4話 魔獣討伐①
――なんで、あんなにドキドキしてたんだろう。
鏡の前で、私は顔を覆ったまま「ううう……」と小さく呻いた。
昨夜の出来事が、まだ身体の奥に熱を残している。
不意の転倒、近すぎる距離、耳元をかすめた低い声――
思い出すだけで、心臓が喉まで競り上がってくる。
……いやいやいやいや、落ち着け、私!
ときめいてる場合じゃない。あれは事故。ただの事故!
私は悪霊を追っていただけで、たまたま、そこに――
――“私の理想の王子様”が、存在していただけで!
だ、だめだ。思い出すたびに脳が沸騰しそう……。
吸い込まれそうな瞳。
くすぐるように響く、艶のある低い声。
呼吸するだけで場を支配するような、圧倒的な存在感。
……なにあの人。反則でしょ。
「……そういえば」
昨日の光景が、ふっと脳裏をよぎる。
至近距離の視線。低く響いた、あの声。
でも――
「……名前、聞いてなかったな」
口に出した瞬間、そのことが急にもどかしくなった。
こんなにも彼の姿が脳裏から離れないのに、名前さえ知らないなんて。
それだけで、なんだか急に遠い人みたいに思えて、胸がちくりと痛んだ。
しかも、あのとき感じた悪霊の気配は、いつの間にかすっかり消えてしまっていたし……。
「――ああもうっ! こんなんじゃ集中できない!」
気を紛らわせたくても、本を読んでも頭に入らず、食事も味がしない。
だったら、残る手段は――ひとつ!
気づけば私は杖を手にし、森の奥へと足を踏み入れていた。
魔獣討伐。
それが、今の私にできる、唯一の冷却法だった。
♦︎♢♦︎
ドカンッ!
「もおぉぉぉおお!!」
ドカンッ!!
「なんでっ!!」
ドカーーーーンッ!!!
「あんなに……あんなに、えっちなのよぉぉぉぉおおおお!!!!」
怒鳴り声とともに轟く爆音。
荒れた森の奥で、魔獣たちが次々と吹き飛ばされていく。
その中心に立つのは、白銀の髪を陽光にきらめかせながら戦う、一人の少女――
リリアナ・アルトフェルド公爵令嬢。
その瞳には怒りと混乱が渦巻き、頬はぷくりと膨らみ、
普段の気品あふれる公爵令嬢の姿はどこへやら。
そこにいたのは、心をかき乱された乙女が、全力で魔獣に八つ当たりしている姿だった。
彼女が杖を振り下ろすたびに、まばゆい閃光が暗い森を照らし、魔獣たちは咆哮を上げながら吹っ飛んでいく。
倒された魔獣の中には、一瞬にして跡形もなく消滅したものもいた。
「私のバカーーー!!」
怒りを爆発させながら杖を振り下ろすと、さらに強烈な光が放たれる。
「名前ぐらい聞きなさいよ! 意気地なし!!!」
闇に包まれた森が昼間のように明るくなる中、
彼女の中に渦巻く感情が、ますます大きな魔力を引き出していく。
「どうしてあの人のことばっかり考えちゃうのよーーー!!!」
華奢な体からは想像もできない一撃が放たれる。
立ち尽くす少女の肩が、荒い息とともに上下し――
怒りとも戸惑いともつかない表情で、森の奥を睨みつけていた。
その手に握られた杖はまだ震えており、
地面には小さな光の余韻が散らばっている。
静寂が戻る中、彼女は一歩踏み出し、唇を噛み締めた。
「……もう、なんでこんなに振り回されてるのよ……!」
リリアナが杖を振るたび、まばゆい白光が辺りを包み込む。
その光は一瞬で暗い森を昼間のように照らし出し、
怯えたように後ずさる魔獣たちの姿を浮かび上がらせた。
「名前ぐらい聞きなさいよ! 意気地なし!!!」
さらに一撃。轟音とともに放たれる閃光が大地を貫き、
魔獣の姿がまた一つ消える。
そのたびに空気が揺れ、周囲に漂う闇が浄化されていくようだった。
そんな彼女の背後から、ため息混じりの声が届いた。
「お嬢様。そろそろ、魔獣に八つ当たりするのはお控えください」
呆れと心配を半分ずつに混ぜたような声音で、ゆっくりと近づいてくる。
「……え?」
リリアナは思わず、ぴたりと動きを止めた。
振り返った視線の先にいたのは――
幼い頃から仕えてくれている、私の専属執事・カイル。
「ちょ、ちょっと待って……なんでカイルがここにいるの!?」
思わず声を上げると、カイルは肩をすくめ、淡々と答える。
「――いつもの“発作”だと推測しましたので。場所を特定したのは企業秘密です。
それに……結界の外に一人で出るなど、命知らずにもほどがありますよ」
「発作って言わないでよっ!」
リリアナはむくれながらも、言い返す。
「だって……ここを少しでも安全にしておけば、
薬草を採りに来る薬師さんや、狩りをする人たちが安心できるでしょ?」
リリアナの頬はまだぷくりと膨らんだままだが、その目には確かな意思が宿っていた。
「最近、怪我人も増えてるし、また誰かが襲われたらって思うと……。
だから私が少しでも減らせるなら、やるしかないでしょ!」
真っ直ぐな言葉に、一瞬カイルが目を細める。だが次の瞬間、また静かにため息をついた。
「ごもっともですが……これはもう、“討伐”というより“更地化”でございます。
この森は領地を守る結界の外側――本来なら、騎士団ですら慎重に踏み入る場所です。
そこに、十代の公爵令嬢が感情のまま突撃するなどとは……」
吹き飛んだ木々や岩。えぐれた大地。
浄化どころか“消滅”してしまった森の一部を見て、カイルは額に手を当てる。
「それに、そろそろお戻りになりませんと、公爵様と兄君たちが、心配のあまり業務を放り出して、森へ突入してしまいますよ?」
「え……?」
「さ、さすがにそれはないでしょ? お父様も、お兄様たちも、そんなに暇じゃ――」
「……おや? お嬢様、まさかお忘れですか?」
カイルは笑みを深めながら、さらりと言った。
「前回など、騎竜部隊を出動させての大捜索でしたよ。しかも――一度や二度ではありませんよね?」
「……うっ」
心当たりがありすぎて、リリアナは口をつぐんだ。
森の上空を、蒼く輝く翼の騎竜たちが飛び交い、
地上では兄が部隊を率いて必死に名前を叫んでいた光景が、脳裏に焼きついている。
(……あのとき、兄様、泣きながら抱きついてきたんだよね……)
胸がきゅっと痛む。けれど、心の奥がほんの少しだけ、暖かくなった。
(こんなに大事にされるなんて、前世じゃ考えられなかったな……)
心配されるのは――少し、嬉しい。
「怪我したわけじゃないのに……」
「ですが、公爵様のご心労は、すでに白髪と胃薬の常備という形で顕現しております」
「うわああああやめて! それほんとに心当たりあるからあああっ!」
リリアナが顔を両手で覆って叫ぶと、カイルは肩をすくめ、小さくため息をついた。
「……ちょっと、やりすぎたかも?」
彼女が恐る恐る目元から手をどけて呟く。
「とても、ですね。ですので、そろそろ戻りましょう。ちょうど、お茶の時間でございます」
カイルが柔らかく微笑む。
リリアナはふと周囲を見渡し、ようやく現実に意識が戻った。
周囲には、かつて魔物が跋扈していた気配が色濃く残っていた。
よどんだ空気は重く淀み、リリアナと魔獣との戦いで荒れ果てた大地が広がっている。
木々は黒く変色し、草花はしおれて色を失い、まるで生命そのものを吸い取られたかのようだった。
その異様な雰囲気に気づいたリリアナは、じわじわと青ざめていく。
「……まずい。これは、ほんとに怒られるやつだ……」
……気づいた時には、すでに遅し。である。
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