生きる。
武道 春、46歳、独身。
仕事は、害虫駆除である。営業後の飲食店のキッチンで、食洗器とか、冷蔵庫の裏に隠れてる害虫を、駆逐している。
世間様に向かって、堂々と名乗れる仕事ではないが、そんなことはどうでも良い。
ディーラーのように高いプライドを守るために、人間の値踏みをしてすり寄るのも、事務職のように、上司から嫌われないよう機嫌を取って、裏で悪口を言い合うのも。自分には向いていなかったというだけだ。
誰かがやらなくちゃいけない、「必要な仕事」を、生きるためにこなす。
自分にとっては、人間と関係を構築する苦痛の方が、虫と向き合う気持ちの悪さよりも、低すぎる賃金よりも、ずっとずっと耐え難かったというだけなのだ。
昼は、工場でアルバイトをしている為、その帰路にあるスーパーで値引きシールの貼られた総菜を買い、一度家に帰る。二つ入りのコロッケは、いつもならビールと共に消えていくのだが、今日はまた夜から仕事がある為、そんな訳には行かない。
帰ってきてからのお楽しみだな、と一つだけ残したコロッケを冷蔵庫に入れてから作業服に着替え、いつも外に出る時に持ち歩くのとは違う、真っ黒なリュックを背負って家を出た。
今日の仕事場は、とあるビルの12階だった。都会のど真ん中に佇むこのビルには、沢山の飲食店のテナントが入っている。
近くに映画館やカラオケ、スポーツ施設みたいな娯楽施設も多いので、おしゃれをした若い子たちや、金を持った大人達が集まるような場所なのだろう。
まあ、そんなこと、自分には関係ない。
日向側にいる人間は、日陰にも人間がいて、そいつらに自分の生活が支えられているということに目を向けたことがあるのだろうか。
そんなことも考えてはみたが、やはり誰からも気に留められることなく、ただ黙々と一人で仕事をこなして生きるのが、今は丁度良かった。
マップを見て、最初の店舗のドアを開ける。電灯の消えた店内には、大きな窓から差し込む夜景だけが眩しく差し込んでいた。
何を思うでもなく、ただ仕事をするためにまっすぐキッチンに向かう。
リュックサックを近くの台に置き、手袋をはめ、必要な工具を取り出すと、いつも通り目を閉じて、少し長めに息を吸った。良し。
パカッと食洗器のボタンの蓋を取り、シュッと動きを止めるスプレーを横から差して、パチッと裏側を覗く。一切の音を立てることはないが、そこには取り除くべき害虫がいつもの通り、うじゃうじゃとうごめいていた。
飛ぶことがないよう、一匹一匹に、神経を麻痺させるスプレーを差し、間違いがないことを確認しながら、ゆっくりと手順を踏んで害虫を取り除く。
この次は、冷蔵庫のパッキンを取って……。
そんなことを考えていると、突然声が飛んできた。
「お疲れ様です」
声の方を振り向くと、この店の制服だろうか。コック服を着た若めの女がこちらを見て立っていた。
「すみません、忘れものしちゃって」
そう言うと、女はヘラヘラとしながらキッチンに入り、皿の死角から、英語が書かれたプリントを取り出した。
「ありがとうございます、お先に失礼します」
そう言って笑顔で頭を下げる女の遠ざかる足音を聞きながら、頭の中に溢れ出るものに息が詰まる。
大学で楽しく過ごして、時給を貰いながら、だべって、その場しのぎの勉強をして。
でも、世間から評価されるのは、必要とされるのは、ああいう人間なのだ。
私が雇われてるのは、あいつらの上司で、あいつの方が私より偉いわけではない。
あいつも、偉そうな態度をとっている訳でもない。
だが、何とも形容しがたい胸のつかえが、息の仕方を忘れさせ、身体の自由を奪っていた。
そうだ、仕事しなくちゃ。
そんな思いで、食洗器に向き直る。
蓋の中で、飛ぶ自由を奪われながらも触角を動かす害虫と、目が合った気がした。
こいつらは、生きている。
なのに、今から私は、こいつらを殺す。
「飲食店に居てはいけない存在だから」
という理由だけで、人間のエゴで。
それって、一体どうなんだろうか。
人間は、私は、何のために生きているのだろうか。
そう思うと、ふっと張りつめていた何かが、切れた気がした。
「この子たちにも、夜景を見せてあげよう」
そんな思いで、手袋でがしッと虫を掴んで机に運んでいく。
次だ、よし、次の店も……。
もう、そこからの記憶は一つもない。
自分が感じた感情の名前も分からない。
だが、そうして私は最後の仕事をやってのけた。
その後、店や私がどうなったのか。
今は知る術も由もない。
テーマは『正義の暴走』です。