ハルト
九千年を越える頃には、私はほとんど伝説そのものになっていた。
若い冒険者に『ほんとにあのルシアなのか?』と疑われ、酔った吟遊詩人に私の武勇伝を間違いだらけで歌われ、その場で訂正したら『夢がない』と言われた。
私は笑った。昔なら怒っていたかもしれないが。
その頃にはもう、事実と物語の間にそれほど隔たりを感じなくなっていた。人は語り継ぐことでしか、過去に触れられない。なら、多少形が歪んでいても語られないよりはいい。
――そして、九千九百九十七年目の春。
私は再び、転機と呼べるものに出会った。どこかの森の外れで一人の少年が倒れていた。
黒髪に黒い目、見慣れない布の服。怪我はないが、意識がなく、高熱を出していた。私は山小屋へ運び、三日かけて看病した。四日目の朝、彼は飛び起きて、天井を見上げたまま呟く。
「……は?」
その一言の響きに、私は妙な違和感を覚えた。次に彼は自分の身体を見下ろし、私の耳を見て、また『はぁ?』と言った。今度はもっと、焦燥よりも呆れたような声と顔色だった。彼のその反応を見て、私は思わず尋ねる。
「もしかして、前の世界の記憶があるの?」
彼が固まる。まるで世界の真実と裏側を同時に見せつけられたような顔だった。唇を震わせ、掠れた声で言う。
「……なんで、それを」
「私もあるから」
その瞬間の彼の表情を、私はたぶん死ぬまで忘れない。泣きそうで、笑いそうで、安心しきった子どもの顔。私もきっと、生まれたばかりの頃、誰かにこう言ってほしかったのだ。大丈夫だ、と。同じものを抱えた者がここにいる、と。
少年はハルトと名乗った。
前世では日本という国で生きていたらしい。私はその響きに、深い底から記憶が浮かび上がるのを感じた。日本。ああそうだ。私もそこにいた。細部はもうぼやけていたが、その音の並びは、胸の奥の古い扉を叩いた。
ハルトは十六歳ほどに見えた。こちらへ来てまだ間もないので、言葉や文化もわからず、恐怖で張りつめていた。私は彼を小屋に置き、火の起こし方から教える。彼は不器用だったが、飲み込みは早かった。
そんなある夜、野草の煮込みを食べながら彼がぽつりと言った。
「ルシアは、こっちの世界で何年生きてるんですか」
「もうすぐ一万年」
ハルトの持つ匙が止まる。
「え?」
「正確には、九千九百九十……八年か」
「いや、え?」
「そういう顔、昔も見た気がする」
「昔っていう規模じゃないですよ……」
私は、自分でも驚くほど自然に笑った。ハルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく尋ねた。
「一万年も生きたら、どうなるんですか」
それはたぶん、昔の私自身が聞きたかった問いだったかもしれない。賢者になるのか、仙人みたいに枯れ果てるのか。すべてを達観し、悟りを開き、何も怖くなくなるのだろうか。まあ、すでにそうなりかけているのだが。
私は焚き火を眺めながら、ゆっくりと答えた。
「別に、そんな立派なものにはならないよ」
「でも、色んなこと知ってるじゃないですか」
「知っている事は増える。でも、分からない事も増える。たくさん別れるし、たくさん忘れる。何度も後悔するし、何度も同じことで傷つく。臆病にもなるし、面倒くさくもなる。長く生きても完成なんかしない」
ハルトは黙って聞いていたのち、純粋な瞳で私に尋ねてくる。
「じゃあ、生きる意味ってなんなんですか」
まっすぐな問いだった。若い、若すぎる問いだ。けど若いからこそ、私は真面目に答えたかった。
「昔の私はね、意味なんてないんじゃないかって思ってた」
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「世界は勝手に続くし、誰かが死んでも朝は来る。愛した人を忘れていく自分も嫌だった。長い命は罰みたいだって、ずっと思ってた」
「……今は違うんですか」
「少しだけ」
私は父の顔を思い出そうとするが、うまくいかなかった。代わりに、弓を握る大きな手の感触だけが浮かんだ。母の子守歌は忘れたが、眠る前の安堵は残っていた。エドの声は遠退いたが、ともに囲った焚き火の匂いは覚えている。甘えてくるミナの表情は、まだ胸の中にあった。フィオの無垢さも、たまに思い出せば癒される。
「意味って、最初から用意されているものじゃない」
振り返れば振り返るほど、自然と口元が綻んでくる。
「生きてるあいだに、後からついてくるものなんだよ。誰かと笑ったとか、助けられたとか、守れなかったとか、そういう小さなことが積み重なって振り返ったときに、ああ、ここに意味があったのかもしれないって思えるだけ」
ハルトは俯き、しばらくしてから言った。
「それ、本当に意味あるんですか?」
「無いかもね」
「無いんだ」
「でも、無いなら無いで別にいいんじゃないかな」
彼は顔を上げ、私は少し肩をすくめた。もっとなにかこう、気の利いた言葉を思いつきたかったのだけど、無理だ。五千年前くらいなら答えられたかもしれない。
「一万年近く生きてても、結局その程度のことしか言えないのか……私は」
思わず零れてしまった弱音に、ハルトは吹き出した。私もつられて笑った。
その夜、私は気付かされた。
こんなにも長く生きてきて、私がまだここにいる理由は、たぶんこういう瞬間のためなのだと。大仰な使命でも、世界を救うためでもない。ただ、自分の歩いてきた長い道が、誰か一人の暗がりを少し照らすことができる。その程度で人は案外、救われることもある。
一万年目の冬は、静かに訪れた。
朝、山小屋の扉を開けると一面の雪だった。木々は白く、空気は痛いほど澄んでいた。私は自分のかじかんだ指を見つめ、一本ずつ動かした。まだちゃんと動く。さすがに一万年も使えば身体のあちこちに不具合が生じてくると予想してたけど、まだまだ死ぬ気配はしない。
「うわ、すごい雪だな」
ハルトは雪景色を見て喜びつつ、薪を割り始めた。
私はその様子を見ながら、ふふっと笑ってしまう。
「なに笑ってるんですか」
「別に」
「いや絶対なんかあるでしょ」
「一万年目の朝に、薪の割り方が下手だなって思って」
「感想が地味すぎる!」
私は声を立てて笑った。
ああそうか、とそのとき思った。
一万年生きても人生は案外、地味だ。大陸は割れないし、神にも成れやしない。今あるのは冬の寒さと、下手な薪の割り方の弟子くらいだ。けれど、たぶんそれでいい。
この先、二万年生きるのか。明日崖から落ちて終わるのかも分からない。長命種にだって終わりはあるはず。いつか必ず、私も〝先に行く〟日が訪れるだろう。父と母、エドにミナやフィオ、名前を思い出せないほど多くの人々が向かったその先へ。
怖くないと言えば嘘になる。
けど本当に、先に行くだけなのだ。
だから私は今日も生きる。薪を割って薬草を干し、ハルトに弓を教え、下手くそだと笑う。夜になれば火を囲み、思い出せる昔話をいくつかする。忘れた部分は忘れたままでいい。
私が一万年生きて辿り着いた答えは、たぶんあまり立派じゃない。生きる意味は最初からどこかに置いてあるわけじゃないこと。別れは何度経験しても慣れないこと。忘れてしまっても、共にいた時間まで失われるわけではないこと。そして、人はたとえ一万年生きてても、誰かと笑って明日を迎えられること。
雪の降る窓辺で、私は遥か遠い昔の自分を思う。
交差点の赤信号を見上げていた、疲れきった人間の私。この先に何があるのかも分からず、終わることばかり考えていた私。もしその私に会えるなら、こう言うだろう。
大丈夫だよ、とは言わない。
人生は相変わらず理不尽で、世界は勝手に続く。
でも、それでも、存外悪くない瞬間がある。
思っていたよりずっと長い道のりの中に、確かにある。
だからもう少し、生きてみなよ。
私は一万年生きたエルフだ。
口下手で、忘れっぽくて、臆病で。
たくさんの別れを抱えたまま。
まだ冬の朝に笑っている。
そのことが、今はほんの少しだけ誇らしい――
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