共生
次話から漸く密室に視点が戻ります
その後、私達は流されつつある街を背に歩き出した。
五日程経った頃私達は漸く違う街へと着いた。飲み食い何て碌には出来なかった。靴ずれと豆、筋肉痛で足はとっくの昔に棒のようになり、頭も碌に回っていなかった。ただ、ただ歩いた。歩かなければならなかった。明瞭な理由も目的地もないままただ留まる事を恐れ歩いた。
そうして辿り着いた街で私達を待っていたのは、救い何てものではない。ただの現実だった。誰も助けてくれない。身寄りの無い子供二人何て、人攫い以外に用がないのは明白だった。働こうとも身寄りがないだけで信用なんてものは得られなかった。その上相方の少女は働くことが出来ない。
私達は川辺の橋桁の下で体を一、二日休ませた。日を跨ぐ毎に体に力が入らなくなり、同時に心が弱っていくのを感じた。結局私達が生きようと逃げた先に安息なんてものはなく、もしかするならば死ぬ場所をただあの高台からこの川辺に変えただけなのかもわからなかった。
少女は私より弱っていることは明白だった。それでも私についてきて今の今まで何ら恨み言を吐かなかった事に幾らか私は救われていた。彼女にとってそれは出来ないことなのかもしれないが。
街について三日目、その日も橋桁の下に私達はいた。雨が、降っていた。橋脚の下へ身を寄せる私達の下へ、増水した水面が迫ってきていた。
私は少女の隣に座って手を取った。だが、あの日のように歩き出すためではない。
「疲れたわね」
そう、とても疲れた。何故あれ程までに必死にあの濁流から逃げてその後この街まで来たのか、今となっては不思議だ。これ程までに辛くてこれ程までに無意味だったと端から知っていれば、とても出来たことではない。
「とっても」
少女もそれは同じなのか、間髪入れずに言葉を返してきた。
「もう歩きたくないわ」
「それは同意」
私は一度口を開いて、次の言葉を言うか迷って一度閉じ、そして悩んだ末に口を開いてその言葉を発した。
「じゃあ、死のうか」
私の言葉に少女は力なく笑った。
「あの日の再現だね」
私はそれに是と答える。少女の言葉通りだった。あの日あの時の再現だ。あの日と同じように水が人を殺そうとしている。恐怖感はあった。薄ら冷たい水が足を濡らした時、怖気が立った。けれど逃げ出すのにはあまりにも疲れていた。
「二人ね」
二人。あの日何千もの人間が死んで、生き残った二人。そしてあの日、片方は生きる事を諦め、片方が死ぬのを拒絶した二人。そして、今此処で死のうとする二人。
「うん。二人だ」
互いに続く言葉は持ち得なかった。水嵩を増す川。流れは既に私達を流す程の勢いとなっている。後少しで、あの日の街の皆のように……。
水面を走る音。幾人もの人を殺したあの水をかき分ける音が聞こえた。だが、私はその方向へ顔は向けなかった。
「お前達、死ぬ気か」
声をかけられて漸く顔を上げた先には雨で濡れた青年が立っていた。
「ええ」
「そうです」
二人して答える。それを聞いて青年は哀れんだような、悲しいような、兎角複雑な表情を僅かにした後に、小さく笑った。
「ある勝負の参加者を募っていてな。お前達やる気はないか。勝てば金が手に入る」
その言葉を聞いて、私は先日少女の父親から言われた言葉を思い出した。逃げて欲しい。それは何も父親は洪水から逃れればいい、そういった意味で使ったのではないはずだ。生きて欲しいという事に違いない。
「やる」
ならばやらない理由はない。否、やらなければならない。
「お前は?」
青年は少女に尋ねる。少女は僅かに口角を上げた。笑わせるな、とでも言うように。
「……嗚呼、えーと、やらない」
その返答は酷く気の抜けた言い方だった。少女が答えてから二秒程、青年は言葉を喋らなかった。痛い程の無言。川と雨の音が煩いと思える程の無言。
「そうか。ではお前、着いて来い。今人数が一人足りなくてな。借りてある部屋で残り一人が揃うまで生活してもらう」
青年にとって、少女との会話は終わったらしかった。
「待って、待って」
私はこの場から立ち去ろうとする青年へ言葉を投げ、少女へと対面した。
「私と一緒に勝負を受けなさい」
「……勝負で勝つのは無理だよ」
相手はわからぬが、確かに少女が何かしらの勝負で勝つのは難しいだろう。だが。
「挑まなければ死ぬのよ」
「……受けたら生きながらえるの? ねぇ、勝ったらどれくらいのお金が貰えるの?」
その質問に、横から青年が答えを返す。
「詳しい額は決定していないが、当面の暮らしに困ることはないだろうな」
「……ね? 結局変わらない。今日死ぬか、勝負の後死ぬか、或いはそのまたちょっと後か」
少女が言うが、それは詭弁と言えた。そんな事を言い出せば結局人はいつか死ぬんだから。
「取り敢えずは生きられるのよ。その間遊んでるわけじゃない。次の事を――」
私の言葉を遮って、少女は言葉を放った。
「…………嗚呼、それは全部、貴方が勝って賞金を得たという前提でしょう。私がいれば負ける。言葉は選ばなくていいよ。分かりきってる。私ってお荷物でしょ」
それは否定しなければいけない言葉だった。頼まれたからとはいえ私が彼女をあの街から連れだした。そして今日この日まで一緒に生きよう何て無責任な言葉で連れ回した。辛い思いをさせた。故郷で逝くことすら出来ず異郷の地で
彷徨うだけだったこの幾日か、それでも少女は何一つ私に恨み言を垂れなかった。一人ではない、この事で私は少女に幾度救われたか数えきれなかった。家族が消えても故郷が消えても、私にはやらなければならない事があるお陰で今日この日まで生きてきた。付き合わせた誰かがいたお陰で死ねなかった。
だが、本当に、否定しなければいけないような事だったのに、私は彼女を荷物だと思ってしまっていた。思う度に幾ら心の中で否定してもそれは幾度と無く私を追い詰めた。手に入れた数少ない食料や水を二人で分ける。少女は元々働きに期待できないのに今や更に弱り切っていて一人では何も出来なかった。物理的に考えれば私一人ならまだ生きられる、そう思ってしまう事が、あった。
「そこら辺にしておけ」
無言の間を終わらせたのは、青年だった。
「死ぬ気云々ではないだろ、お前」
青年は少女にそう言うが、私は何のことだかわからなかった。
「勝負を受けなくてもお前らを陸地まで誘導するつもりだったが、その気が失せたのはそいつのせいだ。おい、聞こえているか」
返答を求められて、少女はすぐ答えなかった。私は少女の肩を揺する。
「……嗚呼、何の話だっけ」
少女の一言で、私の思考は一瞬停止した。その言葉を言うに至った理由を脳内で探す。疲れていて聞いていなかった? 一瞬眠りについていた? 否、違う。これは。
「意識を失いかけている。もう眠れ」
青年は外套の中から拳銃を取り出した。私は青年の前に立ち塞がる。
「勝負はしないんだろう? もうそいつは保たない。楽にしてやれ」
青年にそう言われても、一歩も動きなんてなかった。例えその手に拳銃が握られていたとしても。
少女は既に死にかけている。低体温症、脱水症、栄養失調症、理由は幾らでも考えられる。だが、それでも今此処で死なせるわけにはいかない。認めよう。確かに少女はお荷物だった。だが、それでも私は二人であったからこそ今生きているのだから。
「出る、出させる。何としてでも」
返答を聞いて、青年は僅かに迷う素振りを見せた。そして青年が何かを言おうとした瞬間、僅かに波が来た。その波は立っている私の体勢を僅かに崩す程度のものだった。とは言っても膝すら付かない程度の波。だが、それでも十分なはずだ。体重の軽い少女を押し流す程度の事は。
私は振り返る。少女は水中に倒れこみ波に攫われようとしていた。私は後先を考える暇何てなく――もしかすれば、無意識に少女と死のうとしていたのかもしれない――ただ少女を手に掴まなければならないと少女の方へ飛び込んだ。そして流されつつある少女の手を掴む。後は体を立て直せばいいだけだった。だが、それが出来ない。流される身を止めようとも近くに掴めるものは無く、踏ん張ろうにも四肢に力は入らなかった。深さはそれ程でもないが、流れの速さと崩れた体勢が致命的だった。
死ぬ、そう明確にその瞬間思った。そして私はそれに恐怖した。苦しかった。暗かった。冷たかった。不自由だった。己の無力が恐ろしかった。
そうして我武者羅に伸ばした私の手を掴む者がいた。掴まれた私の腕は引っ張られていき、気がつけば私の体は川底を引き摺られる程になっていた。私はそこでやっとの事で起き上がる。引っ張っていたのは青年だった。そしてお互い無言のまま少女の肩を担ぎ川岸まで運ぶ。安全な場所まで行ったところでとうとう私は力尽きて倒れこんだ。
そして、気がつけば見知らぬ部屋で少女と一緒に寝ていた。暫くの後、その部屋に訪ねてきた青年の口から自分たちが最後の参加者として助けられこの場に連れてこられた事、体力が回復次第勝負が行われる事を聞いた。