第二章15 『再邂の約束』
「ゼクサー君! 起きて!」
男性のものだとは到底思えない程に、浮かんで飛んで行ってしまいそうな天使の声。それが怒号をオレに叩きつけてきた。
――目が、覚めた。
斧が内に溢れ出す悪意の海の中、その声がオレを隠していた闇の法衣を斬り裂いてオレを曝け出した。
「ゼクサー君!! 呑まれちゃダメ!!」
愛しい天使の声が、一生を添い遂げると誓った男子の声が、悲痛に、そして怒りを含んだ声でオレの瞼をこじ開けてきた。
――意識が、芽生える。
視界の中は森の中。何処にも彼の存在は見当たらない。しかしその声には明らかな”力”があった。――人を闇から暴く、正に天使のような力だった。
「ゼクサー君! ゼクサー君! ゼクサーッ!!」
ただ、その声は本物であると、オレの脳が認識した。
呑まれた意識が海底から姿を現わし、水面を水しぶきと共に飛び出した。
――体中の主導権が、意識が、オレの掌へと集約される感覚と共に。
ゼクサー。オレたる存在が再臨したのだ。
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「戻って来た、か。でも、”悪意の翼”は出っぱなしだ。それに血管の中を蟲が這いずり回る不快感は残っている。元に戻らねぇのは、まだその時じゃねぇからか・・・?」
手足の神経を確認し、オレは自分の身体の状態を見る。
全体的に黒っぽい。手足や周囲の風景は良く見えるが、何か視界の節々に黒さを感じた。分かるのは、少し前まで特に何も思わなかった自分の存在感が色濃く顕示されていることだ。明らかに周囲の、山の持つ曰く付きの雰囲気とは桁外れな”悪意”の雰囲気を感じる。
しかしオレの自我が回復しても翼は霧散する気配を見せない。それはオレが”悪意の翼”を手中に収めていないからか、――いや、まだやるべきことが残されているからか。
「(じゃぁなんだよ、その”やるべきこと”って・・・)」
自問自答し、答えに迷う。目の前に居る悪霊を完膚なきまでに叩き潰すのは絶対違うだろう。それであればオレは呑み込まれていても達成できる課題だ。
「オレが目覚めた理由、か。オレにしか出来ねぇ、オレのやるべきことがあるはずだ」
オレの持っているものは脚と斧、そして電気属性と”悪意の翼”。悪意の翼の能力向上及び属性能力の拡大解釈。電気属性は雷を落として、掌に磁場を発生させて砂鉄を一握り集められる程度。生態電気も少々操ることができるが、霊的存在に身体は無いから生態電気操作も意味を成さない。
オレが持つ武器はこれらだけだ。後はほんの、女性の持っている記憶くらいしかない。でもってその記憶にも彼女が霊となった原因が描かれているだけで、これといって弱点らしきものはなかった。
考え、まとめていると、森の奥から”悪意”が砲弾となってオレにぶつかってきた。それが女性の、神の名を冠した悪霊の一撃だと、受け止めてはじめて気づいた。
「―――ふ」
オレは反射的に右手を突き出すと、砲弾はぶつかり、そのまま空中に霧散した。掌には変な感触が残っているし、黒さも少し増したように思う。自我は戻ってもまだこの力を扱いこなせたわけじゃないようだ。
「しかし悪霊つっても”神”なんだろ? それの一撃を掻き消すって相当だぞオレの身体。どれほどの悪意をもらったんだろうな・・・」
悪意とは力である。受ける悪意が強ければ”悪意の翼”の出力も大きくなる。それが記憶をたどった限り碌な人生を送れていなかった女性の放つ悪意よりも大きいとなるとこの世界もいよいよ末期だろう。
気を張り直し、オレは深く深呼吸をする。
そして、次の瞬間だった。
「―――ッ!!」
四方八方から黒塗りの、煙で作ったような”悪意”の砲弾がオレに向かって飛び込んできた。しかし今さっきと同じように、オレの身体に触れた瞬間、砲弾が霧散した。そして、オレに纏わりつく色に黒っぽさが増した気がする。
「呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う・・・・・」
オレに効いて居ないのが分かったのか、常闇の森の中、黒い影で溢れる雑木林から人を殺せるほどの憎しみが籠った視線を投げつけられるのが痛いほど分かる。呪詛らしき言葉を吐かれ、一層場の雰囲気が殺気立った。
「もういっそのこと、膨大な悪意をぶつけて消滅させた方が楽なんじゃねぇかな・・・?」
このまま呪詛を延々と垂れ流されても困るし、彼女の出で立ちからして報われることは二度とない。成仏が出来ないのならいっそこのこと叩き潰された方が良いのではないだろうか。
問いかけたが、オレは首を横に振った。
「いや、死こそ救済の精神はオレには合わねぇしな・・・。別の方法があればいいんだけどな」
誰かが、不公平を生きる誰かがこの世からいなくなって安寧を手にする。それが人であろうと悪霊であろうと、その行為は許されてはならないと思う。それがましてや人と少し違う形で生まれてしまったことで差別された人であれば猶更だ。
「(結局、三千年前に彼女を封印した祓い屋と同じことをしてるんだからな。理由が何であれ、結果を見れば同じことだ。それじゃ彼女は少しも報われない)」
苦しい思いをして、なお夢を持ち続けて、裏切られる。そんな人生を送った彼女を少しでも救う方法はあるのだろうか?
オレは指先を脳天に当て、思考する。
”悪意の翼”の恩恵である身体能力の超強化。その一端である脳の回転力の活性を用い、オレはこの場、この瞬間に取れる最善の選択肢を磨き上げる。――まるで、一つの大木から木像を削り出すように、だ。
そして――――、
「――――いけるか?」
一つの選択肢が浮上した。
経験則と言えば聞こえはいいが、実際の見てくれはひどいものだ。オレは自身に問いかけ、即答する。
「気は進まねぇけど、やるか」
決めた瞬間、オレは霧の隠れた『平面の集中力』に”悪意”を流し込む。『平面の集中力』は観測された物質を脳内に表現することができるが、感情というジャンルや霊的存在を観測することは出来ない。更に今は属性を媒介に『平面の集中力』で表現された世界に霞を入れられたせいで世界を観測出来なくなっている始末だ。
――しかし、脳に表現された世界を見ることは出来なくても、”何かがある”ということはうっすらと分かる。
そして”悪意の翼”には外側から受ける悪意を吸収して力に変える特性がある事を利用し、『平面の集中力』に”悪意”を織り込めば―――。
「・・・・食いついたな」
観測された世界。張った網に悪意を流すことで”悪意の翼”を『平面の集中力』に接続する。悪霊は捉えられないし、感情は捉えられない。しかし、”世界に存在し、その力を事象として顕現させられた悪意”であれば、覆われた網に吸収されるのだ。
「しかも”曰くつき”だからな。山のあちこちから悪意を吸収している感覚があるぜ・・・」
特に大きい悪意、彼女の悪霊たる憎悪を吸収しながら、更に曰くつきと称される山。そのあらゆる場所から悪意を『平面の集中力』の網を伝って力に置き換わっているのが分かる。千年単位で蓄積された恨みつらみだからか、”悪意の翼”に更に濃さが増しているように感じるし、比例して血管の中から害虫の羽音が聞こえ始めているのも、力の増強の証としては顕著だろう。
彼女に触れることなく、彼女の悪意に障ることもなく、淡々と彼女と彼女を取り巻く環境から”悪意”を吸い取っている状態になる。
悪く言えば「生物濃縮」という言葉が似合うが、少なくとも日常に異常をきたす程辛いものではない。呑まれなければ人一人の生死を両立させることだって出来るのだから。
身体全体に掛けられる力が増加しているのを肌で感じていると、ふと闇夜に紛れた森の中から人影が此方に向かって歩いてくるのが分かった。
さっき思い切り吹き飛ばした悪霊の女性だと分かると、オレはそっと気を張る。
悪霊の女性はその身に薄く黒いオーラを漂わせながら険しい表情をしつつも、襲ってくる気配は感じさせない。瞳は攻撃的だが、今さっきまでの”悪意”がないせいかすぐに攻撃の手を上げようとしない。森全体の雰囲気が晴れ始めたのも要因の一つかもしれない。
悪霊の女性は悪霊に似つかわしくない悲し気な表情をしながら、顔にてを当てる。
「あなたの中にある”悪意”を引き出した結果が身の破滅とはね。笑えないけど、何故か攻撃の手が出てこない。私の中にあった”悪意”を吸ったでしょ?」
「あぁ、理屈は少し難しいが。森とお前の中にある”悪意”を吸ったぜ。”悪意の翼”は他の悪意を吸収して力に変えられるらしい。元々の”悪意”で君を滅ぼすことも可能だっただろうけど」
「どうしてそうしなかったのかな? 私は今でも自分は悪くないと感じているし、信じている。それでもあなたは私が嫌いなはずだ。それが理解できなくてね。君に力を吸われ続ければ私は消える。吸われなくても力の差が大きすぎるから物量作戦でも消えることになる。ならせめてもの事、物量で私を滅ぼさない理由を聞いておきたい」
「悪霊なのに諦めが良いな。最後の最後までオレを呪い続けるもんだと思ってた。ちゃんと会話できるって、なんか慣れねぇな」
「これでも山の神様になった元人間だからってのと、単純に格の違いかな。今の私はただの浮遊霊だ。現在進行形であなたに力を抜かれているから餓鬼程度の”悪意”の力しか使うことはできない。竜神と竜王に上下関係があるのと同じ。あなたの持つ力は神となった悪霊の力を優に超えているからね。逆らうことができないのさ」
「だから、か」とオレは顎を引く。悪霊は言わば浮遊霊に”悪意”がこびりついた形なのだ。だからオレがそれを吸えば神となってもただの浮遊霊になると言う事だろう。こうして会話が出来るのも、浮遊霊であることの証なのだ。
悪霊は加えて疑問を浮かべる。
「今ではただの浮遊霊だけど、悪霊だった時既にあなたの力は私の”悪意”を凌駕していた。だから謎なのさ。こうして私から”悪意”を取り除いただけで終わる事にね。なんの、利益も貴方にはもたらさないだろう?」
だからこそ、だ。悪霊は祓われるもの。それなのにその”悪意”を剥ぎ取られるだけにとどまるのはどうしてなのか、と。
答えるものは沢山ある。しかしオレはこの場で言うべき最適解を述べた。
「なんの利益にもならない。君の”悪意”を吸収しても、オレにはもう必要のない力だろう。でも、記憶をたどってしまったからには、君の力を取り除くことが君への救いになるのかなと思ったんだ」
朦朧と悪意の中に呑まれ、そこで垣間見た彼女の記憶。差別を受け、家屋に閉じ込められ、儀式に埋められたにも関わらず、死ぬまで、否、死んでもその住民に愛されたいと望んでいた彼女人生。
死した彼女の想いに”悪意”が宿り、悪霊となったのだ。
”鬼”と、――そう呼ばれ、迫害された子が、本物の”鬼”となってしまったのだ。
ならばオレが取るべき選択は「”鬼”として彼女を滅ぼす」のではなく、「彼女を”鬼”とし立てた原因を取り除く」だ。
オレは彼女を見る。いまやもうほとんどの黒い霧が晴れ、彼女の素顔が見えはじめた。黒い髪に碧眼。そして右に二つの眼が有り、左に一つの眼がある。記憶では見れなかった整った顔立ちの、普通の女の子だ。文字通り薄く、半透明になってはいるが、迫害されなかった世界線での彼女の美しさは察するに余りある。
「・・・・三つ目って、可愛いと思うけどな」
「えっ」
ほっと心の声が漏れ、彼女が息を詰める。
「オレだったら、生まれる時代が違ったら嫁にもらってたかも。子供だったら、村のわからずやは皆殺しにしてたかもな。「神に捧げる」って言うだろうけど、この可愛さは神にはもったいねぇ」
「ええええぇぇぇぇ・・・・」
こころなしか半透明の彼女の頬が紅くなったように見えた。
今やもう、彼女に黒さは見えなかった。彼女は思わぬオレの台詞に目じりに潤いを浮かべる。
「う、嬉しいな。そういう事言ってもらえるなんて・・・。消える前に、それも高位の人から言われるなんて・・・。すごく、嬉しい」
はにかんだ笑みに後ろから夜明けの陽ざしが刺した。反射する彼女の透明さに、オレは彼女との別れを悟った。空気に溶けるような、―――彼女の身体は完全に透けていた。
「お別れだね・・・。あなたには迷惑いっぱいかけちゃった。ごめんね?」
「ほんの数時間の出会い、本当の君とはもっと短い出会いだったけど、悪くなかった。っていうかめちゃくちゃ可愛い事に驚きだわこっちは」
「まっ、か、からかわないの! 皆が皆、私みたいに心を開いてくれる霊だとは思わない事よ! 後、私みたいな浮遊霊でも、死した者に対して心を開くことは自殺行為。良い霊なんていないんだから。成仏しないで現世に残ってる時点でその霊にはなにかあるのよ」
ぷりっと起こる彼女だが、すぐに柔和な笑みを浮かべる。
「成仏するのか?」
「うん。もう、村の皆には会えない。気持ちは割り切って、次の生命に期待を寄せるの。その方がずっと良いからね」
「じゃぁな」
「良かったらまた来世で会おう。今度生きるなら君と一緒が良いな。どんな私でも肯定して、好きになってくれそう」
「オレまだ死んでねぇよ・・・・」
ブラックジョークにオレがげんなりと肩を落とすと、彼女は笑う。そして最後にこれでもかと、夜明けの太陽に負けない良い笑顔で、
「―――じゃぁね! また逢おう!」
と、オレに手を振り、水が蒸発するように世界から消えていった。
――消えていったのだった。