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1.神に嫁す女 

ゲラン歴418年 -秋の侯



 エスタはただ、目の前で揺らぐ蝋燭の炎を見つめていた。

 手にした経典はさっきからちっとも進んでいない。日の出までに詠唱を終えないと明日の儀式に臨めない、とあんなに言われたのに。

 

 さっきから、胸が押し潰されそうに苦しい。

 これは、私の心がまだ現実を受け入れられていないからなのだろうか、と自問する。私は神のお陰で生かされてきた。その神に、誰よりも近しい所でお仕えさせていただけるというのに。そのことをただ喜び、幸せだと感じていないといけないはずなのに。

 この数日で、自分を取り巻く環境は様変わりしてしまった。それが原因の一つかもしれない。

軽口を交わした友が、師となり手本になってくれた姉巫女が、自分に膝を折った。声をかければ平伏し、視線を合わせてみれば恐れ多いと目を逸らす。それはまるで、自分ではなく、誰か別の人間を相手にしているのではないかと思えるくらいだった。

そんな態度の変化をすんなり受け入れられるほど、彼女たちと過ごした時間は短くない。


 しかし正しいのは彼女たちであって、感情に支配される自分が悪いのだ、とも思う。私はもう、私であってはいけないのだ。自我など捨て去った存在にならなければいけない。あれ以来、誰も私を見ていない。私の向こうにいる神の存在、私に与えられた位、それだけを見つめているのだから。

 今、私が神に祈らず、些細な人間じみた感情だけに満たされていることなど、誰が知っているだろう。

くすりと小さく笑ったエスタが、体に緊張を走らせた。ひたひたと足音が聞こえた気がした。

 じっと耳を凝らしてみる。足音は一つ。ゆっくりとこちらへ近づいているようである。

 この部屋は油差し以外、誰も入ってこられない。大巫女であるサヴァン様であっても、この部屋には入ることは許されないと教えられた。油差しの付き巫女は、つい先刻油を足しに来たばかりで、次に来るのは一刻ほど後のはず。

 もしかしたら? いや、あの人のはずがない。

 ふ、と頭をよぎった名前を忘れるようにぶるりと頭を振って、エスタは再び奉納歌の経典を広げた。そろそろ進めないと、本当に間に合わなくなってしまう。ありもしない足音が聞こえるなんて、私の心の弱さの現われなのだろう。

 どこまで終わったんだっけ、と文字を追っていると、ガタリと音がした。


「頑張ってるか、エスタ?」


 重い鉄扉の、微かに開いた隙間からするりと入ってきたのは、エスタが先程脳裏に浮かべた人物だった。びっくりして固まってしまった彼女の近くまで近寄ってきて、顔を覗き込む。燭台の灯りに照らされたその表情は悪戯っぽく笑っていた。


「どうした? 悪魔でも見たような顔してる」


 耳触りのいい、低い声。悪魔がこんな優しい声を出せるはずがない。

 エスタは思わず周りを見渡した。祈りの間は祭壇しかない、狭い空間である。出入口はこの男が入ってきた扉一つきりだし、他に誰もいないことは彼女が一番よく知っている。だけど。


「ど、どうしてここにいるの?」


 叫びたい衝動を抑えながら、エスタは小声で問うた。もしかしたら、とちらりと思ったりもしたけれど、まさか。こんな所にふらりと現れていいはずがない。


「誰かに見つかったらどうするの! じゅ、重罪よ?」

「見つかってないし。ここまで来たらもう平気だろ」


 けろりと答えて、侵入してきた男はエスタの手から経典を取り上げた。


「うへ、一番長い八巻じゃん。朝までに終わるのか?」

「そんなことはいいから! 見つからないうちに戻って」

「会いに来たのに、そんなに追いたてんなよ」


 大切な経典を無造作に放り投げ、男は心配そうに顔を歪めたエスタを見た。

 宝石のような瞳が真っ直ぐに自分を映している。その光の中に変わらないものを感じて、エスタは息を飲んだ。

 皆が態度を変えたのに、この人はいつものままだ。


「わ、私が怖くないの……?」


 誰しもが頭を垂れるのは、神に通じる畏敬からだけではない、とエスタは分かっていた。人ではない力を示した自分を、ただ恐れているのだ。


「怖い? エスタの何が怖いんだよ」


 きょとんとした顔で男は言い、それから思いついたように続けた。


「ああ、今悲鳴を上げられるのは困るから、そういう意味じゃ怖いかもな。さすがにやばいだろうし」

「そんなことじゃなくてっ。その……気持ち悪くは、ない?」


 躊躇いがちに訊いた。それは、エスタ本人ですら感じていたことだった。これが神の御力だというのなら、人間の身に宿してはいけないと思う。


「気持ち悪いって、エスタがか?」

「だって、気持ち悪いでしょう? 普通じゃ考えられないもの」


 男は小さく首を傾げた。


「俺は別に、そう思わない」


 はっきりとした声音には、偽りはないように感じられた。信じられない、といったように自分を見つめるエスタに、男は笑ってみせた。


「ちょっと体が丈夫なだけだろ。お前、そんな体に産んでくれた両親に感謝しとけ」

「両親に感謝って……」


 男の言葉をオウム返しに呟いて、次にエスタは小さく笑った。

 神ではなく、親のお陰だというのか。そんな言い方をされてしまえば、今まで悩んでいたことが愚かしく感じてしまう。

 エスタの様子に男は首を傾げる。


「人より回復力が高いだけだ。そうだろ?」

「え……? あ、ああそう。そうね、うん」


 心に小さな重石が落ちた。男は、エスタの力のことを詳しく知らないのだ。

神殿の最奥で行われる試練の議は、限られた者しか立ち会えない。そしてその内容は外部には漏らされない。いくらこの男でも、深く知ることはできなかったのだろう。

 そうだ、知っていれば、私にこんな風に会いに来るはずがないのに。勘違いした自分が愚かしくて、悲しい笑みが自然と浮かんだ。けれど、そうやって軽口にできる程度の認識でよかったのだ、と思う。この顔が嫌悪に染まるところなんて見たくはない。

 不思議そうな様子の男に、エスタは呟くように「ありがとう」と言った。私のことを知らないでいてくれて、ありがとう。

 男は何か言いかけたが、思い直したように口をつぐんだ。ぐるりと部屋を見渡す。


「しかし辛気臭い所だな。もっと金をかけてるのかと思ってた」

「フローラ様が祈りの為に使われた部屋らしいけど、実用的よね。でも、豪華な本殿よりも落ち着くわ」

「あっちはチカチカして目が疲れるもんな。あんなに派手に飾りたてないといけないのか。ああ、そういや」


 ふ、と思い出したように言って、男は皮肉めいた笑みを浮かべた。


「ここに来る途中、すげえ派手な衣装を見たぜ。あれ、多分お前の衣装だろうな。あの本殿にも見劣りしねーよ」

「うそ、そんなに?」

「ああ、明日見たらきっとびっくりするぞ。神殿の、いや国の威信をかけてるからな。下手なモン着せられないんだろ」


 エスタの緊張を仰ぐようなことをさらりと言う。眉間にシワを寄せてエスタは答えた。


「そんなの、私なんかにいらないのに」

「まあ、好きにさせてやれよ。エスタも綺麗なドレスが着られるんだから、喜んでたらいいんじゃないか?」


 巫女の服って結構地味だもんな、と続けた。

 位の高い巫女であれば、金銀の糸をふんだんに使い、宝石を散りばめたような煌びやかな衣を身につけられる。しかし下位になるにつれ、その質は落ちていくのだ。雑務に追われる下級巫女などは、質素な麻衣しか着用を許されていない。


「綺麗な衣なんて……必要ないのに」

「めったに着られるもんじゃねーし、いいだろ。それに目立ったほうが、俺が見やすいから助かる。明日、神殿の端でお前のこと見るつもりだけど、絶対混むからな」


 エスタは目を微かに見開いた。「来るの?」と問えば、男は当たり前だと頷いた。


「さすがに、明日からはもう会えないからな。見納めだ。こうして話ができるのは、今日が最後だろう」


 声が一瞬低くなり、赤い炎を映す瞳が揺らめいた。

 エスタは再び胸が苦しくなるのを感じた。『最後』。分かっているはずだったのに、目を逸らし続けていたことが突きつけられた。

 明日からは、こうして会うことはない。いや、遠くからその姿を見ることすら叶わない。もう、二度と。


「人妻に夜這いはできないからな」


 冗談めかして笑って、男はエスタの髪に手を伸ばした。緩くウエーブがかった柔らかな金髪に指を絡め、梳く。

 顎のラインでばっさりと切られた髪は、さらりと音をたてて指からすり抜けていった。


「しかも神サマの女じゃ、尚更だ」

「……巫女だって神サマの持ち物なのよ。それは構わなかったって言うの?」


 皮肉を滲ませて言えば、男は小さく肩を竦めた。


「沢山いる中の一人なら、許してくれるだろうと思ってたからな」


 言って、唇を一度引き結んだ。


「なのに、あいつも俺と同じ女を選ばなくってもいいだろうに」


 軽口めいた言葉に、エスタの胸がトクンと鳴った。その鼓動を隠すかのように男の肩を叩いてみせた。


「やだ、それって私を奥方に、って言ってるのよ? 分かってる?」

「わかってるさ。エスタ。お前が欲しかったんだ、俺は」


 エスタの目に、涙が滲んだ。

 その言葉は、初めて聞く彼の気持ちだった。戯れにやって来て、心をかき乱していくこの人の本心が知りたいと思った日があった。禁域に踏み込んで、花を手折ることをただ楽しんでいるのかと恨んだ夜もあった。

 紛れもない本心を、今やっと聞かせてくれた――。


「何よ。今更そんな事言って、からかうの止めてよ」


 気付かれないように目尻を拭って、エスタは笑ってみせた。泣き顔なんて見られたくない。みっともなく歪めた顔なんて、最後に見せるものじゃない。

 涙を拭いた手をそのまま口元にあてて、くすくすと忍び笑う。その手首を男が掴んだ。


「エスタ、逃げようか」


 込められた力は強く、声音に躊躇いは無かった。


「俺と、一緒に行こう。この国を離れてしまえばいい」

「そん、な……」


 頭の中が真っ白になる。嘘? 本当?

 いや、嘘でないことくらい、男の目を見れば分かる。この人は本当に、私に逃げようと言ってくれている。

 もし一緒に行けば、私はずっと、この人といられる? とエスタは思う。ここから逃げて、この国からも出て。誰も知らないところで、二人で。

 顔を合わせて、笑いあって。日が昇るのも、沈むのも、共に見つめていける。寄り添って眠りにつける。それは途方もなく、幸せな日々。それはいつだったかエスタが見た、幸福すぎて悲しくなった夢だった。


(それが今、叶うかもしれないというの?)


 思わず頷きかけたエスタの首元で、しゃらりと音がした。は、として触れる。そこには慣れない首飾りがあった。それはこの祈りの間に入る前に、サヴァンが自らかけてくれたもの。

 記憶を失った、孤児だった自分を助けて下さり、可愛がってくれた。母とも思い、心から尊敬していた師がいつもその首元を飾っていた飾りを、自分なんかの為に作り直してくれた大切なものだ。

 神託が下った時、姉巫女たちよりも、誰よりも喜んでくれたサヴァンの顔が浮かぶ。これほどの力を発露させた巫女はこれまでに存在しなかった、と涙さえ流して、エスタを祝福してくれた。

 自分が逃げ出したと聞けば、どれだけ嘆くだろう。お年を召されたサヴァン様は床に伏せることが多くなった。それなのに、私が多大な心労を与えてしまうの?

 それに、ずっと寝食を共にしてきた仲間たち。彼女たちは今は自分を恐れているけれど、過ごしてきた楽しかった日々は偽りではない。『エスタ』という一人の巫女を愛してくれていた。

 ぎゅ、と無意識に首飾りを握りしめていた。

 行けるはずがない。私は、私を好いてくれて、大切にしてくれた人を悲しませるなんてできない。全てを捨てて行くことなど出来ないくらい、私は周りに愛されてきた。


「できない、よ……、そんなこと」


 搾り出すようにして、エスタは言った。


「できるわけ、ない……」


 果たして、掴んでいた手が、ゆっくりと解かれた。ふー、と深いため息をついた後、男が口を開いた。


「そうだな。悪かった」


 ほんの少し前までエスタをじっと見つめていた瞳を、ついと逸らす。


「お尋ね者になるだろうしな。うん、エスタが正しい」

「そう、よ。それに、私なんかの為に、人生を無駄にしないで」


 男は本来ならば、エスタのような巫女風情では口もきけない身分だ。それに、才に溢れ人望もあると聞く。大きな屋敷に住み、豪奢な生活ができて、望めばどんなに綺麗なお姫様だって奥方にできる。そんな人に、国を追われ、先の見えない生活なんてさせることはできない。この人こそ、全てを捨てて逃げるなんてことはしてはいけないのだ。

 それに、こんな自分が側にいても、迷惑になるだけではないか。

 男が口にするまで、そんなことにも思い至らなかった自分を情けなく思う。


「……なーんて言って、お前、神サマのほうが俺よりいい男だとでも思ってんだろ」


 しばしの沈黙の後。くすりと笑った顔は、いつもの皮肉めいた表情だった。


「完璧な男って、つまんねーらしいぞ? 後悔しても、遅いからな」

「あ、あら、世界最高の男よ、きっと。何といっても、大神様なのよ?」


 彼が軽口で終わらせるのであれば、自分もそうしよう。エスタはつんと顎を上げて言った。


「それに、私を見初めたなんて、見る目がある証拠だもの。大丈夫よ」

「だといいけどな。まあ頑張るこった」


 やれやれ、と男は放った経典を拾いあげた。エスタにそれを差し出す。


「ほら。これ、続きやらなきゃ間に合わねーだろ」

「あ……うん」

「邪魔できないし、もう行く」


 受け取るのを躊躇っているエスタの手に、男は経典を押し付けた。


「じゃあ、な。エスタ」

「……う、ん」


 幼い頃から大切にするように教え込まれた経典。自分の全てだと思っていたもの。それが今、重い。

 使い込まれたそれをぼんやりと眺めていると、ふいに抱きすくめられた。

 逞しい腕が、強く体をかき抱く。


「く、苦し……」

「もしもだ!」


 エスタの肩に顔を埋めた男が言った。


「もしも……離縁されたら言え! 俺が、もらってやる」


 背中に回された腕も、押し付けられた体も、熱い。

 その熱に、涙が誘われそうになるのをエスタはぐっと堪えた。今はまだ、泣けない。


「ふふ。神に離縁された女、なんて縁起でもないこと言わないでよ……。どれだけの悪妻なのか、って笑われちゃうじゃない」


 どうにか笑った声は、震えていた。


「心配しないで。私、これでも優秀だったの。神だろうが何だろうが、満足させてみせるから」

「……そ、っか」

「私、この国の為に祈るわ。毎日、ずっと。あなたのいるこの国が憂うことのないように。あなたがずっと、幸せであるように。

 ねえ、神妃が一人の男の為に祈るのって、不貞行為になるのかしら?」

「どうかな。フローラの例もあるしな。ペリウスも、それくらいは許してくれるんじゃないか?」


 くす、と男が笑う。

 燭台の柔らかな灯りが照らし出す空間。二人は抱き合ったまま、小さく笑いを交わした。そして男は腕を緩めて、自分の胸元に納まった女を見下ろす。視線が交わる。

 二人は引き寄せられるように、唇を重ねた。それは、ほんの一瞬、そっと触れるだけの口づけだった。


「……じゃあ、行く」

「うん」

「元気で」

「そっちも」


 短く言葉を交わして、二人は体を離した。男はエスタの頭を一度撫でてから、来た時と同じように静かに部屋を出て行った。

 音もなく閉ざされた扉に、エスタは思わず駆け寄った。扉を開けて、追い縋りたい衝動を堪える。


「やだ……よ……。お別れなんて、やだ……」


 想いが堰を切って溢れ出す。涙が止めどなく頬を伝った。

 胸は今にも押し潰されてしまいそうだった。

 胸の痛みの原因は、ただ一つだったのかもしれない。

 あの人の存在。

 嫌われたくない、離れたくない。そばにいたい。あの人だけが、私の心残りなのだ。

 気付かずにいようとしていた思いに、エスタは泣くことしかできなかった。

 一緒に行くと言えば、どんな未来が待っていただろう。幸せになれただろうか。手放した未来が、もう心を責める。


「やだ……。こんなに、こんなに好き、なのに……っ」


 開けることを許されない扉。それに体を預け、エスタは声を殺して泣いた。

 この向こうに、愛する男が立ち去ることもできず、立ちつくしていることも知らず。

 二人はいつまでも、動けずにいた。



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