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5月33日の退職届

作者: 八雲ヒイロ

都市伝説風の奇譚となる短編小説、第3話目となる今作は、オフィスを舞台としたホラーテイスト作品です。

 接客用の応接室に置かれた古い木製のブロックカレンダーは、Sが入社したときからずっとそこにあった。月と日付、曜日が書かれた三つのサイコロ状立方体を、人が手でセッティングするというシンプルなものだ。万年カレンダーとも言われるが、実用性はもちろん無い。重苦しい空気を漂わせる応接室には観葉植物も無いから、オブジェとして置かれているのだろう。


(でも、いつも正しくセットされてるよな……)


 この点が、Sはいつも不思議だった。誰かがセットしているところを見たことはないが、常に正しい月日と曜日になっているからだ。総務部の職員が対応しているのか、あるいは、最初に見つけた職員が気を利かせているのかは分からない。もし間違っていたらSが自分でセットしようとも思うのだが、そのチャンスはこれまでに一度もなかった。


 五月ももうすぐ終わろうかという、ある日のことだ。残業で遅くまでオフィスに残っていたSは、コーヒーを淹れに給湯室へ向かう途中、応接室の前で足を止めた。扉は大きく開いていて、ブロックカレンダーの数字がチラリと見えた。


(……あれ?)


 日付は「33日」とセットされていた。

 この日は5月30日である。


(33日なんて日付、あるわけないだろ~)


 苦笑しながら応接室に入ったSは、日付を正しくセットし直した。カレンダーを正しく更新するという役目をようやく果たせたことで、その日は少しだけ気分が良かった。


 翌朝、早めに出勤したSは、ふと気になって応接室をのぞいた。


(あ!)


 不思議なことに、ブロックカレンダーはまた5月33日にセットされていた。昨日に続いてのことだから、間違いとも思えない。何かの意図があるとしか思えなかったから、カレンダーはそのままにしておき、総務部へと向かった。

 先輩であるAさんはすでに出勤しており、この件について聞いてみることにした。すると彼女は声をひそめて、


「あのカレンダーは気にしない方がいいよ。普段は私がセットしてるんだけど、この時期はちょっとね……」


 と、腫れ物に触るように言った。


「どういう意味ですか?」

「うちの会社には『5月33日の退職届』って噂があるんだけど、聞いたことある?」

「……初めて聞きました」

「いつの時代の話かは分からないけど、昔ね、五月の末日にいきなり退職届を出してきた新入社員さんがいたんだって。事前に相談もなかったし、急に届けを出されても会社は困る訳よ。今みたいに『退職代行サービス』がある時代とは違うからね……」

「なるほど。それで、その人はどうなったんですか?」

「提出された退職届には明らかな不備があってね、退職日付が『5月33日』って書かれてたらしいよ。もちろん、その場で書き換えれば済む話なんだけど、総務の担当者はそれを理由に受理をいったん保留して、『もう一度、よく考えてみないか』と諭したんだって。その日は金曜日だったし、土日の休暇中によく考え直した方がいい、ってね……」


 Aさんは言葉を少し詰まらせてから、


「だけどね、その人は休暇中に命を絶ったの」

「……」

「日曜日の深夜のことらしいから、月曜の出勤がプレッシャーになったのかもね……」


 Aさんがそこまで語ったところで、他の社員が元気よく挨拶しながらオフィスに入ってきた。


「まあ、そういう訳だから気にしない方がいいよ。あのカレンダーが、この時期だけ勝手にセッテイングされる現象もね……」


 意味深に言うと、Aさんは始業前の準備作業を始めだした。

 

 不思議な朝から始まった五月末日だったが、仕事は無事に終わった。社内の妙な推進ルールにより「週末はノー残業デー」とされているから、今日は全社員が定時で仕事を終えねばならない。普段はブラック企業そのままの仕事量に疲弊する毎日だが、今日だけは逆に、定時で帰らないと上司から注意されることとなる。


(本当に、面倒な会社だな……)


 表向きは綺麗事ばかりを言うが、実態はかなり黒い。金融系サービスを提供しているが、ノルマは過酷である。客に売りつける金融商品は、内容を知る社員であれば絶対に買いたくないものばかりだ。


「ふう……」


 ため息をつきながら、Sは帰り支度を進めた。

 周りの職員は誰もが帰宅して、オフィスが静かになり始めた頃―


「S君、ちょっといいかな……」


 総務部のAさんが青ざめた顔で声をかけてきた。


「どうしました?」

「ここではちょっと……」


 まだ社員が三人ほど残っているからか、Aさんは気にしているようだ。

 そうして二人は、応接室で話をすることにした。


「これがね、昼休みに私の机に置かれてたの。覚えはある?」


 Aさんが差し出したのは、茶色い封筒だった。

 宛名欄には「退職届在中」と書かれている。


「これは……」


 Sには、見覚えがあるものだった。この会社に入ることが決まったとき、祖父から勧められて書いておいた退職届に間違いなかった。もちろん、すぐに辞めるためではなく、「男というものは、いつ辞めてもいい覚悟を持つことで、良い仕事ができるんだ」という、古い昭和時代そのままの男気を持つ祖父の助言に従う形で、仕方なく書いておいたものだ。普段は引き出しの奥にしまっていて、最近では存在も忘れていた物である。

 Sがあわてて中身を確認する。

 退職日付はもちろん書いていなかったのだが―


「5月……33日!」


 確かに、そう書かれている。

 筆跡はSとは違うものだった。


「今朝、あなたとあんな話をした直後だから変だなと思ってさ……。だから、そのまま誰にも報告せずに、私が保管していたの。やっぱり、覚えはないよね?」


 Sは素直に、祖父からの助言の話をした。

 ただし、実際に使うつもりはなかったと断言する。


「なるほどね……。そうなると、まずいことになるかも……」

「まずいこと?」

「ええ……。あなたが入社する前にも同じようなことがあったんだよね。その時も、退職の意思がない職員さんの退職届が総務部に置かれてたの。日付は今日と同じ、5月31日。その人もね、あなたと同じような意味で『覚悟のための退職届』を持ってたんだけど……」

「その人はどうなったんですか?」

「笑いながら退職届を廃棄したけど、その二日後に交通事故で亡くなったわ……」


 そこまで聞いて、Sは背筋が寒くなった。

 これは「呪い」というものに間違いないだろう。

 それに―


「5月31日の二日後ってことは、日付は33日ということに……」


 Sはようやく、33日の意味を理解した。

 避けがたい呪いは今、自分に向けられている。


「S君、どうする? もちろん退職届は受けないけど、そうなると大変なことに……」


 Aさんは声を震わせながらも、心配してくれている。

 だが、Sは体を震わせるだけだ。


(どうして俺が! こんな会社、どうでもいいのに!)


 怒りにも似た感情がわいてきた。

 その時、ふと祖父の言葉を思い出した。


(いつでも辞める覚悟が無いと、良い仕事なんてできん。もっとも、会社を辞めたところで人間はどうとでも生きていけるから、心配するな!)


 そんな言葉に安堵したものだ。

 Sは覚悟を決めた。


「Aさん、大事なことを教えてくれて、ありがとうございました。それでは、こうすることにしましょう……」


 Sは退職届を机に置き、ある部分に修正を加えた。


 5月33日の退職届騒ぎから一ヶ月が経った今、Sはオフィス内を忙しく回って、世話になった上司や先輩職員への挨拶を続けていた。

 彼は本日、6月30日を持って、会社を退職することが決まっている。


「本当に、これで良かったの?」


 最後に、Aさんは心配そうに言った。

 そうして、先月時点で受理された退職届を指し示す。

 退職日付は手書きで修正が加えられ、


―6月30日


 と、表記されていた。


「やっぱり、何事も命あってのことですからね」


 Sは穏やかに笑いながら言った。

 5月33日にあたる6月2日となっても、何も起こらなかった。

 もしあの時、修正版の退職届を正式に出さなかったら、果たして―

最後までお読みいただきありがとうございます。

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