昔語り~火群~ 後編
二人は白銀の世界に降り立った。滋生が白い大波に飲み込まれた後、風の膜はゆっくりと降下していき、消えた。
「火群、オレが中に入って滋生を探してくる。お前は班長に連絡してくれ」
「…………」
「火群!」
呆然としていた火群は土師に揺すられて、力なく頷いた。土師は滋生がいた付近から“透化”で雪の中へと潜っていった。
雪中を進んでいくと、見覚えのある褐色の翼が見えた。土師は上に戻り、ヴァモバでテイラーに連絡している火群を呼んだ。
「火群、この下に滋生がいる。炎で雪を溶かしてくれ」
「……お、おう」
火群は慎重に周りの雪を溶かしていった。滋生の周囲だけの雪が解け、穴があく。
その中にぐったりとしている滋生が見えた。途端に火群は滋生のそばに飛び降り、駆け寄った。
「織!」
滋生の体を抱き起こす。滋生の体は冷え切っていて、体温は全く感じられなかった。
「おい、しっかりしろよ! おい!」
面はあの波の中でも外れることがなかったようで、顔は面に覆われたままだ。呼び掛けると、微かに滋生は身じろいだ。
「織!」
「……かげ……ろう……?……」
「大丈夫か、しっかりしろよ!」
「……あんた……今、初めて……名前で呼んだね……」
「!」
途切れ途切れの声で滋生は言った。火群はくしゃりと顔を歪め、滋生の冷たい体を支える手に力を入れた。
「うれしい……よ……あんたには……名前で、呼んでほしかっ……た……」
「しゃべんな。すぐレスキューが来る。黙ってろ」
「……ダメだよ……あたいはもう……もたない……」
「ふざけたこと言うんじゃねェ! テメェは天狗族なんだろ! このくらいでくたばるかよ!」
「景朗……」
「くたばんなよ……名前呼んでほしいなら…仕方ねェから呼んでやる。だから……」
肩を震わせる火群。滋生は持っていた天狗扇を放し、火群の頬に手を伸ばす。もう片方の手で、滋生は初めて面を外した。
「!」
火群は息を呑む。さらされた素顔はとても美しかった。力なく微笑んでいるその顔は、死の間際だというのに幸せそうだった。
「ふふ……素顔を見せるのは……家族以外じゃ……あんたが初めてだよ……それから……」
一度手放した扇を震える手で持ち上げ、差し出す。
「これ……あんたに、あげるよ……あんたに、もらってほしいんだ……」
火群は悲痛な顔でその扇を受け取った。滋生はずっと笑っている。顔は青白く、生気はほとんど失われているのに。
「ねぇ、景朗……天狗族は……心を、許した相手にしか…素顔を見せちゃいけない、て……知ってるかい……?
あたいはね、もしそうするなら……あんたがいいって……思ってたんだよ……」
「なン……で……」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。滋生の体が一層冷たさを増し、死相が現れたからだ。
「……だって…あたいはさ……あんたの、ことが……」
それ以上言葉は続かなかった。
すっ、と頬に添えられていた手が落ちる。滋生の瞼も閉じられ、完全に動かなくなった。
「はとり? 織! おい! 起きろよ!! 俺のことがなんだってンだよ! 最後まで言えよバカ野郎ッ!」
どんなに揺さぶってみても、滋生が再び目を開けることはなかった。
二人の頭上に、テイラーとレスキュー隊の乗ったヘリコプターが飛んできて、プロペラの起こす風に雪が舞い上がる。
土師は眩しそうにヘリを見上げた。火群の哀叫を聞き、穴の中で息絶えたであろう滋生を思い、哀しげに瞑目した。
事件はこうして幕を閉じた。犯人だったアイズアッフェは全員、雪の中から黒焦げ状態で発見された。
彼らが人間を襲った理由――それは、リーダー格の言った通り、ただ面白かったからかもしれない。
だが、宇賀尾山はここ数年、登山者のマナーが悪くなり、ごみを持ち帰らない者や、木々を傷つける者がいたという。
これは推測に過ぎないが、山に棲んでいる彼らは山を荒らされて怒っていたのかもしれない。
ヘリの中から宇賀尾山を見下ろし、テイラーは一人思いを馳せた。
火葬場の人気のない場所。うなだれて階段に一人座り込み、滋生が最期に遺した扇を見つめていた火群は、横から近づいてくる人影におもむろに顔を上げた。
「隣、いいか」
火群は感情のなくなった顔で土師を見上げ、頷きもせず顔を戻した。それを許諾と受け取り、土師は火群の隣に腰を下ろした。
あの後、レスキュー隊のヘリで滋生の遺体は丁寧に運ばれ、火葬されることになった。
しばらく互いに無言だったが、沈黙を破ったのは土師だった。
「滋生はな、少し前から病に冒されていたんだ」
滋生の名に、火群はぴくりと反応した。それでも扇に視線を注いだままだ。土師はゆっくりと諭すように話す。
「人外だけがかかる病気で、確実な治療法はなく、先はそう長くないと医者に言われていたそうだ。
今まで言わなかったのは、最後までお前といつもどおりに接していたいからって、あいつに口止めされていたんだ。黙ってて悪かった」
もしも伝えていたら、何か変わっていただろうか? 今となっては分からない。
「けどな、お前に言わなかったのは、心配をかけたくなかったからなんだよ。
つらい思いをさせたくなかったからだと。あいつの気持ちを分かってやってくれ」
火群は何も言わない。扇に視線を落としたまま、まるで抜け殻のように動かない。
「火群。滋生はあの時には末期で、いつ倒れてもおかしくなかった。だから、あいつが死んだのはお前のせいじゃない」
「……っ」
火群の扇を握る手が強まり、震える。土師はなるべく火群の方を見ないようにして言葉を続けた。
「それにな、あいつはお前と最後までいつもどおりでいたいっていう願いが叶ったんだ。きっと幸せだったと思うぞ」
「……そンなの、勝手じゃねェか。病気のこと黙ってて、願い叶えて、自分だけうれしい思いして逝っちまいやがって……!」
低い声で火群は言った。確かに、滋生の死に顔は幸せそうだった。けれど、残される自分は?
置いて行かれる方は決して幸せなんかじゃない。惚れた女が死ぬのを、目の前で、肌で実感した俺は。
――好きだった。そばにいるうちに、好きになっていた。顔なんか見えなくたってよかった。
一人の女として好きだったから、アネキなんて呼びたくなかった。
名前を呼ぶのもためらうくらい好きで、意地を張ってずっと呼べずにいた。ようやく呼ぶことができたのに。
「いつも勝手すぎるんだよあいつは! 何が心配かけたくなかったからだよ!
こんな……突然いなくなった方がつれェんだよ!! 中途半端な言葉まで残しやがって!! 伝えてェことがあんならちゃんと伝えろよっ!!」
叫んでも、もうその言葉は届かない。伝えたいことがあったのに、もう伝えられない。
会いたくても、もう二度と、会えない。悲痛な訴えを聞いていた土師は空を見上げた。
秋の空は晴れていて、雲がゆるやかに流れていく。
「あいつは、伝えたいことは伝えていったと思うぞ。天狗族にはもう一つ、掟があるそうだ。自分の天狗扇を渡すのは、心から愛する相手のみ、ってな」
「……!」
「言葉じゃなく形で、滋生はお前に想いを伝えていったんだ」
土師の言葉が終わると同時に、火群の目から涙が溢れた。歪む視界。
火群は天狗扇を顔に押し当てて、十数年ぶりに涙を流した。
「織……! 織ィッ」
体を丸めてむせび泣く火群。涙の粒が地面に落ちて吸い込まれていく。
土師は黙って、そばにいてくれた。それが心地よかった。
しばらくしてしゃくり上げる火群は、言葉を詰まらせながら傍らの土師に言った。
「……アニ、アニキは……俺より、先に……逝くなよ……?」
わずかに目を瞠ってから、土師は優しく微笑んだ。答える代わりに火群の頭を撫でる。幼子をあやすように、そっと。
話を聞き終えた僕たちは、静かに泣いていた。今の火群さんからは想像できない悲しい過去だ。
「火群さんに、そんな過去があったなんて…」
【滋生さんも火群センパイもかわいそうですね。想い人と一生会えなくなるなんて】
春希ちゃんもハンカチで涙を拭いている。天刻さんがコーヒーを淹れて僕たちに差し出してくれた。
その天刻さんも、悲しい過去を偲んでどこかやるせない様子だ。
「そうですねぇ。いつかは誰にでも死は訪れるものですが、火群君にとって、それはあまりにも突然で、深い傷となっているでしょう」
今でも、火群は雪が降るとそのことを思い出すのか、元気がなくなる。
今日とて、表面上は普段と変わらない様子だが、内心はしんみりとしているだろう。
滋生からもらった扇も大切に取ってあるらしい。
「二人とも、この話をしたことは火群君には内緒にして下さいね。
火群君の前で滋生君の名前は禁句になっていますし、勝手に話したと知ったらきっと怒りますから」
苦笑する天刻さんに、僕たちは首肯した。そこで、当の火群さんが給湯室に入ってきた。
「おい、こんなとこで三人で何してンだ? って、コーヒー飲んでやがる! 俺にも飲ませろや!」
「わっ、はいはい、今淹れますよぉ」
一番近くにいた僕に詰め寄ってくる火群さん。僕は火群さんのカップを棚から出した。
火群さんは「あっちで待ってるからよ」と隊士室に戻る。あれで本当に丸くなってるんだろうか。まあ、髪の色は金髪から黒髪になってるけど……
「なんか、あんまり変わってない気がする……そういえば」
トポトポとコーヒーをカップに注いで、僕はふとあることに気づき、疑問を口にしてみた。
「天刻さん、さっきの話って十年くらい前の話ですよね? 榊原総隊長ってその頃から“総隊長”だったんですか?」
今、総隊長は確か三十代半ばだったと思うから……さっきの話の時、総隊長は二十代半ば。二十代半ばで総隊長なんてすごすぎる。
春希ちゃんも、今それに気づいたらしくて驚いた顔をしてる。天刻さんはなんでもない様子であっけらかんと返した。
「そうですねぇ。あの人は私が入隊した頃から総隊長でしたよ」
「えええっ!?」
初耳! て言うか、天刻さんが入隊したのって二十年くらい前でしょ!? その頃から総隊長!? いやっ、て言うか年齢合わなくない!?
はっ。実は総隊長、年齢詐称してて、ホントは天刻さんより年上だったりする!? だったら天刻さんを名前で呼ぶのも頷けるけど…っ。
悩んでいると、天刻さんがくすっと笑った。
「気になりますか? 榊原さんのこと」
「も、もちろんです!」
だって、総隊長は総帥に次ぐ謎の人なんだから。藍泉国の全警吏庁をまとめているのが総帥で、総隊長は総本部・本部・支部のそれぞれの長官を表す。
総帥について分かっているのは『円藤』という名字だけで、顔も下の名前も、年齢も性別も声も不明。
人間か人外かすら分からないんだ。というより、本当に存在しているのかも怪しい。
総帥に直接会ったことがあるのは榊原総隊長だけなんだけど、もしかしたら総隊長が一人二役を演じているのかも。
誰の前にも姿を見せないで、誰かと話す時は狼のぬいぐるみについた通信機で話す。
その声だって、機械で声が変えられている上に、男の人と女の人が同時に話しているような声だし。
昔、総帥のことを調べた人がたくさんいたらしいけど、結局分からずじまい。僕も早々に諦めたよ。でも、総隊長ならまだ答えに手が届きそう!
「それでは、後ほどお話ししましょう。今は火群君にコーヒーを持っていかないとね」
「あ、そ、そうですね」
忘れてた。僕たち三人は隊士室に戻った。部屋の温度はだいぶ快適になっていたけれど、寒さが苦手な淑生さんは毛布にくるまってミノムシ状態だ。
「火群さん、コーヒーです」
「おうよ」
一応、淑生さんの分のコーヒーも淹れたんだけど、飲むかな?
「淑生さん、コーヒー飲みますか?」
「……う~……飲むぅ」
毛布から顔を出し、手を伸ばす淑生さん。
「熱いですから気をつけて下さいね」
淑生さんにカップを渡すと、僕は壁に寄りかかって立っている天刻さんのところに行った。
「じゃあ、話の続き聞かせて下さい」
「何々? なんの話?」
真愛良ちゃんが興味を示して、“念動”で自分の体を浮かせながら僕の隣に滞空する。
「天刻さんが総隊長のことを話してくれるんだって」
「ほんとーっ? まいらも聞きたーい!」
「へぇ、ちょっと興味あるな」
「榊のオッサンの話ねェ。聞いてやってもいいかもな」
他の二人も興味津々みたい。でも、淑生さんだけは話の輪に加わってこなかった。
淑生さんって、総隊長が苦手なんだよね。その理由もこの話で分かるかな?
僕たちはデスクのイスに座ったりして静聴の態勢を取る。
みんなでこんなにおとなしく誰かの話を聞くのは、総帥が話をする時くらいだ。それくらいみんな真剣だった。
やがて、天刻さんが語り始めた。