228.樹海の迷宮・第八階層・紺碧
カリカリに焼いたベーコンと、ベーコンの脂を使って焼いたガーリックトースト、しっかりと塩味を付けたスクランブルエッグ、茹で野菜にマヨネーズ。
そんな朝食を食べた一行は、第八階層に降りる階段を目指して歩いていた。
尾根から階段までは一応道らしきものがあり、一行はゆっくりと長い坂道を下っていた。
「下りは結構膝に来るよな」
ベルがぼやくと、美咲がそれに返事をする。
「あ、それは歩き方の問題。歩幅は小さく、常に膝を少し曲げるようにして、静かに地面に足を下ろすように歩くと、膝の痛みは出にくいんだって」
「へぇ……体力使いそうな歩き方だな」
「体力使う分、膝の負担が少なくなるらしいよ」
美咲の知識は以前富士山に登るときに学んだものだった。
登りと下りでは、下りの方が足にかかる負荷が遥かに大きい。そしてその負荷は、歩行時にショックを吸収する膝に集中しやすい。
だから、下り坂を下るときは、登るときよりも慎重に、丁寧に下りなければならないのだ、と美咲は言った。
「へぇ、ミサキは物知りだな」
「登山の経験があるからね」
ナツも下り坂は難儀するようで、歩く速度はかなりゆっくりになっている。
その歩調に合わせ、ベルは歩き方をミサキが言ったものに変えてみる。
「あんまり変わんないな。やっぱり痛いや」
「膝の痛みが出てるなら、怪我してるのと同じ状態だからね。怪我してから歩き方変えても痛みは取れない……って、ベル、ナツもちょっと止まって」
「ん? なんだ?」
「女神の口付けで膝の痛みが取れるかもなんだけど、試してみる?」
「おう。治るかも知れないなら頼むよ。結構しんどいんだ、これ」
美咲は女神の口付けをベルの膝に当て、起動する。
「なんか膝がムズムズするな」
「なら効いてるんだと思う。試しに動かしてみて」
「おう……ああ、痛みは引いてる感じだ」
「それじゃ反対の膝もやっておこうか」
「頼む、そっか、坂を下るときの膝の痛みって怪我の一種だったんだな」
両膝を治療したベルは、その場で軽くジャンプをして足の具合を確かめる。そして、軽く屈伸をして頷いた。
「膝の痛みが取れたよ。女神の口付けで膝の痛みが取れるとは思わなかったよ」
「みんなはどう? 膝痛い人いたら女神の口付け使っとく?」
「わたくしは大丈夫ですわ」
「……下りは平気」
「今のところ問題ないかな」
「問題ありませーん」
ベル以外は、まだ大丈夫だというので、美咲は女神の口付けをしまいこむ。
「それじゃ行くか、ナツ、先導よろしくな」
「はい」
当然だが下り階段までのルートに明確な登山道はない。
なんとなく、歩けそうな場所を繋ぎ合わせながら、一行は下り坂をゆっくりと降りていく。
と、少し歩いたところで唐突にナツが停止した。
魔物か? と警戒する美咲たちだが、ナツは停止したまま魔法の鉄砲を構える様子もない。
「ナツ、どうかしたの?」
「右前足が損傷しました。現在修復中です」
美咲の問いに、ナツは右前脚を持ち上げたままの姿勢でそう返答した。
「修理用の砂は必要?」
「いえ、亀裂が入っただけですので、補充は必要ありません。5秒ほどで修復します」
「ナツも壊れるのですわね。ナツがいれば迷宮内の走破はたやすいのではないかと思い始めてましたわ」
「まあ、歩き通しだったしね。ナツ、二足歩行の方が歩きやすいなら二足歩行にしてもいいよ?」
「不整地では六足歩行の方が安全です」
ナツはそう言って右前脚を地面に下ろし、再び歩き始めた。
下り階段の周辺は草が途切れ、小石だらけになっており、歩くたびに石がこすれる音がした。
下り階段を前にしたキャシーは、ベルから地図を受け取り、その内容に目を通した。
次は第八階層である。偵察隊の報告が正しければ、この階層には魔物はいないそうだ。
地形は海。
より正確には、海上の孤島だとのことだ。
エトワクタル王国で知られている限り、迷宮内に海が存在したことはなかった。
それを知っているキャシーは、地図を見て不思議そうな顔だ。
「迷宮内に海という話は、今まで聞いたことがありませんわ……黄の迷宮に湖があるという話なら聞いたことがありますけれど」
「敵がいないって話だけど、念のためいつもの順番で下りるってことでいいよな?」
「ええ。それは勿論ですわ。迷宮の中ですから、警戒をしすぎるということはありませんもの」
「了解。ナツ……」
キャシーの返事を聞いたベルは、ナツにいつものように階下の先行偵察と安全確保を命じる。
命じられたナツは魔法の鉄砲を構えた状態で静かに階段に向かう。
階下にナツが消え、10秒ほどが経過したところでベルが続く。
第八階層に降り立ったベルは、第六階層とはまた異なる暑さと、嗅ぎなれない匂いに眩暈のようなものを覚えた。
ベルは海に行ったことはない。
というよりも、エトワクタル王国で海まで無意味に観光旅行をするような人間は美咲と茜以外には存在しない。海を見たことのない人間の方が圧倒的に多いのだ。
だから、最初、ベルにはその匂いがなんなのか、理解できなかった。
たくさんの汗を吸った洗濯物の匂いに少し似ている、と感じたベルは、その匂いを悪臭に分類した。
それは海の匂いだった。
「あー、ほんのり海の匂いがしますね」
「そうだね。それにしても暑いね。蒸し暑いって感じじゃないけど」
階段は林の中にあった。
林のすぐ外には白い砂浜が広がっており、波の音が響いていた。
林の中の温度は、第六階層の森林地帯よりも高いようだが、湿気はかなり低く、また、海から吹き寄せる風のおかげで、日陰では少し涼しく感じられるほどだった。
「なあ、これって海の匂いなのか?」
「そうですよ。ベルさんは海は初めてですか?」
茜の質問にベルは頷いた。
「ああ、エトワクタル王国には簡単に行ける場所に海はないからな」
「あー、そういえばコティアって外国でしたね。海の水がしょっぱいのは知ってますか?」
「それは聞いたことはある。塩取り放題だよな」
エトワクタル王国で塩はそれほど安いものではない。
岩塩と塩湖で国内消費の半分程度を補ってはいるが、残りの半分は輸入品なのだ。
だからベルは、迷宮内であっても塩が採取できるということに軽い興奮を覚えていた。
そして、同様にキャシーも塩の精製について考えを巡らせていた。
(道具を迷宮産の素材で作れば、塩の生産を迷宮内で行えますわね……往復は大変ですけれど、自由連邦から輸入することを思えば、道中の危険度も大差ありませんわ……問題は輸送方法ですわね。荷車が使えればよいのですけれど、第六階層では森の中を通らないといけませんし……)
考え込むキャシーを横に、フェルたちは海岸に降り、海水に手を浸して海水を舐めてみたりしている。
遠浅の海は、浜に近いところはエメラルドグリーンで、沖に行くに従いその色は深い紺色に変化していく。
茜は波打ち際で波と追いかけっこを始めるが、濡れた砂に足を取られ、ブーツを海水で洗われている。
「茜ちゃん、そのブーツは一応耐水だけど、長靴じゃないからね」
「はーい」
茜を見て、アンナも真似をする。
時折、浜辺奥深くまで押し寄せる波に、ふたりは随分と楽しそうに走り回る。
偵察隊の話では魔物のいない階層ということだが、念のため、ナツは周辺の警戒をしている。
その横で、フェルは難しい顔をして、島の中央の林を眺めていた。
「フェル、どうかしたの?」
「ん? 随分と狭い島だなって思ってね……神殿の階層みたく、階段も安全地帯も全部がこの島の中に固まってるのかな?」
「偵察隊の地図ではそうなってたよね?」
「そうなんだけどね。そうなると、神殿の階層みたいに、何かあるんじゃないかと思ってね」
フェルは、考え過ぎだと思うんだけど、と肩をすくめてみせた。
「こんな孤島の林の中に何かあるとは思えないけど」
「そうだよね……うん」
美咲とフェルの話が一段落したところで、思考の迷宮にはまり込んでいたキャシーが復活し、海岸で波と戯れる茜たちに声を掛ける。
「さあ、とりあえず安全地帯と下り階段を探しますわよ……アンナ、アカネさん、戻ってらっしゃい」
キャシーはその視線を林の奥に向け、少し考えてから指示を出す。
「各自の間隔を5ミールに維持して、一列横隊で林の中を探索しますわ。隊列は左から、ベル、アンナ、アカネさん、ナツ、ミサキさん、フェル、わたくしとします。魔物はいないという話ですが、皆、警戒は怠らないようにしてくださいまし」
「一列横隊か。広範囲を一気に調べようってことだろうけど、魔物が出たら厄介だぞ?」
「ですから両端に近接戦闘が得意な人員を配置して、中央に魔物の警戒が得意なナツを配置しますの」
「……なるほど、魔物が襲ってきても、接敵前にナツの警戒に引っかかるってわけか」
各人の間隔を5メートルほどにすれば、ナツから一番端の人間までの距離は15メートルほどになる。
ナツは魔法の鉄砲の射程外にいる魔物にも反応するほど知覚が鋭敏なのだから、接敵前に警告くらいはできるはずである。
そんなキャシーの説明に、ベルは頷いて配置についた。
「それでは行きますわよ。ナツはアカネさんとミサキさんの中間の位置を保持し、魔物を発見したら大きな声で警告を発してくださいまし。ナツ以外の全員の目的は下層に向かう階段と安全地帯ですわ」
キャシーの言葉で、一行は大きく広がった隊列で林に足を踏み入れていった。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
また、誤字報告ありがとうございます。とても助かっております。
二巻の電子書籍版、発売されました。
私は持ち歩き用に買いました(紙の本は出版社から献本という扱いで貰えるのですけれど、電子書籍は貰えないのです)。




