泡沫
「3/5」は三番目線、離れた街の二週間前から始まります。
§三番§
――二週間前、幾らか離れた街にて。
その日の明け方、私は未だ薄暗い空を眠たげな眼で自室の窓から眺めていた。理由何てない。偶々その時、連日の雨のせいで早く寝る生活となっていたので早く目が覚めただけだった。
窓から覗く空は大部分が灰色だったが、遠く遥か水平線の彼方に僅かながらに青空が顔を覗かせているのを私は確認した。私は窓を開けて外へ腕を伸ばした。手のひらに落ちるものはない。とうとう雨が止んだのだ。その事に私は胸が踊ってすっかり目が覚めた。自室から出て両親を起こさぬように玄関を潜り街へと繰り出した。
玄関から外へ出て一歩目、私の耳は水面を跳ねる音を聞く。やってしまったと後悔して足元を見るに、大きな水たまりに勢い良く突っ込んだ右足はもとより左足まで跳ねた水でびしょ濡れとなっていた。しかし、私の気分が深く害される事はない。久方ぶりの晴れの兆し、誰もいない早朝の健やかな空気の中となれば、いっその事水たまりを気にせず歩けるようになったと前向きに考える人間だからだ、私は。
私は上機嫌で、それこそ水たまりも何のそのと家々の合間を走る道を歩き続けた。都合五分と歩かぬ内に今度は自身の服装が野暮ったい寝巻だと気づいた時は、流石に少し落ち込んだが。
兎角私は歩き続けた。それ程長い時間ではない。薄暗い空が夜明けを前にして明るくなってくる程の時間を歩いた頃、私は三人を見かけた。夫婦と思われる大人の間に、娘と思われる一人の少女が両手を繋いで歩いていた。私は少し楽しかった。それは仲睦まじい親子のようだったから。ただ、私のほうがばつが悪かった。びしょ濡れで寝巻姿だからあまり人に見られたくない。私が踵を返そうとした時、向こうも私に気がついた。そして向こうも何故か踵を返そうとした。それが少し気になって、私は踵を返すのを止めた。
踵を返そうとしたのは両親と思われる二人で、二人の間を歩く少女はそれに明らかに対応できずに体勢を崩していた。私はその理由が気になって、先の恥ずかしさも何のそのと三人へ駆け足で近づいていった。
近づく最中、すっかり中に水を湛えた靴の中で、足が水を遊ばせる音と感触が少しばかり気持ちが悪かった。
「おはようございます。良い朝ですね」
此方に背中を向けた三人へ声をかける。振り返るのは左右の二人。会釈と共に挨拶を返してくる。中央の子は両手を繋がれたままなのでこちらを振り返れなかったようだ。私は三人の前へと回りこんだ。ここまでくれば意地である。久方ぶりの外出で、こんな早朝に会えたのだ。顔を合わせて挨拶しても何ら罰は当たるまい。
「おはよう」
間近で見る少女は今年十七を迎える私より一つか二つ幼いように思えた。肌は白い。左右に立つ両親の肌は特別白いわけではないので、遺伝というよりは生活習慣によるものだろう。となると早朝のこの時間に散歩をする理由も幾つか察しが付く。体があまり強くないと見えた。
「おはようございます」
少女は挨拶を返してくれた。だが顔を見て言ったわけではな。私の足元へ顔を向けて瞼も薄く開いているのみだった。眠いのだろうか。
「では」
それだけ言うと父親だろう男性は歩き出す。釣られて母親、そして娘と続いて私の横を通り過ぎて行く。私はその場に立ったまま、後ろを振り返る。石畳の街道を歩く三人。その背中に不自然な点がない。異様な程に。背丈も歩幅も違う人間が、手を繋いで歩いているというのに父親が先行してしまうことも、娘が遅れてしまう事もなく、ゆっくりと、だが確かに同じ速度で歩いて行く。
私は肩を竦めた。どうやら、仲睦まじい家族の団欒を邪魔してしまったようだった。
私は三人とは別の方向へ歩き出す。街の北側まで来たので丁度いい、折り返して自宅に戻ろう、そう、考えた。
一陣の風が頬を撫でる。私は立ち止まって顔を上に向けた。空を眺めれば雲が足早にかけていき、西の彼方に明け方見えた青空はその面積を増やしていた。
「おい!」
背後から男性の声が聞こえた。振り返ると先の父親と思しき男性が、こちらを向いていた。私は自身の左右と、ついでに前も見た。勿論誰もいない。
「君だ、君!」
男性はそういうと側に立つ母親と思しき女性と何やら話し始めた。その間、先の少女は手持ち無沙汰に突っ立っていた。私は呼ばれたからにはしょうがなく駆け足で三人の元へ近づいていった。やはり靴の中に水があるのは気持ちが悪かったが。
「どうしたんですか?」
近づいて尋ねる。女性はそれ程でもないが、男性の程は痛く焦っているようだった。
「娘を連れて逃げて欲しい。南の方向、あの高台までだ」
男性が指差すのは街外れにある高台だった。利便が悪いので人は住まず、ただ原だけが広がっている場所だ。
「否、それでも足りないかもしれない。時間が許せばそれより遠くだ」
一人捲し立てる男性に訝しく思うのは私だけではないようで、女性の方も怪訝そうな顔をしていた。
「何もそう焦ることはないんじゃない? 確かに妙ではあるけれど……」
言葉尻を濁しつつ女性は男性に問う。問われた男性はより一層の焦りを見せて自身の娘を見た。私もそれにつられて少女を見る。両親の焦りや疑問等に口を挟まないではいるが、少女の表情に多少の混乱と幾許かの不安が見て取れた。
「お嬢さん、川を見ろ」
男性が私に向かって言う。私はそう言われて近くの石塀へと足を向けた。そして、その先に広がっていた光景に私はしばしば言葉を発するのを忘れた。
街の北側には川が流れている。私がいる石塀から然程遠くない場所を、川が。川幅もそれなりにあり、この街の生活にはかかせない大切な水源の一つだ。だがその川は今、殆ど水が流れていなかった。この連日雨が降ったのにも関わらず。
私は石塀から離れる。そうだ、これは女性の言う通り妙だ。そして、恐らく男性が言うとおり、此処から離れなければならない事だ。
「あなた方は」
私は言外で彼の頼みを受け入れると表明した。
「周りの家々に避難を呼びかける」
その返答を受けて、私は少女に近寄る。
「その子は」
「娘を、頼んだ」
女性が何かを言いかけたが、それを遮る様に男性が言葉を発した。
私は少女の手を取る。突然のことに驚いたのか、手を引っ込めようとする少女の腕を強引に掴む。
「行こう」
そう言って少女を連れて私は駆け足で南へと向かい始めた。背後では未だ、少女の父親と母親が話しているのが聞こえた。
「娘を知らない子に預けるのはいやよ」
「分かってくれ時間が……」
「……時間って一体」
「……上流…………」
少女を連れて歩き続け、少女の両親の声が聞こえなくなって、少女の吐息がとてもうるさくなってきて、最後にとうとう少女が走ることが出来なくなって私達は立ち止まった。背後を見れば家々が立ち並び、もはや元いた川の側の道は見えなくなっていた。道の左右に民家は殆どなかったが、高台にまだ上がったわけではなかった。
「貴方、“それ”だけじゃなくて体力もないのね」
少女にそう言う。私も息が切れていたが、それでもまだ走れる。だが少女はそうはいかないようで、大きく息を吐きながら立っているだけで精一杯のようだった。
「体は、弱くはないんだけどね」
前かがみで膝に手をつけながら息も絶え絶えに少女が言う。私はそれに少し笑った。
「既に走れないのに説得力ないわよ。それで、歩ける?」
「無理、だって、言ったら?」
「死ぬわよ。仲良くね」
半ば冗談、半ば本気で言った。背後で聞いていた少女の両親、それも父親の言葉を思い出す。この現象は此処より上流で谷間などを土砂が塞ぎ一時的に水を堰き止めているせいで下流に水が流れていかなくなっている為に起こっているらしい。そして水を堰き止めている土砂は非常に脆い為、何らかの拍子に一気に崩れ、大量の水と土砂が下流へ押し寄せる。
初めて聞く現象だが、道理は通っているし、それに大雨の後は決まって大量の濁った水を流していた川が今殆ど水を流していないとなれば、上流に多量の水が存在しているのは確かだった。勿論、実際に少女の父親がいう事が全て事実で、大量の水がこの街を襲ったとしたらどれ程の被害が及ぶのかは分からないが。
私は立ち止まったまま後ろの町並みを眺めた。そう、被害の規模は分からない。川が少し氾濫する程度でこの逃避行に何ら意味が無いのかもしれないし、もしかすればこの場所全てが水で覆われるかもしれない。
「それは、困る、かな」
少女はそう言って私に手を伸ばした。少女のエスコートは、私の役目だ。