フィオ
戦争のきっかけなど知らないし、興味すらも持てない。
その大戦は人間に獣人やドワーフ、そして一部のエルフまでをも巻き込んだ、巨大国家同士でのくだらない覇権争いだった。
何十もの小国や村が地図から消え、何百万もの命が失われた。私はその戦を最初、遠くから眺めていた。助けても助けなくても、どうせ人は死ぬ。そう思えてきて、足が止まってしまった。
だがある夜、野営地で聞いた子どもの泣き声が、私をつき動かした。雪の中のミナを唐突に思い出す。私は結局、そういうものに弱い。戦う理由はそれだけで形成されてしまった。
戦場では、長命種の利点がいやというほど働いた。すでに私は眠らず歩く術を身に付け、夜目で敵を射抜き、地の利すら知り尽くしていた。人は私を英雄と呼び、化け物と慄き、精霊の使いだと崇めた。どれも違う。私はただ、目の前の死を少しでも減らしたかっただけのしがないエルフだ。
戦後、いくつかの国で私の像が建てられた。百年後には半分崩れ、三百年後には誰の像か分からなくなっていた。私はそのことに妙な安堵を覚えてしまう。
記録も伝説も、永遠ではない。英雄譚は歪み、悪女の逸話にすり替わることもある。私は聖女になったり、魔女になったり、森に住む人食いの怪異になったりもした。時代が下るほど、真実はどうでもよくなる。
最初は腹も立った。だが五千年も過ぎると、伝承の変質など季節の移ろいとなんら変わりはない。人は自分たちに都合のいい形で物語を編む。前世の世界もそうだったのだろう。たぶん。
六千年を超えたあたりで、私は書くことを始めた。
長い旅の記録。出会った人々の名前。食べた物の味、見た景色。そして失ったもの。最初は忘れないためだった。だが本当は逆だったのかもしれない。紙に書くことで、少しずつ手放すためだ。
父の豪快な笑い方。母の安心感を与えてくれる背中。エドのごつごつとした掌の硬さ。ミナの可愛らしい寝息。王子の凛々しい横顔。戦場で助けられなかった子の名。書かなければ消える。書いても消える。けれど、書いたという事実だけが、私の中で密かに残った。
七千年目、何の気なしに森へと戻ってみた。
私の生まれた集落は、もうなかった。
木々は変わらずそこに立っていたが、橋は落ち、家々は朽ち果て、古い祭壇だけが太い根に呑み込まれかけていた。エルフたちはもっと南へ移り住んだと聞いた。森の流れが変わり、魔力の脈がずれたからだという。
私は廃墟に囲まれたまま、半日ほど立ち尽くした。
父の工房があったあたりを掘ってみると、錆びた矢じりが一本だけ出てきた。母が薬草を干していた棚は、蔓に覆われて跡形もなかった。
私はそこで初めて、自分の原点すら世界から消えるのだと知る。悲しかった。けれど不思議と、どこか救われた気もした。
私の生まれた家がなくなっても、森は青い。誰かの愛した場所は、やがて地図から消える。そうやって世界は続いていく。残酷だけど、それでいいのだ。きっと。
八千年目、私は初めて弟子を取った。
ほんの気まぐれだったかもしれない。
名はフィオ、人間の娘だ。妙に負けず嫌いで、弓の才能がまるでなかった。そのくせ、諦めるということを知らない。十回外しても十一回目を撃つ。笑われても食らいつく。私はそういう馬鹿を嫌いになれない。
「先生、なんでそんなに何でも知ってるの?」
「長く生きてるから」
「じゃあ、長く生きれば私もそうなれる?」
「ならない。たぶん」
「なんでよ!」
「フィオは、人の話を聞かないからね」
彼女はふくれて、それから笑った。フィオは五十年、私の弟子だった。彼女は最期まで私を先生と呼び続け、孫までできたあとも、ときどき山小屋へ私でも飲める酒を持ってきてくれた。
老いてからは昔話ばかりするようになった。
『先生、あのとき私が熊を仕留めたの覚えてる?』だの、『私の弓の腕、ほんとは認めてたでしょ』だの。年を取っても可愛げのある奴だった。本当に。
私はそのたびに『覚えてる』と答えた。半分は本当で、半分は嘘だった。記憶はやはり薄れていく。私はもう、何千何万という顔と声を抱えていて、すべてを鮮明に覚えていることなんてできない。だが、覚えていないことが裏切りだとも思わなくなっていた。
忘れるのは、消えることじゃない。
輪郭が曖昧になっても、その人といた時間が私を形作ったことに変わりはないのだ。ずいぶんと長い長い回り道の末に、私はようやくそう悟ることができた。
――フィオの墓の前で涙を流しながら。




