129.髪
スマホのあれこれや紙の開発の後始末が終わったある日の午後。
ミサキ食堂のテーブル席に座った美咲は、ポニーテールにした髪を指に巻いては溜息を吐いていた。
「ねえ茜ちゃん、美容院とかってどうしてる?」
呼ばれた茜は、厨房から顔を出す。
「急にどうしたんですか? 王都にいた時はメイドに切って貰ってましたけど、最近は伸ばしっぱなしですね。前髪だけは自分で整えてますけど」
「そっかー。毛先が傷んできたなぁって思って……」
美咲はポニーテールの先端を摘まんでプラプラさせた。
「もしかして、こっちに来てから切ってないんですか?」
「春告の巫女の時にちょっと毛先を揃えて貰ったけど、それっきりなんだよね」
茜は美咲の後ろに回ると、美咲の髪をチェックして頷いた。
「でも美咲先輩は日本のシャンプーとか使えてましたから……ほら、それほど傷んでないじゃないですか」
「そう? ……でも毛先は揃えたいなって」
「んー、揃えるだけでいいならやりましょうか?」
「お願いできる?」
「いいですよ。美咲先輩、ハサミって出せますか?」
「それがね、うちには兄が買ったハサミが余ってたから買った事ないんだ。裁縫セット出せば、中に入っていると思うけど、あれじゃ小さいしねぇ」
「裁縫セットのでもいいですよ、ばっさり切る訳じゃないんですから」
「そ? それじゃ」
美咲は裁縫セットを呼び出すと、中から小さいハサミを取り出し、茜に手渡した。
「はい、あ、バスタオル取ってきますね」
茜はそう言って、パタパタと洗面所に行くと、ピンクのバスタオルとブラシを持ってきた。
「それじゃ、毛先を整えますね」
バスタオルを美咲の首に掛けると、茜は美咲のヘアゴムを外してブラシで髪をとかし始めた。
「なんか慣れてるね?」
「日本ではお姉ちゃんの髪とかいじってましたからね」
茜は髪を整えると、指先で挟み、小さいハサミでチョキチョキと切り始める。
「たしかに毛先はちょっと傷んでますね」
「でしょ? だけど床屋さんって行ったことないから、ハードル高くて」
「この世界の床屋さんは、聞いた話だと日本のより痛いらしいですよ?」
「小川さん情報?」
「おにーさんも言ってました。ハサミも剃刀も、なまくらだって」
「そう言えば、こっちの人ってムダ毛処理しないんだよね」
「そうでもないですよ? うちのメイドはきちんと処理してました……と、はい。毛先、綺麗になりましたよ」
茜はそう言って、美咲の髪をとかし、ポニーテールにまとめた。
そして、床に落ちた髪の毛を箒で外に掃き出した。
「髪、外に掃いちゃっていいのかな」
「いいと思いますよ。そんなまとまった量がある訳じゃないんですから」
茜は、美咲の首にかけていたバスタオルを取ると、外でバサバサと叩き、くるくると丸めた。
「今度、王都に行ったら、こっちの世界のハサミを見るのも面白いかもしれませんね」
「ミストじゃ駄目なの?」
「そういう専門店があるんですよ。貴族を相手にするようなお店だから、物は市井の金物屋とは全然違いますよ」
「なんで茜ちゃん、そんなこと知ってるの?」
「メイドに教えて貰ったんです。髪を切って貰ってて、痛かったことがなかったので、品質はいいと思いますよ」
◇◆◇◆◇
翌日の午前中、まだ食堂の開店には早い時間帯に、ミサキ食堂にひとりの訪問者があった。
ノックの音に、美咲が玄関を開けると、そこには黒っぽい服を着た年配の男性が立っていた。
「あの、まだ開店時間じゃないんですけど」
「承知しております。私、ミスト家の料理長を務めております、サイモンと申します」
「ミスト家というとビリーさんの? あ、私はミサキ食堂の店主、美咲です。どういったお話でしょうか?」
「実は、明後日の午後、当家でティーパーティーが予定されております。そのパーティーで、最近町で出回っているケーキを使いたいとルーシーお嬢様が仰っておりまして」
「あー……少々お待ちください」
美咲はサイモンを玄関に残したまま、茜を呼びに二階に上がった。
「……というわけで、ケーキの流通担当は茜ちゃん。よろしくね」
「はーい。エリーちゃん向けに調整したレシピでも提供しますかね?」
レシピを提供すれば、向こうはプロの料理人だ。今後同じような話があっても自力で解決できるだろう。
美咲は頷いた。
「その方が、この先面倒がないかもしれないね。貴族なら砂糖も必要なだけ使えるだろうし」
「それじゃ、えーと」
茜はエリー向けに書き溜めたレシピを引っ張り出すと、玄関に向かった。
茜に任せると言った美咲も、話が気になるので一緒に階下に下りる。
「お待たせしました。甘味流通担当の茜です。ケーキが必要ということですけど、どんなケーキが必要なんでしょうか?」
「私はケーキを食べたことがないので分からないのです。どんな、ということは、色々な種類があるということでしょうか?」
「そうですねー。言葉で説明するのはちょっと難しいんですけど、レシピをお教えしましょうか?」
茜の言葉に、サイモンは目を見開いた。
「それは願ってもないことです。これからミスト家に来て頂いても?」
「あー、ちょっと待ってくださいね。美咲先輩、今から行って来てもいいですか?」
「うん、店はマリアさんがいれば回せるから大丈夫だよ……でも行くならオーブンを持って行かないと」
レシピは、茜が開発したオーブンの魔道具を前提に、温度や時間が書かれているのだ。通常のオーブンでは温度調整が難しいため、失敗の恐れがある。
「あー、そうでした」
「ミスト家にもオーブンはありますが……」
「えーと、温度調整機能に優れた魔道具があるんですよ。私はそれがないと上手に焼けないと思いますので。ちょっと取ってきますね。あ、厨房にお酒とか種類ありますよね?」
「大抵のものは揃っていますが」
「よかった。それじゃちょっとオーブン取ってきますね」
茜は厨房に戻ると、オーブンをアイテムボックスにしまった。
それを見ていた美咲は、流し台の下から計量カップと計量スプーンを取り出して茜に手渡した。
「茜ちゃん、これも持ってかないと」
「そうでした。ありがとうございます」
「それと、生クリームは一応持って行った方がいいよ。新鮮なのじゃないと上手く作れないから」
「そうですね。冷蔵庫の、貰って行きますね」
茜は冷蔵庫から取り出した生クリームの入った瓶と、美咲から受け取った計量関連の機材をアイテムボックスにしまう。
「うん、頑張ってね」
茜は、厨房を見回して、忘れ物がないことを確認すると、ひとつ頷き、サイモンのところに戻って行った。
「サイモンさん、お待たせしました」
「いえ、それではよろしくお願いします」
「いってらっしゃーい」
その日の午後遅く、茜は疲れた顔をして帰ってきた。
「あ、茜ちゃんお帰りなさい、どうだった?」
「なんとかレシピ3つを教えてきました」
「頑張ったね」
「これ、エリーちゃんにお土産です」
茜はアイテムボックスからケーキを取り出すと、テーブル席に置いた。
ケーキは3種類を一口サイズに成形したもので、見た目に可愛く、美味しそうだった。
「へぇ、可愛いね……エリーちゃん、下りといでー」
美咲の声が聞こえたのだろう、すぐにエリーが二階から下りてきた。
置いてくるのを忘れたのか、片手に緑の色鉛筆を握っていた。
「エリーちゃんにお土産だよ」
茜にそう言われ、エリーはテーブルの上を見て目を丸くした。
「たべていーの?」
「いいよ。小さいケーキだから全部食べちゃってもいいからね」
「たべるー!」
「はい、どうぞ」
エリーがケーキを食べるのを微笑ましく眺めながら、美咲は、ふと、疑問に思った事を茜に尋ねた。
「ねえ茜ちゃん。この可愛いのって、サイモンさんが作ったの?」
「……さすがプロは違いますね。ティーパーティーでは、色々な種類を楽しめるようにしたいって言って、こんな可愛いケーキを作っちゃうんですから」
「へえ、これなら食べやすいだろうね」
◇◆◇◆◇
いつもの日常を取り戻した美咲たちにひとつの変化があった。
「いよいよですね、美咲先輩」
「そうだね。まあ、当面使い道はないんだけど」
美咲のスマホのポイントが貯まったのだ。
コンパスのアイコンのアプリは100ポイント。
そのまま貯めておくという選択肢もあったが、他にアプリが出現する様子もなかったので、美咲は、アプリ購入に踏み切ることにしたのだ。
「それじゃ、購入っと」
スマホの画面にコンパスのアイコンが追加され、ダウンロード中を表す表示に変化した。
「どんな機能なんでしょうね」
「まんま、コンパスなんじゃない?」
アイコンの表示が切り替わった。
ダウンロードが完了したらしい。
美咲は、アイコンをタップして、アプリを起動した。
画面に円が表示され、中に棒状の物がゆらゆらと揺れている画面に切り替わった。
それは、美咲の知識に照らし合わせるとコンパスそのものだった。
「んー、コンパスっぽいね。北はあっちなのかな?」
「ちょっと待ってくださいね、鑑定します」
茜はスマホの画面を覗き込んだ。
しばらくそのままの姿勢で固まっていたが、顔をあげると不思議そうな表情で首を傾げた。
「『希望のコンパス』。コンパスの持ち主が心から望むものを探すコンパスらしいです」
「そうなの? えーと、なんだろ?」
コンパスの針がクルクルと回る
「おー……人探しとかに役立ちそうだね」
「んー、クルクル回ってるだけで、何か指し示したりはしないみたいだけど。えーと、小麦粉が欲しい」
針の空転は止まらなかった。
表層意識で欲しいと願った程度では反応しないのだ。
「使い勝手悪すぎでしょ。砂漠で水がなくなった時なら、オアシスに案内して貰えるかもしれないけど」
「ですね。それで美咲先輩、これ使って何を探しますか?」
茜が楽しげな表情でそう尋ねると、美咲は首を横に振った。
「え? 特に何も。面倒だし」
「うまく使えば色々出来そうなのに勿体ないですよ」
「茜ちゃんももう少しでポイント貯まるじゃない。そういうのは任せるよ。あ、でもテンプレする時は予め教えてね」
「はーい。もう、美咲先輩、欲がないんだから」
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