エド
――母を亡くしてから私は、弓と薬を学んだ。
周囲の反対を押し切り、ついには森の外にも出るようになった。人間の街や獣人の村、ドワーフの鉱山都市に海沿いの港。百年も歩けば、自分の世界はそれなりに広がっていく。旅は悪くなかった。誰かと出会い、別れ、少しだけ心を動かされる。その繰り返しだった。
二百六十七歳のとき、私は人間の青年に恋をした。
その話をすると、エルフの古老たちは決まって困った顔をしたものだ。他種族を愛するのは愚かだ、と。必ず後悔するぞ、と。後から思い返せば、実際その通りだった。
彼の名はエドといった。
鍛冶屋の息子で、とても大雑把な性格。笑うと犬みたいに目が細くなる男だった。私が森の外れで怪我をした魔物をあやし、治しているのを見て『お前、変わってるな』と笑われたのが出会いだった。
変わっているのはお互い様だった。人間にしては恐ろしく気長で、私が何日黙っていても気にしない。私が百年前の話をぽろりと口にしたところで、驚きはしても、決して気味悪がらなかった。
『へえ、じゃあ俺のひいひい爺さんの代より前か』と笑って、呑気に焚き火の木をくべていた。
彼と過ごした数十年は、たぶん幸せだったと思う。エルフの感覚では瞬きみたいな時間だが、前世が人間だった私には、それがどれほどかけがえのない長さか分かっている。彼は歳を取り、私はほとんど変わらない。彼の黒髪に白が混じり始めても、私はまだ若い女の姿のままだった。
ある晩、彼は私の耳に優しく触れながら言った。
「お前は、ずっと先まで生きるんだろ」
「……たぶん」
「じゃあさ、一つだけ頼みがあるんだ」
「なに?」
「何千年経っても、俺のことは忘れないでいてくれ」
焚き火に照らされた彼の顔は、微笑んでいた。冗談みたいな口ぶりだったが、目だけが少し怖がっていた。いつか訪れる死に対して、だったかもしれない。
「……努力はしてみるよ」
私はそのとき、軽々しく頷けなかった。忘れない、と言うことは簡単だ。けれど私は知っていた。百年、二百年という時間は、約束の輪郭を少しずつ削っていく。声は薄れ、匂いは消え、触れた感触は別の記憶に押し流される。忘れないつもりでいても、世界のほうが容赦なく上書きしてくるからだ。
そしてエドは、六十八歳で死んだ。
彼は病床で皺だらけの手を伸ばし、私の指を握って『泣くなよ』と言っていた。けど、泣いていたのは彼のほうだった。一方で私は、泣けなかった。泣けば何かが決壊してしまう気がしたからだ。
「置いてかないでよ、エド」
彼の墓の前で、三日後にようやく声が出た。
私はそのとき初めて、自分がエルフであることを呪った。長い命は、愛する相手を何度でも看取るためにあるのかと、本気でそう思えてしまった。そして、そこから先の数百年、私は誰かと深く関わることを避けるようになる。
旅をしても、街に長居はしない。名を名乗っても、偽名を使う。人間と親しくなっても、老いが見え始める前に去る。エルフの集落にもほとんど戻らなかった。同胞たちは穏やかだが、彼らの時間の感覚は、私の傷に対しあまりに鈍かった。もちろん彼らに悪気はないのだが、たとえば『まだ三百年しか生きていないのだから若い』と言われるたび、私の中の人間だった頃の感覚が叫ぶのだ。そんなわけあるか、と。余計なストレスは溜めないに越したことはない。
そこから――
四百年が過ぎ、王国が一つ滅びた。
五百年が過ぎ、言語が少し変わった。
七百年が過ぎ、港町が海に沈んだ。
一千年が過ぎる頃には、私の前世の記憶すら、古い夢のようにおぼろげとなっていた。
車、信号、電車、スマートフォン。たしかに覚えていたはずなのに、細部が欠け落ちる。人の世の便利さや息苦しさ、画面の光、満員電車の湿った匂い。覚えているようで、思い出そうとすると砂みたいに崩れる。私は人間とエルフ、二つの人生のどちらにも、綺麗に属せなくなっていた。そんな私に転機が訪れたのは、千四百三十一歳のとき――
――北の雪原で、布に包められた赤ん坊を拾った。




