02.弱肉強食
美咲の好きなペットは犬だ。
だけど、目の前の犬には一切の好感情を持てなかった。
その目は、明らかに美咲を獲物として見ていた。
美咲は慎重に周囲に視線を走らせる。どうやら群れではないようだ。その一瞬で岩と木々の位置関係も頭に叩きこむ。
だがその一瞬の隙を犬は見逃さず、低い姿勢で美咲に襲い掛かった。
「ぅおー!」
美咲は叫びながら右手の金剛杖1号を全力で振り回した。
犬は余裕でそれを躱す。そこに左手の金剛杖2号の追撃。
右手で全力で物を振り回した直後に左手で逆向きに振り回しても力が入るわけがない。
案の定、金剛杖2号は犬に噛みつかれていた。
犬は杖を噛んだまま頭を振って杖を奪い取ろうとするが、それに合わせて美咲は杖を押し込み、犬の体勢を僅かに崩した所で更に杖を押し込む。そのまま金剛杖2号を手放し、次いで金剛杖1号を犬に向けて投げつける。
その反動で近くの岩に駆け上り、全力でジャンプ。
美咲がジャンプした先には、さほど太くもない木の枝が張り出していた。
両手両足を使って全力で枝に抱き着く。傍目にはナマケモノそのものの体勢だが、本人は必死である。
届いたのは奇跡。枝にしがみ付けたのも奇跡だった。
右の登山靴の爪先に数本の傷がついていた。多分、登る時に犬にやられたのだろう。
ごつい革の登山靴でなかったら、中身ごとやられていたかもしれない。
美咲の全身に震えが走る。全身が恐怖で強張る。
(ダメだ。このままだとすぐに疲れて全身の力が抜ける。その前に枝の上に上がらないと)
傍から見ると緩慢な、実に間抜けな動きで、だが美咲自身は真剣この上なく慎重に、枝の上に体を乗せる。
そして下を見る。
犬と目があった。枝の下でうろうろしている。
ご飯(美咲)が落ちてくるのを待つつもりなのだろう。
殺すか殺されるかという状況らしい。それを改めて理解した途端、枝の上で再び全身に震えが走った。
落ちれば餌になる。逃げ場はない。犬が諦めてくれれば良いが、美咲の体力が尽きるのとどちらが早いだろうか。
体力がある内に追い払うか、倒すしかない。
棒を振り回した程度では追い払えない事は先程確認した。しかし美咲には武道の経験などない。棒を振り回す以上の攻撃が出来るとは思えなかった。
(呼び出せるもの……おにぎり、ペットボトルの水、金剛杖、登山靴、チョコレート、アタックザック、スプレー塗料、果物ナイフ、タオルにウェットティッシュ……くらいだっけ? ナイフ以外は武器としては…というか、ナイフで格闘なんて絶対無理)
どれを使っても、犬退治が成功するとは思えない。
(……となると、新しい可能性に掛けてみるしかないか……まず体を木に固定出来そうな物。ロープ)
呼び出せなかった。
(ナイロン紐……呼び出せた)
弱そうだが、幾重にも重ねれば結構な強度になる。
この呼び出す力を使うと体力が抜かれるような感覚がある。良い武器を手に入れても力が抜けて落ちましたでは話にならない。
まず木の枝に体をナイロン紐で固定する。
次に上に張り出している枝にナイロン紐を結び、それにも体に結び付ける。これで、どちらかが残っていれば下には落ちない。
「武器だから……ええと、日本刀……拳銃……ライフル……まあ、呼び出せないよね。知ってたよ。実物見た事もないもん。取り敢えず一般常識内の武器は駄目。と」
出てきたところで使えないのはナイフと一緒であるが、取り敢えず試してみたかったらしい。
「次、ええと、斧、鉈、包丁……と、包丁は呼び出せた。これ、うちの台所にあるのと同じだ」
包丁は今のところ最大の刃物である。ナイフよりは使い道がありそうだ。
「獣には火、だよね……ライター。と、これってお仏壇用のライター……」
燃えやすそうなものを沢山呼んで火をつけて下に落とせば犬も逃げるだろう。
そして炎は自然の法則に従ってそのまま上に。
確実に相手は逃げるだろうけど。
「私、火あぶりじゃん。駄目、却下」
美咲は、自分と犬の位置関係を考えてみた。
相手は下にいる。だから。
「なんか重たくて硬くて尖ったもの……出てこないか」
指示が曖昧すぎたのか、それともそういう物が出てくる物の中に含まれなかったのか。
しかし、レンガでも出てくれば投げつけて当てただけでもそれなりにダメージになる。重たいレンガを投げて当てられるのか。という点を考えなければだが。
「毒物……出るわけないよね。あ、犬の毒と言えば玉ねぎ……出てきたけどさ。食べなければそれまでだし、即効性が期待できるのかも不明。そもそも、あれって本当にただの犬なのかな。目の錯覚でなければ、額にも目があるように見えるんだけど」
目、という単語で閃きがあったようだ。
「えーと、出来るだけ目の細かい胡椒……で、黒胡椒? ラーメン屋さんにあるような白い細かいのが良かったんだけど、ないよりマシかな。一味唐辛子……うん、呼べた。後はティッシュ……で箱ティッシュですか」
それぞれ包装を剥がし、ティッシュを数枚取り出して重ねる。
重ねたティッシュの中央に胡椒と唐辛子を全部出し、ティッシュを丸めて犬の顔の辺りに落とす。
犬は微妙な表情でティッシュの塊から距離を置いた。
目潰し、失敗である。いっそ、ティッシュに包まずにサラサラと振りかけた方が、まだ効果があったかもしれない。
「……重い物……包丁……包丁が綺麗に刺されば……そっか」
包丁を呼び出し、柄の部分にナイロン紐を結ぶ。それを10本作る。再利用可能な手裏剣という意図もあるが、紐は包丁を綺麗に落下させるための仕掛けだ。
なお、紐は上の枝に結んだ。流石に手に紐を持って投げて、引っ張られて落ちました。は避けたい。
「当たったら痛いと思うけど、弱肉強食、覚悟してね」
包丁の柄に結んだナイロン紐を持って構える。
投げつけるのではない。
軽く放るのだ。
後は重力と空気抵抗が仕事をしてくれる。
美咲は10本の包丁の柄についた紐を握り、全部の包丁を同時に犬の方に放った。
直後。
「キャイン!」
と意外と可愛らしい悲鳴があがり、犬は動かなくなった。
包丁を手繰り寄せ、再度犬に向かって放る。
一本が背中に刺さったが動かないし声もあげない。
「ちゃんと死んでるみたいだね」
あっけなさ過ぎて、実は死んだふり。を疑ったようだ。
それにしても。と美咲は自分自身の感情のブレを訝しんでいた。
(大型の動物、初めて殺しちゃったけど、さっきまでの恐怖のせいか感情がうまく働かないみたい。思っていたような後悔はあんまりないなぁ)
最初から美咲を餌認定して殺しにきていた生き物なのだから、愛玩動物に対する感情と違うのは当然である。が、美咲としてはもっとショックを受けると考えていたようだ。
一本だけ手繰り寄せた包丁を使って自身の体を固定していた紐を切り、そのままずりずりと木を降りる。
念のため、包丁を構えて犬の様子を見るが、お腹は動いていない。間違いなく死んでいるようだ。
呼び出した諸々、特に犬に刺さった包丁なんかを持って行くのは嫌だったので、自然破壊となるけどそれらは置いていく事にした。
ご指摘いただいた誤記を修正しました。
あと、たまに感想で、ありえないだろ、読む気が失せた、と指摘があるので追記します。
後半はネタバレ含みます。
・落下する包丁の柄に紐を結びつけることで、空気抵抗で包丁は刃を下にして真っ直ぐに落下します(真空中で羽根とハンマーを落とすと同時に地面に落ちますが、空気中で行なうとハンマーが先に落ちます。縫い針に糸を付けた状態で糸を持って落下させると、大抵針が先に地面につきます。針は軽いので、床の材質によってはなかなか刺さりませんけど)。
あと、投げ落とすのではなく、そっと落とした場合、美咲のいる高さが地上3メートル程度とすれば、地面到達時の包丁の落下速度は秒速7メートル以上です。
■以下、ネタバレ■
■以下、ネタバレ■
■以下、ネタバレ■
■以下、ネタバレ■
・あのオオカミの場合、美咲が落としたのがあの世界の鉄製の剣や槍だったとしても刺さりません。打撃武器としてのダメージはありますが、毛皮を貫くことはありません。
という情報が後々明らかになっていきます。
それでもなお、美咲の包丁は刺さったのだ、という情報は伏線です。
#読んでいて違和感があったら、伏線の可能性を考慮していただけると幸いです。