第9話 世界が排除にかかる
真紅の扉から戻ってきた“もや”は、空気の中に溶けるように一度霧散し、しばらくしてから、そっと人の輪郭を形作った。
声はない。あの原作者と言えども、言葉が、出てこないのだろう。
「……次は……北の国にでも行ってみようかな!」
「……」
わざとらしいほど明るく振る舞う原作者に、私は何も言えなかった。返す言葉を持たない。ただ、沈黙が続く。
「北国はね、動物がみんな真っ白なんだ。豪雪地帯だけど、作物がまったく育たないってわけじゃなくてね……ずっと前から、一度行ってみたかったんだ」
「……わかった、わかったから」
口調は軽やかだが、どこか無理をしているように聞こえた。
お互いに、もう気づいているのだ。“どこ”が危険で、“どこ”なら許されるのか――。
10回目までと11回目までに対する明確な“目的”の違い。
次の目的を“意図”した瞬間に、扉が現れるという法則。
そして、世界が“拒絶したルート”を選ぶと、代償のように血の色をした扉が現れるという法則。
確かめるためだけに、原作者は「北の国に行く」と言った。
12回目――真紅の扉。
13回目――「南の国には貿易が盛んで、そこから海外にも行けるんだ。行ってみたいね」……赤黒く、まるで血に濡れた扉。
14回目――「西の国との国境には大きな長城があるんだ。通行ができないわけでもないけれど、通行手形の発行がちょっと煩わしくてね。行けなくはない」……わずかに色褪せた紅の扉。
15回目――「西の国との国境付近を旅行してみたいね」……ようやく現れた、柔らかな“光”の扉。
赤い扉の先は、例外なく“地獄”だった。
とりわけ13回目の、“海外に行きたい”と願ったときに開いた扉の先は……筆舌に尽くしがたいほどだった。
言葉での表現が、そもそも許されていないかのような死に方。
超常とも呼べる異常な現象の果てに、エリンは七歳の誕生日すら迎えられず、文字通り跡形もなく消えた。
だから、15回目は“夢”のようだった。
11歳でロイシス家を抜け出し、国境付近の草原で遊牧民にまぎれて暮らした。
馬を駆り、狩りをし、羊と戯れる穏やかな日々。誰もエリンの命を狙わない、はじめての“普通”の人生。
エリンはただ静かに、草原に溶け込んでいた。
だが、二十歳を過ぎたある日。
エリンは、ふとした思いつきのように、西の国の長城を越えようとした。正規のルートではない、半ば亡命のような越境。
国境の見張りは甘く、風は背を押し、天気は申し分なかった。
誰も止めない。誰も気にしない。……最初のうちは。
――エリンが長城を越えた瞬間。
青空は、急に闇に変わる。
まるで写真のネガに変換されたかのように、景色のすべてが反転する。
風が止み、鳥の声も、草が揺れる音さえ消える。
まるで世界が凍ったかのようだった。
静寂の中で、エリンは地面に貼り付けられた。
何者かに押されたわけではない。ただそこに、逆らえない“圧”があった。焼けた鉄球に全身を押し潰されるような、重さと、灼熱。
――動けない。
手も、足も、まばたきすらも。
叫ぼうにも息は肺から出て来ない。
皮膚が灼けるように裂け、骨が軋み、内臓がきしむ。
視界が白く染まり、思考が千切れ、感覚が一枚ずつ剥がれていく。
“お前が裏切ったのだ”と言わんばかりの――まるで13回目の扉のように、エリンはこの世界から削除された。
* * *
15回目から戻る扉の色は、真紅だった。
行きは通常の光の扉であったにも関わらず、反抗的な態度を咎めるように色を変えた。
「……なんで、あんなことしたの?」
15回目の穏やかな生活を捨てて、寿命を迎えようとせずに越境しようとしたこと。
つまり“光の扉のまま、国外逃亡はできるのか”を試そうとしたこと。
私の問いに、空間を漂っていた“もや”が、ふわりと反応した。
風船のように膨らんだかと思えば、ロケットのような形になり“もや”を引いて――尾を引いて飛び回る。
縦横無尽、気まぐれで、つかみどころのない粒子。けれど、そのパラパラと散る軌跡には――どこか、穏やかな呼吸のようなリズムがあった。
「すごく楽しかったんだけどね、あのときは……」
原作者の声は、音として響くのではなく、頭の奥にふと染み込んでくるような気配だった。
のびのびとした時間を思い出すように、優しく、どこか遠くを見つめるような調子。
これまでの地獄に比べれば、本当に幸せだったのだろう。
「でも――エリンは繰り返しの間、最長で20歳までしか生きられないんだ。そう、創っちゃったから」
15回目は、あの生活だったのだから、もしかしたら穏やかに死んだのかもしれないし、本当に不慮の事故で死んだのかもしれない。
でも、それを捨てて世界を暴こうとしに行った。
創造者の意地なのか、エリンと私に対する罪滅ぼしなのか。
この“狭間”のどこかで、ぽつりと灯る微かな形――私自身の“もや”は、以前よりずっと輪郭がはっきりしていた。
手のかたち、足のかたち……少しずつ“九條麻乃”の形を思い出している気がする。
「……そっか」
自分らしくなった手を眺めながら、小さく零した。
私の返事に、原作者は何かを考えるように、一瞬だけ静止した。
「ねぇ、あなたは、原作者なんでしょう? ああいうシナリオになるって、予想できなかったの?」
ふぃ、と顔を上げて原作者の“もや”を見つめる。
「うん。できなかった。……私は死に戻りに関しては“100回目を盛り上げるためのもの”として扱ったから。盛り上がらない話は、たぶんこの世界に拒絶されるんだと思う」
「……海外に行くことが……盛り上がらないってこと?」
「うん。そうだね。外に行くと、何かが欠けちゃうんだろうね」
原作者の“もや”は、空高く上がるとまた尾を引いて、ぐるぐると旋回する。
ひとしきり旋回すると、ゆっくりと降りて私の左の手のひらの上に収まった。だいぶ“もや”を振り落として来たようだ。
「私が“次はこうしよう”って決めない限り、扉は出てこないんだよね」
「あなたが、決めてるの?」
指先でつつくと、“もや”はくすぐったそうに身を捩る。
「うん、私だけ。言葉にしなくても、“こうしよう”とか“こうかな?”と思った瞬間に出る。……心が、この世界とつながってる。そんな感じ」
「つながってる、って?」
「……前にも言ったかもしれないけどさ。私より高次元なツキナミな存在が、私を物語の外からぶち込んだんだよ。私が創った世界だから私が一方的に変えられた、けど今は双方向どころか逆方向だ。私が“変えよう”とすると、世界は拒絶してくる」
“ツキナミ”の話になると、原作者は不審な動きをしたり、小刻みに動いたり、早口になったり。とにかく「伝えられない」を全力で表現してくる。
私はふっと視線を落とし、目を閉じた。
「……ねえ、少し、休もう?」
私の声に、手のひらの上にいる原作者は不安そうに震える。
「……あんなのは……そうね、見るのも、疲れたのよ」
「そっか。それもそうだね、ごめんね」
原作者は、ふわりと空気にとけるように柔らかくなって、ゆっくりと私の周囲を漂いはじめた。
光のない、静かな狭間。時間の流れもない、真っ白な空間のなかで、ただ“いる”ということだけが、確かだった。
……体験しているのは、原作者なんだから、疲れたなんて言葉は私が言うべきものではない。
15回目、私は原作者が戻ってこない不安を覚えただけなのだ。あの幸せな生活が、ここに戻らせない気がしてしまった。
エリンが死なないことに、恐怖した。
“ツキナミ”の意思が原作者をここに連れてきたのならば、“ツキナミ”は連れ去ることだってできる。
――いや、99回が終われば、原作者は……。
今の私には原作者しかいない。でも、原作者には私以外がいる。
原作者が幸せな世界を見たい。でも、ここ以上に幸せだと思ってほしくない。
醜い矛盾の子。
「どうせ時間の流れがあるわけでもないしね。ゆっくり、しようか」
原作者の“もや”がそんな私を包み込む――その心地よさに私は意識を手放した。
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