別れ
今日この日は初夏を前に、天気も良く汗ばむ陽気だった。さくらはコウの四十九日法要の為、大阪は南河内郡太子町にある叡福寺というお寺へひとり赴いた。この叡福寺というお寺には太子霊園という墓地が隣接している。聖徳太子のお墓があり、この地で眠っているという由緒のあるお寺である。また太子町という町名も聖徳太子の太子から取った地名である。
大阪の市内から車で約30分、奈良寄りに南へ下った小さい集落が点在する平和な長閑な自然豊な場所である。小野妹子や古来の権力者の古墳など点在する歴史ある地である。その太子霊園にコウが大好きだった祖母が眠る墓がある。コウの墓は祖母の隣に位置する聖地だった。本日法要の後、コウの遺骨が祖母の隣のコウの墓に納骨されるのである。そしてコウは本日この世から天に召されるという日であり、これが四十九日の法要である。
『さくらちゃん、本当に申し訳なかったね。おばさん何て言葉を交わしたらよいのか…… 本当に申し訳ない…… 』
コウの母親はさくらに潤んだ目で語りかけた。決してコウの母親でもなくコウでもなく誰も悪くなんてない、しいて言えば運命、この皮肉な運命が悪いだけであるのはさくらもコウの母親も頭では理解しているが自分の息子の不幸によりさくらに悲しい思いをさせ、またその悲しい思いを表情では決して見せず、心で泣いて顔で明るく振舞うさくらに対し、コウの母はいたたまれない心境となり、只、さくらに詫びるしか無いという心境に駆られたのであった。
『おばさん、おばさん謝らないで…… おばさんがわたしに謝ってる姿をコウが見たらきっとコウは悲しい思いになるよ。わたしは大丈夫だから…… それより、おばさん、あれからは元気でした? わたしも何か自分の事で精一杯でおばさんに連絡もロクにする事が出来なくてホントごめんなさい…… 』
そんなやさしいさくらの言葉でコウの母親はじっとうつむいたまま零れ落ちそうな涙を必死で堪えた。コウの父がさくらにこう話かけた。
『さくらさん、あ~ぁ、あれからワシも本当に精神的に参ったよ…… 何せあいつがこの世を去るほんの二週間前まではあいつも元気で一緒にゴルフのラウンド回ってたくらいだったのに。まさか急性白血病という病気がこんなに早く一人の人間を持っていくとは夢にまで思ってなかったよ。もっともガンで長きに渡って苦しむ姿を皆に晒しながら逝ってしまう事を考えれば、これもあいつの優しさだったのかも知れんと最近思えてな…… 桜の花のように鮮やかに綺麗に咲いたと思えば次の瞬間、散り染めて跡形なく消え往く。 真冬の空に舞うボタン雪のように綺麗に舞えば手のひらに落ちた瞬間跡形も無くサッと消え往く…… コウの今回の出来事はそのように思えてな…… ワシ等も遅かれ早かれいつか死ぬ。そしてあの世で待っているあいつに出会うまで、あいつに悲しい思いをさせたくないんだよ。 ワシ等は今、こうしてたくさんの人達に支えられている。ワシ等の周りにはたくさんの人がいる。しかし今のコウはたった一人ぼっちであの世で寂しく待っているんじゃ。あいつのほうがもっと悲しく辛い思いの中でいるんじゃ。だからワシ等がいつまでもメソメソしている訳にはいかない…… さくらさんや、力強く生きていこう。あいつの分まで力強く生きていこう…… 』
さくらはコウの父の言葉に深くうなづいた。そうなんだ、コウの方がずっと寂しい思いをしているんだ。コウはたった一人、だが私達は大勢の人に支えられているんだという事をさくらは自分の胸に強く言い聞かした。
『おじさん、ありがとう、そうだね、コウの方がもっともっと辛いんだよね…… わたし、しっかりとコウの分まで頑張って生きていくよ。おじさん、おばさん、わたし、約束するね! メソメソなんてしない、もう泣いたりしない。だからおじさんもおばさんも今まで通り、今日という日を一つの区切りとしてこれから一緒に頑張っていこうね』
『さくらさん、ありがとう…… 本当にコウは幸せ者だよ…… ありがとう…… 』
コウの父はさくらの言葉に深く頭を下げた。
そして、まばゆい太陽の日差しの下で法要は静かに営まれた。そしてコウの墓にコウの遺骨が納められた。今日この日でコウはあの世へ召されてしまうという実感がさくらの胸に感じてはいたがさくらの目にはいつものように涙が浮かばない。力強く生きるんだ。そのように自分に強く言い聞かせさくらはコウと別れを告げた。
《コウ…… わたし、強く生きる…… わたしの周りにはたくさんの人がいて、たくさんの人がわたしを支えてくれているのに…… コウはたった一人ぼっちでいるのに、コウのほうがずっと寂しいのにわたしがメソメソしてたらダメだよね……》
法要が無事終わると、さくらはコウの両親に断りはしたが、遠慮する事は無いと言われ、そのまま家まで車で送ってもらえる事となった。家まで送り届けてもらえると、さくらはコウの両親にまたの再会を約束し別れた。
さくらの家は公団住宅の最上階である、エレベーターのボタンを押し、上階から一回へと降りてくるエレベーターを待つその間、さくらは急にお酒が飲みたい衝動にかられた。さくらの胃はアルコールという分野に関しては底なしである。酒ならいくらでも飲める強靭な胃袋の持ち主である。毎晩、仕事を終えるとコウや仕事の仲間と一緒に行きつけのバーや居酒屋へ繰り出すのがなによりも楽しみの一つであった。
《あれ以来、一滴もお酒呑んでなかったかぁ~…… 久しぶりに少し飲んじゃおうっか!》
さくらの顔に笑顔が浮かんだ。コウが旅立ってからさくらは一滴もその日以来アルコール分は口に含んでいなかったのである。コウが今日、四十九日法要という一つの区切りともなるこの日、さくらも一つの区切りを無意識のうちに付けようとしていたのであった。さくらの家から歩いて三分の所にショットバーがある。さくらは久しぶりにそのショットバーへ足を運ばせた。
『やぁ、cherry! 久しぶりじゃないか!』
『マスター、こんばんわ! お久しぶりです!』
ノリの良いちょび髭のマスターは愛想よくさくらに声をかけた。マスターはさくらの事をcherryとそう呼んでいる。この愛称はさくらのニックネームであり、さくらの同僚がさくらの事をcherryと呼ぶことからマスターもさくらをcherryと呼ぶのであった。
『なぁ~、cherry…… この度はとんだ事で大変だったな…… 』
『ううん、わたしこそ目と鼻の先に住んでるのに全く顔出すこと出来なくて心配かけたみたいでマスターゴメンだよ。でも、大丈夫! わたし立ち直ったし今まで通り元気なcherryだから! 』
さくらは愛想よく元気に振舞った。さくらの心の中でなにやら気落ちしているのを悟られてしまうのがさくらにとって嫌なのであった。決して人前で沈んでいる様子など見せたくない。これはさくらにとってのポリシーでもあった。
さくらはタンカレトニックとオーダーすると一気に飲干した。暫く空けていたお酒の味がこんなに美味しいとはさくらも想像を絶するほどの格別な味だった。
続いてジンライム、そしてモスコミュールと次々と飲干すとほろ酔い加減の心地よい気分と心が浮かび上がるのであった。
『ねぇ~、マスター…… あたしへっちゃらだよ! コウがいなくなってもコウはいつまでもあたしの心の中でずっとずっと生きているし一緒なんだから心配しなくても大丈夫だよ…… 』
『おいおい、cherry…… 大丈夫かよ! 久しぶりに飲んだんだから加減しないとぶっ倒れちまうぞ!』
『ナハハハ! 大丈夫だってマスター…… ムニュムニュ…… 』
さくらはその場カウンターの上に腕をついて眠ってしまった。さくらにとって今日のお酒は甘く、そしてほろ苦いお酒でもあった。
『あ~ぁ、cherryったら寝込んでしまいやがったか…… まぁ、いいや、疲れてるんだろう…… 色々と大変だったよな…… どうせ店も暇だし、しばらくこのまま寝かしといてやろうか……』
マスターはそう心で思うと自分が着ていたカーディガンをさくらの背中にそっとかけた。マスターはさくらを不憫に思えたのだろうか…… 43歳のマスターは現在独身である。かつてマスターには将来を誓い合った最愛の女がいた。今から16年前、マスターが二28歳の時の冬の朝、マスターを残しその彼女は一人で旅立った。死者、行方不明者六千人を数える阪神大震災の犠牲者だった。
いつかは小さなサーフショップを二人でやろうと誓い合っていた矢先での不幸だった。マスターは彼女の死を境に堕落していった。何事もやる気さえ起こさず仕事もやめてしまい毎日酒に溺れる生活が続いた。このまま俺はもう死んでもいい、いっそう死んでしまってお前の元へ逝けるのならどれだけそのほうがマシなのだろうかと…… 毎日そんな事ばかり考え酒に溺れてしまった生活が続いた。
そんなある日、マスターは夢で彼女と再会した。優しい彼女の顔が怒っていたのである。マスターが見る初めての彼女の怒った顔であった。
『あなた、いい加減なさい!! あなたいつからそんな弱い男になったの? アタシはあなたの全てに惚れていたんだよ。山のように大きな心、どんな事があっても微動たりしない冷静沈着なあなたが大好きだったの…… なのに、今のあなたはいったい何なの? アタシが死んでしまったらそんなにあなたは弱い人なの? 逆光にくじけない! 逆光をバネにするんだってあなたアタシにいつもそう言ってたじゃないの? 今のあなたのままならアタシはあなたを愛せない。逆光に立ち向かってこそ、それがアタシの愛するあなたなの…… お酒なんかに負けてどうするの! お酒なんかに…… 負けてどうするの!』
マスターは彼女の夢で自分の弱さを垣間見る事が出来そして自分の軌道を修正する事が出来たのだった。逆光に立ち向かう、お酒に負けてどうするのという彼女の叫びに似た悲鳴によって今のショットバーを立ち上げるキッカケともなったのである。
『そうだ、愛子、俺は弱虫なんかじゃねえ…… 愛子が愛するたった一人の男なんだ! 酒なんかに負けてたまるか! 愛子…… 見ていてくれ! 俺は酒なんかに負けるヤワな腰抜けなんかじゃねえ!! 俺を打ち負かそうとした酒で俺は立ち直って見せるぜ!! 愛子…… 俺はやってやるぜ!! 俺の生き様を見守ってくれ!!』
マスターは自分にそう心に強く誓った! 誓ったと同時に部屋に転がるワインのビンを全て叩き割った。それ以来、マスターは一切酒を断った。バーを立ち上げようとバーテンダーを志したのである。自分を打ち負かそうとした酒に打ち勝つ為、逆光をバネとして、愛子の精神を貫くためと己に打ち勝つためバーテンダーを志したのである。それがマスターをバーテンダーとして、一人の男として今日在るキッカケともなる出来事だったのである。
そんな自分と今のさくらがダブって見えてしまったのだろうか…… 泣きたい時はいつでもこの店に来ておもいきり泣けばいい。いつまでも笑ってすごせるこんな店としてさくらを出迎えてあげれる店を目指したい。マスターはカウンター奥の厨房へ足を運び、愛する愛子の遺影に手を合わせそっとつぶやいた。
『なぁ、愛子…… cherryは俺とおんなじ思いをしてるんだ…… お前のおかげで俺は今まで生きてこれた。だから、cherryのつらさも俺には痛いほどわかるんだ。 cherryの事もしっかりと見守ってやってくれ…… 』
マスターにとってその時の愛子の遺影はいつも以上に優しさを増したような笑顔のように感じた。
『マスター!! ごめんなさい!! わたし、寝込んじゃったみたい…… 本当にごめんなさい!!』
さくらが目を覚ました時、時刻は既に朝の六時だった。なんとさくらは日付の変わる前日午後十一時から七時間も眠り込んでいたいたのであった。
『あぁ、お早う、気にする事無いよ。家の方には一応俺から連絡しておいたよ。お母さんが電話に出てくれて何かあった場合はすぐ連絡するって事でちゃんと了承を得たんで心配しなくても大丈夫だよ』
『いえ、そんな事はともかくごめんなさい、カウンターなんかで寝込んじゃ商売に差し支えがあったんじゃないかって心配で…… 』
『いやいや、何も気にする事は無いよ。相変わらずこの不景気な世の中だ、お客さんなんて全然来やしないよ。あっ、そうそう、あれからたった一人だけどお客さんが来てくれたんだけどな、たまたまcherryの顔見知りだってお客さんが来てくれたんだよ。それでcherryにコレを渡してくれって事ですぐ店を去ったんだが、名前を聞こうとしてもコレを渡してくれればcherryは分かる筈だって事でことずかったんだけど…… 何となく不思議な空気を感じさせてくれるお客さんだったなぁ』
そういいながらマスターはさくらに、そのお客さんからことずかったという品をさくらに手渡した。その品とは青と水色と濃茶と白の四色の糸で織り込まれたミサンガだった。
『マスターこのミサンガ…… 』
『あぁ、優しそうな爺さんだったよ、cherryの事をいつもとても心配していると仰ってたなぁ…… cherryの願い事が叶うため特別手渡そうとここまで足を運んでくれたって言ってたよ。 cherryの知り合いの爺さんかい? 』
『ええ、わたしの事をいつも心配してくれるとっても優しいお爺さんなんだよ。マスター迷惑かけてゴメンだよ! マスターありがとう、そしたら、そろそろわたし行くね! 』
さくらはマスターにそう言葉を交わし店を後にした。四色の糸で織り込まれたミサンガを手に……
『おじさん、ありがとう…… わたし、信じてる…… コウにまたきっとどこかで逢えることを…… 』
朝焼けの空の下、すがすがしさを胸に、さくらは新しい新たな一歩を踏み出した。