生存
この「3/5」が恐らく全体の章で一番長いです。後四話くらい続きます。
高台まで来た時、遠くから低い地響きが聞こえた。
「なに、この音」
「地震、って、やつじゃ、ないの?」
私の疑問に、少女は言葉を小さく分けながら答えた。そうして喋り切ると同時に彼女はとうとう地面に倒れ込んだ。仰向けになり天を向く少女に倣って私も空を見た。空は今半分を雲が覆い、もう半分が晴れていた。
「地震って何?」
「地震は、地震だよ。何でも、極稀に、地面が、揺れるとか。私も、聞いたこと、しか、ないけど」
私は少女の言葉を信じることが出来なかった。私は視線を眼下の家々へと向けた。この中に私の家もある。もし、地面が揺れるとなったら石造りの建物なぞ崩れ去ってしまうだろう。それに、今でも地響きは続いているが地面が揺れているようには感じなかった。
「それ本当?」
「父さんが、そう、言っていた」
私は彼女の父親を思い出す。去り際に背中で聞いた言葉は、確かにその手の知識に長けた人間と思える会話だった。
「地面が揺れるね、そんな事があり得るのかし……」
言葉尻は消えた。眼下に広がるその光景に戦慄したからだ。
家が、家々が、街が、水に飲まれていく。凡そ見たことがないような莫大で暴力的な水が、ついさっきまで広がっていた街を西から東へ消し去っていく。言葉は浮かんでこなかった。ただただ、私が出来ることは傍観のみ。私の丈の三倍か、それ以上の濁流が低い家を飲み込み高い家々の合間を這う。その間、不気味な地響きはずっと続いていた。
「あああああああああああ!」
絶叫が終わって、眼から涙が溢れてきて、漸くその絶叫が自身が発したものだったと気がついた。
「何? どうしたの?」
地面に横たわって天を向く少女は状況が把握出来ていなかった。その事を一瞬、私は羨ましいと思った。眼前に広がる暴力的な破壊を見ずに済んだのだから。
「酷い、酷い光景よ」
「光景? はは、見れないのに面白いことを言うね」
その異様なまでに場にそぐわぬ言葉に私は苛つかなかった。彼女は致し方あるまい。どの道、上半身を起こす元気もないだろう。
「貴方の身丈の数倍の高さの水がね、来たのよ」
「それ本当?」
少女の声音に冗談を言っているような雰囲気はなかった。少女にとってはそれは理解が出来ない程の異常事態なのだ。そりゃそうだ。私だって今此処で見ていなければ到底信じられうような事ではない。
「ええ。揺るぎない事実よ。ねぇ、此処に私達しかいないけどさ、これって、どうすればいいの?」
酷く間抜けな質問をする。今この高台にいるのは私達だけ。二人なのだ。誰もいなかった。私の家族も少女の家族も親戚も知り合いも他人すら!
「……誰も?」
「誰も。そうね、説明してあげましょう。街はね、今正しく流れ去っているわ。恐らく誰も助からない。あの濁流の中で人は生きられない」
それは自明の理であった。あれ程の莫大な水と瓦礫と土砂の中で人が生きられるわけがない。圧死か溺死かは知らないが事確実に死ぬ。
「皆、死んだの?」
「でしょうね」
自身の目尻からは未だに涙が溢れてくる。だが、幾らか心には余裕が出来た。それはきっと目の前の現象を理解しきっていないからだが、兎角私は余裕があった。
「そっか」
少女の言葉はそれだけだった。それで私の余裕は幾らか増えた。
「貴方の父親も母親も間に合わなかったのね」
「あーーーーーー。それは、困ったなぁ」
そしてその余裕は、少女の一言で消え去った。ぞわりと怖気だった。背筋が粟立つ。それは冗談のようで、ともすれば無垢で、正しく少女の心情そのままで、同時に恐ろしい迄の現実だった。
「ねぇ知ってる? 飲まず食わずなら人って七日も持たないらしいよ」
少女の口から何でもないように紡がれるその言葉こそ現実。ただその声音に現実味という名の危機感がなかっただけで。私達は着の身着のまま食料も飲料水もない。井戸は濁流の底にあり穀物や肉は流された。
「終わりだね。ねぇ、教えてほしいんだけど」
「何よ」
眼下ではとうとう街の全てが濁流に飲まれた。
「此処の周りって、どうなってる?」
「どうって、街から少し離れた高台で、周りは草が生えていて、北にある街は全て濁流に飲まれて……」
聞いていた少女は顔を少し歪めた。
「お伽話では最期の時って緑葉の森や神秘的な教会なんかだけれど、現実って上手くいかないんだね。まぁ、私としては上出来かな」
「最期?」
「私はね、無力なんだよ。無力。無力無力無力無力!」
その言葉は大声ではなかったものの、少女の本心の現れであったと容易にわかった。
「私には何も出来ない。今死ななかっただけでどうせ直ぐ死ぬ」
それは確かにその通りだった。この少女は何も出来やしないだろう。だから地面に寝そべったまま周りの風景を尋ねたのだ。少女は一歩も此処から動くつもりなぞない。此処で死ぬ気なのだ。
「そういうわけだから。今までありがとう。そしてさよなら」
少女は元々薄くしか開けていなかった瞼を完全に閉じた。未だに整いきらぬ息のせいで大きく上下する胸元以外は、まるでお伽話で出てくる眠りの姫のようだった。
少女は諦めた。では、私はどうしようか。先少女と此処まで走った時に分かったように、私のほうが体力はある。少女の方が知識はあるかもしれないが私のほうが年長だ。それにきっと街についても詳しいだろう。今は濁流の中にあるが、それでも水が引けば幾らかの食料や水を探せる。
そこまで考えて、私は頭を振った。違う、そうではない。例え数日分の水や食料を得たところでどうする。死ぬまでの時間が幾らか伸びただけでは……。
「ばっかみたい」
私の言葉は、生きる事を諦めた少女に向かられたものではなかった。他の誰でもない、自分自身に向けたものだ。一体いつまでこんな事を考えているのか。問題は全く其処ではないのに。何もこの後食料を探す事を考えるのが先決ではない。その有用性について考えることでもない。今決めなくてはならぬ事は偏に一つ。此処で死ぬか、何処かで生きるかの二者択一。
私は少女の隣に腰を下ろし、そうして寝そべった。視界の先には青空と雲が広がっている。
「貴方も死ぬの?」
少女がそう尋ねる。答えは決まっている。
「いいえ。生きる」
そうして寝そべったまま手を伸ばして少女の手を取る。驚いたように離れる手を逃がさないよう強く握りしめた。
「私だけじゃない、貴方も」
少女の両親から私は確かに頼まれたのだから。