昔語り~火群~ 前編
今から九年前。
この時、火群景朗・十七歳。土師昂行・二十四歳。天刻柾周・三十二歳。
そして滋生 織・十九歳――
「くぉーら、景朗! またこんなところでサボって!」
藍鼠色のセミロングの髪、顔は目となる部分に、二つの細長い黒の楕円しか描かれていない面で覆われ、表情は見えない。
そして尖った蘇芳色の犬耳と尻尾、同色の背中から生えた翼。
どこから見ても人間ではないその女は、眼下の芝生の上で寝そべっている少年を見下ろして、面の下で眉を吊り上げた。
「テイラー班長がお呼びだよ!」
「……るせェな」
染めた金髪、耳に開けたいくつものピアス。はだけたシャツから覗く胸元には切り傷がある。
火群景朗。先々週、特殊課第三班に入隊した新人警吏隊士だ。
「クソババァに言っとけ。俺ァ行かねェってな」
交差した腕を枕にし、目を閉じたまま火群はけだるげに言った。滋生は火群の横に降り立ち、腰に手を当てて真上から顔を覗き込む。
「クソババァじゃないだろ。テイラー班長と呼びなって何度言わせるんだい!」
「チッ。っせェな。いいからとっとと行けよ」
「あんたを連れていくために来たのに、一人でなんて戻れないよ」
「うざってェな。俺ァ眠いんだ。寝かせろよ」
「寝たいんなら任務終えてからにしなよ。ほら、起きな!」
揺さぶっても火群は起きようとしない。滋生はため息をついて、不意に何か思いつく。
にまっと笑って、自身の翼から羽根を一本抜き、火群の鼻先に置く。羽毛が火群の鼻をくすぐり、大きくくしゃみをする。
「……へ…ぶへっくしょわい!」
「ぶっ。あっはははは! 『ぶへっくしょわい』だって! 変なくしゃみー!」
おなかを抱えて滋生が笑うと、火群は鼻をこすりながら起き上がった。
「こンのアマ~…何しやがる!」
火群が立ち上がると、滋生はふわっと空へと逃げる。
「あはは! 捕まえられるものなら捕まえてみな!」
「おい! 空飛ぶなんてずりィぞ!」
「あたいを捕まえるなんて百年早いよ、悪ガキ!」
「降りて来い! 卑怯だぞテメェ!」
腕を振り回して怒鳴っていると、丸眼鏡をかけた男が茂みを掻きわけて顔を出した。
「滋生、火群、ここにいたのか」
火群は内心で、見つかっちまったと舌打ちする。土師は火群を見て小さくため息をついた。
「火群、班長がかんかんだぞ」
「それがどうしたってんだ。俺ァ行かねェぞ」
「さっきからこの調子なんだよ」
肩をすくめて見せる滋生。土師はやれやれと頭を掻いた。
「仕方ない。強行手段だ。滋生、風で運んでいけ。こうなるだろうと思って窓は開けてきた」
「分かったよ」
滋生は手の内に扇を出現させ、一振りする。
「ああ!? ふざけ…」
抗議しかけた火群を滋生の扇から起こった小さな竜巻が包む。
「何しやがる! 下ろせ!」
「じゃあ昂行、先行ってるよ!」
「おお」
「下ろせ! 下ろしやがれ天狗女!」
翼をはためかせ、滋生は特殊課に向かって空を駆けた。その横を竜巻が並走していく。
滋生は人外で天狗族なのだ。彼女の持つ檜扇は風を起こすことができる天狗扇。天狗の象徴でもある。
当時の火群は、火群の住む区内で有名な不良少年だった。高校は退学、実家からは勘当されていた。
不良仲間たちと日夜遊びまわり、中学生や高校生をカツアゲしたり、オヤジ狩り、ホームレス狩りなどをして懐を潤していた。
チンピラや他の不良とケンカをすることもあり、荒れた毎日を送っていた。“発火”能力はこの頃に発現。
絡んできたチンピラとケンカをしている最中、チンピラが仲間の腕の骨を折った。
その時の怒りが“発火”能力を目覚めさせたのだ。チンピラを火ダルマにし、火群たちは逃げた。
それから火群は自分の能力を誇示した。反抗する相手や敵には容赦なく炎をお見舞いし、いつしか“炎上の火群”と通り名を付けられ、その区内で火群に手を出す者はいなくなった。
そんなある日、火群の名を知らない不良グループが火群にケンカを吹っ掛けた。売られたケンカは買う主義の火群は、当然相手をした。
そして恐れをなして逃げようとする不良たちを炎の輪で囲んで追いつめた時、現場に総隊長がやってきた。
『やあ。“炎上の火群”というのは君だろう?』
『……あんだよテメェ。俺ァ今お楽しみ中だ。邪魔すんじゃねェ』
遠くで不良たちが炎に囲まれ、熱さで悲鳴を上げていた。熱風が吹きつける中で、陽向は平然とした顔で笑っていた。
『悪いね。でも、君と話がしたいんだ。少し炎を止めてくれないかな。彼らを帰して、二人きりでゆっくり話をしよう』
『気色悪いこと言ってんじゃねェよ。俺ァ話なんざするはつもりねェ』
『君にはなくても私にはあるんだ。だから炎を止めてくれないかい?』
『るせェ!! 邪魔すンなっつってんだろ! これ以上ガタガタぬかすんならテメェも火ダルマにすンぞ!!』
火群は陽向に向かって火炎球を投げつけた。火炎球は陽向の全身を包みこみ、火ダルマにする。――だが。
『ふむ。血気盛んだね。若い若い。でも、私に炎は効かないよ』
陽向が炎を撫でるように手を振ると、陽向を包んでいた炎はすうっと消えた。火群はぎょっとして唖然とする。
『俺の炎が……テメェも炎使いか!?』
『うん、まあそんなところかな? だから私に炎を向けても意味をなさないよ。おとなしく言うことを聞いてくれないかい?』
笑顔で陽向は火群に歩み寄る。火群はじりじりと後退した。
得体のしれない男に対する恐怖と、初めて炎が効かなかった敗北感から、火群は不良たちを囲む炎の輪を消した。途端に不良たちは逃げ出す。
『……話って、なんだよ』
『聞いてくれる気になったかい?』
『るせェ。とっとと話せよ!』
『短気だねぇ。まあいい。若い子はそれくらい元気があった方がいいからね。
――単刀直入に言おう。火群景朗君。警吏隊に入ってくれないかい?』
『……ああン?』
思いっきり顔をしかめて火群は陽向を睨みつけた。警吏隊と言ったら、町の平和やら何やらを守る奴じゃねぇか。
まっとうな生き方をしていないと自覚している自分とは縁遠い、それどころか正反対の位置にあるものだ。
どちらかと言えば捕まえる方ではなく捕まえられる方だし、実際に何度か世話になったこともある。
(何考えてんだこのオヤジ)
『君は異能者だ。能力名は“発火”。炎や熱を自在に操れる。君にはまだ未熟な部分はあるが、能力値は高い。
今のままではその力を持て余すだけ。だから私のもとに来て、その能力を生かしてみなさい』
もっともらしいことを言っているが、つまるところ警吏の犬になれということだろう。
『警吏庁には君のような異能者や人外だけで編制されている特殊課というものがあってね、君はそこに所属するんだ。
きっと君も気に入るよ。警吏庁には寮があるし、入隊したらそこで暮らすといい。一人部屋と二人部屋があるけど、火群君は一人部屋がいいかな?』
『待てよ、勝手に話進めてんじゃねェ。俺ァ入るなんて一言も言ってねェぞ』
『入るべきだよ。今のままでは、君はダメになってしまう。
一生、その能力を無駄に使って、他人のお金を巻き上げて、惨めな暮らしを続けるのかい?
世の中には、君の能力を必要とする人がいるというのに』
落ち着いた陽向の声に、火群は押し黙っていたが、小さく舌打ちをして『そこまで言うなら入ってやろうじゃねェか』と入隊を承諾した。
だからと言って火群が改心することはなく、入隊しても勝手放題だった。
講習や朝会に平気で遅刻するわサボるわ、喫煙所以外でタバコを吸って灰や吸い殻を落とすわ、他の隊士に嫌がらせをしたり事実無根の悪いうわさを流すわ……歴代の警吏隊士の中で一番の問題児だった。
そんな火群の世話を焼く羽目になったのが、土師と滋生だった。
二人は火群の所属する第三班の中で年齢が近かったため、自然とそうなってしまった。
元不良の相手なんて、最初は気が向かず嫌々やっていた。
あまりのワガママに腹を立てることもあったが、家庭の不仲が原因ですれてしまった火群を、いつの間にか放っておけなくなった。
何かと構ってくる二人が、火群はうっとうしくて仕方がなかった。だから初めは寄って来る二人を火炎球で脅していた。
それでもめげずに面倒を見ようとする二人に、少しずつ火群は気を許していった。
口では「るせェ」「うざってェ」と文句を言うが、火炎球をぶつけることはしなくなった。
他の隊士には相変わらずの態度だが、二人にだけは、ほんのちょっぴり素直な態度を取るようになったのだ。
そんなトリオが庁内で有名になった今日この頃。火群はこの日が初めての任務だった。
まさかこの任務が深い傷跡を残すことになろうとは、この時の火群は知る由もなかった。
あっと言う間に特殊課三班の部屋に辿り着き、滋生は火群を窓から投げ入れる。
「ってェ! この乱暴天狗! 女だからっていい気になってんじゃねェぞおらァ!」
「ふん。乱暴なのはどっちなんだか。そんな言い方してると女にモテないよ」
「るせェ! 余計なお世話だ!」
「火群隊士」
背後からハスキーボイスの女性の声がする。火群はぎくりとおそるおそる振り返る。
腕組みをし、眼鏡をかけた女性――テイラー班長が床に座り込んでいる火群を見下ろしていた。
「私は三十分ほど前に召集をかけたはずなんですけれどね。なぜ来なかったのですか?」
火群は顔をしかめてテイラーから顔を逸らした。
「るせェな。どうだっていいだろ」
「火群隊士?」
一層テイラーの声が低くなり、額に青筋が浮かぶ。それでも火群は反抗的な態度を崩さない。あぐらをかいて膝に頬杖をつく。
「しつけェんだよ、クソババァ」
ピキキ……
テイラーの頬が引きつり、額からにょきにょきと二本の細い角が生えてくる。それを見た滋生が狼狽する。
「バ、バカ、景朗っ」
「ああン?」
「火群隊士……言いたいことはそれだけですか?」
眼鏡が光り、テイラーの表情ははっきりと見えないが、確実に怒っている。
女性の体から妖気が噴き出し、火群を金縛りが襲った。
妖気にあてられ、火群の体を脂汗が伝う。一歩一歩ゆっくりと近づくテイラー。滋生は怖ろしさで動けなかった。
彼女を止めたのは、同じく隊士室内にいた天刻だった。テイラーを後ろから羽交い絞めにして笑う。
「まあまあ、テイラーさん。あなたが本気で手を上げたら火群君が死んじゃいますよ」
テイラーは眉根を寄せて、渋々といった感じで「本気なんか出しません」とやんわり天刻の手をほどく。突き出ていた二本の角も元に戻っていた。
テイラー・グレイシア。彼女も人外で鬼族である。普段は角を隠しているが、感情が昂ると角が出るのだ。
「とにかく、火群隊士。これから任務に行ってもらいます。滋生隊士と土師隊士の三人で…土師隊士は?」
「はいはい、ここですよ」
ちょうど土師が隊士室に入ってくる。滋生も窓から中に入り、翼を消した。
「三隊士にはこれから伊師市の宇賀尾山に赴いてもらいます。報告によれば、ここ一カ月の間に、十四人もの登山者が氷漬けで発見されたそうです」
「氷漬けぇ?」
火群が胡乱気に顔をしかめる。今はまだ九月だ。山とはいえ、まだ雪は降っていないはずだが。
テイラーが眼鏡を指で押し上げる。
「時期的に降雪はまだありませんが、気温そのものはだいぶ低くなってきています。ですから雪恠妖や氷恠妖も、少しずつ出てき始めているのでしょう。
あなた方には登山者の安全確保と犯人の逮捕を命じます」
「了解」
「分かりました」
「チッ」
「火群隊士、返事は舌打ちでなく言葉を返しなさい」
「るせェよ、鬼ババァ」
ピシ…と再び、テイラーの額から角が生え出る。土師と滋生は慌てて敬礼し、火群を半ば連れ去るように隊士室を飛び出して行った。
伊師市は宝生から見て北東にある市だ。山が多く、登山家ががよくやってくる。
土師の運転する車の中で、後部座席でめんどくさげに足を組んでいた火群は不平を漏らした。
「ったくよ、なんで俺がこんなところまで来なくちゃなんねェんだ」
「任務だからだよ。あんたはさっきから口を開けば、めんどくさいだのかったるいだの文句ばっかりだね」
助手席に座る滋生がシート越しに振り返って半眼になる。火群は後頭部で腕を交差させ、背もたれに寄りかかった。
「クソ眠ィ。着くまで俺ァ寝るぜ」
「ワガママだねぇ。……ははーん、あんたもしかして、初任務だからって緊張してるんじゃないかい?」
滋生が意地の悪い笑みを浮かべると、火群はカッと目を開いて滋生に詰め寄る。
「んなわけねェだろ! 誰が緊張なんざするか!!」
「図星かい。やっぱりまだまだガキだねぇ」
「違ェっつってんだろ天狗女!」
「あのさぁ、景朗。前から言おうと思ってたけどね、あたいを天狗女って呼ぶのはやめてくれないかい? あたいにゃ『織』って立派な名前があるんだ」
びしっと人差し指を火群の鼻先に突きつける滋生。火群は一瞬たじろいだが、フンと鼻で笑い、体勢を戻した。
「ケッ。変な名前しやがって」
「なんだって? 『織』ってのはね、天上の機織姫のような才色兼備の女になるようにってババさまがつけてくれたんだよ!」
「さいしょくけんびだぁ? ンだ、そりゃ」
「そんなことも知らないのかい? 才色兼備っていうのはね、優れた才能と美貌を併せ持っているってことだよ」
「ハッ。テメェみたいながさつ女が、さいしょくけんびなんてなれるわきゃねェだろ」
小馬鹿にするように笑う火群。むかっとした滋生は背もたれから身を乗り出した。
「なんだい、初任務で緊張してぷるぷる震えてる奴に言われたくないね!」
「ンだと!? 誰が震えてるってんだ、ああ!?」
ぎゃおぎゃおと怒鳴り合う二人の横で運転している土師は、「静かにしててくれないか、二人とも……」とげんなりした。