ルシア
――生まれた瞬間のことを、私は覚えている。
産声を上げるよりも先に『ああ、また始まったのか』とよぎった。そのまま泣き声を上げたのは、終わらない始まりに対してのストレスを発散させるためだった。
木漏れ日がかすかに揺れ、鼻先をくすぐる湿った土の匂いと、私を抱える誰かの震える声。白く細い指先で私の頬に触れ、嬉しさから涙をこぼす知らない女性。私はそのときすでに、前の人生の記憶を少しだけ持っていた。
前世の私はたぶん、どこにでもいる人間だった。
〝たぶん〟というのは、死ぬ間際のことだけが妙に鮮明で、それ以前の細かい記憶は霧がかかったように曖昧だったからだ。大きな病気をしたわけでも、不運な事故に遭ったわけでもない。会社帰りだったか、休日だったか。夜の交差点で、信号の赤い光をぼんやりと見つめていた。刺すような、冷たい風が吹いていたと思う。私はひどく疲れていて、何か大切なものを置き去りにしたような気持ちだけを抱えて生きていた。
全部、そんな気がした、が付けられるのだけども。
そして次に目を開けたとき、私は雪原のように白い肌と、耳だけが妙に長い赤ん坊になっていた。その世界では――いや、この世界でも、エルフは長命の種族だった。
長命、という言葉の響きこそやわらかく聞こえてしまうが、実際はほとんど呪いに近い。生まれて百年でようやく一人前、五百年程度では若造、一千年を超えてようやく古老の席に足をかける。病で死ぬことは稀で、事故でもなかなか死なず、戦に巻き込まれなければ気が遠くなるほど長く生きることができた。
私は、ルシアと名付けられた。
森の奥深く、霧樹海と呼ばれる大森林の集落で、弓使いの父と薬師の母のもとで私は生まれ育った。木々の上に組まれた住居、蔓を編んだ橋、風に鳴る葉擦れの音。そこはとても美しい場所だった。人間としての人生しか歩み続けてこなかったはずの私が、未だかつて一度も見たことのない、絵本のように美しい世界だった。
最初の百年は正直、わりと楽しかった。
前世の記憶があるとはいえ、子どもの肉体は子どもで、精神もしっかりと幼い。木の実の味に夢中になり、弓の練習で指を痛めては、母に薬草の名前を叩き込まれた。周囲から見れば、私は少し大人びた子どもだったらしい。人間として生きた時間が下敷きにあったからだろう。両親はそんな私を『聡い子だね』と褒めそやし、愛してくれた。
ただどこかで、私は知っていた。
この愛は、いつか終わると――
人間の寿命を知っているからではない。エルフに生まれた私の感覚でも、父も母も、いずれは死ぬ。長命であっても永遠ではない。どれほど穏やかな日々でも、終わりは必ず訪れる。
私が百二十七歳になった冬、父が死んだ。
山向こうの人間の街で、流行り病が出た。交易を担っていた父は、そこで病をもらってしまったという。エルフの身体は病に強い。だから最初、誰も深刻には考えず、熱が出ても数日寝れば治る――そう思っていた。
しかし、治らなかった。
母は夜通し看病を続け、私もできる限りの手伝いをした。けれど父の手は少しずつ冷たくなり、最後には私の手を握ったまま、母の腕の中で静かに息を止めた。そのとき私はエルフとして初めて、大切な人との別れを経験することになる。
百二十七年。人間なら一生をはるかに超える長さだ。それでも、エルフとしてはあまりに短い。私はまだ子どもで、父は私の成長を見届ける前にいなくなってしまった。
父を看取った直後、母の心の折れる音を聞いた気がした。その後、母は目に見えて老いていった。
エルフの老いは緩慢だ。昨日今日とで皺が増えるわけではない。父を失ってからの母は、薬草を摘むときも食卓を囲むときも、笑うときでさえどこかひび割れて見えた。私は母に長く生きてほしかった。だが現実というものは、祈りよりも先に風化していく。
母が死んだのは、私が二百三歳の春――眠るような最期だった。病床に伏していたとはいえ、前日の夜は、次の季節に咲く花の話をしていたのを覚えている。翌朝、どれだけ揺り起こしても母は目を覚まさなかった。
私は一人になってしまった。
そのときになってようやく、前世の記憶が本格的に牙を剥いた。私は知っていたのだ。人に限らず、生物は死ぬ。別れは避けられない。どんな関係も永遠じゃない。人間だった頃の私は、たぶんその当たり前の現実に飽きるほど触れてきた。けれど、人間の一生で受け止めるにはあまりに重かったその痛みを、今度はエルフとして何度でも味わうのだと悟ってしまった。
――それでも時間は進み続けていく、無情にも。




