人魚狩り
少年が女神と接触したのは、産まれて間もない頃だった。間もないとはいえ、夏を一つ過ごしている歳だ。少年は親と海へ行った。そのとき、急に走り出した少年は、何かを見たかのように海へ飛び込んだ。だが、波にさらわれ、少年は瞬く間に姿を消した。親は探しに行こうとしたが、どれだけ海に目を凝らしても息子は見付からない。救助隊に連絡もして、捜索が行われたが、依然として見付からなかった。もう無理だと誰もが諦めた次の日、親は玄関には海草で作られた(海草を編むようにして作られた)籠の中に息子を発見した。海草は乾燥しても人が入っても壊れないほどの強度はない。だが、頑丈な作りの籠は少年をしっかりと抱きとめていた。
それは、海の女神の加護の他なかった。海の女神は少年を家に送り届けたのだ。
少年はまだ幼かったというのに、どれだけ成長してもそのときの記憶を——海底神殿で女神と会い、海草の籠に入れられて人魚に連れられた記憶を——忘れることはなかった。
成長した少年は、時に不思議な夢を見ることがあった。海の女神に名を呼ばれ、聞こえた方向に行くと海の中の図書館がある、という夢を。海の女神の声は美しく、自分の名前を呼ばれたときの心地良さといえば、他に類を見なかった。その夢を見るうちに、少年は海の女神と会いたい、という願望を持つようになった。会って、触れたいと。自分を救い、自分を呼ぶ女神に会いたいと思った。
だが、そのうちに、少年は稼ぎに出ることになった。当時時給が高かった人魚狩りに、だ。少年は女神の使いである人魚を狩り、殺し、肉を売り、時には水族館の見世物として売って、途方もない金を稼いだ。達成感を感じていた。だが、ある時に、気付いたのだ。
〈助けてくれた海の女神は、自分が遣わした者を傷つけられたら失望するだろうか〉
家のためとはいえ、自分でやっていることである。少年は迷いに迷い、その仕事を続けることにした。だが、前のように稼ぐことは出来なかった。人魚を前にして網を掲げると、自分の名を呼ぶ女神の声が響き、手が震えて網を落としてしまうのだ。少年はどうすればいいか考えた。四六時中、考えた。だが答えは依然として見付からず、家族が飢えに苦しむ姿と、海の図書館が交互に脳裏に浮かぶ。気付けば、家族は死んでいた。少年の金もなく、父も戦いの怪我で稼げなくなり、皆餓死していた。
少年は、海へ飛び込んだ。入水自殺を目論んだ。自分のせいで家族が死んだのだ。自分だけ生きていてたまるか、と。少年は海に愛されていたが、そんなことは関係ないと思っていた。何せ、少年は海の使いを殺して、売ったのだから。ぞんざいに扱ったのだから。もう海も少年に愛想をつかしたと思った。心地良い記憶を思い出し、最後は海で終わりたい、そう思って海へ飛び込んだ。
結果。
海は少年に愛想をつかしてなどいなかった。海は変わらず少年を受け入れ、もてなした。そして、地上へ返した。だが、海から帰った後の少年には絶望しかなかった。自分しかいない、仕事もない、生きる術もない。
そんなときに脳裏に浮かぶのは、海の女神と図書館。海の女神に会えなければ、やはり死ねない。
だが、生きるためには人魚を殺すことぐらいしか少年に出来ることはなかった。首を振って、思いを振り払い、人魚を殺す。いつの間にかもうなにも感じなくなっていた。ただ生きるために、無感情に人魚を殺す。それだけの人魚捕獲マシーンになっていた。
少年は怒りをぶつけることもせずにいた。ただ、生きていた。だが人魚を殺して食べた日、夢を見た。
海の女神だった。
女神は少年を見て涙を流し、少年を引っ張って泳いで神殿へ連れて行くという夢を。目覚めた少年は叫んだ。ただ、何も分からず叫び続けた。意味などなかった。もしかしたら、人生を壊させた女神への恨みの叫びだったのかもしれない。夢から覚めた苦しみの叫びだったのかもしれない。だがその理由など、少年には分からなかった。
それからはその夢を毎日見るようになった。
海の女神の顔を見た。
声を聴いた。
触れた。
夢の中だったが、少年はその夢が好きだった。夢だけが救いだった。気付けば、起きているときも夢のことばかり考えていて、目を瞑ればすぐに女神の顔を思い出した。
ある日、少年は人魚を殺した。何でもない、仕事の一つだった。
だが、すぐ横にいた人魚は美しい声で叫び、少年を海に引きずり下ろした。少年は抗う間もなく深海へと引きずり込まれ、視界から光が消えた。だが、深い海の中だというのに、普通に息も出来るし、潰れない。また夢の中にいるのだろうと少年は気にしなかった。そのとき、光がパッと現れた。無数にある巨大な貝殻の中の真珠が淡い光を放っていた。そこでは、少年を連れ出した人魚が静かに泣いているのが見えた。先程少年が殺した人魚の鱗を持って、驚くほど静かに。殺した人魚は、その人魚と深い関係だったのかもしれない。少年も気付けば泣いていた。もう、人魚を殺す気にもなれず、帰る気にもなれず、ただただ泣き続けた。海の中だというのに涙は粒の形を成していた。泣いていた人魚は恐る恐る少年の涙を拭った。人魚は次第に姿を変え、見覚えのある姿になった。
海の女神の姿に。
女神は優しく少年を抱きしめた。安堵か、悲しみか、何なのか。少年は眠り、目が覚めたときには家の——数十年前に親が買った形見とも言える家の——ベッドで寝ていた。
夢なのかもしれない、いや、夢だろう。少年はそう思って起きたが、服は濡れていた。髪も濡れていた。もしやと思い匂いを嗅ぐ。舐めてみる。潮の香りがし、塩辛い味がした。
〈夢じゃないのか〉
少年は確認すると、荒廃しきった家の、物置をあさり、幼い時に助けられた籠を見つけた。
〈海の女神は見捨てなかった〉
愛する部下を殺されているのに、少年を見捨てなかった。少年は溜息を吐いて、籠を撫でた。
今や、少年を愛する者は海の女神のみだった。少年は苦しかった。会えない。会いたくても、会いに行けない。好きなのに、愛しているのに、姿を見ることすらできない。夢でしか、できない。
〈もう人魚は殺さない〉
少年は決めた。死んでも、もし死ぬとしても、殺さないと。だが、時々海へ足を運び、泳ぐ人魚達を眺めた。人魚達は少年を怖れた。近づかなかった。だが、少年は人魚を傷つける気など微塵もなかった。悲しくはあったが、それも仕方ないと思い、ただ眺めた。
〈もう一度海の女神に会うにはどうすればいいのか〉
少年は考えるが、答えなど決まっていた。
少年は海に飛び込み、息を止めた。次第に意識は遠ざかり、海を漂う一つの海草に紛れた。
*
目を覚ませば、そこは海底だった。当たり前のように、息をすることが出来た。目の前には、図書館がある。水をかいて図書館へ行けば、そこには読んでくださいと言わんばかりの人間用の机——人魚用は尾ひれが邪魔になるため背もたれや机の脚がない机だった――に一冊の本が置いてある。読んでみれば、少年の過去と酷似した神話が書かれていた。名前も同じだった。少年は本を閉じて、図書館を探索した。
下の方には、神話のシーンを表す絵が描かれた水色の円盤があり、その周りには鍵のかかった本が円を描いていた。少年の目には、その一つを手に取っている女性が目に入った。女性は少年の目線を感じたのか、少年の方へ目を向ける。そして、微笑んだ。女神は、少年の名を呼ぶ。少年は滑るようにして女神のもとへ泳いで行った。