雨の境界線
テーマは雨です。
(七月)
雨の降る日、私は家を飛びだした。
傘は持ってこなかったので着慣れた黒いシャツはすぐに肌に張りついた。
私は全速力で走りながら空を見上げた。明るい青の空には、突如として現れた積乱雲がどす黒く漂っていた。
雷がゴロゴロと鳴り風が吹き荒れる。この時だけは夏のうだるような暑さはなかった。
家の裏側にある山に入ると、道は塗装された道路から一転して草木が生い茂る山道へと変わった。雨もひどくなり足場には水路ができている。ぬかるんだ地面に足を滑らせながらも咄嗟に手をつくことで転倒を避ける。
そうして私は通い慣れたこの道をひたすらに駆け抜けた。
◇
頂上に着いた。
私は突風で吹き飛んでくる枝や葉を腕で防ぎながら目の前の景色を眺めた。
そこには雲から豪雨が降り注いでいるこちら側の世界と、雲の切れ目から日が差す向こう側の世界とに分かれていた。
幻想的なその光景に私は目を輝かせる。
「やっと見えた……やっと……雨の境界線……やっと見えたよ!」
私は振り向いてそう叫んだ。やっと見つけたと教えるように。
だけど、周りには誰もいなかった。
◇◇◇
(七月)
翌日。
中学校の朝のホームルームでは、先生が昨日のゲリラ豪雨についての話をしていた。
「おいみんな。昨日の雨は大丈夫だったか?」
「大丈夫だよ先生!」とか、「うちなんか塀が壊れちゃって大変だよ~」とか、「昨日の宿題をサボったことがバレて神様が怒ったのかも」なんて聞こえてくる。
「ニュースでもやってるけど最近の気象は特に読めないそうだ。七月になってから既に三回もゲリラ豪雨が起こってる。先月なんて十一回だぞ十一回! いいか? 何度もいうが、ゲリラ豪雨で人が亡くなった事例も起きてるんだ。天候が荒れた時は大人しく建物の中にいるんだぞ、わかったか?」
「はーい」という声が響いた。
「それじゃあ日直の……一年、このプリントをみんなに配ってくれ」
私は席を立ち先生のもとに向かった。
黒板の端には、『七月七日、晴れ。日直、一年暦』と書かれていた。
◇
昼休み。
私は屋上で友達の徳井梨花とお弁当を食べていた。
「ねえ、昨日も山登ったんだって?」
「登ったよ~」
「どうだった? 境界線は見えた?」
「うん! はっきりと見えたよ。すぐに雨が止んで消えちゃったけどね」
「おーすごいじゃん。何度も登った甲斐があったね~。ま! 私には真似できないというかなんというか……そもそも暦ってそんなに景色とか好きだったっけ?」
「ん~どうだろ~。でも幻想的なシーンとかは好きかも! 雨の境界線もすごく感動したし」
「ふ~ん。まあ私も最初は見たいと思ったんだけど~、な~んか熱が冷めたっていうか……」
「梨花は飽き性だもんね」
「それはあるかも」
「予報だと今週も来週も晴れが続くみたいだよ。……もしかして次の雨の日も登るの?」
「ん~。わかんない」
「ほ~お。てっきりいつもみたいに登るって即答するのかと思った」
「雨が降ったらまた登るかも」
「ほらやっぱり~」
私たちは笑いあった。
「そういえば暦聞いてよ~! 昨日ね、おばあちゃんに今日の七夕祭りに着てく浴衣の洗濯をお願いしたんだけど、その時にまーた言い伝えのことをいってきたの」
「あの言い伝え?」
「そうそう。でさあ――」
と梨花が話すかたわら、私は言い伝えのことを思い起こす。
この町には古くからのいい伝えがある。
『分かつ雨時、異界の門は開かれん。すなわちそれは雨の境界なり』
雨の境界線は二つの世界を繋ぎ、この世に別の世への入口が現れるという意味だ。
最初そんな迷信じみた言い伝えは信じていなかった。
あの日までは――。
◇◇◇
(四月)
あれは和色中学校に入学したばかりの頃、学校の帰り道に私は梨花とあの山に登った。
梨花とは小学校からの親友で、小学三年生の時にこの場所を見つけてからは何かがある度に二人でここに来ていた。頂上までは三十分ほどで登頂でき、この辺りでは味わえない絶景を堪能するいわば秘密基地のような場所だった。
この日もいつものように梨花と話していると、強い風が吹きはじめ雲行きが怪しくなってきた。
みるみると薄暗くなっていく光景にこれは一雨くるなと思った私たちは山を下りはじめる。最初はぽつぽつと降る雨も次第に強くなり、ふもとが見えた頃にはそれなりの雨となっていた。
その時にふと私は気づいた。今日の授業で使った体操着を山頂に忘れてしまったことに。
私は梨花に取りに戻ると伝えると、梨花は傘を持ってないから帰るとのことだった。
雨の中私は山頂に戻った。強風が吹き荒れ雨も本格的に降り出していた。
体操袋を回収して早く降りよう。そう思った時だった――。
突然、日が差して目の前が明るくなった。
正確には今も雨は降り続いているのだが、私のすぐ目の前では雨がピタリと止んでいる。
こちら側の雨が降る暗い世界と向こう側の晴れた明るい世界が横一線に分かれているその様は、まるで別の世界とを繋げる幻想的な光景だった。
私はまるで導かれるかのようにその一歩を踏み出し雨の境界線を越えた。
夏の日差しが雨で冷えた私の身体を温める。
それは不思議な体験だった。そして神秘的だった。今いる場所には日が当たり、目の前の世界では今も雨で暗くなっている。まるで昼と夜が隣同士にあるかのような、そんな感じだった。
それから少し時間が経つと目の前の世界でも雨は止んだ。風は相変わらず吹き続けているが、頭上の雲はものすごい速さで散り散りとなっていった。
◇
風で飛んできた小枝が頬に当たるとはっと我に返った。
「あ! 体操袋を取らなきゃ」
切り株の割れ目に挟み込んでいた体操袋を手に取る。そして下山しようとした時――。
―――――――。
「……え?」
声がした。男の子の声だった。
だけど振り向いても誰もいない。
―――――――!
また声がした。だけど周りにはやっぱり誰もいない。聞こえる言葉は理解きなかった。ただ言葉にしずらい音の響きだったけど男の子の声だとはわかった。
―――――――!
「何? 誰かいるの!?」
キョロキョロと見渡すが誰も見つけられない。
雲の隙間から日が差し込みはじめ、辺りはすっかり日中の日差しとなった。風はまだ強いままだが、太陽の直射が肌を焼きはじめる。
「ああっ! 日焼け止めクリームが雨で落ちちゃったよ! 早く帰らなきゃ!」
私はそのまま下山した。制服を着たままお風呂に入ったかのようなびしょ濡れ具合も、家に着く頃には生乾きとなった。
そして、気づけばもう謎の言葉は聞こえなくなっていた。
◇◇◇
(四月)
翌日。
私は学校で昨日の出来事を梨花に話した。
雨の境界線については私も見たいという反応を示していたが、謎の言葉については空耳として片付けられたので私もそう思うことにした。
授業中、私は窓の外を見つめる。昨日見たあの幻想的な雨の境界線が頭から離れなかった。
――もう一度見てみたいな。だけどあんな現象なんてそうそう起こらないよねえ……。
と、考えているとチョークが飛んできた。
「痛っ!」
「こら一年! ぼーっとするんじゃない。授業に集中しなさい!」
「は、はい! ごめんなさい……」
――痛たいなあ……。チョーク投げって絶対に体罰だよ……。
◇
だけど私の予想に反し、週末にはゲリラ豪雨が発生した。
自分の部屋にいた私は窓を開ける。外は風が吹き荒れて大雨となっていた。
空を見上げるとまだ昼の三時だというのにどす黒い雲が広がっている。だけど遠くの空は青かった。
――もしかしたら今日も見れるかもしれない!
今の私はもう一度雨の境界線が見たくて仕方がなかった。だからこの雨が止む前に山を登ろうと家を飛びだした。
強風に煽られるせいで傘を上手くさせない。だけど濡れてもいいような部屋着で来たからそこまでは気にしなかった。
家の裏側から山に入った。既に山道は滑りやすくなっているために早歩きのペースで進んだ。時折吹く突風で傘は形を変えた。
道を進むにつれて雨足は強まっていく。
――このペースじゃ三十分は掛かるかも……うう~頂上に着く頃には雨が上がっちゃうよ……!
だけど、傘を両手で支えながらぬかるんだ山道を走ることは危なくて到底できなかった。だから私は傘を畳んだ。帰ったらお風呂に入ればいいだけ。今はとにかく雨が止むまでに頂上を目指したかった。
傘を閉じた瞬間から大粒の雨が私を濡らした。
そして、「よし! いこう!」と駆け上がろうとした時――。
―――――――!
と。
――また聞こえた!? やっぱり空耳じゃなかった!?
―――――――!
「やっぱり誰かいるの!? ねえってば!?」
キョロキョロと周りを見渡す。
と、今度は人がいた。水色の羽衣を着ている水色の髪をしたの男の子だった。
「やーっと届いたよ僕の声が! もーほんとにすごい待ったんだからね!」
「……はい!?」
◇
「私は雨星。雨の世界の王子だ」
「え? ああ、自己紹介? ……えっと、私は一年暦です」
「一年暦か。いい名前だな! 『境界を跨いだ者』としては恥じぬ名だ!」
「境界を、跨いだ……?」
「っと、挨拶はこれぐらいにして……」
雨星は空を見上げる。
「この雨はもうすぐ止むか……よし。一年暦よ、時間がないから心して聞いてほしい」
そういって雨星は話しはじめる。
まとめるとこうだ――。
雨星は、雨姫というお姫様と二人で暮らす雨の世界からやってきた。
そして、『雨の境界』というこの世界と雨の世界の繋ぎ目を見守っていたところ、私がその境界を跨いで雨の世界にいってしまったらしい。
もしもこの世界の住人が雨の世界に迷い込んでしまったのなら、雨星がその人をこの世界に連れ戻すという役割を担っている。それに倣い、雨星が私を連れ戻そうとしたが、雨が止んでしまい雨星自身が雨の世界に帰れなくなってしまったのだという。
雨星は私にいった。
「僕が雨の世界に帰るためには、一年暦にはもう一度あの場所で『雨の境界』を見つけてもらいたい」と。
◇◇◇
(四月)
その日の夜。
お風呂から上がった私はベットに倒れ込む。
――あの言い伝えは本当だったんだ……。
『分かつ雨時、異界の門は開かれん。すなわちそれは雨の境界なり』
パパやママがいうには何世代も前から続く言い伝えだという。
――よくわかんないけど雨星は私のせいで帰れなくなったみたいだし、私が帰してあげなくちゃいけないんだね。
雨星は雨が止むと透けるように消えていった。雨星は雨の王子様といい雨が止むと生きられないらしい。だから次の雨が降るまでは私の中に入り込み、再び雨が降るのを待つという。
――中に入り込むってどういうことなんだろう……。
予報では次の木曜日が雨とのことだった。
◇
木曜日。
どうやら昼過ぎから一雨くるらしく、空は朝から曇っていた。
私は梨花に雨星のことを話した。最初は発想がファンタジーだと馬鹿にはされたけど必死の説得で何とか話は聞いてもらえた。
「その雨星っていう人は雨が降れば見えるようになるんだよね?」
「そうはいってたんだけどね、私にも正直よくわかんない……」
「え~そりゃ困るよ~! せっかくなら私もその王子様を見たいんだからさあ! それにやっぱりこの目で見るまでは信じきれないし」
「そりゃそうだよねえ……」
私は空を見上げる。
――雨、降るといいな。
◇
体育の授業が始まった。
この日の授業は男女別のサッカーで、グラウンドを半分にわけそれぞれで人数不足の試合が行われた。
雨が降り出したのはキックオフから十分ほど経ってからだった。
ぽつぽつと降る小雨でだった。
風もなくこの程度の雨ならサッカーは中断するまでもないという先生の判断によって授業は継続された。
そして、空から降る雨が私の肌に落ちた。
―――――――。
――来た! この声は雨星!
「……雨星、雨が降ってきたよ? ほら! 早く出てきて」
私はコート内で独り呟く。
―――――――!
「雨星?」
―――――――!
「どうしたの? 雨星、雨が降ってきたよ? 出てきてよ!」
―――――――!
雨星が何をいっているのかわからなかった。
少し遠くのポジションにつく梨花は両手を広げ空を眺めていた。雨星が出てきてくれないと梨花に会わせられない。
――前のように出てこないのはどうしてだろう……。
―――――――!
――何ていってるのかわからないよ……!
その時――。
ゴロゴロと雷が鳴り響いた。先生や他の生徒と同じように私は空を見上げる。急にザーっと強い雨が降りはじめた。
先生は大声で叫ぶ。「避難しろ!」
みんなは校舎に駆け込んだ。私も頭を手で覆いながら校舎まで急いでいると、「ふう! やっと強い雨が降ってくれたな!」と。
立ち止まり振り返ると、そこには雨星がいた。
◇
校舎前の屋根のある一角で先生は空を見上げた。他の生徒は思い思いに友達と話している。
私は梨花に雨星を紹介した。
「梨花! 雨星だよ! 雨星が来てくれたよ!」
「え? どこどこ!?」
「ほらここに!」
手で示したが、梨花は雨星を見つけることができなかった。
雨星はいう。「僕は『境界を跨いだ』君にしか見えないんだ」と。
私は落胆し梨花にそのことを伝えた。からかってるつもりも嘘をついてるつもりもないことを察してくれたのか梨花は一つ返事で「わかった」とこたえた。
◇◇◇
(四月)
その日の夜。
私がこれまでに雨星から聞いたことをノートの一ページにまとめた。
『私が雨に濡れることで雨星の声が聞こえるようになる。だけど雨が弱いと声は聞こえるけど内容は聞き取れない』
『強い雨が降ると雨星は外に出てくる』
『雨星は「境界を跨いだ者」としか干渉できず、雨が止んだ時に私が側にいないと拠り所を失い死んでしまう』
『遠くを見渡せる高い山なら雨の境界線を発見しやすい』
『雨の世界では独り寂しく雨姫が雨星の帰りを待っている』
私はしばらくノートを見つめた。
「絶対に雨の境界線を見つけて帰してあげるからね!」
私は決意を表明するように二つの拳を作った。
◇
数日後。
学校の帰り道、私はいつものように梨花と歩いていた。雨は降っていた。
「この雨でも山に登るんだよね?」
「うん、登るよ。梨花も来る?」
「ん~やめとく! 来週は中間テストだし今日は勉強しようかな」
「そっか」
「うん! それじゃあまた明日ね!」
◇
梨花と別れた私は一度家に帰って濡れてもいい服に着替えた。そして今度は傘を持たずに家を出た。
「今日こそ『雨の境界』が見つかるとよいな!」
「そうだね!」
私は雨星と話しながらぬかるんだ山道を駆け上がった。
山頂に着いた。だけどどこを見渡しても雨の境界線を見つけることはできなかった。
「雨の境界線はなかったね……。もしかして普通の雨の日には出てこないのかな……」
「ありがとう一年暦。徒労に終わってはしまったが、私はここまで来てくれたことに感謝しているぞ」
雨星はニコっと笑った。
つられるように私も微笑む。その笑顔に私は救われた気がした。
◇
その日から一週間が過ぎた。
授業中にぼーっと窓の外を眺めると、急激に空が曇りはじめた。
何となくこの後に一雨くる予感がした。
――ああ~山に登りたい~! でも授業中~っ!
さすがに授業を抜け出すわけにはいかない。やがて強風が吹きはじめゴロゴロと雷が鳴る。どばっと降りはじめた豪雨を私は窓の外から眺めた。
――ああ……絶好の機会だったのに……。もう当分は来ないよねえ……。
◇
その予想はいい意味で裏切られた。
それから週に一回から二回のペースでゲリラ豪雨は突如として発生したのだ。
授業中はさすがに登れないけど放課後や休みの日に雨が降れば私は山に登った。
だけど、頂上に着く頃には雨があがっていたり雨の境界線がなかったりした日が続いた。
◇
六月に入り梅雨を迎えた。
雨の日は倍近くに増えた。
ある日の昼休み、教室でお弁当を食べながら私は梨花に雨の境界線が中々見つからないことを相談した。
「軽い雨は風で流されちゃうから、強い雨でないと拝めないんじゃない?」といわれ、確かにと思った。
そして理科の先生にも意見を求めた。
「雨の境界線は弱い雨でも遠くからなら斜線として見える場合がある」ということを教えてもらった。
◇◇◇
(六月)
その日の夜。
私はパパとママと晩御飯を食べながらニュースを見ていた。
『それでは次のコーナーはウェザーニュースです。現地リポーターの河森さーん』
『あーい河森でーす。やてくやてくぅ!』
リポーターの河森はポーズを取った。割と人気のあって私も好きな人だ。
『えー今は石川県の白山市に来ております。何でも四月頃からゲリラ豪雨が何度も発生していると聞きつけ、その調査にやって参りましたが……うわああ!』
と、大げさなリアクションをとる。被っていた黄色いヘルメットが地面に落ちると強風に煽られて数十メートル転がった。
――ここに河森が来てるのか~。これは明日の話題になりそうだ。
河森はパネルを出した。白山市の四月、五月、六月におけるゲリラ豪雨の回数が書かれており、その数字は例年よりも多かった。
その原因を異常気象と評し、番組ではニュースキャスターが専門家を交えて議論していた。
でも、私だけはその原因を知っている。
雨星はいっていた。
「僕が雨の世界からいなくなることはよくあることだ。それでいなくなる間は雨の日が多くなるのだ」と。
理由は独りぼっちでお留守番している雨姫が、早く雨星が帰ってこれるように雨を誘発しているという。
「ごちそうさま!」といい私は部屋に戻った。
ノートを開くと、『雨の境界線は弱い雨でも遠くからなら確認できる』の下に、『雨星が帰るまで雨の日は増えていく。雨姫が寂しくなって涙を流すほど雨足は速くなるから』と書いてある。
雨姫が寂しくなって涙を流す、の部分は赤ペンで囲われており、『早く会わせてあげなきゃ!』という私の決意が大きく書かれていた。
窓が強風で揺れはじめた。
――今夜もゲリラ豪雨がやってくる。
◇
結局、そのまま山を登ろうとしたがママに止められた。
日も落ち荒れる天候の中、中学生の私が傘を持たずに独りで山に登ろうとするのをママは許さなかったのだ。
「そりゃそうだよ~」
お弁当を食べながら梨花はいった。
「暦も暦だよ~? やり過ぎると怪我するかもしれないんだからね。私の大好きな暦が入院することになったら、学校に来る理由が一つ減るんだから気をつけてよね!」
「は~い」といって卵焼きを一口で食べた。
◇
それからも私は雨がくる度に山に登った。だけど雨の境界線を見つけるには至らなかった。
そして七月になった。
この日も私はいつものように学校に通い、いつものように梨花と一緒に帰り道を歩いている。
ふと、梨花が空を見上げた。
「ねえ見て暦! あの雲、何だか不思議じゃない?」
空には丸めた綿を敷き詰めたようなモコモコとした雲で覆われていた。
私は目を見開いた。
「ごめん梨花! 私、先に帰るね! また明日学校で!」といい残し全速力で駆けだした。
◇
私はあの雲を知っている――。
六月のある日、ニュースキャスターがテレビで解説していたのを思い出す。
雲は通常暖かい空気が上昇することで形成されていくが、稀に冷たい空気が下降することで形成される雲も存在するという。
その雲を『乳房雲』といい、主に激しい台風や発達した積乱雲の前触れとして現れることがあると。
乳房雲は、不安定な雲なので十五分から長くても一時間ほどで消えてしまう。そして、その後の天候は大いに荒れる。
そのことから、乳房雲の別名を『魔性の雲』と呼ぶ。
――来るんだ! また嵐が!
◇◇◇
(七月)
「ただいま!」といいながら私は部屋に駆け込んだ。
鞄をベットに投げ捨てて勢いよく制服を脱ぐ。
収納ケースから黒いシャツとスウェットを取り出した。
家に帰ってからものの数分で「いってきます!」と飛びだしたが、既に雨は降っていた。
◇
私は雨の中を走った。
空では巨大な積乱雲がうねっていた。
目のくらむような閃光が走り、その後には轟音が鳴り響く。そして雨は大雨に変わった。
強風が木々を激しく揺らしはじめ、私はぬかるんだ山道を駆け上がっていく。
「一年暦! 転ばないように気をつけて!」
雨星は叫んだ。
「私は大丈夫だよ! だから心配しないで! それから雨星を雨姫のもとに……絶対に帰してあげるからね!」
「ありがとう、一年暦……!」
◇
頂上に着いた。
と同時に私は震えあがった。
自分の立っている場所は土砂降りだけど、ほんのすぐ先は雨も降らず晴れたまま。
暗くどんよりとした雨の世界と夏の日が差し込む晴れた世界を分かつ雨の境界線。
私は強風に吹き飛ばされないようにしながらその幻想的な景色を眺めた。
今ははっきりと見えるこの雨の境界を――。
「やっと見えた……やっと……雨の境界線……やっと見えたよ!」
私は振り向いてそう叫んだ。
だけど返事はなかった。
「そっか……もういっちゃったんだね……」
私は雨に打たれながら、目の前に広がる晴れた世界を見つめる。
その一歩を踏み出せばもう雨はかからない。
だけど動かなかった。じっと立ち尽くしたまま、私は雨の境界線をただ見つめていた。
その後に雨は収まっていく。
強風は吹き荒れたままだが雲は急速に散り散りとなった。
そして、雨の境界線は消えていった――。
◇◇◇
(七月)
「――暦! お~い暦~! 目を開けたまま寝てるのか~」
「あっ、え? ああ、ごめんごめん! ぼーっとしちゃってた」
はっと気がつくと手元には食べかけのお弁当がある。どうやら少しの間、感傷に浸っていたようだった。
「暦は今日の七夕祭りはいくでしょ? 彼氏がいない者同士仲良く傷をなめ合おうね」
「ああうん、そうだね」
チャイムが鳴った。
「ええ!? もうチャイムが鳴るの? お弁当まだ半分も残ってるよ~!」
「暦はぼーっとしすぎなんだって! ほらいくよ、授業に遅れちゃう!」
梨花はドアを開けて校舎に入っていった。
「ああんも~待ってよ~!」
私はお弁当にふたをしてから梨花を追いかけた。
◇
帰宅した私はママに七夕祭りにいくことを伝えた。すると千円のお小遣いをもらったのでありがとうのハグをしたら暑苦しいと引きはがされた。
部屋に戻ると着ていく浴衣を選んだ。
去年も一昨年もピンク色の浴衣だったけど、今日は水色を着ていこうと決めていた。
ふと、机にある開きっぱなしのノートに目がいった。
注釈のように書かれた『早く会わせてあげなきゃ!』の下には赤字で『再会させました!』と書いてあった。
――私も雨星みたいな素敵な人と出会いたいな~。
そういって雨星に思いをはせる。
「雨星は雨姫と元気にやってるのかなあ」
雨の日に現れて雨の日に消えていく雨の王子様。
「あ~あ。別れの言葉がないってなんだかなあ! ……でもそれって、つまりさよならバイバイじゃなくて、また会いましょうってことだよね!?」
何てこといってると、ママが私を大声で呼んだ。「は~い!」とこたえて私は自分の部屋を出ていった。
◇
開いた窓から風が入り込むと、机の上のノートを一枚めくった。
そこにはいつかの山頂で雨の境界線を見逃した時にとった雨星の似顔絵が描かれてあった。
◇
遠くの空でゴロゴロと雷が鳴った。
それを合図としたように雨がぽつぽつと降りはじめた。
やがてその雨は次第に強くなっていく。
―――――――!
おわり。