186.神殿・復活祭準備
茜からチェスボードと石製の駒を託された美咲は、王都へと向かう馬車に乗っていた。
ミストの町から王都への街道の積雪はそれほど多くはなく、一部、雪で埋まっていた部分も速やかに除雪が行われ、雪が交通の妨げとなることはなかった。
馬車の中は出発直後こそ寒かったが、美咲が持ち込んだドライヤーの温風とカイロにより、美咲はそこそこ暖かく過ごすことができていた。
そして、美咲の腰の下には座布団があった。
茜が発注して作らせた座布団はかなり厚手であるため、その見た目は座布団というよりもクッションに近かったが、茜はそれを座布団であると主張していた。
表面が布なので、馬車の座面の上でツルツルと滑るのが欠点だが、今まで使っていたタオルを詰めた皮袋と比較すると、比べるのが馬鹿らしくなるほど座りやすい。
美咲は座布団に座りながら木の窓を開き、ゆっくりと流れる外の景色を眺めるのだった。
馬車は魔物に遭遇することもなく王都に到着する。
復活祭間近ということで、王都の入り口は比較的混雑していたが、馬車に乗っている美咲はそれと気付かずに通り過ぎる。
王都に入るとそれなりの賑わいだったが、日本の賑やかさと違い、電飾もスピーカーから流れる楽曲もなく、派手な飾りつけもなく、ただ通りを歩く人の数が少し多い程度だったので、美咲の目からはそれと判別できるものではなかった。
前日の内に女神のスマホで小川経由で連絡をしておいたため、リバーシ屋敷に到着した美咲をセバスチャンが迎える。
美咲が馬車から下りると、セバスチャンは馭者に心づけを渡していた。
「セバスさん、お久し振りです」
「お帰りなさいませ。ミサキ様。アカネ様はお元気ですか?」
「ええ。今回はミストに残ったけど、食堂で復活祭の特別メニューを出すって張り切ってましたよ」
「さようでございますか。ヒロセ様も長く家を空けておられますし、屋敷の者は皆、寂しがっております」
そんな話をしながら玄関に入り、靴をスリッパに履き替える。
ピーコートをセバスに手伝ってもらって脱ぐと、リビングのコタツのそばで、茜から預かっていた座布団4枚を収納魔法から取り出し、コタツの周りに並べる。
不思議そうな顔で座布団を見ていたセバスには、
「コタツ専用の敷物なんですよ。茜ちゃんが作ったんで持ってきました。多分、小川さんが喜びますよ」
とだけ教える。
敷物の存在が、絨毯に座ることへの忌避感を和らげてくれるかは、これからの小川の運用次第だろう。
「……それではお部屋にご案内します」
「お願い。食事の準備ができるまでは部屋で休みます」
「かしこまりました」
セバスチャンの案内で、美咲は使い慣れた客間に通される。部屋に入った美咲は、セーターを脱ぐとベッドの上に転がった。
馬車での移動は自動車や電車の移動よりも体に堪えるため、ベッドの上でコロコロと転がりながら全身のストレッチを行う。
はたから見るとジタバタしているようにしか見えないストレッチを終えた美咲は、ベッドから下りて服を整える。
そしてテーブルのソファに座ると、本を取り出してパラパラと頁をめくり始めた。
夕食を食べて風呂に入った美咲が、コタツで丸まりながら本を読んでいると小川が帰ってきた。
「やあ、美咲ちゃん、久し振り。神殿は明日からだっけ?」
「はい、明日の朝、セバスさんに馬車を手配して貰って行くつもりです。それでですね。茜ちゃんから、これを見てほしいと預かってきたんですけど」
美咲はコタツの天板の上にチェスボードを置き、そこに石でできた駒を並べる。
「完成したんだ。結局ルールは広瀬君に聞いて詰めたんだよね?」
「はい。それで、出来上がったのを小川さんにも見てもらってから駒とかの大量発注しようってことになりまして」
「なるほどね。駒の材質は……石を磨き上げたのかな?」
ポーンをひとつ取り上げ、小川は感心したようにそれを眺めた。
「駒は土魔法で茜ちゃんが作ったサンプルですね。将来的には木で作ってもらうって言ってました」
「土魔法……器用だね。それで、名前を変えるとか聞いてたけどどうなったの?」
「えっと、キングが将軍、クイーンが参謀、ビショップが魔法使い、ナイトが騎兵、ルークが砦、ポーンが兵士ですね」
美咲はメモを取り出して読み上げた。
「動きはチェスと同じにしたんだよね?」
「はい、そうです。ルールは完全にチェスですね。名前だけは、王制の国で王様を取り合うのはまずいだろうってことで変えましたけど」
「うん。砦も引っ繰り返せるような作りだし、いいんじゃないかな?」
小川は砦(ルーク相当)を引っ繰り返してチェスボードの上に置いた。
「引っ繰り返すんですか?」
「うん? プロモーションっていうルールがあってね。ポーンは一番奥まで進むとクイーン、ルーク、ビショップ、ナイトの中から好きなものに成れるんだ。歩が金になるのと同じだね。その時、大抵はそれまでに取った駒とかを使うんだけど、駒が足りないときはルークを引っ繰り返して、それを駒の代用品にしたりするんだってさ」
「……素直に駒の予備を用意した方がよさそうなルールですね……取った駒がなかったらどうするんですか?」
「さあ? そこまでは雑学本には載ってなかったよ」
小川は一通り駒を動かし、眺めてから頷いた。
「うん。駒の形状はこれでいいと思うよ。茜ちゃんには僕から電話しとけばいいのかな?」
「そうしてください。あと、プロモーションで駒が足りないときの相談に乗ってあげてください」
「分かった。ところで、その座布団はどうしたんだい?」
小川はコタツの周りに並べられている座布団に気付いて、そう尋ねた。
「あ、これは茜ちゃんが作ったんですよ」
「どれ……おー、かなり分厚いね」
座布団の上に座った小川は、すぐに立ち上がると、座布団を二つ折りにしてその感触を確かめた。
「畳んで枕にするなら、もう少し薄い方がいいんだけど」
「茜ちゃんに言ってください。それにコタツで寝転がったりすると、セバスさんが怒ると思いますよ」
「んー、確かにそれはそうかも知れないね。コタツで寝るのはたまに、にしておくよ。それで、このチェスは僕が預かっておくんでいいのかな?」
「はい、できたら、魔法協会や通信省で、誰かと遊んでみてください」
「僕は弱いんだけど……まあ、この世界にはこうした遊戯板はないみたいだから、今のところは僕の方が有利だけどね」
「どんな世界でも娯楽くらいはあると思うんですけど、この世界ではあんまり発展してないんですね」
地竜騒動でミストの砦にこもった時に、男たちが数当てというゲームをしていたのを思い出しながら美咲が言うと、小川は頷いた。
「まあ、ゲームの類がないわけじゃないよ。でも、リバーシのようにルールは単純だけど、深く楽しめるようなゲームは見たことがないな。この世界では遊戯はそこまで進化してないんだろうね……チェスはルールが複雑だから、どこまでどうやって広がるのか、ちょっと楽しみだな」
「楽しみ、ですか?」
「ああ、複雑なルールのゲームを広めるには、ある程度、読み書きが必要だからね。うまくすると文盲率が下がるかも知れないと思ってるんだ」
小川の言葉に頷きながらも、美咲は引っ掛かりを覚えて首を傾げた。
「なるほど……あれ? でも、この世界の人って、結構字は読めますよね? 傭兵組合の依頼なんかは文章だったりしますよ?」
「魔法協会の調査では、必要な定型文を文字ではなく絵として覚えて、後は数字だけは読めるって人が多いみたいなんだ」
「へぇ……でも、学校とかもありますよね?」
「この世界の学校は、どちらかと言うと商人向けの職業訓練施設だね。読み書きに算数は基礎教養として教えるけど、目的は商習慣を教えることなんだってさ。魔法を教える私塾もあったりするらしいけど、こっちは読み書きができるのは必須条件らしい」
小川の話を聞き、美咲はこの世界の文明レベルが、自分の想像していたものよりも低いと気付かされた。
「茜ちゃんが作った紙がもっと流通して、本が一般的になれば、変わるんでしょうか?」
「それにはまずは印刷技術の発達が必要だろうね。この世界では本はとても高価なものだしね」
「前に王都に来た時に何冊か買いましたけど。確かにちょっと気軽に買えるものじゃありませんでしたね」
「本には知識階級のステータスという側面もあるからね。値段を安く抑えようという発想がそもそもないんだ」
女神のスマホを普及させるために取扱説明書を作ろうとして、様々な面倒ごとに遭遇した小川はそうこぼした。
「チェスが広まって、棋譜が出回ったり、チェス・プロブレム……ああ、チェスの詰将棋だけど、それが出回ったりすれば、ちょっと面白いことになりそうだろ? 印刷革命なんかが起きたら世界が変わるかも知れないよ」
「庶民がチェスを楽しみにするようになって、その本が出たりしたら、確かに面白そうですね」
「印刷技術が一般的になったら、美咲ちゃんも本を出すといいよ」
小川は唐突に、そんなことを言い出した。
「私がですか? 残念ながらそういう才能はないんですけど」
「リアルな科学小説を書いたら面白いと思うよ。飛行機械、月旅行、超伝導。ブラックホールについて書いておくのも面白そうだね」
「この世界の未来までそんな本が残ったらどうするんですか」
「それが面白いんじゃないか。この世界の物理法則が地球と同じなら、謎の天才として歴史に名前が残るよ。きっと」
「そういうのは小川さんにお任せします。面白い科学小説が書けたら読ませてくださいね。と、忘れてた。これを小川さんに渡したかったんです」
美咲は収納魔法にしまっていた山芋とワサビを取り出し、小川に渡した。
「ああ、この前言ってたワサビだね。これを僕に?」
「はい、前に日本の作物を増やしたいって言ってましたから、そのついでにどうかと思いまして」
「なるほどね。ありがとう、増やせるか試してみるよ」
「サツマイモとか増やせそうですか? 前にここに来たエルフのフェルが、森エルフのところで食べたとか言ってましたよ」
「今のところ、芋系は増やせそうだね。エルフの黄金芋ってサツマイモのことだったのか……前に話だけは聞いたことがあったんだけど、種芋が手に入らなかったんだよ」
「順調ならよかったです。そのうち、出回るようになるかもって伝えておきますね」
翌朝、朝食を食べた美咲は、セバスチャンに馬車を手配させると神殿に向かった。
神殿裏に到着した馬車から下りると、連絡を受けていたわけでもないのに、マルセラが待っていた。
「ミサキ様、今回はご足労頂きありがとうございます」
「お久し振りです。ちょっと早めに来ちゃいました」
「ちょうどよかったです。お着物のことでちょっと確認しないといけないことがありましたので助かります」
「着物? 衣装なら春告の巫女の時のがあるけど?」
去年、春告の巫女をした時の衣装は美咲が貰い受けていたが、旅先で一度だけ袖を通した以外はアイテムボックスにしまったままだから、汚れや虫食いの心配はない。
美咲の返事を聞いたマルセラは頷きを返した。
「あの衣装が残っているのであれば、それを着ていただくことになると思いますが、もしも丈が合わないようなら修道服を着ていただくことになりますので」
なるほど。と頷いた美咲は、一年前のことを思い出した。
「……あの、確か、一番小さい修道服でも、私にはかなり大きかったように思いますけど……」
「今回は小さい修道服を幾つか用意していますので、どれかは合うと思いますわ」
「ありがとうございます。そうしたら、これから春告の巫女の衣装を着て、大きさの確認ですね?」
「そうですね。その後、問題なければお祈りをして、神殿長からご挨拶があります」
「お祈りは、春告の巫女の時のやり方ですか?」
お祈りの内容は辛うじて覚えていたが、歩くルートが怪しくなっていた美咲は恐る恐る尋ねた。
「いえ、普通の参拝になります。春告の巫女の巡礼の方がお好みでしたら用意させますが」
「いえいえ、そんな、普通の参拝で十分です」
話をしながらマルセラに先導され、美咲は神殿の奥の一室で、去年美咲の衣装を仕立てたコリーンに出迎えられた。
「一年ぶりだね。元気だったかい? それじゃ着替えちゃおうかね。服は持ってきてるんだよね?」
「はい、それじゃ出しますね」
美咲はアイテムボックスから春告の巫女の時の衣装を取り出し、コリーンに見せた。
「状態もいいし、虫食いもなし。ちゃんとしまってあったんだね。それじゃ、あっちの衝立の向こうで着替えちゃおうかね」
美咲は衝立の陰に連れていかれると、下着姿にされ、衣装を着込むのだった。
久し振りに着る春告の巫女の衣装は重かったが、美咲は何とかそれを身に着け、コリーンの前で言われるがままにポーズを取ってみせた。
一通り美咲の衣装を確認したコリーンは溜息をついた。
「この一年で、あんまり育ってないみたいだね」
そんな残酷な言葉に美咲は心で泣くのだった。
「さて、これならこの衣装で問題はないよ。それじゃ自分の服を着とくれ」
「はい」
美咲が元の服装に着替えると、コリーンは春告の巫女の服を持って奥に引っ込んでいった。
「それじゃこの服はこっちで預かって、細かくチェックするから。マルセラ、後は頼んだよ」
「はい。それではミサキ様、本殿に参りましょう」
マルセラに連れられて本殿にやってきた美咲は女神像を見上げた。
まだ主神であるユフィテリアは眠っているはずである。
美咲は、ユフィテリアの像の前で手を組んで静かに祈った。
(神の恵みと平和に感謝を……春になったら新しい迷宮がどういう意図で作られたのか、聞いてみたいな)
聞くだけなら無料であると、美咲は復活祭の後で、神殿でユフィテリアにお祈りをしつつ質問をしてみようと決めるのだった。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
また、誤字報告ありがとうございます。とても助かっております。