146.樹海の迷宮・第三階層・女神の口付け
第三階層の天気は濃霧だった。
一行が下り立ったのは、足元の地形から察するに山を囲む平地部分だ。だが、それ以上の情報を得るには霧が濃すぎた。
「こう霧が濃くっちゃ、探索も何もないぞ」
探索をしようにも10メートルも離れれば、白い闇の中に全てが飲み込まれる。これでは地図に問題がなかったとしても、現在位置さえ把握できない。
今はお互いの姿が何とか黒っぽい影として見えているが、霧の濃さが増しでもしたら、全員はぐれる危険性もある。
と、唐突に霧の中に明かりが灯った。
「皆さん、光の杖を灯しました。わたくしの周りに集まってください」
キャシーが光の杖を掲げると、全員がその周りに集まる。
「この霧では探索は出来ませんわ。一旦、第二階層に戻りますわよ」
キャシーがそう言ったのと同じタイミングで霧の中から、何か大きな獣が走るような音が響いてきた。
「なんだ……うわぁっ!」
黒い大きな影がドドドッという音と共に現れ、ベルの悲鳴が霧の中に響いた。
「ベル!」
「だ、大丈夫! 生きてる! 階段を上る!」
霧の中からベルが片手を押さえて戻って来る。そしてそのまま階段に足をかけて消えていく。
「ミサキさん、アカネさんも続いてください!」
「うん」
「分かりました!」
キャシーの声に、美咲と茜が続き、その後をフェルが追う。
そして、全員の姿が消えたことを確認すると、キャシーも階段を上った。
階段を上ったベルは、階段から数歩離れた所で草原に横たわった。
ベルに続いて階段を上ってきた美咲と茜は、そんなベルを見るなり、そばに駆け寄った。
「ベル、どこか怪我してますか?」
「……くぅ、左手首をやられてるっぽい……」
それを聞くなり、美咲はベルの左手を確認する。
手首の内側付近の服が破れ、その下が赤く腫れている。
「えーと……茜ちゃん、ベルの体を支えて」
「は、はい! ベルさん、体を起こしますよ」
ベルの後ろに回った茜は、ベルの上半身を起こすと、自分の体に寄り掛からせるようにして、両手でしっかりと肩を押さえた。
それを確認した美咲は、ベルの左手の袖をまくり上げる。
赤く腫れた部分が剥き出しになる。その範囲はそれほど広くはない。
「どうしたの!」
階段を上ってきたフェルが、驚いたように声をあげる。
「フェル、ちょっとこっち来て……ベルの左腕、ここの所を握ってて」
フェルを呼び寄せると、美咲は指示を出す。
「痛いかもだけど、ちょっと我慢してね」
美咲はベルに声を掛けると、左手首の骨の位置を確かめるようにベルの手首を握り、その握る位置をゆっくりと動かした。
「っ!」
赤く腫れた部分に指が掛かった途端、ベルが声にならない悲鳴をあげて全身を強張らせる。
美咲は、眉をひそめながらもその指の位置を変えていく。
「どうですの?」
いつの間にか、美咲の後ろに立っていたキャシーが心配そうに覗き込んでくる。
「多分、折れてはいないと思いますけど……腫れてるからヒビくらい入ってるかも……ベル、もう少し我慢してね」
美咲は収納魔法から女神の口付けを取り出すと、患部が輪っかの中央になるように位置を調整すると、柄の部分を回転させ、女神の口付けを起動した。すると、見る間に患部の腫れが引いていく。
「ええと……どれくらい当ててたらいいのかな」
女神の口付けを当てたまま、美咲は呟いた。
「ヒビだとしたら、まだ腫れが引いただけでしょうから、もう少しですわね」
「……痛みは引いたよ、みんな、ありがとう」
ベルは、茜の胸に寄り掛かったままの姿勢で礼を言う。
「ベル、痛かった場所を押さえてみて違和感はありまして?」
キャシーに言われ、ベルは右手で左手首を揉むようにする。
「大丈夫、もう痛くない。ただの打撲だったのかもしれないな」
「それで? さっきは何にやられたんですの? 黒い大きな影しか見えませんでしたわ」
「あー……多分だけど、グランボアの成体じゃないかな。大きな猪みたいなのが突進してきて、体への直撃は免れたんだけど、手首をぶつけたんだ」
以前、ゴードンに聞いた話を覚えていたのだろう。グランボアの成体と聞き、キャシーの顔が青ざめた。
「……全員、体に問題はありませんわね?」
キャシーの声に頷く一同。それを見回して、キャシーはこの後の方針を告げた。
「地上に戻り、傭兵組合に連絡を入れます。あの濃霧では探索は不可能ですし、グランボアの成体が相手だとすれば、わたくしたちには荷が勝ちます」
◇◆◇◆◇
地上に出た美咲たちを迎えたのは、雲一つない晴天と、樹海に響き渡るような杭打ちの槌の音だった。
迷宮の門周辺では、対魔物部隊が樹海の木々を切り倒し、仮組の塀を構築していた。
キャシーが女神のスマホを使い、ゴードンに連絡をしたのは、そんな中だった。
キャシーがゴードンに伝えた要点は3点。
ひとつは、第二階層でふたつ目のアーティファクトを入手したこと。
もうひとつは、魔法の弓の性能について。
そして最後は、第三階層は濃霧のため探索ができていないが、成体のグランボアと思われる大きな黒い影と接触したという報告である。
この報告を受けたゴードンからは、魔法の弓を砦に保管し、砦で待機するよう指示が下りた。
ゴードンの指示を受け、砦に戻った美咲たちは、砦の大部屋に向かう廊下で、偵察隊のパーシーと出くわした。
パーシー達は昨夜まで迷宮の探索を行っていたとのことで、本日は休養日に充てる予定とのことである。
「さっきゴードンから砦に電話があったんだが、アーティファクトをふたつも見つけたって?」
「ひとつはこれですよ」
フェルが弓を差し出すと、パーシーは興味深げに弓を調べ、そのままフェルに返した。
「矢が生成されるって聞いたが、どういう理屈なんだ?」
「周辺の魔素を弓が集めて、圧縮して、魔力に変換するところまでは見えたんですけど、そこからはよく分かりませんでした。射程距離が4倍以上違うから普通の魔法じゃなさそうなんですけど」
フェルの説明に、パーシーは首をひねった。
「周辺魔素ってことは、使用者の魔素量に関係なく使えるってことか?」
「そうです。でも、正しいイメージを伝え慣れてる魔法使いが使った方が、より効果を発揮すると思いますよ」
「ほう。それで、魔物にも効いたんだよな?」
パーシーの問いに頷きながらフェルは軽く弓を引いて見せる。
弦を引くフェルの手元に、空気を固めたような矢が現れた。
「これが矢です。魔力と違って触れますけど、魔力や魔法と同じく、時間経過で消えるみたいです」
「……面白い」
パーシーが矢に手を伸ばす。フェルは、矢をパーシーに手渡そうとするが、その手の中で矢は空気に溶けるように消えていった。
「なるほど……ああ、引き留めて済まなかったな」
大部屋に戻った美咲は、革鎧と盾、マン・ゴーシュを外すと、木箱の上にそれらを干すように広げた。
その隣で、茜も革鎧と魔剣を外して、木箱の上に並べる。
「美咲先輩、ちょっとお風呂に行きませんか?」
「あー、うん。混まない内に入っちゃおうか」
砦には数人が一度に入れる大きさの風呂がひとつだけ存在する。当然、男湯、女湯の区別はない。
風呂と言いつつもバスタブはなく、桶にお湯を入れて、汗を流すための設備である。
お湯と水を出す魔道具に魔素さえ補給すれば、いつ使っても構わないと言われているが、男所帯の砦では、使うのになかなか勇気がいる。
「ミサキたち、お風呂行くの? 私も行くよ」
フェルが聞きつけて寄って来る。
「それじゃ一緒に行こうか。キャシーさんたちはどうします?」
「わたくしは、あとで入りますわ」
「俺も。みんな元気だな」
風呂から上がった美咲たちは、さっぱりとした表情で大部屋に戻り、部屋着に着替えた。
大部屋では、キャシーが難しい顔で魔法の鉄砲と魔法の弓を検分していた。
「戻ったよー」
フェルが声を掛けると、ベルが振り向く。
「お帰り。さっき組合長から電話があったよ」
「へえ、なんて言ってた?」
「第二階層の調査を続行。目的は護宝の狐が出て来るか。出てきた場合は速やかに倒し、アーティファクトが出てくるかを確認する……あと何だっけ?」
指折り数えながらベルが答えるが、途中でその手が止まる。
「アーティファクトを使って、護宝の狐を倒せるかを確認する。ですわ」
キャシーは弓を木箱に戻しながら、そう続けた。
そして、魔法の鉄砲を手に取ると、魔法が記憶されていないことを確認し、これも箱にしまった。
「……出発は明日の朝ですわ。今日はゆっくり休みましょう」
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