157.赤への誘い
翌日、ミサキ食堂の準備を終えた美咲は、傭兵組合を訪れていた。
「ミサキさん、おはようございます」
美咲を見付けたシェリーが小走りに美咲に駆け寄って来る。
「おはよう、なんか用事があるって茜ちゃんに聞いたんだけど」
「はい、えーと……一応会議室でお話ししましょうか」
「うん。お任せします」
場所を移動し、美咲は会議室の椅子に腰かけた。
その対面に座ったシェリーは、薄いファイルを手にしていた。
雑貨屋アカネの製品である。タイトルには、『赤』とだけ記されていた。
「ええと、ミサキさんは赤への昇格条件が満たされています。というのがお話です。昇格試験を受験しますか?」
「昇格条件? 受験?」
黄色になる迄、試験など受けたことがなかった美咲は首を傾げる。
「ええとですね。黄色までと違って、赤は試験を受けないと昇格できないんです……試験は実技と筆記がありますけど、ミサキさんなら合格は難しくないと思いますよ」
赤の受験資格は、傭兵組合全体で統一の基準を設けており、それをクリアした者に与えられる。
黄色までの昇格は各支部の裁量に任されているが、赤になると貴族との付き合いも出てくるため、最低限の礼儀作法、常識が求められる。美咲の場合、礼儀作法と常識に関する筆記試験、それに加え、アブソリュートゼロとインフェルノという強力な魔法が使えることを、試験官の前で証明する必要がある。
ファイルを開き、シェリーは美咲がどのような試験を受ける必要があるのかを説明する。
それを聞きながら、美咲はどうやって断ったものかと考えていた。
美咲は赤の傭兵を見たことがない。ミサキ食堂というそこそこ人気がある食堂をやっている環境で見たことがないということは、赤の傭兵の数はかなり少ないのだろうと美咲は推測していた。
赤の傭兵に希少性があるのであれば、赤になると目立ってしまう可能性がある。
それは避けたい。目立たず平穏に、というのは、今でも美咲の基本戦略なのである。
「シェリーさん、質問いいですか?」
「はい、どうぞ」
「資格を持った傭兵は、全員受験するものなんですか?」
ファイルをパタリと閉じて、シェリーは天井を見上げ、数人の傭兵の顔を思い浮かべた。
「いえ、赤になると発言力が増すんですけど、それを面倒だと嫌う人もいますね……あと、貴族から声が掛かるのを嫌う人もそれなりにいます」
「なるほど……私も赤になるのは面倒なので受験は止めようと思います」
「えー、勿体ないですよ? 赤になったら貴族が勧誘に来たりもするんですよ?」
貴族が勧誘に来る、という話を聞いて、美咲は赤にならないと固く心に誓った。
「黄色のままでいたいんです」
「……立身出世して貴族になった人や、近衛になった人とかもいるんですよ? そこまで行かなくても、貴族に仕えれば、かなりの高給取りです。特にミサキさんは女性の傭兵ですから、色んな意味で引く手数多だと思いますよ」
赤の傭兵は、市井において最高位の実力があるという事を意味する。また、赤の傭兵であるという事は、最低限の礼儀作法や常識を持っていることが、傭兵組合によって保証されている。
貴族としては、赤の傭兵をヘッドハンティングすれば、そうそうハズレを引くことはないのだ。
美咲が赤の傭兵を見かけたことがないのも当然だった。
赤の傭兵の多くは、もっと稼ぎのよい職場に転職してしまっていたのだ。
「私は食堂で普通に生活出来てますし、出来れば貴族には関わりたくありませんので」
「あー、貴族が苦手って傭兵はたまにいますね。ミサキさんは女性だし、礼儀正しいから貴族のお嬢様の護衛とかによさそうなんですけど」
「生きるだけなら食堂がありますから」
これが、春告の巫女になる前だったら話は違ったかもしれない。
貴族階級は知識階級でもある。
日本に帰る手段を調べるため、貴族の配下になることに意味があっただろう。
だが、復活祭で他ならぬ女神自身から、日本に帰るのはほぼ不可能だと神託を受けてしまっているのだ。
いまさら貴族が知りえる程度の知識で、日本への道が開けるとも思えない。
「……そうですか? 受験資格は随時更新されていきますし、そうそう喪失することはありませんので、気が変わったらご相談くださいね」
シェリーはとても残念そうに、そう言った。
◇◆◇◆◇
美咲が傭兵組合で赤への昇格の話を聞いた帰り道、広場を通り掛かった美咲は、そこで珍しい組合せを発見した。
まだ午前中という事もあり、広場はそこそこ賑わっていたが、広場の周りに植えられた木々の根元で、エリーがスケッチブックを開いていた。
そして、エリーが描いていたのは。
「広瀬さんとモッチーさん? あれ? 何やってるんですか?」
「美咲か。なんかモデルになってって言われたんだ。この子だろ? 茜が言ってた同居してる獣人の子って」
「そうですけど……広瀬さんはモッチーさんとデートですか?」
広瀬とモッチーが並んでエリーの絵のモデルになっていた。
広瀬は対魔物部隊の鎧を身に着けているが、モッチーは普通の町の娘のような服装をしている。
「中隊長さんは隊員の入れ替えと物資の補給にきたのよ。私は補給で手に入らない調味料とかを買いに来たんだけど、この子が絵を描きたいっていうからモデルをしてるの」
「あー。まあ、対魔物部隊の鎧は、傭兵の鎧と違って、格好いいですからねー」
革鎧をベースに、あちこちに金属パーツが埋め込まれている辺りまでは傭兵が使用する鎧と同じだが、部隊の紋章が彫られていたり、綺麗に着色されていたりと見栄えがいい。
それを見付けたエリーが声をかけたのだろう、と美咲は納得した。
なお、迷宮付近の魔物駆除を終えた広瀬が、未だに白の樹海の砦に駐留しているのには理由があった。
新しい迷宮の門が出来た直後に対魔物部隊に課せられた任務は、仮組の塀の構築完了をもって既に終了している。
それでもなお、対魔物部隊が撤収しないのは、迷宮の門に関する王宮の発言力を増すためという目的があったからだ。
本来、白の樹海の開拓はミストの町にその権限が与えられている。長年開拓らしい開拓をしてこなかったとは言え、ミストの町はそのためにこそ作られたのだ。大規模な開拓こそ、ここ数十年は行われていないが、それでも白の樹海の浅い層の調査や、白の樹海への道の整備などは、ミストの町主体で行われている。
したがって白の樹海を切り拓き、そこに町を作るなら、それはミストの町が主導するのが筋である。
しかし降って湧いた迷宮の門の問題があった。迷宮の町の管理ともなれば、前例に則るなら最低でも伯爵が行う必要が生じる。
迷宮はそれだけの富を生み出すのだ。
そうなるとミストの町の代官であるビリー男爵では位が足りず、ミストの町の本来の出資者である子爵家でもまだ足りない。このまま放置すれば、白の樹海の迷宮の門を巡って、新たな権力闘争が発生する可能性があったのだ。
その対策として王宮は、新しい迷宮の門周辺の初期開拓を王宮主導で行うという力業に出ることにした。それが、対魔物部隊が長期に渡って、白の樹海の砦に駐留している理由だった。
予定より長期化した駐留の為、広瀬は中隊の隊員を入れ替え、物資を補充するためにミストの町を訪れていた。
王宮としては、新しい迷宮の門をミストの町から奪おうという意図はないが、ミストの町から見れば、富を生み出す装置を奪われかねないと、警戒を続けているのが現状で、今回の隊員入れ替えのタイミングで、王都からはアルバート王子がビリーに面会を求め、王宮の意図を伝えている。
そんなこんなを知らない美咲は、対魔物部隊は町の基礎作りもするのか、と感心するだけだった。
「広瀬さん、モッチーさんには日本の調味料とかって渡してるんですか?」
「いや、前は渡してたけど、そこらで買えないのは使わないことにした。だから、基本は町で買えるものばかりだ」
「そうなると、レシピの幅は狭くなりますね……醤油と味噌が使えたら、レシピが一気に増えるんですけど」
「美咲は麹は出せないのか?」
エリーの前でモッチーと並んでモデルを務めながら、広瀬が尋ねる。
「塩麹ともろみなら買ったことありますけど、麹菌が生きてるかとか気にしたことはないです」
「そりゃそうか。生醤油って生っていうくらいだし、麹菌が入ってたりしないのかな?」
「スーパーに並んでる醤油が、買ってからも発酵して味が変わるなんて聞いたことないですよ?」
菌が生きていれば流通過程で発酵が進んでしまい、味が変わったりガスが出たりと色々と不都合が生じる。
その為、多くの商品は徹底的に濾過されていたり、火入れをして菌を殺していたりする。生醤油の場合は濾過された醤油であり、そこに麹菌は存在しない筈である。
賞味期限が極めて短い通信販売や、低温貯蔵を前提とする酒の一部には、麹が生きたまま入ったことを売りにする商品もないではないが、残念ながら意識してそういった商品を買ったことがない美咲だった。
近所の個人商店で販売している手作りのもろみに、僅かに可能性があるくらいである。
「まあそうか。麹菌が手に入っても、そもそも作り方知らないしなぁ」
「私が家政科部だったらよかったんですけどね。確か手作り味噌とかやってましたし。でも学校の家庭科じゃ、そこまでやりませんからね」
「最近の高校生の部活、スゲーな」
「ミサキさんは料理の学校に通ってたの?」
モッチーが不思議そうな表情で尋ねると、広瀬が曖昧に首を振る。
「俺たちのいたあたりだと、全員最低でも9年は学校で勉強するんだ。その中で包丁と火の使い方も、ちょっとだけ教えて貰う。美咲は家庭の事情で、同世代よりちょっとだけ料理の腕がいいんだよ」
「へぇ、それだけ学校に行ってたら、読み書きも算術も法学も歴史も何でも出来るんでしょうね」
「出来るのは読み書きと算術くらいかな。俺もだけど、教養はないよ」
広瀬が自嘲気味にそう言った。
読み書きはなぜか出来るし、算術も10進法を使っているので、この世界の基準以上に出来るが、いわゆる一般教養に関しては分が悪い。
日本では大学生だった広瀬だが、この世界に来た当初は常識知らずと呼ばれていた。
広瀬が一番苦労したのは日常会話で出てくる常識の欠如だった。
最初の頃、広瀬は有名な戯曲や故事に由来する言葉を好んで使う小隊長の下についたため、言っている事の半分くらいが意味不明だった。
例えば、日本人なら「草履取りからの天下取り」と聞けば、誰のどういう故事に由来するかが分かるだろうし、立身出世を意味する言葉だと分かるだろう。だが歴史を知らなければ、言葉の意味は理解できても意味は伝わらない。むしろ不可能な事柄を示す言葉だと捉える可能性すらあるだろう。
そうしたことの積み重ねで、広瀬は自分の教養のなさを痛感していた。
「中隊長は剣の腕と書類仕事は群を抜いてるじゃないですか」
「へえ、広瀬さんって、書類仕事にも強いんですか?」
「日本の書式とか、レポートの書き方ってのが役に立ったんだよ。手書きだから大変だけどな」
「……できたー!」
エリーが絵の完成を宣言した。
モッチーがスケッチブックを覗き込む。
そこには、広瀬とモッチーが、まるで仲のいい夫婦のように描かれていた。
「おー、綺麗に描いてくれたのね。小さいのに、本当に絵が上手ね」
「確かに上手いな。美咲たちが教えたのか?」
「ほとんどエリーちゃんの自己流です。エリーちゃんは天才なんですよ」
美咲はエリーを後ろから抱きしめながらそう言って笑った。
エリーは、描いた頁を切り取ると、モッチーに手渡した。
「え、貰っちゃっていいの?」
「うん。おもしろかったー」
エリーは満足げにそう言った。
「さて、私は食堂に帰るけど、エリーちゃんはどうする?」
「きょうは、おえかきするの」
「そっか、それじゃ気を付けてね」
美咲に見送られ、エリーは広場の奥の方に駆けていった。
「モッチー、後は何が必要なんだ?」
「香辛料が何種類か、それとワインね」
「そか、それじゃ美咲、俺たちはまだ買い物があるからまたな」
「はい、それではまた」
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
コーヒー飲み過ぎて気持ち悪くなってしまい、更新が滞る所でした。
調子に乗って、1リットルペットボトル一本なんて飲むもんじゃないですね(^▽^;