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 資料室は本部棟なので、特殊課棟をいったん出ないといけない。外に出ると、雪はいつのまにかやんでいた。

 資料室に着くと、先客がいた。明るい短めの金髪、しゃがんでいても分かる大柄な体。

 その人は僕たちが入ってきたことに気づくと、こちらを振り向いた。

「お? 助っ人か? 助かったぜ~!」

 浅黒い肌で三十代半ばくらいの男性は豪快に笑う。笑うことで細められた瞳は赤。

 本人の話では髪は昔から染めていて、瞳はカラーコンタクト。昔は紫だったらしい。

「特殊課から借りてきたよ。紫くん、春希くん、彼と一緒にここの整理を頼むね」

「……えーと、全部……ですか?」

「そう。と言いたいところだけど、今日中には無理だろうから、こっちの棚からそっちの四番目の棚までで」

 それでもかなりの量があるんですけど。うう、三人だけで終わるのかなぁ。

 まあ、これをやってる間は僕たちは呼ばれないだろうし……ガンバロ。

「分かりました……」

「それでは、将之介(しょうのすけ)くん。二人のこと頼んだよ」

「アイアイサー!」

 ビシッと総隊長に敬礼する彼は坂月(さかづき)将之介さん。確か第一課の警吏隊士で、三十四歳。

 結婚もしてて、十歳になる息子さんが一人。特技は柔術で、大会で優勝した経験もあるらしい。

 っていうのは全部、坂月さんが自分で自慢げに話してた。

「んじゃ、えーと……あー、名前なんだっけか」

「海宝 紫です」

【金成屋春希です。】

「そうそう、海宝と金成屋な! はっは、悪いな、名前覚えんの苦手でよ」

 立ち上がった坂月さんは天刻さんや火群さんよりも背が高い。百九十センチあるとかないとか言ってたなぁ。

 背は欲しいと思うけど、ここまではなくてもいいや。

「いえ、一、二回ほどしか会ってませんし、覚えていなくても無理ありませんよ。さ、早く片づけましょう」

「おう、そうだな」

 僕たち三人は資料の整理を始めた。これがなかなか骨が折れる。

 一応、年別、月別、種類別に分けられてはいるんだけど、解決済みの資料がまぎれてたり、間違ったところに入れられている場合があるんだよね。

 解決済みのは処分しないとだし、元の場所を探してそこに入れたり、分別されていない奴や最新の資料を分別したり。

「坂月さん、二〇一二年のがここにあるんですけどー」

「二〇一二年? ちょっと待ってろ。……あー、あったここだ。こっちくれ~」

「はい」

 資料を渡しに行くと、坂月さんは五冊のファイルを広げていた。受け取った資料をそのうちの一冊に入れる。

 渡すついでにちょっと訊いてみた。

「坂月さん、どうして今日は資料整理を? それに、いつも一緒の真壁(まかべ)班長はいないんですね」

「んー? ちょうど手空いてたし、真壁先輩、今日は非番だから」

「そうなんですか」

 隊士の中には、相棒をつくって常に行動を共にする人がいる。坂月さんにとっては真壁班長がそうだ。

 一緒にいるところは何度か見かけたことあるけど、僕は真壁班長と話したことないんだよね。いつも、坂月さんが間に入るから。

「なあ、海宝。こっちよりあっちの手伝いしてやれよ」

「はい?」

「金成屋、筆談だろ? 近くにいてやんないと情報伝達大変だろ。それに女の子だしな。

 オレが手貸してやってもいいけど、年が近いおまえの方がいいだろうし、慣れてる相手の方が金成屋もやりやすいだろ」

 ファイルをしまいながら坂月さんがにかっと笑う。

 坂月さんの言う通りかもしれない。春希ちゃんだと背が届かない資料もあるだろうし、筆談だから僕たちを呼ぶのも大変だよね。

「そうですね。気がつかなくてすみません」

「オレに謝ってもな~。そりゃ金成屋本人に言えよ。女の子にゃ気利かせねえと、すーぐ機嫌損ねちまうぜ? 好意を持ってんならなおさらな」

「へえ!?」

 いきなり何を言い出すやらこの人は。新しいファイルを取り出してパラパラとめくりながら、坂月さんは笑いながら続ける。

「金成屋ってかわいいもんなぁ。小動物系だし。職場恋愛は禁止されてないし」

「あああ、あのっ、坂月さん!? ぼ、僕は別にそんな……」

「ん? 何、好きじゃないのか?」

「え、いや、そりゃあかわいいなぁ~って思うことはよくありますけど…って何言わせるんですか!」

 顔が熱い。きっと今、僕の顔は赤くなってる。資料整理に来てなんでこんな話に!?

「好きならチャンスがあったら迷わずぶつかってけよー。おまえ若いんだしさ。恋愛は男がリードしてやらんとな。焦ってヘマやらかすのはまずいけどよ、のんびりしてっと横からかっ攫われてくぜ」

「う……」

 春希ちゃんのことは…正直なところ、そういう対象として見たことはない。

 確かにかわいいとは思うけど、それは真愛良ちゃんにも言えることだし、他の班や他部署にも可愛い人はたくさんいるよ。

 でもそれは一般論であって。坂月さんが言いたいのは、異性として、好みのタイプである『かわいい』なんだろうから。

 僕は……春希ちゃんとは、一緒に仕事できればそれでいいんだけど。

「おまえってさー、なんとなくオレの親友に似てんだよな。恋愛に奥手でスローペースでよ。

 ま、そいつは運よく相手をかっ攫われずにゴールインできたけどな」

 ゴ、ゴールインって、それはおめでとうございます! けど僕はそこまで考えてないって言うか、いやもうほんと一緒にいられればいいわけでしてっ。

「オレも嫁さんは一筋縄じゃ手に入れられないような相手でよ、結婚するまでは苦労したぜ」

「な、何か深い事情でも?」

「オレの嫁さん、人外でなー。人魚なんだよ実は」

「に、人魚!?」

 素っ頓狂な声を上げる僕。すると坂月さんはへらっと笑って、持っていたファイルをぎゅっと抱きしめた。

「いやー、それがもうメッチャかわいくてさぁ。あ、もちろん息子もかわいいけどな。

 嫁さん似でよ、ちっさくてやんちゃでもう~たまんねぇ! あ、写真見るか? 見てくれよこの愛らしさを!」

 坂月さんはファイルをぽいっと捨てて、制服のポケットからヴァモバを出す。

 待ち受け画像にしているらしく、ヴァモバを見せびらかした。

 正直困るんですけど。ていうか見るなんて一言も言ってないんですけど。

 写真見せていろいろ語り出しちゃってるし。このままじゃ資料整理が終わらないよっ。

「坂月さんっ、恋愛感情云々は置いといて、春希ちゃんを手伝った方がいいっていう意見には一理あると思いますのでっ、僕は春希ちゃんのところ行きますっ!」

 敬礼。回れ右。僕は百メートル走のスタートダッシュよろしく駆け出した。

 坂月さんって親バカなんだなぁ。でも、奥さんが人外だったなんて驚いたよ。

 そりゃあ人間社会に溶け込んでる人外もいるし、それで好きになる人間もいるだろうけどね。

 あ、そう言えば火群さんも、天狗族の滋生(しぎょう)さんが好きだったんだっけ。

 僕の周りには人外を好きになった人っていなかったから、人外に対してそういう気持ちになるのってよく分からないけど……誰かを好きになるのに、相手が人間だとか人外だとかは関係ないんだな。

 そんなことを考えていたら、ちょうど春希ちゃんが棚の向こうから顔を出した。

 途端に坂月さんの言葉を思い出して、僕は思わず赤面してしまった。

「わわっ、春希ちゃん!」

 春希ちゃんは僕に驚いて、一歩後ずさりする。

 なんだかまともに春希ちゃんの顔が見れない。坂月さんがあんなこと言うから、意識しちゃってるよ僕! 

「あ、あのさ、こっち春希ちゃん一人だと大変だろうから手伝おうかなって」

 春希ちゃんは目をしばたたかせてから、タブレットに【ありがとうございます。】と表示して微笑んだ。

 その笑顔にちょっとどきっとする。うう、完全に意識しちゃってます僕。

 僕たちって周りには坂月さんが言ったように見えてるのかな?

 それとも坂月さんにだけそう映ったとか? あああ、そうでありますようにっ。

 僕たちは棚の上と下を手分けして整理することにした。

 資料整理を始めてからだいぶ経つけど、今何時だろう? と思いながらファイルをめくっていると、ある事件の資料のページで手が止まった。

 “黑牙(コクガ)

 僕の目はその単語に釘付けになる。黑牙は何十年も前から、この大陸で無差別殺人を繰り返している犯罪組織。

 組織の正確な人数も目的も何も分かっていない。分かっているのは、首領が紅い髪の男だということ。

 奴らは十数年に何度か事件を起こして、すぐに姿を消す。組織の人間はいまだ一人も捕まっていない。

 奴らの犯行は一目で分かる。奴らの犯行現場には必ず“印”が残されるから。 

 黒い三日月を横にして、黒い雷マークが貫いている図形。それが黑牙の“印“。

『――と思っているかい?』

 耳の奥に聞こえる声と、脳裏に浮かんだ光景。僕はさっき、一つだけ嘘をついた。警吏隊に入隊した理由。

 優しい両親とかわいい妹。それが僕の家族構成――だった。



 今から三年前、僕は何か資格でも取ろうかと、資格取得のために勉強をしていた。ある日、妹がうれしそうな顔で報告してきた。 

「おにーいちゃん。勉強はかどってる~?」

朱莉(あかり)……ノックしてっていつも言ってるでしょ」


 ため息交じりに振り返ると、妹の朱莉がにこにこ笑って部屋に入ってきた。

 朱莉は僕の四つ下の妹で十四歳。甘えん坊で、ちょっとイタズラ好きな子だ。 

「もう~、何今さら気にしてるの? それよりさ、聞いてよお兄ちゃん! あたしね、彼氏できたんだぁ~」

「彼氏ぃ!?」

 僕は思わず身を乗り出した。そのせいで椅子が体重を支えきれず、前に転倒した。

「いったぁ!」

「お兄ちゃん、大丈夫!?」

「僕のことよりっ、彼氏って!? いつ!? それっ、父さんと母さんには!?」

 朱莉の両肩をつかんで問い詰める。うろたえている僕に、朱莉は困ったように笑った。

「言ってないよ~。おととい告白されてー、今度お兄ちゃんに紹介するからね」

「彼氏だなんて朱莉には早すぎるよ! まだ中学生でしょ!」

「お兄ちゃんてば古臭い~。今どき、中学生でカレカノなんて普通だよ」

「そ、そうなの? いやそうじゃなくて! 紹介だなんて緊張するよ! というか僕に最初でいいの?」

 不安げに問いかけると、朱莉は少しはにかんで頷いた。

「うん。彼氏ができたら、一番最初にお兄ちゃんに紹介するって決めてたの。お兄ちゃんが大好きだから、一番最初に認めてもらいたいんだ」

 その笑顔がとてもうれしそうだったから、僕もつられて笑った。

 でも、彼氏ってどんな子だろう? 同級生かな、先輩とか? 兄らしくしっかりした態度じゃないとだよね!

「ねえ、朱莉? その彼氏ってどんな子?」

「うーん、お兄ちゃんと同じくらい優しくてー、でも顔はお兄ちゃんよりかっこいいかな」

「あっそ」

「うそうそ、拗ねないでよ~。お兄ちゃんと同じくらいかっこいいよ!」

 そんな風に幸せそうに笑っていた。けれど、朱莉の笑顔はその日で消えてしまったんだ。

 午後から朱莉は友達と映画を見に行くと言って出掛けた。でも、夜になっても、朱莉は帰ってこなかった。

 朱莉は帰りが遅くなる時は必ず連絡してきた。

 なのに、十時を過ぎても連絡はなくて、朱莉の友達に連絡したら「六時前には別れた」って言われたんだ。

 心配になった両親は警吏隊に捜索願を出した。僕も不安で心配でたまらなかった。

 じっとしていられなくて、僕は交番に駆け込んだ。

「あの、すみません。少し前に捜索願を出した海宝なんですけど…」

「ああ、お兄さんかな? 現在捜索中だけど、残念ながら妹さんはまだ見つかっていないんだ」

「そう、ですか……」

 肩を落としてうなだれた時だった。僕のヴァモバが着信音を奏でる。

「はい、もしもし。あ、母さん? ……え?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。それでも僕はなんとかヴァモバを切った。

「……すみません、妹が、見つかったらしいので行きます……」

「え? こっちにはまだ報告ないけど…あっ、君!?」

 警吏隊士の言葉を聞かずに、僕は交番を飛び出していた。

《……紫……朱莉が、見つかったわ。早く……早く来て》

 そう言う母さんの声は震えていた。涙声だった。嫌な予感が突き抜ける。

 僕はエアバイクで深夜の道を疾走した。もう日付も変わった頃だ。

 そして、その現場に辿り着いたんだ。

 港の防波堤近く。そこに慌ただしく動く警吏隊と両親がいて、泣き崩れている母さんを父さんが慰めていた。

 僕の姿に気づいた父さんが振り向く。父さんも泣いていた。

「紫……」

「父さん、朱莉は? なんでこんなに、たくさん警吏隊士が……それに」

 何? この臭い。何かが焼け焦げたような異臭。

 鼻と口元を押さえて父さんに近寄ると、父さんは無言で道の先を指差した。

 そっちを見た僕は、目を見開いた。そこには、黒焦げになった人間の体の一部が点々と転がっていたから。

 手や足らしきものがパトカーの明かりに照らされている。

「……あれ……腕…? うそ……まさか……」

 体が震える。異臭が鼻をつき、吐き気が込み上げた。

 口を押さえて顔を逸らした時、視界にある物が飛び込んできた。なぜかそれだけは黒焦げではなくて、ありのままをさらしている。

 それを見た瞬間、吐き気は引っ込んで、代わりに絶望が押し寄せた。



 ――それは、血まみれの朱莉の首。



「わああああああああっ!!」

 極限まで見開かれた目。死の瞬間、悲鳴を上げたんだろう、開かれた口からは血の筋が流れていて。

 バラバラになった体。他の体は黒焦げで、朱莉のものかも判らないくらいなのに、どうして首は、顔はそのままなんだ。

 首も黒焦げだったなら、このバラバラの黒焦げ死体が朱莉じゃないと思えたのに。

「朱莉……朱莉っ!? なんで!? なんで朱莉が……こんなことに……!!」

 現場に漂う異臭は人間の焼けた臭い。朱莉が、焼けた臭い。

「誰が……誰がこんなひどいことぉ……っ!」

 涙で視界がぼやける。そこに警吏隊士の声が滑り込んだ。

「班長、これを……」

 口元を押さえた部下が紙に描かれたマークを見せる。上司が忌々しげに眉をひそめた。

「ん? これは……また黑牙か」

 黑牙。聞いたことがあった。何十年も前から捕まっていない犯罪組織。朱莉をこんな姿にしたのは、黑牙。

 初めて彼氏ができてうれしそうに笑っていた朱莉。あの子はまだ十四歳だったのに。どうして、こんな無残な最期を迎えないといけなかったのか。

 事件のショックで、僕はしばらく何も手がつかなくて、その時就いていた仕事も辞めた。

 一年くらい自堕落に過ごしていたけど、知り合いの勧めでバイトを始めた。 

 その後はみんなに話した通り。女装してバイトして、総隊長に出会った。

「君、男だよね。海宝 紫くん?」

 店長には女と偽っていたから、僕はすぐに総隊長を店の外に連れ出した。そこで僕は総隊長に言われたんだ。

「どうして分かったんですか? 僕が男だって」

 声も体格も仕草も女になりきってたのに。顔を合わせずに言った僕に、総隊長は飄々と笑う。

「匂いかな。私は鼻が利くんでね」

「はあ」

 一応、化粧とか香水でごまかしてるはずなのに。僕、そんなに体臭きついのかな?

「君は海宝朱莉さんの兄だよね? 黑牙事件の被害者の」

「!!」

 表情がこわばる。総隊長は本心を悟らせない笑顔で告げた。

「ねえ、海宝くん。仇を討ちたいと思っているかい?」

 その瞬間、弾けた。僕の中で、朱莉がいなくなったあの日からわだかまっていた何かが。

 ゆっくりと総隊長の顔を見る。

「……いい眼をしているね」

 復讐者の眼だ。総隊長が囁く。そして僕は、警吏隊に入ったんだ。黑牙の情報を手に入れるために。



 ばしんっ、と僕は思い切りファイルを閉じた。その音に驚いた春希ちゃんがびくっと顔を上げる。

「あ、ごめんごめん。ちょっと勢いつけすぎちゃった」

 下の棚を整理していた春希ちゃんは立ち上がって、タブレットを見せた。 

【あの、海宝センパイ、大丈夫ですか?】

「ん? 何が?」

【海宝センパイ、なんだか少しいつもと様子が違います。】

「え……」

【さっきも入隊した理由を話した時、なんだか遠い目をしていました。】

 僕はドキリとする。気づかれていたなんて。僕は一度視線を逸らしたけど、春希ちゃんに見つめられると洗いざらい話してしまいそうになる。

 きっと春希ちゃんが、朱莉と年が近いからだろうな。朱莉が生きていたら、十七歳になっていたはずだから。

 でもダメだ。彼女を巻き込んじゃいけない。思い直して、僕は春希ちゃんと目を合わせる。

「ごめんね、心配かけて。でも大丈夫だから。少し、つらいことを思い出しただけだよ」 

 僕は無意識に春希ちゃんの頭を撫でていた。春希ちゃんが赤面して、僕は自分の行動に気づいた。

「わっ、ご、ごめん! 何やってんだろ、僕!」

 朱莉のことを思い出したせいで、朱莉と春希ちゃんを重ねちゃったみたい。

 うわー、本気で恥ずかしいっ。しかもそれを坂月さんに見られた。

「お二人さ~ん。いい雰囲気のとこ悪いんですがね」

「わー! 坂月さんっっ」

「そろそろ昼だから食堂行こうぜ。奢ってやっからよ」

「い、いいんですか? ありがとうございます」

 二人して顔が赤い。僕たちは坂月さんと食堂に向かった。坂月さんはずっとにやにやしてて、居心地が悪かった。



 紫たちが資料室を出た後、陽向は音もなく現れ、紫が見ていたファイルを見る。

「紫くんはまだちゃんと覚えているみたいだね。ここに来た目的を」

 そうでなければおもしろくない。陽向はくすりと笑って、その場から掻き消える。

 消えた陽向は総帥室前の廊下に現れ、チャイムを鳴らした。

「総帥、入りますよ」

 自動ドアのボタンを押して中に入る。総帥室への入室は、総隊長である陽向にのみ許されている。

 他の隊士は総帥と陽向の許可が下りない限り入ることは許されない。

 中に入ると、いくつかの観葉植物が部屋の隅にあり、壁には歴代の総帥の写真が飾られている。

 正面は白いカーテンで部屋が区切られ、そのカーテンの向こう側に警吏庁総帥がいる。ハズ。

円藤(えんどう)くん、いるかい?」

 声をかけると、カーテンにぼんやりと人影が映った。

「いるよ。どうしたの? 榊原(さかきばる)さん」

 機械越しでない生の声。少し低めの男性ボイス。陽向はにっこり笑って、いつの間に持っていたランチボックスをひょいと上げる。

「もうすぐお昼だからね、誘いに来たんだよ」

 この部屋には総帥と陽向しかいないので、敬語抜きだ。返ってきたのは少し高めの女性ボイス。

「もうそんな時間? 時間が経つのは早いなぁ」

「そう思うほど何かに夢中になっていたのかな?」

 陽向が問うと、男性ボイスと女性ボイスが交互に返ってくる。

「うん、なかなかこのゲームは面白い」

「結構難しいんだよ」

「榊原さんもやってみる?」

「私よりはうまいんじゃないかな」

 微苦笑して、陽向はカーテンに近づく。まったく、職務中にゲームとは。けれど、総帥というのは存外暇な時間が多いのだ。

「この間の奴は円藤くんに負けたなぁ」

「あれは私の得意分野だからね」

「今日のお弁当のおかずは何?」

「さて、なんだろうね。円藤くんはまたコンビニ弁当かい?」

「またとは失礼な。昨日はちゃんと手作りだったよ」

「今日は朝寒かったからコンビニで買って来たけれど」

 総帥のため息混じりの言葉に、陽向は窓の外に目をやった。また雪が降り始め、粉雪が飛んでいる。

「でも、もう少しで三月も終わりだね。四月になって、春が来たら忙しくなるよ。いろいろとね」

 どこか意味ありげな物言いだ。総帥は陽向の横顔を見つめる。

「それは神狐の予言?」

 静かな問いかけに、陽向は「いいや」と小さく首を横に振った。総帥に顔を戻し、目を細めて微笑する。

「預言だよ」

 藍泉歴二〇三四年。春の訪れとともに新たな物語が始まる。



 食堂で坂月さんに昼食を奢ってもらった後、残りの資料整理を終わらせた。

 再び降り始めた雪は夜まで降り続いて、少しだけ積もった。

 自宅の窓からはらはらと舞う雪を見ながら、僕はちびちびとココアを飲んでいた。

 冬は嫌いじゃないけど、こう急に冷えると困るんだよね。

 春が待ち遠しいよ。暦上じゃもう春なんだけど、本格的な春は四月を過ぎてから。

 風が強まり、雪の混じった風が窓を叩いた。早く暖かくならないかな。

 僕はココアの最後の一口を飲んでから、カーテンを閉めた。




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