2-8
「一体何処に行ってたの? なんだかくたびれているみたいだけど」
教室に戻ると生芽が俺の机に腰かけていた。白魚のような指が暇を持て余すように何度も机上を滑っている。ただそれだけなのにそこはかとなく官能的である。
「や、ちょっと翔に呼び出されててさ」
わざわざKIS(神楽生芽親衛隊)とかいう紙袋被った変態達に襲われたなんて言う必要ないか。言われても困るだけだろうし。
「ふーん、そう、本当に仲が良いのね」
生芽は足で軽く反動をつけ、机から降り立った。随分と長時間座っていたのか机には生芽の臀部の湿り気がうっすら醸成されている。よし、明日はあの机に頬を擦り付けるとしよう。俺の机だしなんの問題も無い、無問題だ。モーマンタイだ。
「幸平?」
「うわぉおお!?」
とびきり整った顔が目の前で俺を覗き込んでいる。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「生芽の顔は心臓に悪いんだよ……」
「それって良い意味でしょ?」
「うぇ、まぁ、うん……そうだけど……」
「私は幸平の好みの外見なんだもの。ドキドキした?」
「そりゃするでしょ」
生芽は悪戯した子供のようにペロリと舌をだしてクスクスと笑った。
「さ、お夕飯の買い出しに行きましょう? 確か駅前に商店街があったわよね。何か食べたいものはある? そうだ日用品も買い足さないと……」
「別に俺はなんでも良いけど……」
「はい減点」
人差し指で胸の辺りを強めに押さそのままグリグリされる。
「減点て、何の……?」
生芽の指先から逃れるように一歩後方に下がりながら尋ねる。
「仮に幸平が女の子とデートに行って何食べたいって聞いたとするでしょ?」
「うん」
「何でも良いと言われたとしましょう」
「ん? うん」
「幸平はじゃあ中華でもどう? と提案をしました」
「うむ」
「それで女の子の返答が「いや中華って気分じゃないかなー」だったら、顔面にパンチ入れたくなるでしょう?」
「流石にそこまでは思わないよ!?」
「幸平はこれと同じことを私にしたのよ? わかる? 何を食べたいか尋ねられて、何でも良い? この世で最も忌避すべき回答よ。全部丸投げ。思考放棄。相手に全ての責任を負わせる言葉よ。良くないわよね。これから共同生活を送っていく相手に対して不誠実とは思わない?」
「確かに……ごめん、俺が悪かったよ……」
「ん、じゃあ良いわ。この話はお終い。献立は買い物をしながら考えましょうか。さ、行きましょう。荷物持ちさん♪」
「言っとくけど俺はそこそこ貧弱だから荷物持ちとしての適性は低いぞ」
「ふふ、期待しているわ。それとトレーニングのメニューも考えてあげる」
※※※
駅前の商店街は、この辺りだと数少ない人の賑わう場所だ。
古き良き商店街と言えば良いのか様々な個人商店が立ち並ぶ通りが数百メートル程続いている。少し先に大型総合スーパーもあるが地元の人間はもっぱらこちらの商店街を利用している。
夕方に差し掛かったこの時間帯も夕飯の買い出し中の主婦や、学校帰りの学生で賑わっている。もう一時間もすれば仕事帰りのサラリーマン達もこの賑わいの一部に加わるのだろう。
そんな賑わう商店街の人混みの中を生芽と共に進んでいく。生芽の進む先は不思議なことに人波がすぅーと開け、まるでモーセの海割のエピソードみたいになっていた。生芽はどこ吹く風だが、かなり目立っている。そりゃそうだ。とんでもない美少女だもの。俺は出来るだけ周りを見ないように地面と生芽の靴を見ながら前に進む。
「幸平ってば聞いてるの?」
「え、何?」
「もうっ、お夕飯の話よ」
「あぁえっと……そうだなさっぱりしたものかな」
「もう少し具体的な希望が欲しい所だけど、その方向で考えましょうか……となるとお魚か……変わり種で冷麺とか?」
「そーいえば魚、魚最近食べてないな」
「うん、じゃあお魚にしましょうか丁度そこに魚屋さんがあるわね」
「いらっしゃい! お嬢ちゃんえらいべっぴんやねぇ! 女優さん? それともモデルさんかい?」
「残念ただの学生です。でもありがとうございます。今日のおすすめってありますか?」
「うちのは全部お勧めだけどそうだ旬的には鰹かな、初鰹! 脂がのってて勿論お刺身にしても良いし、たたきや焼き魚にしても美味しいよ!」
「じゃあ初鰹を頂けますか?」
「はいよ! じゃあオマケでこれとこれも付けちゃう!」
「良いんですか? ありがとうございます!」
こんな具合に寄る店寄る店、おまけを付けてくれるものだから、あっという間に俺の両手は袋で一杯になってしまう。
「さてと、後はお肉も買っておきたいわね……」
「まだ買うのか……? 俺、結構腕が限界なんだけど……」
「幸平はもう少し体を鍛えた方が良いわよ。やっぱり帰ったらトレーニングメニューを考えてあげるわ」
「えぇ……良いよ別に……」
「主人公なんだから少しくらい鍛えた方がなにかと役に立つかもしれないじゃない?」
「ラブコメ主人公って腕力がものを言うことなくない?」
「お姫様だっことかするのに必要でしょ?」
「そんなことをする予定はないけど……」
「いざすることになった時に困るじゃない。それに健康の為にも日々の運動は体のメンテナンスとしても重要なんだから」
まぁお姫様抱っこはともかく、最近運動してないから地味にお腹周りが気になってるんだよな……。
「あ、お肉屋さんね。ちょっと待っていて」
肉屋では唐揚げやコロッケなどの総菜類も販売しており、肉と油の香ばしい香りが漂ってくる。さっぱりしたものの気分だったけど、この匂いを嗅いでいるとガツンとした脂っこいものも食べたくなってくる。お腹周りのことは取り敢えず見て見ぬふりをしておこう。揚げ物は高温で処理してるので実質0カロリーだしな。
「お待たせ」
生芽から肉屋の袋を受け取る。あ、もうダメ、これ以上は絶対持てない……。やっぱり筋トレ始めようかな……。
「またオマケを頂いてしまったわ」
生芽は小さな袋から、コロッケを取り出した。
「あぁ、あそこのコロッケ結構うまいって評判だっけ」
「ほんと、美味しい……!」
「生芽さん? なに一人でコロッケ頬張ってるの?」
「ちゃんと幸平にもあげるわ。はい、どうぞ」
そう言って生芽は俺の口元へ、食べかけのコロッケを差し出してきた。
「俺にどうしろと?」
このままパクつけと? 新しいの頂戴よ。その袋にまだ入ってるじゃん……。
「仕方がないでしょ? 幸平の両手は塞がってるんだし、こうでもしないと食べられないじゃない」
それはそうなんだけど……。か、関節キスになっちゃうじゃん……。昼の箸の件と言い、生芽はそのあたり無頓着すぎやしないだろうか? それとも俺が気にしすぎているだけなのか?
「仕方が無いわね。じゃあ袋を私も持ってあげる」
「そう言われると何だか情けない気持ちになってくるな……」
「いいからほら、お野菜と日用品の袋……あ、こうやって持つのラブコメ的じゃないかしら」
生芽は俺の右手から袋の取っ手を片方だけ握る。
「こ、これだと結局俺の両手は塞がったままなんだけど……」
こんな一つの荷物を二人で持つなんて……不安定だし合理的じゃない。だというのになんだか妙に気恥ずかしい。袋が不安定に揺れる度に、取っ手の反対側を持つ生芽の存在を意識してしまう。
「この感じ気に入ったわ。コロッケはお預けね」
「別に良いんだけど、良いんだけどさ…………」
周囲の好奇の視線に語尾が萎む。
そんな視線から逃れるように俺は再び視線を下へ向け、握った袋をリード代わりに生芽について歩く。
「ねぇ幸平」
「……何さ」
「私……今、とっても楽しい。幸平と学校に行って、こうして商店街で買い物をして、全部、幸平がいるから出来たのよ。だから、ありがとう」
「それ、俺はなんて返せば良いんだ?」
「何も言わなくて良いわ。私が言葉にしたかっただけだもの」
「……そっか」
まただ。生芽と話していると時々たまらない気持ちになる。なんだろう。買い被りというか、分不相応な期待というか、得体のしれない何かに押しつぶされそうになるのだ。
本当は気付いている。何に? 分からない。分からない。分からないなら仕方がない。仕方がないのだ。きっと俺にはどうしようもない。
なにせ俺は凡人なのだから。見たくないものや気づきたくないものから目を逸らして、気付かないフリをするしかないのだ。