伝説の魔導師が「二度寝」に命をかける理由――それは、前世と今世の過労の果てに
隠れ家の外では、相変わらず「エルンストを聖人化する派」と「恐れる派」が騒がしいが、結界の中は今日もミカンの香りと、コタツの温もりに包まれていた。
ふと、メルティがコタツの中で丸まりながら、素朴な疑問を口にした。
「……エルンスト様。前から気になっていたのですが。……あなたほどの魔力があれば、世界を支配することも、贅の限りを尽くすことも簡単だったはずです。なのに、どうしてそこまで『何もしないこと』に執念を燃やすのですか? 報酬(不労所得)を得るためだけに、これほど高度な魔法を組み上げる情熱は、どこから来るのです?」
メルティの問いに、エルンストは魔法の手に頭を撫でさせながら、遠い目をした。その瞳には、現在の自堕落な生活からは想像もつかないような、底知れない疲労の色が浮かんでいた。
「……メルティ。君は、自分が死ぬ瞬間のことを考えたことがある?」
「えっ……? 聖女として、常に死は隣り合わせでしたけど……」
「僕はね、覚えているんだ。この世界に生まれる前……『前世』という、魔法も何もない異世界で、僕はただの『歯車』だった」
エルンストの声は、静かに、そして重く響く。
「……そこでは、朝から晩まで、光の届かない四角い部屋で数字と戦っていた。上司の怒声に震え、睡眠時間は三時間、食事はコンビニの冷めたパン一つ。休みなんて概念はなくて、ただ会社という巨大な怪物を生かすために、自分の命を削って捧げていたんだ。……そして、最後はデスクに突っ伏したまま、誰にも看取られずに息をひきとった。三十歳にもなっていなかったよ」
メルティが息を呑む。
「……死ぬ間際、僕が何を思ったか分かる? 『次は、絶対に、動かない』。それだけだ。それが、人生を使い果たした僕の、唯一にして究極の呪いだった」
エルンストは、コタツの布団をぎゅっと引き寄せ、自分の体を守るように丸まった。
「……なのに、この世界に転生したら、今度は『救世主』なんて呼ばれてさ。幼い頃から魔導の才能を見出され、十代の全てを、魔王討伐と戦争に捧げさせられた。血と泥にまみれて、一〇〇万人を救ったけれど……。僕自身を救ってくれる人は、一人もいなかったんだよ。戦いが終わった瞬間に『次はいつ動ける?』『次はどこの国を救う?』……。誰もが僕の『労働』を当たり前のように欲しがった」
「…………」
「僕はもう、二回分の人生を使い切るほど働いたんだ。前世では社畜として、今世では英雄として。……だから、この三度目の人生(引きこもり)だけは、僕のわがままを通させてもらう。……たとえ世界が滅びたって、僕は二度寝をするよ。それが、二つの人生を捧げた僕への、唯一の正当な『報酬』なんだ」
メルティは何も言えなかった。
彼が「怠惰」なのは、性格が曲がっているからでも、才能を無駄にしているからでもない。
世界中の誰よりも「頑張りすぎてしまった」魂が、ようやく見つけた安息の地なのだ。
「……エルンスト様。……私、間違っていました。……あなたは怠けているんじゃない。……世界で一番長い『休暇』を、今、過ごされているのですね」
「……休暇か。……いい響きだね。……じゃあ、その休暇をさらに充実させるために……メルティ、ミカンもう一個剥いて。……皮を剥くという指の運動すら、今の僕には過酷な労働だから」
「……はい。喜んで、一生分剥かせていただきます」
聖女メルティは、深く深く頷いた。
彼に心ゆくまで二度寝をさせること。それこそが、国を救うことよりも、魔王を倒すことよりも尊い「聖女の使命」なのだと、彼女は確信した。




