表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

大礼国物語

【外伝:八】Fly Me To The Moon

作者: 冬生 恵
掲載日:2026/03/20

「レッディ家から参りました、アーリヤと申します」


 少女はそう言って、真っ直ぐな瞳で夫となる男を見つめた。






 パタパタと、軽い足音が駆けて行く。


「お母さま、おやすみなさい!」

「おやすみなさーい」

「お休みなさい。残さず夕餉(ゆうげ)をとって、歯を磨いて、しっかりと眠るのですよ」


 手を振るアーリヤに、娘と息子は満面の笑みを向ける。女官に手を引かれて離宮に帰っていく子どもたちを、彼女はいつまでも見送っていた。

 シャグン国王・カルティクの後宮で、アーリヤは王后(おうこう)の位に就いている。后妃の仕事は王の補佐であり、子の養育は専任の教育係と女官の仕事だ。彼らは普段、他の妃の子らと離宮で暮らし、母とは日中を共にするのみだった。


(シュレヤの子が亡くなってから、もう三年も経つのね……)


 時間が過ぎるのは速い。

 今年は春先に異国の新たな妃候補を後宮に迎え、いくつかの事件の末、二人の側妃が宮を去って行った。

 騒動の原因の一つには、長年に渡る、王の(おとな)いの不均衡さがある。アーリヤも懸命に夫に()いたが、彼が同時に複数の女人を相手に出来るような器用さを持ち合わせないことは、よく知っていた。それゆえに、人知れず苦悩していることも。

 彼女の夫は、その生まれが示す通り、自らも武人として一生を終えるのだと信じていた。十年前、突然の王と王太子の崩御により、彼はろくに覚悟を決める時間もないまま、王位に就くことになってしまったのだ。彼が王位のために、父と義兄を殺めたのではないかと、無責任な噂まで飛び交う始末だった。

 カルティクは何よりもまず、王としての立場を固めることを、優先しなければならなかった。

 彼の抱く心痛の重さを知っていたからこそ、アーリヤも強くは言えずにきてしまったのだ。


 けれど、それが間違いだった。


(ラティカ、ファリダ、サミーラ……。皆、得られぬもののために、苦しんでいた)


 自分が守るべきであった女性たちを守れず、後宮に混乱をもたらした。后失格であり、迷惑をかけた隣国の皇女・澄蘭(ちょうらん)にも、心底申し訳なく思う。


 ゆえに、アーリヤは一つの決意を下した。








「──お前が俺を呼ぶとは、珍しいな」


 戸惑った顔で部屋の扉を開けた男を、アーリヤはじっと見つめた。

 銀色に輝く長い髪、鍛え上げられた褐色の肌。異国の神話の登場人物のようですらある、異質な美貌を持つこの男性が、アーリヤたちの夫だ。

 母親は西方の武人階級の出身で、百五十年以上に及ぶ歴史の中、西国の血が混ざることも多かった。同じように異国の妃を受け入れていた、歴代の王の血と合わさって、彼にこのような外見を与えたのだろうと、本人がかつて言っていた。

 この見た目もあり、彼は自ら王位とは距離を置き、一人の武人として生きてきた。十年前、突然の王と王太子の崩御を受け、優秀な彼を王にと望む声を弟たちが上げた結果、混乱の末に王位に就いた。

彼が昼間は堂々と政務をこなしながらも、夜は頻繁に悪夢にうなされ飛び起きるのを、アーリヤはずっと見てきた。


 しばらく室内で立ち尽くしたまま、王と后は見つめ合う。


 やがてアーリヤは小さく微笑み、彼を寝台ではなく、酒と肴を用意してあった円卓へ誘った。








「──当面の間、私は、夜伽(よとぎ)をしません」


 唐突なアーリヤの言葉に、カルティクは杯を()す動きを止めた。

 後宮は王を支えるための組織とはいえ、王の慰撫(いぶ)や、彼との子を成すことも、重要な仕事だ。それを放棄するという宣言は、王への反旗とも捉えられかねない。

 表情を強ばらせる夫を、アーリヤは正面から見据えた。


(本当はもっと早く、こうすべきだった──)


 寵を受けられず、女性としての自信を喪失していったラティカ。その気位の高さから、表では強く振る舞いながら、裏では崩れていったファリダ。自身の資質ではなく、立場ゆえに与えられた役割に、歪んでしまったサミーラ。


 異国の姫君が止めてくれなければ、彼女たちはいつか、もっと取り返しのつかない事態に陥っていたはずだ。


 本来、その役目は自分が負うべきものだった。

 けれど、王の情を一身に受ける自分が何かをしても、かえって反発を招く恐れもあり、アーリヤは躊躇(ちゅうちょ)してしまった。ラティカたちは聡明で、妃に相応しい自負心の持ち主だ。同情など、決して許さない。


 アーリヤは内心で渦巻く後悔をおくびにも出さず、王に微笑む。


「……明日、澄蘭(ちょうらん)様の元へ行かれるそうですね」


 気まずげに目線を()らすカルティクを、アーリヤも愛おしいと思う。

 政略で結ばれた王と后であっても、彼はアーリヤを愛してくれている。その僥倖(ぎょうこう)を、アーリヤも手放すことを恐れていた。


 いつかのあの日、澄蘭に(とぎ)の声を聞かせるという暴挙に出たのは、寵の不均衡が招く後宮の歪みに気付いてほしかったからだ。もちろん正妃として、悪意に対する澄蘭の耐性を測る意図や、彼女に妃の仕事への意識付けをする思惑もあった。


 澄蘭の胸には今も、亡き婚約者が生きている。その思いを否定はしないし、そもそもそれがどんな思いであるかは、アーリヤには計り知れない。それでも、彼女はカルティクの側妃候補になったのだ。


 そしてあの行動に、新たな妃に対する女としての牽制(けんせい)が混ざっていたことも、アーリヤは自覚していた。

 それゆえに、彼女は微笑む。


「澄蘭様、それに、新たに入った二人の妃。一月ほどは、彼女たちを慈しみなさいませ。そしてそのあとは、ラティカを。彼女をこれ以上不安にさせないためにも、『新たな妃との関係を築いたあとに、必ず向かう』と、すぐに約束してやってくださいな」

「……待て、アーリヤ」


 心なしか顔色を悪くして、カルティクが(うな)るように言う。


 彼が、複数の美女を思いのままに出来るこの環境を、楽しめる男であれば良かったのに。

 あるいは、個人の情と行動を、明確に区別出来る強さがあれば。


 彼は一人の夫として誠実で、そして、後宮の主として弱過ぎる男だった。


 アーリヤは透明な玻璃(はり)の酒杯越しに夫を見つめ、ただ淡い笑みを浮かべる。


「夜伽でなければ、……そうですね、夜以外であれば、話のお相手は努めさせていただきます。シュレヤも、三年前に亡くしたあの子を思って、今も泣いています。出来れば、話を聞いてやってください」


 カルティクは聡明な男だ。アーリヤの言葉に潜む意味を、恐らくは読み取ってくれたはずだ。

 彼は黙って俯き、溜め息と共に頷いた。


「……そうだな。この十年、俺はお前に、お前たちに、甘え過ぎていた。……済まなかった」

「本当ですわよ」


 ニコリと笑い、アーリヤは右手をカルティクの頬に伸ばす。軽くその痩せた頬をなぞったあと、彼女はおもむろに、その頬をつねり上げた。


「いっ……」


 ギリギリと音のしそうな勢いで頬をつねられ、カルティクが悲鳴を上げた。アーリヤは容赦なく指先に力を加える。ファリダほどではないが、アーリヤだって舞や子と遊ぶために、身体と力を鍛えているのだ。


「まったく、四十近くにもなって。しっかりなさってください。私たち后妃も、あなたの民ですのよ。王は民を護る義務がある。──その心も」


 痛みに物理的に涙を流しながら、カルティクは十も年下の妻の行動に、黙ってされるままになっている。アーリヤは最後に一際力を込め、やがて夫の頬から指を離した。


「──澄蘭様には、よくよくお()びをなさってください。途中でお国に帰られても、こちらは文句を言えませんでしたわよ。あの若さで、本当に聡明で、お優しい方です」

「……分かっている」


 赤く()れ上がった頬を(さす)りながら、仏頂面で頷く夫に、アーリヤは思わず吹き出してしまう。

 そして空になった自分の杯に豪快に葡萄酒を注ぎ、夫に折檻(せっかん)を加えたとは思えない繊細な手付きで、酒杯を持ち上げた。

 彼女に(なら)ったカルティクに、軽い音を立てて杯を合わせ、アーリヤは一息に酒を(あお)った。







 部屋を出ていく夫に、アーリヤはそっと呼び掛ける。




「愛しております、カルティク様。これからも、ずっと」




 カルティクは振り返らなかったが、その言葉にそっと頷いた。


タイトルは、フランク・シナトラの曲名より。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ