第二章12 『善悪たる毒』
森が風でざわつく音がする。小鳥の声も良く響くし、猫の喧嘩のような声も聞こえる。赤子の夜泣きみたいな声もオレの鼓膜の中に入って行った。
しかしこの祀り場、もといこの居間の中は奇妙なことに変な安心感があった。
ある種の聖域、安全地帯に守られている感覚がある。言い換えれば、安全地帯に追い詰められたとも考えられるがここは(おじいちゃん談)良い神様の祀り場だ。ある種悪意を持った霊は入れないだろう。
祈り終わったオレは居間の障子を開けて外へ出る。去り際の一礼も忘れてはならない。
木造独特の湿気が鼻をくすぐり、オレはどこか自然の一部に帰したような気分になる。雰囲気もクソ親父の家やおじいちゃんの家とは違って、こころなしか心の中に森が生えているような、むしろオレが森になっているような気さえする。
まるで自然の世界へと吸い込まれるように、オレはそのまま目を瞑って―――。
「吞まれたらいけんよ、お兄ちゃん」
「―――ッ!?」
不意にオレを呼ぶ声が聞こえた。ハッと目を見開き、オレは声の元、――オレの真横を見た。
そこに居るのは明らかに歳が下の、おそらく十歳になったばかりであろうか、黒い髪に黄色い瞳の町人の服を着たふっくらとした顔つきの男の子が立っていた。
オレは今まで何も感じていなかった場所に突如として現れた少年にどう反応すべきか、この子はそもそも人間なのか、と疑問に気を取られていた。
少年はオレが何を思っているのかとかなどを気に止めた様子もなく、再び口を開く。
「この山は良くも悪くも力が強いんだ。だから入って来た人に働く力も大きい。――呑まれたらいけんよ。良い力も毒だからね」
「君は・・・?」
「僕はここに住んでるんだよ。他の子達もここに住んでる。僕はお兄ちゃんみたいな人を起こす係なんだ」
「住んでる・・・? 『平面の集中力』には何の反応もなかったはずなんだが・・・」
オレはこの祀り場に来る前、トンネルから出た時に『平面の集中力』を発動した。『平面の集中力』は最大半径数百mまでのあらゆる物質及び物体を観測することができる力だ。空気の流れや生き物の産毛の動き、何処に何があるか、どんな状態か、全てが頭の中で全く同じように再現されるのだ。そしてその再現の中では勿論この祀り場もあったわけだが、オレが観測した際には完全に無人だった。
それが今になっては少年がおり、さらには他にも住んでいると言われる始末だ。
しかし少年の眼には嘘は見えず、少年以外にも住人が居るには確かで、住んでいると言うのも本当の事らしい。
「(・・・まぁいいか、害意はねぇみてぇだし深堀はしなくていいか)」
少し悩んだが、こういうタイプのものは悪意とかを向けられない限り下手な探りを入れるべきではない。それも神様の祀り場だ。”住んでる”彼らがなんなのか、『平面の集中力』で映らなかった彼らはなんなのか、と疑問はいくらでも湧くが知らない方が良い事もこの世にはある。
オレは「ま、あんがとよ」と少年に手を振り、靴を履く。
「何処に行くの?」
「えぁ? 帰るんだよ家に」
「やめた方が良いよ」
「なんで?」
「森が騒がしい。異物が入って来たって、怒ってる。悪い事言わないから今日は此処に泊まっていった方が良いよ」
少年は元々小さい身体を抱いてぶるっと震える。”森が騒がしい”とはどういうことかと聞こうと思ったがここが曰く付きの山であることを思い返し、少年の言いたい内容を察する。しかしここで一泊という訳にも行かない。
なぜなら、アルテインが待っているからだ。
「(それに一日帰ってこなかったらおじいちゃんとアルテインが心配するしな。帰らねぇわけにはいかねぇよな・・・)」
「やっぱ帰るわ、オレ」
「やめておいた方が良いよ。もう夕方だし、この山の住人は強いから、ここには入れないけど外は彼らの独壇場だよ。おじいちゃんは霊力馬鹿強いから大丈夫だけど、お兄ちゃんは霊力ないから外を出たら一発で連れていかれるよ。耳元でずっとずっと、恐い思いをすることになる」
「・・・・」
少年は今度は強い口調でオレの行く末を阻んできた。たかだか十歳程の子供の言葉なのに、、まるでその場に居合わせたかのように恐怖の現実を忠告してくる。
オレは忠告に若干戸惑った。少年の言った事の「耳元でずっとずっと、恐い思いをすることになる」に、霊獣と初めて対面したオレの記憶がよみがえって来た。トラウマを耳元で再現される。それが永久に続く。それがどれほど怖く、恐ろしいことなのか、しかしアルテインが待っている。
オレが悩んでいると、少年は肩の力を抜きオレに問いかけてきた。
「お兄ちゃん、どこから来たの?」
「この山から二つの山を越えた先にある家から来た」
「いつ頃家を出たの? どうやってここに来たの?」
「多分昼過ぎで、南西にあるトンネル抜けて来たんだよ」
「え゛ッ!? 裏鬼門から来たのお兄ちゃん!!」
少年の驚きっぷりにオレも逆に驚いてしまった。何がそんな変なのか、変な少年に驚かれるのは心外だが、それも次の少年の言葉で納得してしまう。
「裏鬼門ってそんな変な事か? 鬼門の反対なんだから大丈夫って爺ちゃんに言われたんだけど」
「鬼門も裏鬼門もどっちも不吉だよ! よく生きてたねお兄ちゃん!?」
「げぇッ!? どっちも不吉なのかよ!! それになんだ「よく生きてたね」って!? オレはそう簡単には死なねぇし、死ねねぇんだよ!!」
少年の驚き様からして嘘はなく、本心で言っているものだと確信しおじいちゃんに対して猜疑心が湧く。どちらも不吉なら、何故オレに変な嘘をついたのだろうかと。
嫌な予感がしつつも、「それはない」とオレは自らの内に生え出てきた疑問に首を振る。
「(きっとただの偶然だろうな。わざと裏鬼門の道を孫に向かわせるなんて、おじいちゃんにメリットが全くねぇ)」
それどころか意図が分からないまである。
「裏鬼門は鬼門と同じで、良い事があまり起きないんだ。普通に過ごしていたら大したことは起きないよ。少し運が悪くなるくらいで終わるだろうけど、こういう悪い力を蓄えている山とか、そういう名所だと霊的な現象が起きやすくなるんだ」
「霊的な現象? オレはここに来るまでに変な目には合ってねぇよ。霊も寄り付かないトンネル使ってここまで来たからな」
トンネルの護符とかランタンは確かに変だったが、霊的現象に該当するものは特にと言ってなかった。
「鬼門だとか霊的現象だとか言っても、帰りもそのトンネル使って帰ればいいし、やっぱり泊まって迷惑はかけられねぇよ」
「む~」
「唸ってもダメです。オレはどう転んでもこの山にとっちゃ異物なのには変わりはねぇんだ。匿ってもらう必要はねぇよ」
オレはそう言って頬を膨らませる少年の頭を撫でる。
きっと本音は別の所にあったのだろう。今さっきまで無人だと認識していた祀り場に少年が居る。うっかり眠ってしまいそうになる。外から明らかに動物じゃない声がする。居間がすごく高貴な気配がする。等々。
オレは恐れているのだ。この山を。
だからすぐにでも逃げ出したかったのだ。
その意思を見てか定かではないが、少年は不満げな顔を覗かせながらも「はぁ」とため息を吐く。
「分かったよ。僕としては不満だけど、お兄ちゃんを縛るには理由が足りないし、せっかくの参拝客だからね。お兄ちゃん、寄り道とかせずに”トンネル”ってところ行ったらそのまま帰るんだよ!」
「あぁ、わーってるよ。約束する」
少年がオレに人差し指を叩きつけ、オレはそれに頷く。
そしてオレはそのまま石垣の階段を降りていき、祀り場の外へと出た。
A A A
いくら歩いても目的の場所につかない。『平面の集中力』は確かに目の前にトンネルがあることを示している。だが目の前は岩壁で、触ってみても岩壁のザラザラとした感触しか伝わってこない。
ここでオレは改めて気づいた。
オレは曰く付きの山の中で迷子になっていることを。