243.拠点の契約
美咲たちが戻ってきていると宣伝をしたわけでもないのに、その日のミサキ食堂は盛況だった。
閉店後は美咲が予想していた通りにフェルとアンナ、それにキャシーとベルがやってきてプリンを食べていった。
今までプリンのことを知らなかったベルは、フェルたちに、こんな美味しいものを隠していたのかと怒っていた。
なお、プリンのレシピは公開済みである。
ただ、新鮮な牛乳はともかく、卵と砂糖はいつでも誰にでも手に入るというものではない。
自分たちで作るにはハードルが高いのだとフェルは残念そうに言っていた。
ミストの町にも鶏を飼う農家は少なくない。
だが、生産される卵の量は限られており、多くの場合自家消費されるため、店頭で入手できるかは多分に運によるのだ。
それに砂糖は流通量が少ないため、これも確実に手に入れるというのは難しい。
だからこそ、雑貨屋アカネで売られている果物の缶詰のシロップが甘味料として使用されているのだ。
フェルたちが帰った後、美咲は自室に籠り、日本での拠点について考えを巡らせていた。
まず考えていたのは、拠点として選ぶ地域についてである。
変装して家族の様子を見に行くのであれば、K市であった方がいいだろう。10年で大きく変化している可能性もあるが、知らない土地よりは土地鑑があると言える。
多数決で決めるなら、美咲と茜が住んでいたK市が一押しである。
次に拠点周辺の条件である。茜はホームセンターとショッピングモールの近場と希望していたが、確かにそれらの施設があれば買い物には色々と便利だろう。
転移で好きな場所に行けるとは言っても、監視カメラやドライブレコーダーのことを考えると、街中を目的地にしての転移は危険である。マンションの一室に転移するという生活をするのであれば、近所に店が揃っている方がいい。
銀行のATMも忘れてはいけない。
遠出をするかもしれないから駅に近い物件が望ましい。ただし繁華街はダメだ。ナンパされたりするのは面倒だし、犯罪に巻き込まれたりするのもお断りだ。
できれば大きな本屋も何軒か必要だ。知っている本は通信販売で買えるけれど、知らない本との出会いは本屋にしかない。エリーのためのおもちゃ屋さんもほしい。積み木にパズル、縫いぐるみは鉄板として、おままごとの道具なんかもいいかも知れない。と、美咲は暴走気味にエリーに与えたいものを思い浮かべていった。
「子供服とかは目立つからやめた方がいいよね」
染色した布は高価である。服を汚すのが仕事みたいな子供に、高価な染色した布の服を着せれば、それは金持ちだと宣伝するようなものである。
カラフルな可愛い服装だと、誘拐されるのではないかと考えた美咲は、エリーに日本の子供服を着せるのをやめることにした。
だが、その心配は遅きに失していた。絵の道具を持ち歩いてスケッチをしまくるエリーは、ミストの町では既に裕福な家の子供と認識されていた。
拠点の条件を考えていたはずが脱線していると美咲が我に返ったのは15分後のことだった。
そして、考えた条件をメモにしたためると、転移の指輪に目を向けた。
「この前の家電量販店そばの畑のあたりなら監視カメラはなさそうだし、茜ちゃんを誘って行ってみてもいいかな……あ、自転車を収納魔法でしまっておけば、転移した先で本屋さんに行ったりも便利だよね……あ、でも自転車は防犯登録とか保険とかがあるから住所と電話番号くらいはないとダメかな」
美咲の記憶では、S県は自転車損害保険への加入が条例で義務付けられていたはずである。
自転車を買えば、その手続きで色々聞かれるのだろうと、美咲は肩を落とした。
「やっぱり住所と電話番号は早めになんとかしないとだよね。小川さんにさっきのメモの内容を伝えて、早く拠点を確保するようにお願いしないとだね……ナツ、ナツは魔素がない環境でも動作可能?」
「はい」
美咲の質問に、机のそばで待機していたナツが返事をする。
「なるほど……てことは日本に連れてっても稼働できそうだね。日本の人工知能って、ナツよりも賢いのかな。ナツはどう思う?」
「分かりません」
「まあそっか……そういえば、今の地球って人間の思考や脳の仕組みって解明されたのかな? 私が知ってる人工知能はそういうアプローチじゃなかったけど、大昔のSFだと、人間の脳をシミュレートするコンピュータとかあったっけ……ああいう荒唐無稽な冒険科学小説も久しぶりに読みたいな」
古いSFは図書館で借りたものなので呼び出すことはできない。
だからと言って、本屋に行っても絶版したような本は並んでいないだろう。
美咲は、ネットオークションに望みをかけることにした。
「アキ、この肥料を倉庫に片付けておいて。それが終わったら、3番の畑に石灰水を均等に散布をよろしく。散布はバケツ4杯分」
「はい」
小川は実験農場でアキに指示を出しながら、葉が萎れかけたジャガイモの様子を確認していた。
「そろそろ収穫時期かな」
丁寧に掘り出したジャガイモは、それなりの大きさで、十分に売り物になりそうだった。
アキにジャガイモの収穫を指示した小川は、続いてトウモロコシ、大豆、人参の畑を確認する。
これらの収穫がうまくいけば、次は、連作障害対策として、輪作の試験である。
輪作対象の作物の確認をした小川は、サツマイモの畑に移動した。
「収穫は秋ごろだったね。ちゃんと育ってくれるといいけど」
雑学本と電子辞書によれば、サツマイモは土が痩せた土地でも育つし、病害虫にも強いという夢のような作物だった。
作付けにはひと手間を要するが、後の手間は雑草取りくらいのものだ。
小川はこのサツマイモを、ノーフォーク式農法を広める際の保険にしようと考えていた。
ノーフォーク式農法を広める際、農地の一部でサツマイモを育てておけば、ノーフォーク式農法が失敗しても農民が飢えに苦しむ心配はない。
「エルフの黄金芋が手に入ればよかったんですけどね……おっと、そうでした。アキ。6番の畑の横に1ミールほどの畝を一本作ってください」
小川は粗品と書かれたカラフルな紙袋を取り出し、中身を確認した。
昨日、家電量販店で買い物をしたときに貰ったおまけである。
紙袋の中には縞模様の種が10粒ほど入っていた。
「畝は必要なかったですかね? ひまわりなんて子供の時以来です。でも油も取れるし、種も食べられると聞きますから、育ててみる価値はありますよね」
ひまわりには観賞用、油糧用、食用と様々な品種がある。小川が貰ったものがどれに該当するのかは不明だが、小川としてはとりあえず育成状況を確認してみたいという意図があった。エトワクタル王国の夏は日本よりも湿気が少なく涼しい。日本の品種を持ち込むには事前の確認が必須なのである。
小川はアキが作った畝にひまわりの種を埋めていく。
と、小川の上着のポケットから女神のスマホの呼び出し音が聞こえた。
「えーと、美咲ちゃんか……はいもしもし、小川です。何かあったのかな?」
『あの、拠点についてのリクエストと、暫定でいいので早めに拠点を確保してほしいなってお願いなんですけど』
「日本での拠点のことだね。暫定でいいなら、今度僕が行ったタイミングで借りちゃおうか?」
『そうですね。あ、でも暫定でも通販が使えるように宅配ボックスがあるところでお願いします』
「なるほどね。広瀬君にも連絡して、希望を聞いてからでいいかな?」
『それは勿論です』
「後、一応リクエストっていうのも聞いておこうか。暫定拠点では叶えられないかもだけど」
『リクエストですか。それじゃですね……』
小川は美咲のリクエストを書き留めながら、明日あたり、魔法協会を休んで日本で拠点探しをしなければ、と計画を立てるのであった。
不動産屋に案内され、その建物を見上げた小川は、微妙そうな表情で首を捻った。
「随分と古い建物みたいですね」
「築15年の鉄筋コンクリート。半年後に外壁の塗り替えが予定されてますね。エレベータが4基ありまして、どれも状態は良好。入り口周辺には監視カメラがあり、一階には管理人も居住していますから、何かあった時の対応は万全です。一階ロビーに入るにはオートロックの番号認証で、その外側にご希望の宅配ボックスがあります。大きさは御覧の通りです」
宅配ボックスは大中小と3タイプあり、かなり大きなものでも対応できそうだった。
以前小川が住んでいたアパートにはなかったものなので、小川はそれを興味深げに眺める。
「非常階段が東西両側にありまして、エレベータは東西に各1基、中央に2基あります。エレベータの中と各階廊下も監視カメラが記録してます。これは……警備会社に繋がってたかな? お部屋は4階の東の角部屋です。このマンションは子供も住んでますけど、子供の足音がうるさいって苦情は出てませんから、防音は随分としっかりしているんでしょうね。東南角部屋ってことで、ベランダも広くて、お洗濯や布団を干すには最高です」
営業トークを聞きながら目当ての部屋に行くと、電子錠とインターホンが目についた。
「インターホンですか」
「ええ。インターホンは一階ロビーの扉を遠隔で開ける時にも使いますけど玄関にもね、防犯は大事ですから」
玄関には小さな明り取りの窓があり、そこそこの明るさがあった。
「玄関のね、作り付けの下駄箱がすごく大きいんです。うちなんか、狭い玄関に買ってきた下駄箱を増設してますけど、このマンションは広い収納スペースが売りでして」
あちこちの収納スペースをガラガラと開けて回る不動産屋について回りながら、小川は収納スペースの中を確認して回る。
「4LDKで、各部屋に一番小さいのでも、半畳のWIC。和室には1畳の押入れが付いてます。一番大きいのはリビングで、横に1.8メートル奥行き60センチのクローゼットです。あと、キッチンの床下収納と、作り付けの食器棚もかなりの収納力ですよ」
「なるほど。通信環境はどんな感じなのかな?」
「ちょっと変わってまして、ダイニングにルーターがあります。お隣の家でも検知できる程度の出力がありますから、屋内ならどのお部屋でも問題なく使えます」
ルーターは持ち込んで設置するものと小川は考えていたが、このマンションでは、天井のすぐ下に台が作りつけられており、そこに設置されていた。
「ルーターが壊れたらどうしたらいいのかな?」
「管理人が新しいものと交換します。あ、もちろん、敷金には影響ありません」
「テレビのアンテナ線は?」
「一応各部屋にございます。一本だけですけれど、地上波と衛星を混合してますので、両方見られます」
「水回りを見させてもらってもいいかな」
美咲と茜が強く希望していたのは湯船が広くて、水栓が綺麗であること。追い炊きができるタイプであること。
そしてトイレはウォッシュレットが付いていて、壁が綺麗であることだった。
キッチンに関しては、こちらで料理をする気がないらしく、お湯が沸かせれば十分だと言っていた。
「もちろんです。さ、どうぞどうぞ」
風呂場は綺麗に掃除されていて、風呂桶は横たわるように足を伸ばして入れるタイプだった。浴室乾燥機も備えているので、雨の日でも夜間でも洗濯物が干せるとのこと。
トイレもウォシュレットは標準装備で、流す際の水が少なく済むタイプ。壁には除菌効果があるという壁紙が貼りなおされていた。
「あとは台所か」
台所は小川が住んでいたアパートの台所と比べると、3倍くらい広かった。
コンロは4口に加えて魚焼きグリル。電子レンジなどの置き場所には電源が作りつけられている。
収納も多く、壁面には大きな食器棚が設置されていた。
「食器棚は作り付けなんですね」
「ええ。ご要望があれば外すこともできますけど、皆さん、使いやすいっておっしゃいますよ?」
「日当たりもいいし、見晴らしもいいですね。建物については満足です。少しこの周辺を歩いてみてもいいですか?」
小川はそう言って、マンションを出ると、周辺にどのような施設があるのかを確認し、美咲たちのリクエストに対して70点くらいの点数だと判断すると、契約のため、不動産屋まで足を運ぶのだった。
契約社員で海外赴任をしていたが、契約が切れたので日本に戻ってきたという設定で、転居前住所は海外、携帯電話、銀行などは日本で新しく契約しなおさないとならないのだと説明し、小川は話を進める。
現時点では契約が切れているため無職だが、海外赴任している間に貯めたお金が日本円で1000万円近くあるので、銀行で小切手を日本円に両替し、それを口座に入れ次第、向こう1年分の家賃を支払うという契約で、小川は無事にマンションの賃貸契約を結ぶことに成功した。
現在はホテル住まいなので早めに入居したいと希望を伝えると、業者を入れて清掃しないとならないため、三日待ってほしいと言いつつも、電子キーと併用できる鍵を渡される。
「それでは、四日後に入居します……手荷物くらいしか持ち帰ってこなかったんですけど、布団なんかはナノカドーあたりで買えますかね」
「布団も調理器具も買えますね。家電類はオジマ電機あたりに行った方がいいと思います」
「なるほど、ありがとうございます」
小川は、不動産屋を辞去すると、近くの公園のトイレに入ってエトワクタル王国に帰還した。
『というわけで、K市に拠点を入手したんだ。四日後には入居できるというから、念のため6日後にK市のカトーナノカドーの一階エレベータ前で待ち合わせをしようか』
「えーと、私と茜ちゃんは問題ないと思うんですけど、広瀬さんには指輪を渡せてませんよ?」
『広瀬君にも連絡したけど、なんでも近いうちに偉い人が視察に来るから、指輪を取りに行ってる余裕がないそうだよ。拠点については任せるって言ってたね』
迷宮の町は、ようやく町として稼働する準備が整ったらしいね。でも、まだ町の責任者は決まってないらしいよ、と小川は笑った。
「なるほど、まあそういうのは貴族に任せておきましょう。ところでカトーナノカドーとかだと結構監視カメラとかありそうですけど、どの辺りに転移する予定ですか?」
『トイレの中には監視カメラはなかったから、そこに跳べるなら問題はないと思う。でも、トイレを出たあたりには監視カメラが設置されてたから気を付けてね』
下調べは万全のようだった。
だが、美咲はカトーナノカドーのトイレの様子など覚えていない。
住宅街にでも転移して歩くしかないかと、美咲は覚悟を決めた。
「分かりました。それじゃ当日、転移前にもう一度連絡貰えますか?」
『了解。あ、念のため日本円は多めに……50万円くらいは準備しておいてね。拠点に色々設置しないとだし』
「あー、日本だとエアコンとかないと厳しそうですよね」
日本の夏の暑さを思い出し、美咲は少しげんなりする。
『いや、エアコンは付いてる物件だから。そうだね、テレビ、電子レンジ、パソコンあたりは買っておきたいね。あと、ソファと、もしも拠点で寝るのならベッドとか布団とか』
「パソコンと言えば、プロバイダも契約しないとですね」
『それも付いてるね。オプション部分は契約が必要らしいけど、通信だけならパソコンさえあれば即日使えるようになるって……できれば買い物をして配達を頼んだら、待ち時間で役所に届け出をして、銀行で口座を作るところまでは持っていきたいね』
「銀行行くなら、クレジットカードも作りたいですよね。通販とかするのに必要になるでしょうし」
『んー、僕たちは無職だから、クレジットカードの審査が通らないかもしれない……僕が個人事業主の登録をして、そのうえで美咲ちゃんを社員として雇えば行けるかな? クレジットカード機能付きのポイントカードとかだと、アルバイトやパートでも作れたはずだし』
「個人事業主って社長ですよね。そんなに簡単にできるものなんですか?」
『登録だけなら誰でもできるって聞いたことがあるんだ。パソコンが手に入ったらネットで調べてみよう。あっとしまった、日本円だけど、1000万円くらい余計にお願い。銀行に入れておかないとだし、家賃1年分前払いって話になってるんだ』
日本では無職の小川が賃貸を借りることができたのはそれが理由である。
早めに支払いを済ませてしまわなければならないのだ、と小川は申し訳なさそうに言った。
「拠点のお金は後でみんなで精算しましょうね。とりあえず、私の手持ちから両替しておきます」
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
また、誤字報告ありがとうございます。とても助かっております。
今月いっぱいは不定期更新になりまする。。。




