いちばんはじめのおくりもの
大丈夫だよ、泣かないで。そばにいるから。
ねえ、名前を教えてくれる?
あのね、あたしはね・・・。
『ちょっと“金の界”に帰ってくるわ』
ちょっとそこまで、みたいな感じでリルフィが言うものだから、クッキーを口に頬張ったままスティールは、ふえ?と間抜けな声を上げた。
日差しが穏やかな昼下がり。両親とも用事で出掛けている。テラスでお茶と洒落込みましょう!と二人だけの(見た目は一人と一羽)お茶会を楽しんでいた時の、リルフィの唐突な発言だった。
うっくん、と口の中の物を紅茶で流し込んで、彼女はリルフィに尋ねた。
「・・・なんか用事でもあるの?」
今までリルフィが、いなくなったことなんてない。そりゃついこの間まではリルフィは普通の鳥だと思っていたし、“金の界”だの“銀の界”だの、初めて聞かされた時はまるでおとぎ話のようだと思った。今ではそのおとぎ話の中にも生きてる人たちがいて、そこに彼女の大事な・・・長い事傍にいた彼が住んでいる事も知っているけれど。今は。
どこか不安そうな顔になっていたのだろう。 リルフィは金色の羽を振った。
『いやあね、何よその顔は。こちらに来てからほとんど帰ってないし、この前の事で“金の君”にも色々お話しすることもあるから。だから一度帰ろうと思ってね』
「そう、なんだ。あれ、じゃあジルファさんも今は“金の界”にいるのかなあ?」
スティールとしては、単なる疑問だった。けれど、リルフィは全身とげとげ状態で、聞くも嫌!とばかりに叫んだ。
『不吉なことを言わないでえっ』
・・・なにそれ。それはあんまり、ジルファさんが可哀想なんじゃ?
その目に気付いてかリルフィがまたも叫ぶ。
『あっ、酷いあいつに同情とかしてる?付き合いの長いわたしよりあいつの味方するの?』
「・・・いや、味方とかじゃなくて・・・」
『ことこの件に関しては、何故だか皆わたしの敵だわ!なんでなのようっ』
「・・・あの、リル?」
もしもし?あたしの話ちゃんと聞いてる?・・・聞いてないな。
リルフィは金の羽で頭を覆ったかと思うと、きっ、と顔を上げて高らかに宣言した。
『ええ、敵が多くても、負けるわけにはいかないのよ・・・それじゃあ行ってくるわね!』
ばさりと大きく羽を広げて、リルフィは空に飛び立つ。そうして空気に溶けるように姿を消した。
「ああああっ・・・ちょっと、一人で盛り上がってないで説明してよう・・・って行っちゃった」
残されたスティールはふうとため息をついて椅子に凭れた。少し冷めたお茶を一口飲んで。 ふと、首を傾げた。
「リルとジルファさんて、一体どういう関係なのかなあ?」
それあたし、まだ聞いてないから聞きたかったのになと。呟いて顔をしかめた。
「もし何日も帰らないんだったら、リルがいないの、どうやって誤魔化そう・・・」 あと少しで両親が帰ってくる時間だった。
“狭間の界”から“金の界”へ抜けるのは、瞬き一つの間のこと。その間にリルフィは姿を変える。大きな金の鳥から、人の形へと。体を覆う金の毛は、肩先まで柔らかく波打つ金の髪へ。瞳の色はそのままに。大人になりきらない、少女のような面立ちと体つきだった。
「ふう、この姿になるのも久しぶりね」
あちらではずっと鳥の姿だったし、と独り言を言いながらとん、と地面に降り立つ。その場所は界と界を結ぶ一つの結節点だった。そのうちで一番金の君がいる宮に近いところ。
あらかじめルートを作っておかないとね。
もう随分と前の事。金の君は、なぜわざわざ外界と結ぶ道を作ったのかと問うた自分に笑って答えた。
いつか必要かもしれないじゃない。
この世界には、他の二つの界が存在している。それを知っていても、一体誰が他の界へ行こうなどと思うだろうか?
その疑問を読み取れない金の君ではなかったろうが、ただ、笑うばかりで。
結果としては、この道があって良かったけれど。
普通に界渡りをしようと思えば、かなりの力を使う。
「あれって結構疲れるのよねえ・・・」
よくシャールってば、一人でやってのけたもんだわ。今更ながら感心もして。草の茂る緑の野原。そこからのびる白い道を歩き出した。さんさんと降り注ぐ光を気持ちよさそうに浴びて。
鼻唄まじりに。彼女は、久しぶりに見る金の界の風景を楽しんでいた。
さあどうしたものだと、見下ろした小さな生き物を見て心底困った。
一つはくうくうと寝息をたてている。けれど一つは、眠っている片方に抱き込まれたまま、目をぱっちりと開けていた。一人だけ眠りの中に行きそびれたみたいに。それでもはぐれないようにと、片方の体にぎゅっとしがみついて。大きな目で見上げてくる。
手を伸ばせば顔を強ばらせて片方を引きずって後ろにさがる。怖がらせる気はないし本意でもないが、なかなか新鮮な気分でもあった。
こうまで真正面から視線を向けられたことがないから。
近寄ろうとすれば逃げられる。それを何度か繰り返した。楽しい、と思ってしまって、それは駄目だなと思い直す。相手はまだ生まれていくらも経ってないような生き物で、自分がやっているのは、苛めているみたいなものじゃなかろうか。
はたと気付いてもう一度手を差し伸べても、警戒しきった生き物はその手を取ろうとしない。地面に座り込んだまま睨みつけてくる。どうしたものか、すっかり嫌われたな。無理やりにでも連れて帰るか。ふむ、と足を踏み出せば、どこにそんな力があったのか、自分と同じくらいの大きさの生き物をしがみつかせたまま走り出そうとするから。いくらも行かないうちに地面に転げたけれど。
さてどうしたものか。ますます困ってしまった。
「御方様!ただいま戻りました!」
金の君のおわすは湖の中の島にある宮。静謐な空気が幾重にも取り巻く。白い石造りの優美、というよりは簡素な印象の宮である。そっけなく見えないのは色とりどりの花が溢れているからだ。中庭や回廊の隅に。切花は殆どない。土についた花がほとんど。取次いでくれた者に挨拶をした。
「あらリルフィ。久しぶりね。“狭間の界”での暮らしはどう?」
「楽しいわよ。あちらの界も結構面白くて」
「へえそうなの。また話聞かせてよ」
いいわよと答えて、リルフィは金の君がいる場所へと歩く。こつこつと足音が石造りの廊下に響いた。
「また、ね、ねえ。今まで一度も聞いたことないけど、ねえ」
まあ、他の界のことになんて、興味を持つ者はあまりいないけれどと。
彼女が“狭間の界”で暮らしている事は、金の君にちかい者の間では知られている。それゆえ、変わり者のレッテルを貼られてもいる。
金の君から“血の珠”を授かり、この界ではある意味特権的な立場にあるといえる。それを顧みず他の界に行くなど、それも長期に渡り、期限も定めずなど、とても考えられなかった。大抵の者は。だがその“大抵”に彼女は入っていなかったのだ。
「あちらの世界で、あの子のそばにいるほうが、よほど楽しいわよ」
この界でいるよりも、あちらの界でのほうが、楽に呼吸できる気がする。それは界のせいか、あの子のそばだからか。きっと両方?この界をリルフィは嫌いではないけれど、住む者とはどうもそりがあわなかった。
「わたしが“銀の界”に行っていた、ってこと、誰も知らないみたいね。よかったよかった」
面倒はごめんだもの。こっちの気分が磨り減るばかりの面倒なんてたくさん。ちろりと舌を出して。笑う顔はどこかさばさばしていた。もうとうに見切りをつけていることなので、感情は動かない。
それよりも、と心を切り替える。これからあの人に会えるんだもの。つまらない気分でなんかいられないわと。
向かった先は美しい石が敷き詰められた中庭のような場所。中央には清水の湧き出る泉。少し離れた場所に、いっそ素っ気無いほど簡素なカウチは、緑の葉を茂らせた大きな樹の下に。
その反対側にはベンチとテーブルがあって、長い金の髪を背に流した、優美な姿の人がいた。
「御方様!お久しぶりです!」
声をあげて駆け寄ろうとして。ぴたり、と足を止めた。
お帰りなさい、リルフィと笑う金の君の向かいには。
「・・・なんであんたがいるのよっ?」
「そんなにあからさまに嫌そうな顔しなくても。はは、でもそういう顔もかわいいねえ」
「・・・やめなさい、そんなこと聞きたくないわよ。で?」
立ち上がり両手を広げて近づくジルファに、毛を逆立てる猫みたいな様子で答えるリルフィ。
で、わたしの質問に答えなさいと目で促した。ジルファはひょいと肩をすくめた。
「“銀の界”での事の報告だよ。ちょうど君に会えて幸いだ」
「丁度?」
うさんくさげに彼の顔を見上げる。彼はにこやかな笑顔を崩さない。くすり、と笑い声があがる。それは彼らのものではなくて。この場にいるもっとも高貴な人のもので。
「ああっ、御方様、失礼しました。とんだお騒がせをっ」
「いいのよ。あのね、ジルファの言っていることは嘘よ。この人ってば私に訊いたんだから。あなたがいつこの界に帰ってくるかって、ね」
そうでしょジルファ?ふふふ、と金の君はいたすらっぽく笑う。
「ばらさないで欲しいなあ。ほら、彼女が怒っている」
「あら。面白いじゃないその方が」
「ははは、そうですか。で、私が困ればもっと面白いと、こういうワケですねええ?」
「そうよ、悪い?」 「ははは、平たく言っていいですか?」
「どうぞ?」
「“馬に蹴られてしまえ”って言葉、御方様には献上したく」
「ふふふ、言うじゃない。謹んで」
「おや、受け取って下さると?」
つん、と金の君は横をむいて、言った。
「受け取り拒否させてもらうわ」
「ははは、そうですか」
「うふふ、もちろんじゃない」
・・・目の前で非常に和やかに交わされる会話。見た目は優雅で非常によろしいかもしれないが、はたで訊いている身からするとたまったもんじゃなかった。
だいたい、会話の主体というか中心が自分だということで余計いたたまれない。
そうだ、御方様ってこういう人だったと、遠くに離れている間にすっかり忘れていた事を思い出した。面白がりで、少しはた迷惑で。なぜかジルファとのことを後押ししているふうだったっけ。
その理由を聞いたら笑って一言。至極あっさりと。「面白いからよ」それで全部片付けないで欲しいと思うのは自分ばかりじゃないはずだ。きっと、そう、チェスミーあたりなら同意してくれること請け合いだろう。金の君の傍に仕えて長い彼女ならば。
彼女にも挨拶にいかないとねと、リルフィは考えていた。社交辞令でなく、彼女はリルフィの違う界でのことを面白がって聞いてくれる相手だった。目の前の事は意識して頭から追い出していた。どうせ自分が反応しなければ「面白くない~」とか言ってやめるだろうと。 が。その考えは甘かったらしい。
「で、リルフィどうだったの、“銀の界”は」
くるりと振り向いた金の君が言うのに、リルフィは答えた。
「はい、あの折は大変助かりました。おかげでスティールも無事で・・・」
「そうじゃないわよ」
「は?」
ちっちっ、と金の君は指を振る。
「“銀の界”のことはこちらで見ていたわ。だから報告は不要だって。私が訊いてるのは、ジルファとどこまでいったのかなあ?てことよ」
「・・・・・」
長い沈黙がおりた。さやさやと風が梢を揺らす音が耳についた。
いち、に、さんとジルファが数を数えて、それが五十を越えたころ、金の君は駄目押しのように言った。
「ね、リルフィ?」とてもとても、にこやかに。何もウラはありませんてな笑顔で。
「・・・・どこにも行きようなどありません」 とても平坦な声だった。
あ、怒っているなあとジルファは思った。それがわかってからかう金の君もいい性格してるよほんとと、彼が思っていることなど、彼女には知りようもなく。
「お話がそれだけなら、わたしは“狭間の界”に戻ります」
それでは、と最低限の礼儀を金の君には保ち、ジルファにはそっけない挨拶をして、その場を立ち去ろうとしたリルフィの背に。金の君の鈴を転がすような声が掛けられた。
「チェスミーにも会ってらっしゃい。あなたのことを心配していたのだから。あなたの元気そうな顔を見られてよかったわ」
その声音はさっきまでリルフィをからかっていた金の君のものとは違っていた。この界の統治者たる“君”の声。厳しさと慈愛を併せ持つ。 優しく微笑むその人に、リルフィも心から辞去の挨拶を。
「金の君もお変わりなく。それでは」
リルフィは今度こそ彼らに背を向け、振り返ることなく歩き去った。
「お変わりなく、ねえ・・・」
ふふ、と金の君は苦笑めいた声をもらす。
「なに、不満そうだね」
「いいええ、そうじゃないわ。確かに変化は困るものもいるでしょうね」
頬杖をついて遠くを見る目をする。そして、見て、とジルファを促す。水鏡に指先を浸す。そこに映るものは、長い平和を享受してきたこの界に住む者たち。この暮らしがずっと続く事を疑いもなく信じている。
「それは君が・・・・この界をよりよく治めた結果だろう?」
「ほんとにそう思っているの、あなたは」
私に嘘は吐かないでよ。ジルファはゆるく首を振った。
「ほんと言うとわからないよ。この界の者は君の存在に馴れきっている。空気みたいに、いつでもいつまでも在るものだと思っている。そのくせ、異質なものは拒絶する」
「リルフィみたいにね・・・今でもわからないのよ。彼女がどこの世界から来たのか。クリードにも前調べてもらったんだけど、分からずじまい。帰せるものなら、まだ物心つかないうちに帰してあげたほうがよかったんでしょうけど」
拒絶される理由もわからず、一人でいる姿をよく見かけた。
「本当に君にそれができた?本当にそれを望んでいたかい?」
「・・・いやな人ね。ええそう、望んでなどいなかった。わかっているわ。その時は私たちは一人だったのだから。記憶も感情もここにあるわ」
小さな生き物は自分の目を恐れず睨んでいた。まっすぐに。この界のものには、そんな目を向けるものなど、いなかったから。いっそ新鮮だったのだ。
「真の意味で私をいさめる者など、いやしない。長い年月の間では、それはとても危険なことだわ」
だから手元に置きたがった。帰す世界がわからないと知って喜んだ。その意味を・・・・のちになって受け入れた。世界を治める君としての自分、そして彼女に恋する自分とに分けることで。
もとは同じであった二人は互いに苦笑して見交わす。なんと変わったことだろう、と。
「“狭間の界”も“銀の界”も変わったわ・・・この界ばかりが変わらないという保障はどこにもない・・・いえ、変わらないでいること自体、ある意味では価値があるのかもしれないけれど」
先の事は私にもわからないわ。
「役目に倦んでいるのかな?私の半身・・・かつては同じ者であった君よ」
「いいえ」
すぐさま金の君は答えた。瞳の中には強い光が踊っている。きらめく瞳でジルファを見据えた。口元には笑みさえ浮かべ。
「いいえ。これは“私”が・・・“私たち”が決めたことでしょう?後悔などするものですか」
「これは失礼。余計な差し出口、お許しあれ」
ジルファは笑い、金の君に軽く頭を下げたのだった。
リルフィはチェスミーの部屋に泊まらせてもらうことにした。こちらには彼女の家はないし、家がない以上部屋も当然ない。金の君は宮の中の彼女の部屋を残しておいてくれると言ったのだが、いつ帰るかわからない自分のために、それはあまりにも申し訳なくて断ったのだ。もともとその部屋にもたいした年数暮らしたわけではない。場所には執着のないリルフィだった。
チェスミーの部屋は宮の中にあり、それは金の君の側近たるにふさわしい広さと装飾の部屋だった。客用の寝室なんてものもちゃんとあった。が。
「こう広くても、使わないからね。掃除もしないわよ」
無駄に広いのよとこれはチェスミーの言。とてもじゃないが、他の人達には聞かせられないわねとリルフィは考えた。チェスミーを羨む立場の人間には。
羨ましがるくらいなら、私の苦労を少しでも感じてみればいいんだわとチェスミーは言う事だろう。金の君はもちろん尊敬しているし素晴らしい方だと、それは少しも疑いなく思っているが、いかんせんその行動にはしばしば頭を痛めているのだった。
ぽふぽふと枕を叩いてソファの上に置き、チェスミーは言った。
「ほんとにソファでいいの?少し待ってくれれば客用寝室掃除するけど」
久しぶりリルフィ、何今日帰って来たの!え?いいわよもちろん、泊まって行って!ああでも掃除してないのよ客用寝室!前もって言ってくれてたらきちんと掃除して準備万端でおでむかえしたのに! ・・・これがリルフィの顔を見てチェスミーがまず言ったこと。
リルフィは、チェスミー少しも変わってないやと思いながら、準備万端でお出迎えってなに?とよせばいいのについ聞いていた。チェスミーは当然、とばかりに答えた。
「そりゃあなたの結婚の準備に決まっているでしょうが」
「・・・はい?」
今、何言いまして?きょとんと目を見開いた彼女の背を、どーんとチェスミーは叩いた。
「なに呆けてんの!ジルファと結婚するんじゃないの?だから戻ってきたんでしょ?」
「・・・・・・・」
「リルフィ?」
頭痛を堪えるように額を抑えたリルフィの顔をチェスミーは覗き込んだ。ようやくリルフィが口を開いたときには、それはそれはとても疲れた声になっていたものだ。
「誰から聞いたの、それ」
脳裏には優雅に微笑む人の姿があったが、念のため。
答えは予想通りで、涙が出そうだった。
「御方様からよ。あなたが今度帰ってくることがあれば、それは結婚のためだからね、って」
違うの?と首を傾げる彼女に罪はない・・・多分。
何度も何度も金の君の言葉を真に受けて、それを自分に披露して驚かせてくれていても・・・多分。
重いため息をついて、リルフィはチェスミーの肩に手を置き、重々しく言った。
「それは御方様のでまかせよ。あなた、また、ひっかかったのね・・・」
ぽかん、とチェスミーは目と口を開いて。それから頭を抱えたのだ。
「ああっ、私ったらまたひっかかったのねえええ!」
そんなこんなで大騒ぎをしたのだ。
疲労が増した気がしたリルフィだった。
そのあと落ち着いたチェスミーと色んな話をして、食事をして。話題は主に“狭間の界”での生活と、ついこの間の銀の界での出来事だった。チェスミーは金の君の側近であるから、リルフィが銀の界の変化の場に居合わせたことを知っていたのだ。
「あなたも大変な場に居合わせたもんだわね」
「ええ。もうあんな大変な思いはごめんだわ」
それは彼女の大事な少女のことだとわかっているチェスミーはそうねと答えた。
「なんにせよ、あなたもその子も戻ってこられてよかったわね」
よかったと、それだけを。うん、とリルフィは頷いたのだ。
「いいわよ、もう遅いし、寝られればそれで十分。それに明日には帰るし」
あなた、明日も仕事でしょう?早く寝ないと体、もたないわよ。苦笑交じりに言われては、チェスミーもそれ以上は言わなかった。
「今度からは、もう少し真面目に掃除しとくわ・・・」
「そうしてくれると有難いわ、な~んて、ね」
ふふふ、と互いに笑って、じゃあお休みなさいと言った。ソファに寝転がり毛布を引き上げたリルフィに、チェスミーは言った。
「でも、ジルファとのことはどうする気なの、本当のところ」
にやにや言われた言葉。面白がって、のことが明白な表情の彼女は、なるほど長年金の君に仕えていたおかげで、いらぬ悪癖までうつったとみえた。リルフィはばさりと毛布を顔まで引き上げた。
「どうする気もないわよ。わたしははっきり“お断り”してんの!」
それなのに、なんで懲りないのか、わかんない男だわ。ぶつぶつ言うリルフィに、チェスミーの呆れた声が降ってきた。
「わかんないの、ねえ・・・まあいいわ。お休みなさい」
首を傾げつつも、リルフィはすぐ眠ってしまった。
「この度は、誠にありがとうございました」
水鏡に映る男・・・クリードは、深々と金の君に頭を下げていた。スティールとリルフィを“狭間の界”に戻してすぐに、彼から連絡があったのだ。金の君は緩く首を振った。
「私に出来たのはほんの些細なことだけ。礼を言うには及ばないわ。あの子がそちらに戻って来られたのは、あの子自身に負うところが大きいのだから」
それでも、と顔を上げてクリードは言った。
「そうだとしても、その些細な助けもなければ、娘は戻っては来られなかったでしょう・・・感謝、しています」
あらそう、勝手になさいなと金の君はそっけなく肩を竦める。どこか斜に構えた仕草をしても、金の君の優雅さが損なわれる事はない。
今では“金の界”にしか存在しない、“君”。ただ一人の。
この隣あう二つの世界の変化さえ、この方には影響を及ぼさないのか。
次元管理官のクリードにはわからない。
彼に出来る事はただ次元の綻びがないか調査し、見つければ修復することだった。
そしてその命は、この3つの世界とは近接している他の世界からのものだった。近接しているがため、時折3つの世界に落ち込む者がいた。これを重く見た政府機関が次元管理官を置き、事態に当たらせていた。
ただし、これはクリードがもともと属していた世界の、いわば勝手な取り決め。“狭間の界”ではとうに他界の者を察知できる人材など存在せず、“銀の界”ではそれどころではない状態だった。
そして“金の界”は。
初めて会った“次元管理官”を前に、“金の界”を治める金の君は悠然と言い放ったのだった。
『この界に害なすものでない限り、排除するには当たらない。が、わざわざ対話する理由もないな』こういう事情でもなければねと付け加えた上で、さらに言った。
『というのは建前で、私個人的には他界とやらの話を聞きたいとは思っていたんだ。この機会に感謝するよ』
超然とした雰囲気で話していたかと思えば、次の瞬間には途端にくだけた物言いをした相手に、どういう態度をとればいいか困惑した事を、短くはない年数がたった今でもクリードははっきり覚えている。そして、彼を金の君が呼んだ理由を聞かされてさらに驚いた。
『この子を、この子の元いた世界に戻して欲しい』
“金の界”、“銀の界”、さらに“狭間の界”でもないことはわかっている。ならば、そなたらの世界ではないかと思うのだが、と。一言言い置いてクリードの前から姿を消した金の君は、その腕に小さな子どもを抱いていた。その子どもは。
『スティール・・・・?いや、違う、しかし・・・』
紅茶色の髪も顔立ちも、とてもよく似ていた。ただ、瞳の色だけが違う。娘の瞳の色は琥珀色。この子どもは鮮やかな紫だった。
驚く彼に、金の君は穏やかに言った。 『スティールは元気にやっているか。少しの間とはいえ面倒を見た身としては気になっていたのだが』
今度こそクリードは声もなく金の君を見つめた。娘はしばらくの間姿を消していた。 “狭間の界”で言う神隠しのように。短い間で戻ってきたものの、その間どこに誰といたのか、わからなかった。問うても娘はとても楽しかった、友達と一緒だったよと言うばかりで。
『スティールは、ここに来ていたんですか』
『そう。私が見つけたときには、もうその子と一緒にいたよ。スティールはすぐに“狭間の界”の住人だとわかった。ならば戻す方法もある。でもその子の方はわからなかった』
だから君を呼んだ。まさかスティールの父親が“次元管理官”だとは思いもしなかったけどねと。
『そうですか・・・ありがとうございます。おかげで娘は無事戻ってきました』
『礼を言うには及ばない。君の娘のおかげで、心配している家族がいると知りながら、不謹慎とは思いながら楽しい時を過ごさせてもらったのだから。スティールは元の世界に帰す事ができた。あとはこの子。どうだ、わかるだろうか?』
クリードは金の君の腕の中で、見知らぬ自分をじっと見上げる子どもの顔を見つめた。表情さえ娘と似ていて混乱する。
『一つ尋ねてよろしいか』
『なんなりと』
『なぜこの子は娘と同じ顔をしているんですか』
『それはこの子がやったんだよ。そばにいたスティールの顔、体をそっくり写したんだろう。スティールが傍にいた時は、せがまれるままに色んなものの姿を写し取っていたよ。もともと個人としての姿を持たないか、あるいは自分で姿を作り上げていく種族なのか、そこまではわからないが』
金の君の説明を聞いてクリードは黙り込んだ。彼の世界にはそういう種族はいない。だとすれば。
『残念ながら、その子の属する世界は、私のいた世界とも違うようです。私やあなたの知らない違う世界に属する者なのでしょう』
『そう、か・・・』
その時金の君の表情に落胆とともに安堵があったことをクリードは見て取った。
『けれど、この子の親は探していることだろう。この子の属する界を探す事はできないだろうか』
『やってみましょう。私の娘のことへの、ささやかな礼にもなりますれば』
『頼む』
こうして初対面は終わり。
ふと思いついてクリードは尋ねた。今は娘と同じ顔をしている子どもの名を。
金の君は少し笑って答えた。
『元の名は覚えていなかった。きっと幼すぎたんだろうよ。今の名はリルフィ・・・これは、君の娘がつけた名だよ』
名を呼ばれたと思ったのか子どもはクリードから視線を外し、金の君を見上げた・・・。
不思議な事もあるものだと、この子の属する界をなんとしても探してやろうとクリードは思ったのだった。金の君が見せた表情にどんな意味があったのかは、気になっていたけれど。
しかし、結局リルフィの元いた世界は分からずじまいだった。そして。
「まさか、あのときの子が、娘の所に来るとは思いもしませんでしたよ」
それも鳥の姿になってとは、と。クリードはしみじみと言う。
「スティールやリルフィは、あなたの仕事を知らないのね?」
「ええ、話すことでもなし。このまま知らせるつもりもありません」
それがいいわと金の君は頷いた。
「あと一つ。あなたは気付いているでしょうけど。次元の綻びも最近減っているわね」
「ええ・・・それは近接していた世界がお互い遠ざかりつつあるためです。このまま行くと何十年後か、あるいはもっと先には互いに影響を与えないほど遠くへ行くでしょう」
そうなれば私はお役御免なんですが。クリードは笑った。
「どのみち私がいなくなってからの事。その後の事はあとの者に任せますよ」
金の君も笑った。
「ええ、そうね。あなたの後任の人も、あなたほど話のわかる人だと嬉しいんだけど」
朝食を一緒に摂って、チェスミーとはわかれた。またねと互いに言い合って。
リルフィは“狭間の界”への界渡りのポイントへと歩く。朝早い時間、空気には草の瑞々しい匂いがした。持って来たものも、もって行くものもなく、手には何も持たずに、散歩を楽しむように歩いていた。 この界にもまたしばらくお別れ。そのことに不思議なほどリルフィは何も感じない。こちらに住んでいたのにねえと自分でも不思議だが、前からそうだった。ものごころついた頃には両親はなく、その代わりに金の君がそばにいた。森で見つけたのよと金の君は言っていた。あの子と一緒にねと。何があったのか知らない。知りようもないし、知りたくもない。自分がここにいて、そして大事なものを守れた事、その力があったこと、それで十分だと思った。
あと少しでポイントにつくと言う地点で。リルフィはぴたりと足を止めた。くるりと回れ右をして、違うポイントを探そうと歩き出した、その背に。からかうような声が掛けられたのだ。
「リルフィ、“狭間の界”へ帰るんだろう?どこに行くんだい?」
ふうとため息をついて、リルフィは振り返った。大きな樹によりかかり、目を細めて笑うジルファがいたのだ。
「ジルファ・・・あんたは“狭間の界”に行くわけでもないんでしょ。なんでここにいるの?」
見つかった以上、他のポイントに行くのも馬鹿げている。さっさと話終わらせて、向こうに行けばいいんだしとリルフィは考えた。
「何って、つれないねえ。君を見送りにきたに決まってるだろう」
「・・・ああそう。ありがと。じゃあさよなら」
おざなりに手を振ってポイントに入ろうとしたリルフィの腕をジルファは取った。
「なに?」
殆ど反射的にリルフィはジルファの腕を振り払っていた。
苦笑とともに振り払われた手を見るジルファと。自分のしたことに驚いているリルフィ。
「いくらなんでも、この反応は酷いなあ。さすがの私でも、傷つくな」
「・・・悪かったわ。つい・・・」
「どうして君は、私に対してそう冷たいのかな」
「・・・わからないわよ。なんでか反射的にそうなっちゃうのよ。なんか、こう・・・勝手に体が反応するっていうか」
初めて会ったのがいつだったか、今でも覚えている。だって。しょっぱなから彼は自分に好きだの結婚しようだの言い出したのだから。即お断りしたのは、これも反射のたまものだった。
『やあリルフィ、こんにちは』
『こんにちは・・・・?』
『私はジルファというんだが。君が好きなんだ、結婚して欲しい』
『・・・お断りしますっ!』
たちの悪い冗談だとリルフィが思っても無理はないと思う。けれど、それは冗談ではなかったのだ。会うたびごとに好きだの結婚しようだの、何年も何年も言い続けたのだから。
「反射的にねえ・・・」
ジルファは苦笑を深くする。
「嫌いとかじゃないわよ・・・・言った事なかったけど。多分。この前のことでも感謝はしてる。でもあんたの顔見たらつい・・・」
うまい言葉が見つからずリルフィは苛々と髪の毛をかきあげる。リルフィはわかっていなくても、ジルファには心当たりがあったり、した。
ああ、あの時いじめすぎたのが、こうまで尾をひくとはね・・・悪い事はできないもんだ。
自業自得、とけらけらっと笑う金の君の姿が頭をよぎる。それは共同責任だろうと思う。 ・・・今更言っても仕方ないことであるが。まあ嫌われてないだけでも、よしとしようか。気長に行くさと思った。
「いいさ、そういうこともあるんだろう・・・帰るんだろう?」
「・・・ええ、それじゃあ」
今度こそリルフィは界渡りのための呪文を唱えた。それに反応してポイントに“場”が生まれる。一瞬にして彼女は狭間の界へと飛んだ。それを見届けて、ジルファは、さて、と宮の方向へ目をやる。
「私も君に挨拶してこよう。当分こちらには帰らないからねえ」
あの子が一番懐いていた“狭間の界”の子どもを帰すとき、それはもう大騒ぎだった。
絶対嫌がると思ったから、わざわざ眠っているときを選んだのに何かを感じてか起きだしてきた。同じ顔をした二人の子ども。片方は泣き喚き、片方は宥めようと必死だった。白い石造りの室内に響く子どもの声は余計悲しかった。
月の明るい夜更け。帰る子どもが、何度も言った。
「また来るからね」
「ほんとう?来てくれる?」
「うん、来るよ!」
「やくそくだよ」
「うん、やくそくするよ」
何度も何度も約束をして、泣きつかれたのか寝入った子どもを腕に抱き。
“狭間の界”の子どもに話しかけた。
「君に贈り物を。願い事を叶えてあげよう。叶えられる限りの願いごとを3つ。さあ、言ってごらん」
ねがいごとを3つまでなの?うーんと、と子どもは琥珀色の目を伏せて考えて、言った。
「リルもおうちに帰してあげて。できないんだったら、リルも一緒に連れていっていい?」
「それは、どっちもできない・・・。なんでもは、できないんだ」
「だったらいらない。ほかにはないもん」
離れがたく思っているのは、この子どもも同じだったのだ。
「それなら・・・その願い事はとっておくといい。いつまでも君はそれを使う事ができるから」
その言葉を子どもは理解していたのかいないのか。ただ、リルフィを心配そうに見ていたから。苦笑して紅茶色の髪の毛を撫でた。
「・・・お帰り。その光の道を辿って。道に迷わないように気をつけて」
「うん、じゃあまたね。リルにもまたねって言ってね」
子どもは光の道を駆け出した。月の光と金の君の力で作った、異界への道。
駆け出した子どもの体は、光の中に溶け込むように、消えた。
眠る子どもに囁く。
「・・・今の約束が守られる日は来るまいよ・・・遠く界を隔てているうえ、幼さゆえに記憶にいつまでも留めてはおけないだろうから」
だから今は楽しい夢を見てお休みと。その、時は。
ばさり、と羽ばたきの音がして目を上げると、窓の向こうに金の鳥のリルフィがいた。
スティールが窓をあけると、リルフィは滑るように室内に飛び込んできた。
『ただいま!ああ疲れた~なにか飲ませてくれる?』
「お帰り・・・・あのね、リルフィ」
スティールはとても言いづらかったが、言わねばならなかった。
『なあに?』
「お客さん」
スティールが指差したところには。青い鳥の姿になった、ついさっき別れたはずの人物がいたのだ。
『・・・・!』
とたんに警戒態勢に入ったリルフィだった。あんたなんでここにいるの、そもそもどうやって私の先回りができるのと、疑問が渦をまいた。それらを正しく読み取って、ジルファは答えた。
『ちょっとウラ技使ったのさ。そうそう私も今日からこの家で世話になるから。家主さんと飼い主さんには了解ずみだよ』
『スティール・・・・?』
「いやほら、この界に行くところないって言うし、かなりお世話になったしそれで!」
じろりと睨まれて、あたふたと答えるスティール。うう、リル、目が怖いよう。
『・・・そうわかったわ』
くるりと向きを変えたリルフィに、スティールは声をかけた。
「どこ行くの?今帰ったばっかりなのに」
『夜には帰るわ!ジルファ、ついて来るんじゃないわよ!』
ばさりと大きな羽を広げてリルフィは空に飛び立ってしまった。
ジルファはくくく・・・と肩を震わせて笑っていた。
「ジルファさん?どうかした?」
それにしてもリルってば、なんでああなのかなあ、わかる?ジルファさん。あたしにはちっともわからないわ。
さかんに首を傾げる少女に、青い鳥はくるる・・と喉の奥で鳴いた。
『ふふ、照れているんだよきっとね!』
「あっ、そうかあ!」
何だ、リルフィったら、と納得させられてしまったスティールだった。帰ってきたリルフィに、さんざん文句を言われることなど、予想だにしなかった。
なにはともあれ、とジルファが言う。
『これからもよろしく』
「ええっと、はいこちらこそ!」
これからも。
君の中には、昔“金の界”で過ごしたことは、夢の中の出来事みたいに、記憶の中に埋もれているんだね。リルフィが待ち望んだ約束も、夢の中に消えるように。それはでも、仕方のないこと。君が覚えていなくても、私たちは覚えているよ・・・・忘れないから。
そしてこれからは、また共通の思い出を作る事ができるから。
小さな生き物と見合ってどれくらい時間が過ぎたのか。けして短くはない時間だろう。
ぴりぴりと警戒する様子を隠さない相手にどう接すればいいのか心底困り果てた。なんといっても相手が小さい生き物だから・・・これほど小さい者に、普段触れ合う機会もない自分としては、そこから扱いがわからない。うかつに触ると壊してしまいそうな気すらした。
来ないで、と大きな目で睨む生き物。と。ようやく辺りに漂う不穏な空気に気付いたのか、眠る子どもが目を覚ました。
「・・・なあに、どうしたの・・・・?」
ぽかんと目を開けて、抱きついた腕の主と、目の前に立つ見知らぬ人に驚いた様子だった。月の光を受け、金の光を身に纏う人に。
できるだけ柔らかな声で話しかけた。
「ここで眠るのはおすすめしないよ。私と一緒に行こう」
手を差し伸べた。その子は無闇に拒絶することはなかった。じっと手とその先を見つめた。そうして。
「うん。いっしょに行くよ」
生き物が驚いて腕をひくのに、笑って答えた。
「だいじょうぶだよ。こわがらないでね。ゆっくり眠ろう・・・・」
そういう自分の方が、睡魔に負けたように眠り込んでしまい。また自分と生き物が残された。
もう一度手を差し伸べた。
「いっしょに行こう」
その手を。しばらくたったあと、取ってくれたのだ。
抱きあげると長い髪をつんと引っ張られた。不思議なものでも見るかのように、しげしげと見つめられ、少し痛いけど、まあいいかと思ったのだ。
ちいさな手に金の髪をしっかり掴み、やがて寝息を立て始めた生き物と子どもを抱いて、自分の住まいの方に歩き出した。
月は沈みかけていて、遠くで夜明けを告げる鳥の声がした。
名前・・・覚えてないの?
泣かないで。だったら、あたしがつけてあげる。
こんなのは、どう?気に入ってくれた?
あたしの名前はね・・・・。
一番初めにもらった、とても大事なおくりもの。
END