【逸話】とある夜の公爵家の執務室
重厚な扉が静かに閉じると、書斎には再び静謐な闇が降りた。
壁一面を覆う本棚には、古今の魔導書と歴史書がぎっしりと並ぶ。
年季の入ったキャビネットの上には、由緒ある魔術道具が無造作に置かれている。
ここ――アルトフェルド公爵家の執務室には、国宝級と称されるほどの貴重な品々が収められていた。
「……第三王子が、リリアナに接触したそうだな」
低く、重みを帯びた声が静けさを破る。
この国に三人しかいない〈大公爵〉のひとり、ヴァルト・アルトフェルド。
幾多の戦場と政争を潜り抜けてきた男の声には、威厳が滲んでいた。
対するのは彼の嫡男、ユリウス・アルトフェルド。
次期アルトフェルド公爵と目される若き青年だ。
引き締まった面差しにはまだ若さが残るものの、
その瞳には、若き指導者としての覚悟と責任が確かに宿っていた。
「確かに。舞踏会の夜、偶然……いえ、意図的に近づいた可能性もあると見ています」
ユリウスの言葉に、ヴァルトは再びグラスを傾ける。
琥珀の液体が揺れる音が、書斎の闇にゆっくりと溶けていった。
「……黒髪に赤い瞳。あの特徴が何を意味するか――お前も知っているな」
低く、威圧を含んだ声が、書斎の静けさを切り裂いた。
ユリウスは一拍置き、深く頷く。
「はい。千年前、大陸を戦火に包んだ“魔王”と全く同じ特徴です。
――黒髪に、赤い瞳。あれは、“魔王の魂”が最も馴染む“器”の証」
慎重に言葉を選びながら続けた。
「王国の正史には残されていませんが……公爵家に代々伝わる書物の中には、封印された魂が今も眠っていると記されています」
ヴァルトはわずかに目を細め、グラスの中の酒を傾けながら静かに頷いた。
「……ああ。歴代の当主が、代々口伝として守ってきたことだ。
表には出せぬが――“それ”は確かに存在している」
その声には、既知の真実を改めて口にする重みがあった。
「だがな、ユリウス。封印は“永遠”ではない。
そして黒髪赤目の者が現れるたび、世界は災厄に見舞われてきた。
反乱、疫病、魔獣の異常発生……それらの“起点”に、必ずその特徴を持つ者がいた」
ユリウスは苦々しく眉をひそめる。
「記録が残っていないのは……その者たちが、“誰にも知られないまま処理されてきた”からでしょうね」
「……ああ。忌むべき“器”として。歴史の闇に葬られてきたのだ」
ヴァルトの言葉に、ユリウスの瞳がわずかに揺れる。
第三王子――ゼルヴィオル・リグレイド。
その名を耳にするたび、心の奥にざらついたものが残る。
黒髪に赤い瞳。忌み嫌われた“魔王の器”の特徴を持ちながら、いまや王都の騎士団長という地位にいる異端の男。
かつては「呪い子」と呼ばれ、幼い頃から王城の塔に幽閉されていたはずの存在が、なぜ今、堂々と表舞台に立っているのか――。
(……なぜ、王はそれを許したのか)
ただの情けとは思えない。
政略か、思惑か。それとも――もっと深い意図があるのか。
彼に対する恐れは根強く残っている。
だが同時に、戦場で彼に命を救われた者たちが、真の忠誠を捧げているという話も耳にしていた。
英雄と恐れられ、同時に敬われるその存在は、確かに矛盾している。
しかし――
「……それでも私は、あの男を即座に“敵”とは断定できません。
彼が、まだ“魔王そのもの”でない限りは」
ユリウスの声は静かだが、そこには理性に基づく強さが宿っていた。
「――甘いな、ユリウス」
ヴァルトの返答は冷ややかだった。
だがそこに込められたのは、息子の甘さをたしなめるだけの感情ではない。
父として、そして国家を背負う一人の大公爵としての、厳しい現実への警鐘だった。
「奴は“器”だ。どれほど意志が強かろうと、魔王の魂が入り込めば、いずれは乗っ取られる。
……黒髪赤目とは、“魔王に選ばれし贄”。そう記された禁書も、確かに存在したはずだ」
ヴァルトの言葉は、静かであるにもかかわらず――断罪に近い冷たさを帯びていた。
「しかも、今年に入ってから――各地で異常な魔力の活性が観測されている。
魔力の流れが乱れ、瘴気の濃度が局地的に高まる現象が、短期間に何度も起きている」
ヴァルトはグラスを静かに置き、重々しい口調で続ける。
「……“目覚め”の兆しがあると見て、間違いない」
ユリウスは口を閉ざした。
否定したかった。だが、反論できなかった。
“魔王の器”が目覚めるとされる兆候は、既に世界に現れ始めている。
異常魔力の発生、瘴気の増加、不穏な現象の連鎖。
そして何より――“聖女の誕生”。
脳裏に浮かぶのは、銀の髪に透き通る瞳を持つ、愛しい妹の姿だった。
(……リリアナの“力”が……)
彼女に宿るものは、ただの霊感などという生やさしいものではない。
瘴気の渦巻く地に彼女が立てば、空気が浄化され、魔獣はその場で崩れ落ちる。
それを目の当たりにしてきた家族だけが、その力の本質に気づいていた。
本人ですら、自覚していない。――いや、させていない。
「……“聖女”とは、本来、世界に均衡をもたらす“神の代行者”だ」
ヴァルトの声が、再び書斎の静けさを破る。
「汚れを祓い、秩序を保つ“祝福の器”。
だが同時に、魔王にとっては最大の障壁であり――最大の“憎悪の対象”でもある」
ユリウスは、喉の奥をぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われながら問いを重ねる。
「……つまり、“聖女”が目覚める時は、“魔王の器”もまた目覚める時。
この二つは……対で現れる、ということですか」
「その通りだ。歴史がそれを証明している。
聖女の力が確認された時――必ず、災厄が迫っている」
ヴァルトの眼差しがわずかに細められる。
厳しさの裏に、父親としての愛情と、抗いがたい焦燥が滲んでいた。
(父も……リリアナを、心から案じている)
「……利用するか、潰すか。あるいは、引きずり込もうとするか。
魔王の魂は、必ず“聖女”に向かって手を伸ばす」
ユリウスは静かに息を吐くと、目を伏せた。
その拳には、いつのまにか力がこもっていた。
「……教会が動き出す前に。王家が嗅ぎつける前に。
――我らが、あの子を守らねばならん」
その言葉に、ユリウスの瞳が静かに燃える。
意志は、鋼のように揺るがなかった。
「……どちらになろうとも、あの子を守るのは私です。
たとえ王子が敵になろうとも。たとえ――王そのものが敵になろうとも」
一瞬だけ、ヴァルトの唇がわずかに綻ぶ。
そしてすぐに、再び厳格な父の顔へと戻る。
「……良い目をしているな、ユリウス。
託すぞ。私が動けぬ時は、お前が、あの子の盾となれ。
たとえ、それが“世界”を敵に回すことになろうとも」
ユリウスは、まっすぐ父を見据えたまま、はっきりと答えた。
「心得ております。
あの子は、我が家にとって何よりの“宝”です。
どんな脅威があろうと、俺は――リリアナに、二度と涙を流させません」
そのとき、ヴァルトの表情がふと和らぐ。
ユリウスの決意を受け止めたヴァルトは、ふと視線を外し、再びグラスを手に取った。
「……とはいえ、あの子の周囲は、完全に無防備というわけではない」
「ええ。カイルが、そばに付いています」
ユリウスは静かに答えた。
「リリアナ専属の執事であり、護衛。……そして、この国でも指折りの実力者です」
「表では目立たないよう動いておるが、この大陸で“五本指”に入るだろう」
ヴァルトが口の端をわずかに持ち上げたのを見て、ユリウスも僅かに表情を緩める。
「彼がリリアナを守ると誓った以上、たやすく近づける者はいません」
「……ならば、なおのこと、我々が余計な注目を集めてはならん。
あの子の力が、“聖女”だと気づかれた瞬間――すべてが動き出す」
重く、鋭い言葉だった。
カイルの存在は頼もしい。だが同時に、それは裏を返せば、彼のような“切り札”を傍に置かねばならないほど、リリアナの周囲が危険だということでもある。
「教会が彼女を“奇跡の証”として求めれば、聖堂に幽閉されるだろう。
王家がその力を戦に使おうとすれば、“兵器”として扱われる」
「……そうはさせません。」
その言葉に、ヴァルトは深くうなずいた。
「――よく言った。ならばこそ、“守る理由”を見失うな。
あの子は、聖女である前に……お前の、そして私の“家族”なのだから」
交わされたのは、剣でも魔法でも守れぬ〈覚悟〉の誓い。
血よりも深く、愛よりも強く。
ひとりの少女の笑顔を守るため、彼らは己のすべてを捧げる覚悟を、静かに、しかし確かに交わしていた。