165.本屋
男の子を抱えて走る男と、それを追う美咲と茜。
美咲たちに深い考えはなかった。ただ目の前で子供が攫われたのを見て、条件反射のように追いかけてしまったのだ。
だが、男を追って走っている間に考えはまとまった。
「茜ちゃん、助けようっ!」
「はいっ!」
男は子供一人を抱えての逃走である。それほど速度は出ないし、何より男の子の泣き声が居場所を教えている。
もうひとつ、美咲たちが追跡に成功しているのは、その靴の性能差による所も大きかった。日本製のスニーカーを履いている美咲達は、この世界の靴を履いている者に対して大きなアドバンテージを持っていたのだ。
全力で走る男が角を曲がって路地に入る。その直後、男の子の声が聞こえなくなった。
「あそこっ! 曲がりましたっ!」
「分かったっ!」
角を曲がると、男が男の子の口を片手で塞いで脅しつけているのが見えた。
その男の肩に向けて、美咲と茜は同時に小さめの氷槍を撃ち込んだ。
「なっ! くそっ!」
肩から血を流し、男の子から手を離した男に向けて、茜は氷槍で追撃する。
同時に、美咲は男の手前の地面を狙い、砕けた氷が足元に散らばるように氷槍を撃ち込んだ。
男の子はその場で尻もちをついて美咲と茜のことを見ている。
「無駄な抵抗は止めてください。抵抗するならえーと、次は殺す気で攻撃しちゃいますからね」
男を指差し、いつでも魔法を撃ち込めるのだと牽制する茜。
「お前ら、何で子供がこんな……」
「茜ちゃん、そのまま狙ってて。拘束するから」
美咲は呼び出せる中で一番長いベルトを呼び出すと、マン・ゴーシュを抜き、茜の射線を遮らないように男に近付いて剣を突き付ける。
こんな事態を想定したことがない美咲としては、これが精一杯の行動である。
「向こうを向いて跪いて手を後ろに回しなさい……茜ちゃん、変な動きしたら、撃っちゃってね」
「はい! 次は手足じゃなく、頭に当てます!」
その茜の言葉が真剣なものだったからか、男は諦めたように美咲に背中を向けて跪いた。
「んだよ……護衛はいないって話だったのによぉ……」
ベルトで輪っかを作った美咲は、男の手首をしっかりと締めた。
次にナイロン紐を呼び出し、それを使って手首をグルグル巻きにする。
「これでいいかな? 茜ちゃん、こういう時って、どこに連れてけばいいの?」
「知りませんよ。誘拐犯なんて初めて捕まえたんですから」
「……なぁ、見逃してくれよ。未遂じゃ大した金にならねぇだろ? 俺だってこんな悪事に手を染めたくなかったんだよ、見逃してくれたら改心するからよぉ」
男が美咲たちの方を振り向くようにして泣き言を言い始める。
「おじさん、静かにしないと死体にして連れてきますよ」
棒読みな茜の言葉に、男は口を閉ざした。
「そこの僕、もう大丈夫だからね?」
尻もちをついたままの男の子に美咲が声をかけると、男の子の顔が歪み、大声で泣き始める。
「えーと……まあ、安全になったんだから泣いてても大丈夫だけど」
美咲が男の子のそばに膝をつき、その頭を抱きしめると、男の子は安心したのか、しゃくりあげるように泣き始めた。
その声を聞きつけたのか、3人の男性が路地に入って来る。
ひとりは、男の子と手を繋いでいた女の子を抱っこしている。
「助けが来たみたいですね」
男性は、地面に跪いて拘束された男と、男の子をあやす美咲を見て、事情を察したようだ。
「あなたがクェンを助けて下さったんですか? ありがとうございます。私はこの子の叔父のグスターブス・マイヤーです」
女の子を抱っこしている、上品な身なりの男性が美咲に頭を下げる。
「たまたま目の前で誘拐されたから見過ごせなかっただけです……そっか、君はクェン君ていうのか、いい名前だね……怪我はしてないみたいですよ」
姉なのだろう。グスターブスの手から地面に下りた女の子が、美咲からクェンを引き剥がすようにして抱きしめる。
クェンは、姉に抱きしめられて安心したのか、再び大きな声で泣き始めた。
「犯人は見ての通りの状態ですから、後はお任せします。私たちは所用があるのでこれで」
美咲はそう言って、小走りに茜の隣に駆け寄ると、その手を握りしめ、スタスタと歩き出した。
「えーと……美咲先輩?」
「行こ。なんか、凄いのに巻き込まれちゃったね」
「あの、せめてお名前を!」
グスターブスの声に、茜は振り返り、
「名乗るほどの者ではありません」
とだけ返し、満足げな表情で笑った。
「楽しそうだね?」
「言ってみたい台詞を言えました。感動です!」
路地から出た美咲と茜は、そのまま本屋を目指して歩き出すのだった。
年末の王都の街並みは、年越しの慌ただしさを感じさせない程度に落ち着いている。
街を行く人の足が僅かに速足なのは、寒さから身を守る為であって、年末の忙しなさ故ではないのだろう。
石造りの大きな傭兵組合本部の前を通り過ぎて少し歩くと、狭い路地がそのまま商店街になっている通りに行き当たる。
「大きな市場があるのに、こんな場所もあったんだね」
「市場は庶民の為のもので、こっちは、市場に足を運ばないお上品な庶民の為のものですね」
「そう聞くと、なんかイメージ悪いけど……でもまあ、うん。市場がスーパーマーケットで、こっちはデパートみたいなものだと思えば、上手に住み分けが出来てるって言えるかもね」
店は、間口が広くて清潔という点を抜けば、ミストの町の店と大きな違いはない。
ガラスのショーケースなどがある訳ではないが、看板と軒先に飾った商品が、それが店舗だと教えてくれていた。
店の入り口を眺めながら、美咲と茜はゆっくりと通りを進んでいく。
「いろんな店があるね。それで本屋はどれかな?」
「えーと、確かこのあたりだったかと……あ、あれです」
茜が指さす方を見ると、看板のそばに開いた本を象った彫刻を置いた店が目に入る。
思わず早足になる美咲にくっついて、茜もトコトコと本屋に向かう。
店の中には大きな棚がひとつ。棚には、何種類かの立派な装丁の本と、表紙のサンプルが飾ってあった。
見たところ、完成品の本は見当たらない。
「あれ?」
店内を見回した美咲は、そのまま茜の方に振り向いた。
店内を覗き込んだ茜も不思議そうな表情である。
完成した本がない以上、この店はハズレなのだろうと考え始めた頃、店の奥からしわがれた老婆の声が聞こえてきた。
「なんだい。この店にはお嬢ちゃんたちが買うようなものはないよ」
「あの、ここは本屋さんじゃないんですか?」
「ん? いや、本屋だよ。お嬢ちゃんは本を買いに来たのかい? 高いよ?」
店の奥から、老婆が出てきた。
腰は曲がっていないが、茜よりも背が低い。体は枯れ木のように細く、真っ白い髪をオールバックにしている。
「言っとくが、本当に本は高いよ。子供の小遣いで買えるようなもんじゃない」
老婆は美咲たちを、本の価値を知らない子供が勘違いをして訪ねてきたと判断していた。
「それは覚悟してます。えーと、どんな本があるのか教えて貰ってもいいですか?」
「まあ他に客もいない。相手をしてやろうかね……ふむ、どんな本があるか、か。聖典、歴史書、詩集、劇をまとめた物語、後は貴族名鑑と法律書ってところだね。王立図書館で一般の閲覧が許可されてる物なら、大抵のものは作れるよ」
「作れる? 完成品は売ってないんですか?」
この世界の本は筆写が基本である。そのため、本屋では、注文を受けて本を筆写し、高価な装丁を付けて売るというのが当たり前だった。
「本は受注生産だよ。ああ、まあ、流れてきた本もあるにはある。欲しいのは古本かい?」
老婆は棚の下の段から大きな箱を引っ張り出す。
箱の中には大分くたびれた本が何冊も入っていた。
「建国記、物語、それに詩集と随筆だね」
「いいですね、そういうのが欲しかったんです……随筆ってどんなのがあるんですか?」
「貴族が自分の仕事について書いたものが多いね。読んで面白いものじゃないけど、勉強にはなるさね」
物語の本を手渡してもらった美咲は、革の装丁をてのひらで撫でる。
古びているが、しっかりとした作りで、表紙の革は手によく馴染んだ。
重たい表紙を開くと、羊皮紙がぶわりと膨らむように動く。
最初のページには飾り文字で「エトワクタル物語集」と記され、その下に、目次があった。
「……読みたかった物語が入ってますね。これはお幾らですか?」
「装丁はそのままでいいのかい? なら、一冊5万ラタグだね」
日本円に換算して50万円である。
一瞬、高いと感じた美咲だったが、羊皮紙を用いている事、手書きであること、高そうな革で装丁されていること、本来なら受注生産であることから、その程度の値になるのも仕方がないのかもしれないと考え直した。
「そうしましたら、この物語と、建国記、それから……」
美咲は読みたい物を伝えると、アイテムボックスから金貨を入れた革袋を取り出し、そこから金貨を取り出し始める。
それを見て、老婆のまなざしが真剣なものに変わった。
「ほう、ちゃんと金貨を用意してきたのか……お金持ちなお嬢ちゃんだ」
「一応言っておくと、これでも成人してますし、お金も自分で稼いでますから……あ、学校の教科書があったらそれも欲しいんですけど」
「教科書は、藁半紙で装丁もちゃちだから一冊5000ラタグかねぇ。国語と歴史と算術、あと法学が二冊あるけどどうするね?」
藁半紙製なのに1冊5万円と聞いて引き攣った美咲だったが、知識にはそれなりの価値があると、それらも買うことにする。
結局、全部で325000ラタグの買い物となった。日本円にして325万円相当である。
金貨32枚、大銀貨5枚を支払った美咲は、本を受け取ると収納魔法でしまい始める。
「今度は新品の注文で来とくれよ。うちはそっちが本業なんだから」
「何かあったらお願いしますね」
その後、一通り店舗を覗いて回ってから美咲達は帰途につく。
屋敷に戻ると、セバスが茜を待っていた。
茜達が留守の間にマイヤー家から使いが来たという。
「マイヤー? 知らない名前ですね?」
「なんでも、アカネ様に子供を助けて貰ったとのことでしたが」
セバスチャンの言葉を聞いて、茜の表情に理解の色が宿った。
「名乗らなかったのに、よく突き止めましたね」
「歩ける範囲で女神様の色の、その、年若い女性がふたりということで訪ねられてきたそうです」
「マイヤー家について知っていることを教えて貰えますか?」
「4軒隣に住む商人で、主に貴族を相手に宝飾品の売買をしています」
既にセバスチャンは色々と調べていたようで、マイヤー家の家族構成、子供が通う学校、午前中に発生した誘拐未遂事件について、すらすらと情報が出てきた。
「アカネ様に甥を助けて貰ったお礼をしたいということでした」
「助けたのは美咲先輩なんだけど……連絡はどうすれば?」
「仰っていただければ、手配いたします」
その答えを聞き、茜は思案顔を見せた。
そして、美咲の方に振り向いて、どうするのかと尋ねる。
「どうするって、別にお礼が欲しくて助けたわけじゃないし」
「ですよねー。セバス、そのように伝えてください……その上で、どうしてもお礼をと言うのであれば、お酒でも貰っておきましょう」
「かしこまりました」
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
体調不良の為、一日更新を遅らせてしまいました。
そして、大変申し訳ありませんが、私用の為、2週間ほど更新が滞る予定ですm(_ _)m