様子をにやにやと眺めるレルフが、ダリアに言った。


『じゃ、ダリアを一晩、貰うからな。後、樽も一本だっけ?』


 悲鳴が怒号に変わる。酒場の客はほとんどがダリアを好ましく思っている。急に現れた、どこの馬の骨とも分からない男に、みすみす奪われることになるのは許せない。


『賭けは賭けだろ。ダリアは男に賭けたし、俺はそれに勝った』


 ふてぶてしく言うレルフにその非難の声は一層高まる。その騒ぎを一喝したのは、さっきまで静かだったリルの怒鳴り声である。


『その前にあたしに言うことがあるんじゃないんですか! こっちは裸にまでなったんですよ!』


 近くにあったテーブルに拳を叩きつける。分厚い楡の一枚板で作られたテーブルが大きな音をたてた。余りに音が響いたため、騒然としていた場が、しんと静まり返った。

 リルの顔は羞恥からなのか怒りからなのか、真っ赤である。口惜しそうに唇を噛んで、憎憎しげに酒場を見渡す。

 主の言い出したこととはいえ、まだ年若い女の子が男の嫌疑をかけられ、それを晴らす為に体まで晒したのである。しかも女だと判明したというのに、この有様。怒るのも当然だと言える。


『ご、ごめんなさいね。悪ふざけが過ぎるわよね』


 沈黙を破ったのはダリアだった。隣で瞳を潤ませた少女に、おずおずと声をかけた。

 視覚とは不思議なものである。先程まで少年にしか見えなかったというのに、女だと認識した途端に、かわいらしい女の子に見えてくる。乱暴に目元を手の甲でこする仕草も、単に子供らしさが抜けないのだろうと思えるのだ。


『すまんすまん。こりゃ失礼した!』


 次に口を開いたのは酒場兼宿屋のマスターであるラズロだった。元来明るい彼は、がははと大声で笑い、それからレルフにしかめ面を向けた。


『こんな年若いお嬢ちゃんを傷つけるような賭けはよくねぇやな。しかしよう、あんたもこの子の主なら、もっと綺麗に飾ってやんなよ』

『いやいや、これは本人が好んでやってるんだ。俺が口出しできねーんだよなー。

 なあ、リル?』


 レルフに問われたリルは、む、としたように口を尖らせた。


『あたしは従者として動きやすい格好をしているだけです。レルフ様の賭けの為に男のフリをしている訳じゃないんですっ』

『いやいや、俺はさあ、ダリアをちょっと驚かせようと、さ?』


 怒るなって、と困ったように自分をあやすレルフに、リルはうっすらと笑みを浮かべてみせた。


『それならダリアさんは驚いたようですし、賭けの結果は関係ないですよねえ? 樽酒は別としても、ダリアさんとの賭けは、ナシですからね』

『マジかよ! それだけは勘弁してくれよ』


 片腕をテーブルにつき、ふてぶてしく構えていたレルフが情けない抗議の声をあげた。

 しかし、そんな二人の会話を、酒場の男たちは傍観していなかった。さっきまでのリルに対する失言など忘れたかのように囃し立てる。


『そうだそうだ! こんなかわいい召使い連れてんだ! 他に手を出しちゃいけねえや』

『主に忠実な子だよなあ。その気持ちを汲んでやるのは、人として当たり前だよな』

『ほらほら、酒だけはたっくさんあるからよう。まあ飲めや、色男』


 かくして、レルフの元にヴァルムの樽が運ばれたのである。

 事の顛末を聞いたカルヴァは、柳眉を顰め深いため息をついた。


「あまり趣味のよい遊びとは思えませんね」

「そうでしょう? リルが機嫌を悪くするの、当たり前だわ」

「もうその話はいいだろ。俺、さっきまで全員に責められまくってたんだぞ。カルヴァにまで叱られたら可哀相じゃん」


 へらりと笑って、レルフは酒をぐいと呷った。喉仏が上下し、酒を嚥下していく。ふー、と息をつくが、その頬は少し赤みがさしている程度。ヴァムが誇る火酒も形無しの強さである。

 レルフは鼻歌交じりに、空になった杯に木杓子で掬った酒をなみなみと足した。

 カルヴァは飲み干せないと言ったが、この調子では空にできるのではないかと思わせる。


「ダリアさん、プラム酒ー」

「え! もう空なの?」


 呆れたようにレルフを見ていたダリアが驚いた。傷ついた少女のペースも、主に劣らずである。酒量だけで言えば、上回っているかもしれない。


「飲ませていいの? そろそろ本当に止めたほうが……」


 ダリアが戸惑ったようにレルフを見た。


「うーん。カルヴァ、こいつ酒は大丈夫なのかな?」

「多分平気でしょう。酒は飲みすぎると毒だと言いますし」


 全くのんびりしすぎた会話である。さっきのことといい、リルはどうも簡単に扱われすぎている気がする。大体、毒になるのに平気とはどういうことだろうか。


「信じらんないっ! リルは女の子なのよ? もっと大事にしてあげていいと思う」


 おかわりー、と杯を押し付けるリルをぎゅ、と抱きしめてダリアは声を荒げた。


「レルフ、あなたって酷い主人よ。お金持ちみたいだし、きっと沢山の使用人を抱えてるんでしょうけど、だからって人を軽んじちゃダメよ。一人一人に意思があること、忘れちゃいけないわ」


 豊満な胸に顔を押し付けられて、リルがもがいている。


(気持ちよさそうだな、リル)


 レルフはその様子を全く別の方向から見ていた。俺にもしてくれないか、なんて言ったらぶたれるだろうな、などと考えている。

 そんな主のあさっての方向に向いた心情を察した黒髪の従者は、代わりに申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません、ダリアさん。レルフ様は気に入った人間をからかってしまう癖があるのです。決して軽んじている訳ではないのですが、稀に行き過ぎてしまいまして」


 真摯に語る顔を、ダリアは疑い深そうにじとりと見る。さっきの会話で、彼女の信用を失ってしまったらしい。カルヴァは変わらずもがいている後輩に顔を向けた。


「確かにリルは飲みすぎのようですね。リル、君は部屋に戻って休みなさい」

「ええー、大丈夫ですようっ」


 柔らかな胸の谷間から、リルが言う。


「いや、戻りなさい」

「う……、はい」


 ぴしりとした声に、リルがしゅんとした。どうやらこの先輩従者は怖い存在であるらしい。もぞもぞとダリアから身を離し、立ち上がった。よろりと体が傾ぐのをどうにか堪える。


「えと、ダリアさん、ご迷惑かけてすみませんでした。では、先に失礼します」

「ふらついているね。ついて行こうか?」

「いえ、カルヴァさんにそんなことはっ。平気です」


 ぶんぶんと顔の前で手を振って、リルは階段へと向かった。その足取りは少し覚束ない。


「あの、ダリアさん? すみませんが後であの子の部屋へ水を持って行ってはくれませんか。さすがにあんな状態の娘の部屋に入るのは、憚られます」


 ゆっくりと階段を上る様子を見つめていたダリアに、カルヴァが言った。


「ええ、いいわ。あのままにしておくのは不安だものね」


 残された二人に顔を向けて、ダリアはにこりと笑った。


「さて。あなたは何を飲む? そこのヴァルムでいいのかしら」

「いえ、この酒はちょっと。ぶどう酒を頂けますか。できれば、マースのものを」

「あら、いい趣味してる。あそこの物は香りがいいのよね。でも、ごめんなさい、マース産にものは今ちょうど切らしてて……」

「そうですか、ではどこのものでも構いません」


 申し訳なさそうにしたダリアだったが、ぱ、と顔を輝かせた。


「そうだわ、おすすめのお酒があるわ。あなたなら喜んでくれるかも」

「おすすめですか?」

「そう、いいのがあるのよ。少し待ってて」


 リルの飲み干した酒杯を持って、ダリアはカウンターの向こうへ行った。

 その背中をにこにこと見送ったカルヴァが、笑みを崩さないまま言った。


「確認が取れました。あれは間違いなくエスタ様の首飾りだと、レイラ様が宣言なさいました」


 レルフの動きが止まった。


「捕らえた男からの話は、間違いないですね。ここに来る前に、別邸に向かって放っておいた細作ですが、ご命令通り、陽動の二組だけを残して全て撤収させました」


「ああ、それでいい。今向こうに気づかれることだけは避けたいからな」


 低い、冷え冷えとした声がそっと響いた。


「はい。それと、本宅の方にボウを回しておりましたが、」


 ぷつりと言葉を切って、カルヴァが口をつぐんだ。


「はーい、お待たせ。ヴァムの秘酒、フローラよ」


 酒杯を持ったダリアが戻ってきた。カルヴァの前に置いたそれはほんのり桃色をした液体で、今まで嗅いだことのないような芳醇な香りが鼻を擽った。


「……おや、これはまた、驚くほどいい香りですね」


 カルヴァが微かに瞳を見開いた。それを見て、ダリアがうふふ、と笑う。


「そうでしょう? この地方でしか採れないレジュムっていう果物を使って作るの。実のまま食べると毒になるんだけど、お酒にすると飲めるようになるし、なによりこのよい香りを放つってわけ。どう、レルフも……」


 レルフに話を向けようとして、ダリアは息を呑んだ。レルフから、さっきまでのおどけた様子が、微塵もなくなっていた。表情を失った顔に、冷たい光が宿った瞳が、まるで別人のようにも見える。自分がいない間に、どうしてしまったというのだろう。


「え、やだ。どうしたの、レルフ? 顔、怖いわよ」


 戸惑いがちにダリアは訊いた。


「え、そうか? そんなことないだろ。で、どんな香りだって?」


 笑顔で答えて、レルフはカルヴァの手元に鼻先を寄せた。くん、と嗅いで、大げさに顔を顰めて見せる。


「うえ、甘ったるいな。俺はこれ無理」

「あ、あら。ヴァルムをがぶ飲みできるような人には、この良さは分からないのよ」


(さっきのは見間違いだったのかしら)


 ダリアは首を傾げた。油をケチっている店内はさほど明るくないし、そんなこともあるかもしれない。


「え、えーと。さあ、飲んでみて」

「では」


 ダリアに勧められて、カルヴァは一口、口に含んだ。舌でそれを味わうように転がす。


「ああ、癖がありますね。それにこれもまた、キツい酒だ」


 飲み下して、苦笑する。ヴァルムには及ばないものの、充分に強い酒だった。


「でも、香りはいいでしょう?」

「ええ、間違いなく最上ですね。でもまた、どうして神妃の名を?」

「それがね、フローラ様と同じ香りなんですって。昔語りの婆が言うには、フローラ様はこのお酒と同じ、豊かに甘い香りがしたらしいわよ」

「酒と同じ、ですか。初耳ですが、それはまた変わっていますね」


 くすりとカルヴァが笑う。


「でしょ? そのせいで大昔に王宮から怒られたこともあるんですって。神妃の名を酒につけるなんて恐れ多い、って。だから、本来の名前はレジュム酒っていうの。この辺りの人間は今でもフローラって呼んでるんだけど」


 最後は小声で悪戯っぽく言う。それからダリアは、いけない、と言い足した。


「話をしてる場合じゃなかったわ。リルは今から様子を見に行くわね」

「悪いね。よろしく頼むよ」


 レルフが軽く頭を下げる。気にしないで、と立ち去りかけたダリアは、レルフを振り返って見た。

さっきは確かに、怖い顔をしていたと思う。しかし、そんな負の気配は微塵もない。


(私も、妙な見間違いをしたものね。疲れてるのかしら)


 ダリアの視線に気付いたレルフがひらひらと手を振って見せた。


「そうだ、ダリア。賭けのこと忘れんなよ?」


 周りを見渡して、にやりと笑った。


「あら、あれはリルがチャラにしてくれたもの」

「コドモの言うことだろ? な?」

「それなら、オトナはコドモに嘘をつくことを教えちゃいけないんじゃないかしら」

「ちぇ。上手いこと断るよなあ」


(やっぱり、完全に気のせいだったみたい)


 ぶう、と膨れた顔を見て、ダリアは少しほっとしていた。冷たい表情なんて、レルフの綺麗な顔には似合わない。

 それよりも、飲みすぎでベッドに倒れ込んでいるであろう少女の為に、早く行ってあげなくちゃ。冷たい水をたっぷりと入れた水差しを抱えて階段を上った。


「ボウは連絡が途絶えてたな。……死んだか」


 しかし、その姿を見送ったレルフが従者に向けた言葉は鋭かった。ダリアが聞いたら耳を疑っただろう。


「……はい。港の端に浮いていたのを警備隊が発見いたしました。ボウの部下が一人、どうにか帰ってきましたが、意識がなく回復の見込みは薄いです」


 報告を聞くレルフの瞳にランプの灯りが映る。ちらちらと金色に揺れるそれは、レルフの心で爆ぜる炎なのかもしれない。纏う気配だけで主の静かな怒りを察知した従者は、主が口を開くのを待った。


「ボウは何か残してなかったか?」

「これを、口の中に」


 カルヴァが置いたのは、金細工の小さなブローチのようなものだった。摘み上げてみると、それは遺髪を入れる記念細工であった。ガラスのはめ込まれたその中に、金色の髪があるのを見て、レルファンが息を呑む。

 カルヴァがすぐに言い加えた。


「裏をご覧ください」

「裏?」


 返してみれば、流れるような飾り文字で、『シュナフ』とあった。食い入るような目でそれを見つめていたレルファンだったが、くつりと引き攣るように笑った。


「何の冗談だ、これは。悼む気持ちがあったと言うのか」


 ブローチをカルヴァに押し付け、木杯を取る。ヴァルムを流し込むようにして飲んだ。強い酒だが、どれだけ飲んでも酔いはレルフの体を支配してくれない。それどころか、意識はどんどん研ぎ澄まされていくようだった。


「しかし、これで関係があるのは確認できた。あいつが間違いなく首謀者だ。明後日、別邸に侵入する。手の者たちに、明日中に調査を終えるよう指示を出せ。全て調べ上げろ」

「は。しかしこちらの人員はまだ」

「いらん。大隊が迎え打ってくる訳じゃないだろ」

「……そのように手はずを整えます」

「ああ」


 レルフが無造作に置いた木杯がカタンと倒れた。僅かに残っていた酒が小さな溜まりを作る。

静かに、けれども鋭い殺気を放つ主からカルヴァは目を逸らした。


(ご存命、だろうか。どこの空の下であっても、お命さえあれば)


 口に出せない願いを、カルヴァは酒で流し込んだ。


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