第二章幕間《鍵付きの懐》
―――ごみ溜めのような場所であった。
黒く、おどろおどろしく、禍々しく、どこまでも深いごみ溜めのような場所であった。
いくら外壁を金銀絵画で覆いつくしても、金の暴力で一級品の内装で包み込んでも、その悪意は全く隠しきれていない。むしろその装飾こそが足がかりとなって、そのものの禁忌が如実に表れている。
どこまでも広がっている緋のカーペットは王室使用のものであり、踏むことすら躊躇わせる資金の究極。掃除費用だけでも都市の一等地級の価値がある。コーヒーなんてこぼしたら目も当てられないだろうその上を若干の重さを伴った足音が鳴らした。
走るのは焦りを表情に滲ませる灰色の髪をした男だ。バーテンダーのような几帳面な服装であり、それを纏わせる身体はどこか普通の人間にはない狂気が混じっていた。
その男が向かう先は応接間。どうやら客人を待たせているらしい。
その客も碌な気配を持ち合わせていない、下手を打てば組織の人間では束になっても頭脳でも武力でも勝てはしないのだから、なおさらその男は走らなければならなかった。
「あぁ・・・っ、はぁ・・・っ、――――ふぅ」
ようやくその客人がいる応接間、その扉の前にたどり着き方で息をする男の額には脂汗が垂れていた。対応する人が急遽自分だと決まった際の不安は何者も勝ること敵わないものだ。しかし現実は客人を十分以上も待たせるという致命傷。それに加えて最初の対応を任せた新人のミス。不安だけで胃が消し飛びそうになる。
この男も相当な人生を歩んできたが、この”客人”を相手にするときほど緊張することなどない。肩で息をするがすぐに”いつも”を取り戻し、背筋を伸ばす。
男はこんこんと軽く扉を叩き、「失礼します」と扉を開ける。
まず視界に入り込んできたのは狭い部屋だ。実際はかなり広いのだが、こういう危ない仕事を承る職業上、相手にする客は大抵碌なヤツではない。そしてその碌でもない奴の九割は人間をやめている。そんな化け物を牽制するためにもかなりの数の絵画やら内装を整え、「敵に回したらどうなるか」を資金力で暗に示しているわけだ。本来なら観賞用にしか使わない美術的作品やら骨董品をこれでもかと並べているせいで部屋全体が狭く感じるのだ。
モンスターの皮で作られたカーペットを踏みしめ、部屋に入り扉を閉める。そして感じるのは、過去に幾度となく経験したどす黒く、息が詰まるような不快感だ。それが、金縁を飾った赤色のソファに座り、眼前で新人幹部を床に土下座させている男のものであると、彼はすぐに察知した。
同時にこの新人幹部は自分が駆けつけている間に更なるミスを犯したということに。
しかしこの空間を放置するわけにもいかず、男は土下座して震えながら聞こえるか聞こえないかの嗚咽を漏らす新人幹部に声を掛ける。
「おい、どうした。何をしたんだ?」
「ひぃえッ! す、すいません! ごめんなさい許してください。調子に乗ってすいませんでした! どうか妹だけはお願いします! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
返ってきた言葉は懺悔であった。それは決して男に向けられたものではなく、客人に向かってのもの。ひどく混乱しており、男の声も届いていないようだった。
「これでは話にならない」と、男は客人の方へと身体を動かす。
「「今日来る」との言伝をすっかり忘れて無下な態度を取ったとは聞いていました。ですがこの興奮模様、一体何があったのかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「一方的な傲慢さはどの組織にも一人は居る。そンな奴らに立場の違いッてのを理解させるのもコッチの仕事だが、・・・そいつは身内を引き合いに出して来た。よりにもよッて、”この組織”でだ。責任者ァ、テメェ部下の教育も真面に出来ねェのか? 才能は交渉だけだッたかァ?」
「・・・・。・・・そのようなご無礼があったこと、彼に代わり私がお詫び申し上げます。私の教育不足です。必要な対応があれば、是非とも」
必要な言葉と必要な所作だけを選び、男は客人に対して謝罪の意を示す。相手の客人はその手の道に詳しい人間はその名を知っているほどの超有名人だ。極悪非道なんてレベルではない。一般人は巻き込まないが、渦中の敵には「何をしてもいい」と思っているタイプのとんでも野郎なのだ。
だからこそ、男は頭を低くして誠心誠意謝る。下手を打てば今日でこの組織が終わりを迎えるほどには。
しかし、だ。
「テメェらの必要だと思った措置、オレ様が望むのはそれだけだ。一個人の人生を貶めて得られるメリットがほぼねェ」
「――――御意」
再び頭を下げて、男は土下座している新人幹部の隙だらけの脇腹に蹴りを入れる。
「ごふ!」と空気の逆流する音と共に、嗚咽交じりの声を漏らす男がやっと男の方を見る。
「お、オーナー・・・」
「君は下がってて。後で話があるから逃げないように。逃げたら残らされた妹は誰が守る? 手術は誰が受けさせる? 考えて行動しろ。その場の衝動で行動するな。考えろ」
「・・・・・・・はい」
「ならばさっさとこの部屋から去れ。この場は僕が取り継ごう」
「あ、ありがとうございますっ。さ、先ほどは無礼を働き申し訳ありませんでした・・・! し、失礼しましゅ!」
恐怖と涙と鼻水で顔を汚した男は感謝を述べ、客人に頭を下げて取り繕ったぎこちない所作で部屋から退出する。
煩いのが去り、部屋に静寂が訪れる。だが男はそのつもりはないらしく、そのままその客人の前に座る。
「先ほどはお見苦しい姿を見せてしまい申し訳ありません。私はこの組織『新秩序』の管理者、シッドロート=エルシニアです。此度はお越しくださりありがとうございます。――『業皇』様」
シッドロートと、そう名乗った男は客人を『業皇』と呼んだ。客人が誰か、それは最初から分かっていた。名前を言うまでもない。その客人が積み上げてきた罪業がその二つ名を形どったのだから。
「――――」
『業皇』と、そう呼ばれた男は白髪であった。そしてどこまでも黒く、深く、この世界の闇を見てきたような深紅の狂気的な瞳を宿し、肌は死神の生気のなさを表したように白い。そして体つきは男というよりかは女に近い。――華奢すぎる印象を持つ。
しかしその実態は戦後の全国に悪名とその残忍性をとめどなく広める元凶だ。いくつもの犯罪集団を単独で壊滅させ、国を崩壊させ、何億という数の命を死体の山へと変えてきた。まさに災害に高度な知能と意思を持たせたような化け物である。あらゆる犯罪者集団、テロ、未解決事件、その背後には『業皇』がいるとまで言われた究極的な『悪意』の化身、それがシッドロートの眼前で脚を組む男の正体であった。
「噂はかねがね、パーティアスの勇者の息子を保護し、国内で保護者をつけていると私達傘下の組織は聞いております」
「「何の真似か?」。そォいう話ならもォ出回ッてンじゃねェのかよ」
「えぇえぇ、それは十分に存じ上げております。『業皇』様の予見は正しいかと」
「正しいかどォかはオレ様が決める。だが、現にゼクサー=ルナティックを回収したことで事態は好転しているッつッても過言じゃねェ。クソイドの干渉があッたのも関係しているが」
「厄災への布石ですか・・・」
「あァ、つッても本当に厄災が来るかはまだ条件が未確定だ。ただ、撃破条件の内一つは手に入れている。後はそれなりの器にするだけッてところだな」
「本当にそれだけですか?」
「・・・・・・・・」
会話がシッドロートによって遮られる。果たして「”厄災”の対策のためだけにゼクサー=ルナティックを回収したというのか」という疑問が言外から放出されている。『業皇』という存在の意見に割って入ることが何を意味するか、シッドロートも分かっているはずだというのに。
『業皇』を知る者の多くは「あ、あいつ死んだな」と思うだろう。実際に、無言を貫く『業皇』の瞳がすっと細くなり、自由にさせていた右腕を持ち上げる。ズッと部屋の空気が重さを伴う感覚がシッドロートを襲う。しかし、本人はまるでなんてことのないような顔をし続ける。
そして『業皇』はその腕を、その掌を―――、
首に当ててゴキゴキと音を鳴らした。
――それだけだった。
「――――どこまで勘づいてやがる?」
「『業皇』様とは長い付き合いですから。『業皇』様が”人間”だということも分かっていますよ。回収はどちらかと言えば口実だったということも・・・」
「チッ」
「『業皇』様のそういうところ、好きですよ」
「次はねェぞ」
「はい」
果たしてシッドロートを挽肉に変える一撃必殺の掌は振るわれなかった。ただ首を鳴らし、不機嫌になるだけで、部屋を粉々にする一撃も、人体の致命傷となる一撃もない。ただ、不機嫌になっただけだ。シッドロートの告白に対する警告もあまり意味がないように見える。
それはシッドロートが、『業皇』がスラムの時から面倒を見てきた後輩だからというのもあるのだろう。
つまりは情動である。
というか、だ。
「そろそろ本題に入りましょうか。『業皇』様の懐は鍵付きなのは今に始まった話じゃありませんし」
シッドロートが始めた話を本人自らが立ち切る。
今までのはあくまでも来るか来ないかがいまだはっきりとしない問題への話であり、今からするのは絶対に今から来る問題だ。
部屋の空気が一層暗くなる。シッドロート、そして『業皇』。その二人が表情に真剣みを宿らせる。
「さて、『業皇』様。最近クロテント一派の動きが少し激化しているのはご存じで?」
「予見したからな。その通りになッたといえば、そォだな」
「原因はご存じで?」
「クロテント家の三男の死去だッたな。殺人事件で犯人は未だ捜索中。誰かも分かッてねェンだろ。死体も残ッてねェが、高確率で生きてねェと」
「それが普通の殺人事件なら特にと言って問題は起こりません。少しクロテント一派の行動が慎重になるだけですが、問題はその”やり方”です」
「やり方だァ?」
「そうです」とシッドロートは頷き、懐から一枚の写真を取り出し、『業皇』の眼前に置く。
それは大穴の写真だった。
「クロテント家の三男は、”学校に居た際に、その学校ごと、中の生徒も先生も建物も含めて、その大穴を残して消滅した”。・・・つまり」
「――――」
「この失踪殺人事件を起こした奴は、もしくは組織は、クロテント一派を滅ぼすためなら周囲への人間の被害も容認するということです」
「・・・綺麗さっぱり無くなってやがンな。ここまでするッてこたァ、クロテント家に並々ならねェ悪意を持ッてやがるッつゥことだな?」
「はい。それでおそらく『業皇』様のほしい知識もこれに関係しているのではないかと」
含み笑いを作って、シッドロートは『業皇』を見る。何も頭がキレるのは『業皇』だけではないと、そう言いたげな視線をもってして『業皇』に口を開く。
しかし、だ。その優位性を見せつけるような笑みもすぐに消え去り、シッドロートは沈痛な表情を浮かべる。
「・・・こちらもクロテント一派には嫌な目に遭いました。最近怒ってるモンスター襲撃事件。あれで私の方の構成員が四人命を落としています。これ以上の被害はだせない。モンスターをけしかけたクロテント一派も、クロテント一派を勝手に潰そうとしている奴らも放置できません。・・・手を、貸してください」
机に思わず頭を打ち付けるような姿勢で、シッドロートは苦虫をか嚙みつぶしたような声を絞り出す。その言葉には管理者としての意地と矜持と、膨大な憎しみがありありと浮かんでいた。
「傘下組織なのは重々承知の上です。私の首で奴らに一矢報いることが出来るのであればこの命惜しくありません。私の組織が持つ知識も全部提供します。ですからっ、どうかッ、そのお力を貸していただきたいのです。――『業皇』ネロフィス・ドラグロイ=オルタトート様・・・!!」