昔語り~天刻~ 後編
柳太郎のそばから逃げ出した天刻は、ひと気のない場所を求めて本部敷地内をうろついていた。
(俺はなんてことを……柳太郎様、心配しているだろうか)
あの人のことだから捜し回っているかもしれない。でも、今すぐに会う勇気はなかった。
さっき言ったことはすべて本心だ。柳太郎が陰口を叩かれる時、自分のことが必ずと言っていいほど出てくる。
(俺が従者だから、柳太郎様が悪く言われる。なら、俺がいなければあの人が悪く言われることはないんだ。
柳太郎様自身の能力は高いのに、周りの奴らは、俺がそばにいるというだけで柳太郎様本人を見ようとしない)
胸がざわつく。全身が妙な倦怠感に襲われた。心の奥底で、何かが冷えていくような感覚。
(俺さえ……俺さえいなければ……)
そして湧き起こる――
「あまり心を氷らせない方がいいよ」
突如、背後から聞こえた声に、天刻は振り返った。真後ろに立っていたのはにこやかな笑顔の男性。
「わあっ!」
「おやおや、驚かしてしまったかな?」
「あ……あなたは、榊原総隊長!」
慌てて天刻は敬礼する。柔らかそうなココアブラウンの髪に若葉色の瞳。入隊試験や入隊式の時に見たことがある。
陽向は軽く手を上げて「ああ、楽にしていいよ」と笑う。直接話をするのは初めてで緊張する。
「君と話をしたいと思っていたんだ。ちょうど一人になってくれてよかった」
「自分と話を…ですか? どのような御用件でしょう?」
「そんなに畏まらなくていいよ。もっとフランクに行こう。ね?」
「は、はあ……」
なんだか変わった人だな。天刻は戸惑った。
「さっきも言ったけれど、あまり心を氷らせない方がいい。氷りついた心は闇を生み、魔を呼び寄せるからね」
「心を氷らせる……? どういう意味ですか」
陽向は意味ありげに笑うと、腕組みをして説明した。
「人間はね、心に深い傷を受けたり、強い悲しみや憎しみなどを抱くと、心が壊れてしまうのを防ぐために氷らせて守ろうとする。それが心を氷らせるということ」
激しい感情に苛まれていながら、酷く冷静になる感覚。それが氷っている証拠。
「もちろん、実際に氷になるわけじゃないよ。ただね、心が氷るということはそれだけ負の感情が強いわけだ。
たいていの人間は、傷を負ったり悲しい思いをしても、時が経てば自然と癒えていく。けれど、中にはどれだけ時が経っても心が癒されず、氷らせてしまう人間もいる」
「俺は……そんな人間の一人ということですか?」
強張った表情で問う天刻に、陽向は頷いた。
「強い負の感情によって氷った心は闇を生む。その闇に惹かれ、魂を喰らうために魔は近づいてくる。
昆虫が木の甘い汁に惹かれてやってくるようなものだね。負の感情は魔性のものの餌だから」
例えは分かりやすいが、なんだか軽い言い方だった。けれど、嘘を言っているようには見えないし、総隊長の言う通りだとしたら、このままでは自分は危険な目に遭うということだろうか。
「どうすれば……いいんでしょうか。俺の心は氷っているんでしょう? 氷った心が魔を呼ぶなら……それでもし本当に魔を呼んで、それで誰かを巻き込んだりしたら……」
自分が魔に喰われて死ぬだけなら、願ったり叶ったりだ。柳太郎のそばを離れれば柳太郎が見下げられることはなくなるだろう。
だが、喰われるために周囲の人間――柳太郎に危害が及ぶのだとしたら。そんなのは嫌だ。
うなだれた天刻に、陽向は微笑みながら近づいていく。
「大丈夫。氷ってしまったなら解かせばいい。解かしてもすぐには傷は癒えないけれど、闇の成長を止めることはできる」
「そんなことどうやれば……」
顔を上げた天刻の前に、陽向は手から緑色の炎を出して見せた。
「! 炎!? 総隊長、“発火”能力者なんですか?」
「炎使いではあるけれど、正確には違う。私はね、神狐なんだ」
「神狐!?」
神狐は狐の神だ。火を操るため、炎神とも言われる。
総隊長が人外だったとは。それも神族。
天刻は驚愕して絶句したが、陽向が出した炎を近づけてきたので狼狽する。
「なっ、何をするんですか!?」
「心配ない。これは癒しの炎。燃えることはないから安心しなさい」
「わっ……」
陽向は緑色の炎を天刻の左胸に入れた。一瞬熱さを感じたが、確かに燃えはしなかった。
天刻の胸の中で炎が燃え上がる。天刻は胸の奥に熱を感じた。どくん、どくんと胸の奥で炎が脈打つ。
天刻はずっと自分を責めてきた。柳太郎の命を危険にさらしたにもかかわらず、柳太郎のそばにいることを。
両親の折檻を当然の報いとして受けた。親類たちの暴言も。
大切な主をこの手で傷つけた恐怖。
両親の容赦ない折檻への恐怖。
主のそばにいる恐怖。
それらが今、少しずつ和らいでいく。
「ん。もう大丈夫みたいだね。今の気分はどうだい?」
「……なんだか、妙にすっきりしてます」
「よかった。君の心の氷は癒しの炎で解けたよ。でも、完全に傷口が塞がったわけではないからね。
また君が負の感情に満たされれば、再び氷は心を包むだろう。そうならないように、勁くならないとね」
にっこりと笑う陽向。天刻は細い眼を開けて陽向を見つめた。
初めて、自分の弱さを見抜いたヒト。心の傷を癒してくれたヒト。
強く、優しい言葉をくれたヒト。こんな風に、自分もなれたら。
「はい……! ありがとうございました!」
「ああ、それと。君は異能者だよね?」
「は、はい……」
「能力は何かな?」
天刻は言葉に詰まった。氷が解けたといっても、すぐに吹っ切れるものでもない。それでもなんとか答えた。
「……“魔眼”、です」
「“魔眼”か。ふむ。使えるな。天刻君、君、特殊課に入らないかい?」
「え? 特殊課、ですか?」
研修期間だが、天刻は今、刑事部第六課にいる。
六課はヒューマノイド犯罪やコンピューター犯罪などを担当する。
六課は変わり者が多いと言われているが、特殊課はそれ以上に変わり者が多いという。
異能者や人外のみで編成されている特殊課。天刻は異能者なので該当すると言えばするのだが…
「でも……それって、俺だけ…ですよね? 俺は柳太郎様について警吏隊に入りました。できれば、柳太郎様と同じ部署にいたいんです」
「そうか。まあ、君が異能者であることを他の人間は知らないだろうし、常人として今の部署にいてもいいけれどね。
君のその力が事件解決に繋がることがあるかもしれない。誰かを助ける力になるかもしれない。誰かを守る力になるかもしれない。
そのことを覚えていてほしい。よく考えてみてくれ」
陽向は踵を返し、建物内に戻って行った。天刻は困惑気味にその背中を見つめていた。
「あーっ、いたー!」
背後から柳太郎の声が響き、天刻は振り返った。途端に柳太郎が、ドーン! と両手で突き飛ばしてきた。
「柾周ぁーっ! このばかちん!」
「…………」
頭から近くの茂みに突っ込み、天刻はのろのろと体を起こした。
「僕一人じゃ迷うんだから一人にしないでよ!」
怒るところはそこなのか。頭についた葉っぱを払い落としながら、天刻は柳太郎と向かい合う。
「すみません」
「もうっ。君は僕の従者なんだからね。いつもそばにいてくれなきゃ」
柳太郎は右手の甲で軽く天刻の胸を叩く。天刻は一拍置いて、ふ…と表情を緩めた。
「はい」
天刻は笑った。十年振りに。柳太郎は目を見開き、次いでわたわたと慌てた。
「ま、柾周、わら……笑った!? うわ、柾周が笑ったーっ。どうしたの急に! いやうれしいけどさ!」
「総隊長のおかげですよ」
「総隊長? え? 何、会ったの!?」
「はい。しばらく前までここに。あの人のおかげで、心が軽くなりました」
「そっかー、総隊長が…でもちょっと残念」
「何がですか?」
問いかけると、柳太郎はくるっと背を向け、俯いて歩き出した。
「柾周の傷を癒したのが僕じゃないってこと。傷の原因である僕に癒せるわけないんだけどさ。
でも僕は柾周の主だから…やっぱり僕が癒してあげたかった」
足元にあった小石を、コツンと足先で軽く蹴る。柳太郎の背中がさみしそうで、天刻は迷った。
この人のそばにいたい。いなくてはならない。けれど、総隊長の言葉が重くのしかかる。
自分の力が、本当に役に立つのなら。誰かを助けられる力を持ちながら、その力をふるわないなら、持っていても意味がない。
力を使うのはまだ怖いけれど、この力を必要としてくれる人がいるなら、特殊課に入るべきかもしれない。天刻は決心した。
「柳太郎様」
「ん?」
そばにいたいと思う。いてほしいと、いなくちゃダメだと言ってくれる。
必要としてくれるのはとてもうれしい。だから。
「俺……特殊課に入ろうかと思います」
他にも必要としてくれる人がいるなら、その人たちのためにも、この人のそばにだけいてはいけない。
柳太郎はきょとんとしている。天刻は目を逸らしたかったが、目を逸らしたら何も変わらない。
「さっき、総隊長から特殊課に入らないかって誘われたんです。
俺は異能者だから入るべきでしょうけど、そうすると柳太郎様のおそばにはいられません。
俺は柳太郎様の従者です。常におそばにいなくてはいけません。おそばにいたいです」
「だったらいればいいじゃん? 異能者だからって、絶対に特殊課に入らないといけないってわけでもないんだろ?」
「はい。でも、俺の力を必要としてくれているんです。
この力を役立てることができるなら、あなたのおそばを離れてでも行くべきかと」
天刻の細い眼に宿る強い意志。柳太郎はすっと目を細めて腕を組み、真剣な顔つきで睨むように天刻を見る。
「従者の任を放棄するっていうの? 僕はそばにいろって言ったよね? 僕にずっと仕えろって。その言葉に逆らうんだ」
天刻は柳太郎のまっすぐな視線に怯みかけた。柳太郎が本気で怒ることはあまりない。こんなに真剣に怒りのこもった目で見られるのは初めてかもしれない。
しばらく無言で睨んでいた柳太郎だが、小さくため息をつくと「ま、いいよ」とあっさり返した。
「え……あの、いいん、ですか?」
逆に不安になる天刻。柳太郎は後頭部で手を組んで頷いた。
「うん。柾周が自分で考えて決めたんならそれでいーよ。僕もいつまでも君に甘えてるわけにいかないしね」
「で、でも……」
うろたえ始めた天刻に呆れた柳太郎は、腰に両手を当てて上目遣いに見上げる。
「もうっ。決めたんじゃなかったの? 僕に『特殊課に入れ』って言われなきゃ入れないわけ?」
「そういうわけでは……」
肩をすくめ、柳太郎は姿勢を正して天刻ときちんと向かい合う。
別に怒っているわけではない。天刻が決めたなら本当にそれでいいと思う。ようやく、彼を自由にしてやれる。
「そりゃあそばにいてほしいと思うし、柾周がいなくなったら寂しいよ?
だけど、君だって一人の人間だ。君なりの考えや気持ちもある。そうだろ?」
自分のそばにいれば、彼が罪悪感を感じ続けることを知っていながら、手放すこともできなかった。
甘えていたのだ。でも、もう解放してやらなくては。
「従者は主に従うのが当然。けどね、従者は奴隷じゃない。
主の言うことやることすべてに従う必要はないんだ。
時には逆らったって、怒ったっていいんだよ。自分だけの道選んでも、いいんだよ」
その言葉に、天刻は目頭が熱くなるのを感じた。俯き、涙を堪える。
「……はい。はい、ありがとうございます。柳太郎様。俺は…あなたにお仕えできたことを心からうれしく思います」
顔をあげ、天刻は笑顔で宣言する。
「これから俺は、あなたのおそばを離れます。ですが、いつでも俺はあなたの従者です。心はいつまでも、あなただけの従者です!」
柳太郎も顔を綻ばせ、「当然!」と歯を見せて笑った。
「と、言うわけです」
話し終えた天刻さんは人差し指を立てて笑った。
なんだか、総隊長の話じゃなくて、ほとんど天刻さんの話だったけど……総隊長ってやっぱり人外だったんだ!
「神狐ねぇ。どうりで火を操れたわけだぜ」
納得した様子で火群さんが言った。土師さんが「結構長く一緒にいたけど、初めて知ったな」と、話の途中で用意したお菓子に手を伸ばす。
「狐の神様なんてカワイイ~ッ。まいら、総隊長の狐の姿見てみたーい」
総隊長の狐姿を想像しているのか、真愛良ちゃんが興奮気味に言う。総隊長の狐姿かぁ。僕もちょっと見てみたいかも。
それにつけても、神族って淑生さんだけじゃなかったんだ。あ、もしかして淑生さんが総隊長苦手なのは、神族同士ってことが関係してるのかな?
【どうして総隊長は、人外ってことを隠しているんでしょうか】
春希ちゃんがタブレットを見せると、天刻さんがお茶を飲みながらのんびりと答えた。
「別に隠しているわけではありませんよ。公表していないだけで。
古株の隊士の中には知っている人もいますし、ただ周りに言わないだけです。広めることでもありませんしねぇ」
「そうだったんですか。総隊長のことも驚きましたけど、天刻さんて元は六課所属だったんですね」
「研修期間の初めのうちだけでしたけれどねぇ」
雑用や捜査の応援とかでいろんな課に顔を出すことはあるけど、六課はまだないなぁ。
「汐見隊士って今も警吏庁にいるんですか?」
「いいえ、十五年ほど前に退職されて、今は汐見家の当主となられています」
「ねぇねぇ、天おじさま。さっきの亮司って人、もしかして第二課准隊長さん?」
真愛良ちゃんが頬に人差し指を当てて考えながら問いかけると、天刻さんは「そうですよ」と頷いた。
だ、第二課准隊長って、すごく厳しいことで有名なあの人!? そう言われてみれば、第二課准隊長の名字は汐見だったっけ……
基本的に、どこの課の人も他課所属の人の顔や名前を覚えている人は少ない。長年、警吏隊にいる人は別として。
僕だって、何度も一緒に仕事した人以外はあんまり顔と名前を覚えてないんだよね。
「よく分かったねー、真愛良ちゃん」
「えへへー、だってまいら、警吏隊歴長いもん」
「木下君はこの班内では私を含め、土師君と火群君に次いで長いですからねぇ」
「えっ、そうなんですか!?」
てっきり淑生さんなのかと思ってた。真愛良ちゃんは三班の中では一番若いし。
「じゃあ今度はまいらがお話ししてあげるーっ」
くるりと空中で踊るように回った真愛良ちゃんがウインクする。今度は真愛良ちゃんの入隊時の思い出が聞けるみたいだ。楽しみだなぁ。