第8話 血の海(※残虐な表現あり)
血やスプラッタ表現が嫌な方はご注意ください。前半の二人のパートは平和です。
後半お気をつけください。
「ふんふんふん〜♪」
「……上機嫌ね」
何もない、白く霞んだ“世界と世界の狭間”に、いつもの“もや”が2つ。
1つは人の形をとった私の“もや”。
もう1つは、直径1メートルはありそうな巨大なドーナッツ型をしていた。
どこか懐かしい童謡の鼻歌を奏でながら、ゆらゆらとドーナッツは揺れる。
「へへっ、そりゃあね。次は“家出する回”だから! ロイシス家にいるよりはずっと安全な気がするし、期待しちゃうよ!」
ドーナッツ型の“もや”は、ゆっくりと浮かび上がると、ふわりと私の頭上に来て、そのまま重力を思い出したかのようにゆっくり落ちてきた。
どうやらこれは浮き輪をイメージしているらしいが、実際には“もや”だから手応えはほとんどない。
だが、それでも原作者が嬉しそうにしているのが伝わってきて、私は仕方なく、その浮き輪に身体を通して腰のあたりまでずり下ろしてみた。
「海がある国はね、設定上は隣国にあるんだよ。エリンがいるナロウス国は大陸の中央にあって、国境全部が陸でさ」
「……そういえば、そんな設定あったわね。小説の中じゃほとんど触れられてなかったけど」
私がそう返した瞬間、“浮き輪”……もとい原作者がくるくると宙に浮かび、まるで導かれるように上昇していく。
それに引っ張られるかのように、私の身体もふわりと宙に浮いた。
「ちょっ……ちょっと待って!? 浮いてる!? ねえ! 怖いってば!」
足元がスカスカになる。腕をばたつかせても支えるものがなく、頼れるはずの“浮き輪”も、握った瞬間にホロホロ崩れていく。
「浮かべるって思えば浮かべるよ、ね?」
「知ってるけど! 人の形をしていると、知っていても怖いの!!」
私の悲鳴を聞いて、“浮き輪”だった原作者は申し訳なさそうに、というよりは気まずそうに、少しずつ高度を下げていった。
やがて、私の足の下に“地面らしきもの”があるという感覚が戻ってきて、ようやく心臓の鼓動が落ち着く。
「はぁ……あなた、ちょっと自由奔放すぎるのよ……」
表情もない“もや”に向かってそう呟くと、原作者の“もや”から反省が伝わってきた。
なんとも言えない気配の揺れ方で、わかってしまうのだ。
であれば、先程の焦りも伝わっていたのだろうと思うと、少しだけ悔しい。
「ごめんよぅ……。海に行けるって思ったら、つい……」
はしゃぎすぎて怒られた犬のような声色で原作者は言う。きっと、この浮かれた調子が続くうちは、ロイシス家のような悪意の渦からは遠ざかれる――そう思いたかった。
「……次はさ、私のことなんか気にせず、のびのび海で楽しんできなよ」
「いや、それは無理かなー。むしろ、100回目のために行くんだよ。安全なルートがあるなら、それを“使える”ようにしておきたい」
浮き輪の形だった原作者の“もや”は、するすると形を崩して、今度は丸いビーチボールのような球体へと姿を変えた。まるで「遊びに行こう」と言わんばかりに、弾むように宙を跳ねている。
「そっか。……そういう考え方も、ありだね」
「よし、じゃあ次は“家出で海“だー!」
いつもは“方針”を決めると出てくる光の扉――が今日は違っていた。
「……なにこれ」
「わぁ……真っ赤っかだねぇ。燃えるような赤……いや、これは……もしかしたら夕日の色かも!」
言い訳めいたテンションの原作者の“もや”は、まるで自分自身にそう思い込ませているようだった。
「いざサン・セット!」
「いや、どう見てもサンセット感ないでしょ……血の色にしか見えないよ……」
そう返す間もなく、“ビーチボール”はあっという間に真紅の扉に吸い込まれていった。
* * *
11回目のエリンの人生は、最初から何かが壊れていた。
本来ならば、道徳や倫理などとうに脱ぎ捨てたロイシス家でさえ、かろうじて保っていた“貴族としての矜持”のようなものがあったはずだった。
しかし、この周回のロイシス家には、それすら存在しなかった。
ロイシス侯爵は些細な苛立ちでも容赦なく剣を抜き、使用人の首を斬り落とす。八つ当たりで殺された者の死体が、屋敷の裏庭に積み上げられては荷馬車に詰め込まれて運び出されていった。
義母は「美を保つ秘薬」と称して、近隣から美女たちを攫い、その生き血で“血の池風呂”を満たした。その中には、エリンよりも幼い子供の姿さえあった。
エリンの“きょうだい”は、幼い頃はまだ純粋さを残していたが、成長と共に使用人の小さな失敗を嬉々として処罰するようになっていた。ロイシス家で残酷さを娯楽のように覚えていったのだ。
(……これ……あの原作者が書くような世界?)
私はスクリーンの前で息を呑んだ。まるで悪夢とスプラッター映画を混ぜ込んで煮詰めたような地獄絵図。
これまでの繰り返しですら、ここまで血なまぐさい世界ではなかった。
スパイ映画で残虐なシーンがあったとしても、きちんと悪は悪として描かれる。
ここは、単なる娯楽としての殺戮だ。
そしてスクリーンの中心で、エリンは常にアルカイック・スマイルを浮かべていた。
あの表情筋を極力まで抑え込んだ微笑みは、何を思っているのか、まるで読めない。
……いいや、わかっていた。エリンはただ、生きようとしていたのだ。
毒を盛られても、血を抜かれても、鞭打たれても、耐えて生き延びた。
この地獄の中で、“生存”というたった1つの目的にすがっていた。
(私のためだけに、この狂気の世界で生きようとしてくれるのね)
死んで戻ってきたほうが楽だということは原作者も知っている。
だが、この世界が“何であるか”が判明せずに戻ることを、原作者は良しとしなかった。
12歳の年、学園への入学を口実に、ようやくロイシス家から離れた。寮に入ることが唯一の脱出路だった。
しかし、“ロイシス家の外”もまた、正気ではなかった。
表向きは優雅に整った貴族学園。
だが、昨日まで隣に座っていたクラスメイトが、翌日には机ごと消えている。そんなことが当たり前に起こる場所だった。
王太子の婚約者――というだけで、エリンは目立った。憎まれ、妬まれ、狙われた。
ここでもアルカイック・スマイルでやり過ごしながら、暴力には暴力で応じ、彼女はそのスペックの高さから生き延びることができた。
その日々の果てに、彼女は15歳を迎えた。
学園が休みとなれば、王妃教育のため、王城へと赴く。王妃教育もほぼ終えているため、1ヶ月に1回、王妃へのお伺いという名目に近くなった頃合いであった。
王都の風景は“終末”そのものだった。
街道の両脇には、腐敗した死体が山のように積まれ、王城前では絞首刑にされた罪人たちが、見世物のように吊るされ揺れていた。
濁った空気を、どこからともなく聞こえる悲鳴が満たし、黒く淀んだカラスが低く飛ぶ。
(スクリーンが匂いを通さないことをこれほど感謝した日はないわ)
エリンはアルカイック・スマイルを崩さない。だが、時折ハンカチで鼻と口を覆っている姿を見ると、自分だけ安全地帯にいることが申し訳なく感じてしまう。
王城に着くと、アランの側近が出迎えた。
「王妃教育で伺ったのですが……?」
疑問に思って問えば、何事もないかのように側近は答える。
「アラン様がお会いしたいとのことです。王妃様もご存知でいらっしゃいます」
その言葉に抗う術はない。
側近に導かれ、騎士に囲まれながら、長い廊下を進む。赤い絨毯は汚れを目立たせないためのものか、と感じるほどに王城内も異常な空気を漂わせている。
たどり着いた先は、人気のない中庭。噴水が、血のような赤い水を静かに吹き上げていた。
「こちらでお待ち下さい」
側近がそう告げて下がる。アランを呼びに行ったのだろうか。
噴水が眼の前に見えるベンチに腰掛け、エリンは小さく呟く。
本来ならば、このベンチは彫刻と水で美しく演出する噴水を眺めるためのものだ。
エリンは噴水の中に何が投げ込まれているのかを見る気力はなかった。
「……これは、バグだ」
声に混じるのは、明確な嫌悪だった。
「隣国へ向かおうとしたから、世界そのものが拒否反応を起こした。これは“行かせない”ための世界だよ……」
小声で、誰にも聞こえないように。でも、スクリーン越しの視聴者には聞こえるように。
その瞬間、風が吹き、生ぬるい空気と腐臭が流れ込んで、エリンは思わず顔を顰めた。
そして、背後から足音が聞こえる。
振り返ると、そこにはアランがいた。
彼は、不自然なほどご機嫌な笑みを貼りつけ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「やぁ、エリン。今日はこんな場所でごめんね」
「アラン様、本日はお招きいただき――」
挨拶をと立ち上がり、頭を下げカーテシーを行う。
「いいよ、挨拶なんて」
その言葉と同時に、彼の剣が鞘から抜かれ、銀の軌跡が走った。
下げた頭はそのまま崩れていく。視界が傾く。
肩から腹にかけて、熱いものが吹き出ては地面に落ちていく。
そして、ドサリと身体が地面にぶつかる音がした。
「学園に、すごく魅力的な女の子がいてね。彼女と結婚しようと思うんだ。だから、潔く身を引いてくれるかな?」
嗤うようにそう告げた彼の声が、とても耳障りだった。
エリンは、最後に一筋の涙を流した。
「……海、に……行きたかった……」
それは、――原作者の心からの、心の声だった。
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