204.樹海の迷宮・第二階層・漆の採取三日目
夜半、カンカンカン、という音が安全地帯に響き渡った。
「……ナツ、鍋をたたくのをやめて、見えていた魔物をすべて倒すまで魔物に向けて魔法の鉄砲で射撃」
寝ぼけ眼で天幕から這い出してきた小川の指示により、ナツは暗闇に向けて氷槍を放った。
射撃は1回だけだった。
それにより、見えていた魔物は1体で、既に倒せているのだろうと小川は判断する。
光の杖を取り出した小川は、ナツに魔物がいたあたりまで案内するように指示を出す。
そして、光の杖を掲げてナツの後ろについて丘の上に移動すると、そこに落ちていた魔石と金色の短剣を拾い上げる。
「これがドロップかな? 金にしては軽いけど、真鍮かな?」
安全地帯に戻ると、美咲たちも眠そうな顔で天幕から顔を出していたので、小川は状況を説明した。
「魔物はナツが倒したよ。またナツに見張りをさせるから、みんな寝てていいよ」
「何が来ましたの?」
「僕は見てないけど、これが落ちてたよ」
「贋金の短剣。ということはコボルトですわね……それでは、後はお任せしますわ」
「ああ。お休み」
脅威が排除されたと理解したキャシーは、あくびを噛み殺しながら天幕に戻った。
それを見送った小川は、改めてナツに見張りの指示を出し、光の杖を消して自分の天幕に戻るのだった。
翌朝、全員、空が明るくなる前に起きだし、パンとスープだけの朝食を片付けると、天幕などはそのままに、林に向かった。
「今日は三日目だから、昨日までより漆の出もよくなってると思うよ」
「そういうものなんですの?」
「漆は傷付けられると、それを保護するためだかで、樹液をたくさん生産するようになるそうだから。ただ、傷を付けたその日とかではまだそれほどじゃないらしいよ」
「面白いですわね」
先頭を歩くキャシーと小川を後ろから眺めながら、最後尾を歩くベルはフェルに話しかける。
「なあフェル、キャシーとオガワさんって仲いいよな?」
「うん……そうだね。一緒にいること多いし、よく話してるし、キャシーもよく笑ってるね……春かな?」
「くっつかないかな」
「キャシーからということはないだろうから、オガワさんが押しまくれば或いは、かな?」
そんなふたりの声は、アンナには丸聞こえだった。
「……オガワ先生がミストの町に引っ越してきたら、私はまた勉強を教えてもらいたい」
「アンナは回復魔法は身に着けたんだよね?」
「……今度はアブソリュート・ゼロを覚えたいから」
「あー、それなら、いい方法がありますよ」
アンナの前を歩いていた茜がアンナの声に反応した。
「みんなにも教えたんですけど、内緒にしてくれるならアンナさんにも教えますよ」
「アブソリュート・ゼロを覚えられるの?」
「んー、本家よりも少し温度は高いけど、まあ、生き物相手なら同じ程度の威力の氷の魔法になりますね」
「覚えたい。秘密は守るから教えてほしい」
「教えたら、赤の傭兵を目指してくださいね?」
「……頑張る」
赤の傭兵を目指すというのは、ある業種におけるトッププレイヤーになるということと同義であり、平民にとっては、数少ない、貴族に雇われる機会でもある。
アンナの夢は、傭兵としては黄色程度でもいいので、悠々自適に暮らせるだけのお金を貯め、引退後は魔法協会で研究員として生活するというものだったが、赤になれば魔法協会に入りやすくなる可能性もあるのだから、断る理由はどこにもない。
「それじゃ、漆採りが終わったら教えますけど、当分はおじさんには内緒にしてくださいね」
「……オガワ先生に? なぜ?」
「発表されて、みんながアブソリュート・ゼロを使えるようになっちゃったら、赤になるのが難しくなるからです。みんなが赤の傭兵になった後でなら、おじさんに教えてもいいんですけど」
黙っているように頼めば、小川もしばらくは発表を控えるだろうが、茜は「赤の傭兵になっておじさんとおにーさんをびっくりさせるのが最優先です」と考えていた。
茜にとってアブソリュート・ゼロの習得方法は、赤の傭兵になるための手段のひとつでしかなかったのだ。
林に到着した一行は、漆の採取に取り掛かった。
本日の周辺監視はナツとアンナである。
全員手慣れた様子で漆の木に傷を付け、樹液を掻き取っていく。
木の容器に溜まった漆の樹液は、粘性を増し、酸化によって少し茶色味を帯びていた。
ある程度量が溜まってきたのを見て、キャシーはにんまりと笑みを浮かべる。
「それでオガワさん、この樹液はどのように加工するのでしょうか?」
「まず、ゴミを丁寧に漉き取ります。そして、お風呂のお湯くらいの温度で加熱しながらかき混ぜて水分を少し飛ばします。黒くするなら、ゴミを漉き取る前に、細かい鉄粉を混ぜるんです。その辺りは試行錯誤してもらわないといけないでしょうね」
「ええ。お風呂程度の温度なら、温泉がありますから、安定した温度は出せますけれど、湿気を飛ばすのが目的ですから、お湯と樹液が接触しないようにしないといけませんわね」
「そうですね……あ、熱は加え過ぎないように気を付けてくださいね。加熱しすぎると、漆が硬化しにくくなっちゃうらしいので」
「その辺りは、ミストの町の職人たちに頑張ってもらいますわ」
そんな話をしながらも漆の採取を続けていると、小川が手を押さえて蹲った。
「たたた、しまった……アンナ君、回復魔法を頼むよ」
「……どうしたんですか?」
「漆でかぶれたんだと思うけど、左手が赤く腫れてるだろ?」
そう言って小川は右手と左手を並べて見せる。確かに左手が赤く腫れていた。
「……回復魔法で治るんですか?」
「自然治癒を加速すれば多分ね……本には痒くなるって書いてあったんだけど、痛くなることもあるんだね。ちょっと痛くてうまく魔法を使えそうにないから、頼むよ」
「はい……治癒せよ……どうでしょう?」
「ありがとう。とりあえず、痛みと腫れは引いた……けど、今度は痒くなってきた」
腫れていたあたりが、少しざらざらになり、見た目は普通の肌色に戻っているが、治癒後の痒みが出てきてしまったようだ。
「……そういえば、漆の木は痒くなるってフェルが言ってましたわね……職人に任せる前に、女神の口付けを手に入れないといけないかもしれませんわ」
「そだ、えと……小川さん、これ、痒み止めです」
美咲は、以前呼び出せる医薬品を集めて作った薬箱を取り出すと、そこから痒み止めを取り出して小川に手渡した。
「ありがとう。掻き毟ると悪化しそうだから助かるよ」
痒み止めの軟膏を左手に塗り広げ、手を振って風を当てながら小川は礼を言った。
「いえ、こういう時のために作った薬箱ですから」
「オガワさん、漆のかぶれは痛いものなんですか?」
漆を職人に扱わせるうえで、あまりに痛みがひどいようなら対策が必要だと、キャシーは真剣な目でそう尋ねた。
「んー、聞いた話だと痒くなるんだけど……まあ、僕の知っている漆と、この漆が完全に同じかどうかも分からないんだけどね」
「私の知識でも、この木の葉っぱや樹液に触るとかぶれて痒くなるはずだよ? 痛くなるっていうのは聞いたことないね」
フェルの言葉を聞き、小川は頷いた。
「なら僕が特に漆に弱い体質なのかもしれないね。ちなみに、塗ってよく乾かした漆でかぶれるってことはないから、そこは安心していいよ」
「そうですのね。それで、オガワさんの手は治りましたの?」
「ああ、うん。痒みも引いたし。でも急にきたなぁ。昨日は平気だったのに」
「何にしても大事にならなくてよかったですわ。オガワさんの担当の木はわたくしたちが手分けして片付けますから、休んでいてくださいまし」
キャシーにそう言われ、小川はナツのそばで周辺の警戒を始めるのだった。
そして、漆採取が終わりかけた頃、不意にナツが魔法の鉄砲を構えて引き金を引いた。
「なんだ? 魔物か?」
「はい」
「そうか、魔物の警戒を続けながら、魔物が落とした物を全て拾ってこい。できるか?」
「……はい」
ドロップ品の採取については応答に僅かな間があったものの、ナツは命令通り動き出した。
小川は、ナツが銃を向けたあたりに向かうのを追い掛けながら、ナツがどこまでできるのかを観察していた。
ナツはオガワの命令に従い、定期的に周囲を監視しながら丘の上に向かって歩いていく。
そして、丘の中腹まで進むとそこで停止し、魔法の鉄砲から片手を離して何かを拾い上げた。
続いて、それを地面に置き、別の物を拾い上げる。
そして、小川の方を見て
「分かりません」
と声をあげた。
「なるほどね。複数のドロップ品があると命令を実行できなくなるわけか……なら」
小川は以前美咲から貰った雑貨の中にトートバッグがあったのを思い出してそれをナツに手渡した。
「ドロップ品は全てこの入れ物に入れてさっきの場所まで戻ろう」
「はい」
トートバッグを受け取ったナツは、それに魔石と牙を入れ、紐を腕にかけて魔法の鉄砲を構え直し、林の方向に向けて移動を開始した。
「……実現不可能な命令があると、そこで固まるのは困りますね……ナツ、今後、実現不可能な命令を受けた場合、命令者にその旨を連絡すること。いいですね?」
「はい」
小川とナツが林に戻ると、既に漆は採取が終わっていた。
薬草は前日にほぼ採り尽くしており、もうやるべきことは残っていない。
「オガワさん、何が出まして?」
「さあ、魔石と牙が落ちてたけど」
小川はナツのぶら下げたトートバッグの中身を確認しながらそう答える。
それだけで、キャシーは何の魔物か分かったようで、小さく頷いた。
「それならグランボアですわ。ナツは魔物を撃退することもできるのですわね。夜間はナツに全部任せても大丈夫かも知れませんわね……それはさておき、漆も採取しましたし、地上に戻ろうと思いますけれど、何かやり残したことはございまして?」
「そうだね……色々調べてみたいことはあるけど、今回、やるべきことでもないし特に問題はないよ。すぐに帰るのかな?」
「いえ、今からミストの町に向かっても、門が開いている間に帰り着くのは難しいでしょうから、砦で一泊してからですわね」
王都側の北門は比較的遅い時間まで開いているのだが、白の樹海に近い南門は日の入りと共に閉じられる。
そうなれば、迷宮の中のような安全地帯がないのだから、魔物に襲われるかも知れない環境で野営をしなければならなくなる。それはあまりにも危険だとキャシーは小川に説明した。
「問題は、砦にわたくしたちが泊まれるだけの場所があるかですけれど、最悪、砦の庭先を借りて天幕を使って寝ることになりますわね」
「できれば天井があるところがいいけど、塀の中なら、まあ安心だね」
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
また、誤字報告ありがとうございます。とても助かっております。
桜がほころんできました。桜は大好きなんですけど、この時期はいつも花粉に苦しめられます。
今回なんかも、花粉の影響で更新お休みにしようかと思ったくらいでして( ̄▽ ̄;)




