番外編・エリーの冒険
その日のエリーは絵の道具を入れたトートバッグを肩に掛けて北門の内側から外の様子を窺っていた。
この世界では、よりリアルで写実的であることが芸術に求められる第一の条件であるが、エリーは自由だった。
最近のマイブームは色鉛筆で点描画を描くことで、印象的な風景画を描いては次の題材を探して走り回っていた。
地球の歴史では、写真が登場するまでは写実主義が至高とされていたことを考えると、エリーは早すぎる天才なのかもしれない。
「お馬さん、見えない」
北門から外を眺めてエリーはため息をついた。
ミストの町の北門の外は用水路に囲まれた農耕エリアで、門からほど近い所に家畜を放牧するための小さな牧場があった。
悪臭の元でもある牧場が門に近いところにあるのは、魔物が近付いてきたときに家畜を門内に入れるためで、大人の身長なら門から出なくても牧場の奥の方にいる馬も視界に入る。
しかし、エリーの身長では、雑多な障害物が視線を遮り、馬たちの姿は殆ど見えない。
牛や豚や羊もいるが、今日のエリーは馬の気分だった。
エリーはマリアについて各地を回っていたため、美咲たちよりも町の決まり事などには詳しい。エリーは、子供だけでは門から外に出してもらえないということを理解していた。
だから、門番に怒られないギリギリまで門に近付いて背伸びをして外を眺めていた。
そんなエリーの後ろに忍び寄るひとつの影があった。
「エリーちゃん?」
「フェルおねーちゃん?」
「こんなところで何してるの?」
「お馬さん見たいの」
「あー、ここなら馬車も通るからね……でもこの時間だと、ほとんどいないと思うけど」
荷馬車がミストの町を出るのは早朝で、王都からの荷馬車が到着するのは夕方近くである。
まだお昼になったばかりの時間帯では馬車が通ることは少ない。
フェルが保護者になれば門から出ることは可能だが、
「……んー、エリーちゃん、馬ならどんなのでもいい?」
「んー、大きいのがいい」
「そっか、なら町の中にもいるから、ちょっと見に行ってみようか」
「うん!」
フェルはエリーと手を繋いで北門と南門を繋ぐ大通りを町の中心部に向かって歩き出した。
エリーの歩幅に合わせているため、その歩みはかなりノンビリとしている。
時折、エリーが何かに気を取られて立ち止まったりして、その歩みは更に停滞するが、フェルは目を細め、微笑みを浮かべながらそんなエリーを眺めている。
「猫!」
広場の辺りでエリーは茶トラの猫を見付けて目を輝かせた。
「あー、あれはこの辺りのボスだね。見た目は小さいけど、喧嘩すると強いよ」
「……撫でてもへーき?」
「んー、ちょっと呼んでみようか? 撫でたいなら、ゆっくり動いてね。びっくりすると逃げちゃうから」
「うん」
「アリアスおいでー、ご飯だよー」
フェルはその場でしゃがむと、最近湖の町の特産品として流通している川魚の干物を取り出し、猫に見えるようにゆっくりと振る。
猫は眠そうに目を開けたが、その目がフェルの手の動きを追っていた。
「アリアス?」
「うん。広場に来る人がそう呼んでるのを見たことがあるんだ」
「アリアスー、おいでー」
フェルの隣でエリーもしゃがんでパタパタと尻尾を振る。
残念ながらアリアスの目は干物に釘付けで、エリーのことは眼中にはないようだ。
「にゃー」
一鳴きし、ゆっくりと起き上がったアリアスは、フェルたちとは少し違う方向に進み、弧を描くようにしてフェルたちに接近する。
そして、フェルの前にちょこんと座り、フェルの手にある干物をじっと見つめる。
「エリーちゃん、これ、ゆっくりとアリアスの前に置いて」
「うん」
エリーがフェルから受け取った干物を地面に置くと、アリアスはエリーを見て少し悩んだような素振りを見せたが、すぐに干物を咥え、そのまま持ち去ろうとする。しかしその目がフェルに向き、動きを止めた。
フェルの手には干物がもう一欠片。それを見たアリアスは、その場で干物を囓ることにしたようで、腰を落ちつけて、ガジガジと囓り始めた。
「エリーちゃん、ゆっくり背中を撫でてあげて」
「うん」
エリーが恐る恐る手を伸ばし、アリアスの背中に触れる。
アリアスは気にした様子も無く、そのまま川魚の干物を囓り続ける。
「やわらかい……かわいー」
「アリアス、みんなから色々貰ってるから、結構太ってるんだよね」
「まるくてかわいーの」
エリーの撫で方が気に入ったのか、アリアスは干物を食べ終わるとエリーの手に体を擦りつけるようにして甘えて見せた。
エリーの手がその耳の後ろを掻き、喉元を撫でると、コロリと転がってじっとエリーの目を見つめる。
「あー、エリーちゃん、そろそろ止めた方がいいかな。その格好になるとこの子は爪立ててくるから」
「……うん」
名残惜しそうなエリーの手を引いて立ち上がらせると、フェルは干物の欠片をアリアスの前に置いた。
干物を咥えたアリアスは、尻尾を振りながらノンビリと広場の奥へと消えていった。
「フェルおねーちゃん、アリアス、かわいかったねー」
「撫でさせてもらえてよかったね」
「うん」
「お馬さんのところまでもうすぐだからね」
フェルがそう言うと、エリーは嬉しそうな笑顔でフェルの指を握った。
人差し指と中指を握ってニコニコしているエリーを見て、フェルは背筋が震えるような感覚を味わった。
「……うん。私も子供ほしいかも」
「フェルおねーちゃん、はやくいこーよ!」
「あ、うん。そうだね」
フェルはエリーと手を繋いだまま、傭兵組合に向かった。
傭兵組合には2台の荷馬車がある。
自分の馬車を持つ傭兵は殆どいないので、荷運びなど馬車を必要とする依頼があった場合に貸し出すためのもので、傭兵組合が依頼元でない限り、貸し出しは有料となっている。
一頭立ての馬車と二頭立ての馬車があり、それを引くために、傭兵組合の裏には馬が2頭飼われている。
もしも2台の馬車を同時に運用する場合は、牧場から馬を借りてくるが、そのようなことは滅多に起きない。
何にせよ、傭兵組合の裏手には小さい倉庫と馬房がある。
「ほら、エリーちゃん、馬がいるよ?」
「おー! かわいい?」
見慣れない小さな生き物を見て、興味深げに耳をエリーに向ける馬だが、エリーが近付いてこないと分かると、頭を下げて小さく嘶き、尻尾を高く振ってその場で小さく足踏みをする。
「フェルおねーちゃん、お馬さん、どーしたの?」
「エリーちゃんと遊びたいのかもね? でも馬は大きくて踏まれたら怪我しちゃうから、近付いちゃ駄目だよ」
「うん。おかーさんに教わったから知ってる」
この世界の馬は、サラブレッドなどと比べると少々大きめで、体重は550キロほどある。
足一本に掛かる重量は単純に割ると140キロ近くにもなるし、足の先端は堅い蹄であるため、踏まれたりすれば大人でも大怪我をする。
まして、子供の細い足など、体重を掛けられたら千切れてしまってもおかしくはない。
フェルはエリーを抱きかかえると、馬の様子がよく見えるように少しだけ馬房の入り口に近付く。
「エリーちゃん、見えるかな?」
「うん! お馬さん、お目々がかわいいの!」
「そうだねー」
馬房の中は馬一頭毎に個室になっていて、馬が勝手に出てこないように太い棒で入り口を塞いでいる。
入り口に近い方の馬はフェルたちが気になるようで、耳をフェルたちの方に向け、お辞儀のような動作を繰り返している。
もう一頭の馬もちらりと顔を覗かせたが、すぐに奥に引っ込んでしまう。
「エリーちゃん、ここでは落ち着いて描けないだろうから、よく見て覚えてね」
「うん……お馬さん、おなか空いてるみたいなの」
「飼い葉はちゃんとあるみたいだけど……ああ、水桶が空になってるかな?」
フェルはエリーを抱えたまま辺りを見回すが、都合良く傭兵組合の職員が出てくる様子はない。
本当に水が切れているのなら桶に水を注いでやれば済む話ではあるが、腹下しなどの理由から水を与えていない可能性もあるため、勝手に水を入れるわけにはいかない。
「おみず、あげないの?」
「飼い主さんに聞かないとね。お腹壊してお水を飲めないのかも知れないし」
「……ふうん」
エリーは分かったような、分かってないような微妙な表情で頷いた。
「それより、馬の絵は描けそうかな?」
「うん。お顔と足、おぼえたよ」
「そっか、それじゃ、馬の飼い主さんに、水がなくなってるって教えてから帰ろうね」
エリーはフェルの首に抱きつくと、馬に向かって手を振った。
「お馬さん、またねー」
フェルはエリーを抱いたまま傭兵組合の玄関に回り、受付で馬房の水桶が空になっていたと伝え、そのままミサキ食堂に向かう。
「フェルおねーちゃん、歩くよ?」
抱きかかえるフェルの手をパシパシと叩き、エリーは足をジタバタさせる。
「んー、抱っこは嫌い?」
「赤ちゃんじゃないもん」
「そっかー」
フェルは名残惜しそうな表情でエリーを下ろして手を握る。
ミサキ食堂に到着すると、フェルは美咲に声を掛けてエリーを引き渡し、ついでだからとプリンを注文する。
エリーはフェルの隣でスケッチブックを広げて色鉛筆でポツポツと点を描き始める。
「エリーちゃんはフェルと何してたの?」
「フェルおねーちゃんとお馬さんみてた。今からかくの」
フェルはエリーの描く絵を不思議そうに眺めるが、エリーが描いているのが馬だろうということしか分からない。
エリーの絵を何回も見ているフェルであっても、写実的な絵が最優であるという意識が抜けない。
だから、点描で描かれていく絵を見て、首を傾げていた。
「馬……だけじゃないよね?」
「こっちはフェルおねーちゃん」
黄色と焦げ茶色の点で描かれているのはフェルの髪の毛らしい。
エリーは地道に点を描き続けているが、完成は遠そうである。
「完成したら見せてね?」
「うん!」
エリーの元気な返事を聞き、フェルはそろそろ結婚相手を探し始めてもいいかな、とぼんやりと考えるのだった。
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