表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/35

006 IEMO/引退

2006年 4月。


入学式である。


私立江南小学校とは、浦賀の街にある一般的な私立小学校である。

という説明を地域住民にしたとしても、誰一人として信じないだろう。


お上品に言えば、インターナショナルスクール。

蓋を開ければ、世紀末学校が実情である。


1960年代。

厭戦運動や、日本最高学府のバカ騒ぎの中で、江南小学校の母体は生まれる。

私立江南高等学校。

デモ参加率0%の優良学校として名を馳せた。


何てことは無い。

デモ参加できないくらいに、生徒同士の抗争が激しかっただけである。


そうして、中高一貫校として、私立江南中学校が生まれ、

ワシらの江南小学校がここにあるのである。

もはや、アウトローのサラブレッドである。


江南小学校の制服とは、

ブレザー、パンツ、安全靴である。

つま先に鉄板が仕込まれた安全靴で、何を守るつもりなのか。

ちなみに、近隣の生徒にとって、江南小学校のブレザーは大変人気である。

何でも“防漢着”らしい。着ていれば、誰も絡んでこなくなる。

納得の理由である。



入学式も終わり、さてこれからは自由時間である。

いつもの三人で連れ立って、廊下を歩く。

「モモ、これからどうすんだ?」

「とりあえず、サッカー部じゃろ。ジイサマのサッカークラブの説明もせんとならんしの」


「よく来たな! モモ!」

「歓迎するわ」


イシカワとカトリーヌ……面倒だな、カカオは、ワシらがサッカー部棟に顔を出せば、喜色である。


「部長の家守イエモリだ。まあ、お前は覚えちゃいないだろうが」

「おう、長治チョウジ先輩じゃな。覚えているとも。イシカワとは上手くやっとるか?」

ウラサンの最後のサッカー勝負の江南SC一軍。

その中で副キャプテンを務めていたのが、当時五年生だった長治である。

「なんだ、覚えてたのか。ヨシとは、まあ上手くいってるよ」

「うむ。チョウジさんは合わせてくれるからな。ベストコンビだ」

「イシカワ、どうせ貴様、引っ張りまわしてるだけじゃろ?」

「分かるかモモ、こいつは何度言っても、変わらん。何か言ってやれ」

「ワシはもう言っとるわい」


しばらく雑談していたが、長治の方でもワシの要件は当たりが付いているようだ。

「で、話と言うのはIEMOクラブの話か?」

「お察しの通り。まず筋を通すところじゃからの」

「まあ、そうだな。それから引き抜きか?」

「そこじゃよ。チョウジ先輩も、最後の一年から新体制のチームでやっていきたくはないじゃろ?」

「そうだな。悪いがもし引き抜きなら、俺は応じない」

「そうだろう。じゃから、あくまで今回来たのは提案と相談じゃ」


今年一年、IEMOサッカークラブは入会費無料、月謝もお気持ち程度のトライアル料金でスタートする。

月謝も無料としないのは、一応法人として運営していく以上、営利実績を持たせたいという考えからだ。また、通わせる親としても、無料よりも理由のある有料の方が安心できる、という理由もある。


「ボクとしてはありがたいけど、どういう事ネ」

ボンゴはIEMOクラブの話が立ち上がった時、真っ先に手を挙げた一人だ。

「家守さんの話とどう繋がるんだ?」

そのもう一人でもジョッシュも首を傾げている。

「良い質問じゃ。チョウジ先輩らの六年生、そして次期江南SCを担う五年生に対する、ある種のサービスでもあり、試験運転としての意味合いもあるのじゃ」

「ああ、分かったかもしれない」

そう言って納得したように相槌を打ったのはカカオじゃ。

江南の生徒会とか言う、紛争地域の調停役のようなものをやっているだけに、頭の回転が速い。


「つまりこういう事だろう? イエモリ部長たち六年生も、イシカワたち五年生もこのまま江南SCに籍を置いたまま、IEMOクラブに併籍することができる。おそらく、練習環境としてはそちらが上だし、ボディーケアについては言うまでもない。で、一年が経過する。その時、IEMOクラブとしては、私たち江南SCのプレイヤーを通して得た、チーム運営のノウハウを得ることができる。逆に私たちとしては、優れた環境を使う事で、安心安全により一層のレベルアップを図ることができる。こんなところかな?」

「流石じゃな」

それを聞いていたチョウジは、苦笑した。

「俺たちにメリットがあることは分かった。で、俺たちが抜けて、イシカワが抜けて、おそらくカカオの代かその次くらいには、江南SCには誰も残らないだろうな」

「さあ、それは各々が考える事じゃ」

「で、本音は?」

「他の運動部と折半して使っている土グランドと、人工芝コートが複数あり、トレーニングルームもシャワー室も使える環境。どちらを選ぶかは各々の選択じゃな」

「俺でも後者だな。……そうか、数年後には、江南SCは消えるのか」

六年間。

長いようで短い時間だが、チョウジは江南SCとしてボールを蹴っていたのだ。

寂しくもなろう。


「ま、罪滅ぼしと言うわけではないが。これが“IEMO”のユニフォームじゃ。まだ、仮段階だがな」

そう言って、ランドセルから取り出すふりをして、“無限収納インベントリ”からユニフォーム一式を取り出した。

「おい、明らかにそこに入るサイズじゃないだろ」というチョウジの言葉は無視して、それを押し付ける。

怪訝な顔をしながらも開封して、ユニフォームを広げたチョウジはしばらくジッとそれを見て、やがて口元を緩ませた。

「こうして名前が残るなら、それでもいいか」

基調色が深緑とは言え、デザインは江南SCのユニフォームを踏襲している。

そして裾には、『Inspire KOUNAN SC』の文字。


だが、空気を読まないイシカワがいた。


「倒した敵の名を鎧に刻むようで、風情があるな」


ワシとチョウジは視線を合わせ、頷き合うと、ツープラトンラリアットを炸裂させた。


「悪気はないから」とカカオがフォローしたが、誰もがそれを聞き流した。




「おい、注目! 大事な話がある! 手を止めてこっちに来てくれ!」

江南SCに指導者はいない。

部長以下の役職者が、プレイングマネージャーをしている。

対外試合を行う関係で名目上の監督が登録されているだけである。

十数年前まで、サッカーなのか乱闘なのか分からない様相だった江南SCを引き受ける指導者が誰一人見つからなかった、という納得の理由である。


最高学年で部長のチョウジはつまり、江南SCにおける最高権力者である。

すぐさま練習を止めて、ダッシュでグランドを駆けて集合する様には、ワシも内心感心する。

なかなかの統率である。


「練習の手を止めてすまない。だが、今日はここでの練習を切り上げ、別の場所で再開する」


「結論から話す。今からIEMOクラブの練習場に行き、そちらの見学及び施設体験を行わせてもらう事となった」


「それ以上の詳しい話は、明日以降でもいいだろう。移動は練習着のままでいい、荷物をまとめて移動するぞ」


チョウジにユニフォームを見せてからは、話は早かった。

その中で出たのが、施設見学と体験である。百聞は一見に如かず。

とにかく、一度見せてみて、帰りに保護者用の資料を渡してみれば良かろう、とワシとチョウジの間で話が決まったのだ。

さてさて、どうなる事か。




「ただいま」

家守長治は夕方、日の落ちる頃に帰宅した。

そのまま練習着を軽く水洗いした後に洗濯機に放り、スタートのスイッチを押して、そのままシャワーを浴びてリビングへと向かう。

「お帰りなさい。もう少しで夕食よ」

「分かった」

しばらく今日の出来事を反芻するように目を閉じて深くソファーに身を沈め、気が付けば晩御飯が出来ていて、いただきます、と食べようと思ったら、玄関が開き、「ただいま」と声がする。

親父が帰ってきた。

幸い、まだ食事には手を付けていない。

「親父が揃ってから食おう」

ぶっきらぼうにお袋に言うと、そうね、と笑った。


「親父、今日それ貰った」

「そうか、まずは飯だな」

話は早い方が良い。リビングに入って来た親父にIEMOクラブで渡された資料を渡すが、とりあえず飯が優先らしい。

俺も飯食い終わってからの方が、話しやすい。


親父は食後に晩酌に入る。

金属製の真空タンブラーによく冷えたビールを注ぎ、一口で飲み干して、次の一杯を注いでからIEMOの資料を手に取った。パラパラと流し読みして、口を開く。

「前から噂は聞いていたが、ついに始動したか」

「ああ。で、今日、モモがうちの部室に来て、話をして、部員全員で見学に行ってきた」

「どうだった?」

「設備は最高。そこにある通り、初年度は特別料金で、って考えれば全くの破格だと思う」

「そうか。で、浮かない顔をしているのは?」

「間違いなく、江南SCは数年のうちに消える。親父はOBだろ? 何か、申し訳なくてな」

「馬鹿め」

そう言って、親父は立ち上がり、俺の頭をワシッと撫でる。


「古い話になる。俺たちの時代の江南SCは、まあ酷いものだった。武道系の規律に耐えきれないやつが流れ着く、まあ、そこそこ掃きダメみたいな部活だったな」

「どうしてそこに?」

「仲が良いやつが入るってんで、じゃあ俺もやること無いし、で入部した。入部初日にこっちの部長と、隣で練習していたラグビー部の部長が殴り合いの喧嘩をしているのを見て、こりゃあ運動部の名前が付いているだけだぞ、と理解したな」

「今でもあんまり変わらないな」

「ま、そんなわけだ。別に真っ当にやってきた部でもないし、名門みたいな実績もない。それに、“お前が江南SCを潰すわけじゃない”。そこまで背負っちまうのは、傲慢ってもんだ」

「そっか……そうだよな。台風に巻き込まれたようなもんだ」

親父はまた一口で飲み干し、次の缶を取りに行って、カシュッと良い音でプルタブを引くと、また注いで、口を開いた。


「まあ、いいじゃねえか。それが人生ってもんだ。“誰かが居なくなって、誰かが入って、そうして地球は回り続けている”――」

「ヘヴァンの言葉か」

「俺のお気に入りだ」

「モモの先生だな」

「ほーん、モモの……は?」

「ヘヴァン・クロッセは、モモのサッカーの先生だ。言ってなかったか?」

「……マジか?」

「マジマジ。 これがウラサンで撮った写真だ」

「噓だろ、ヘヴァンじゃねーか! 俺、大ファンなんだよ! なあ!」

「今はヨーロッパで種蒔きに専念してるってさ、モモ情報だけど」

「くっそう、羨ましい……! その写真データだけでも、俺にくれないか? 職場で自慢してやる」

「別にいいぞ」


家守の親父は、次の日、息子からもらったデータを職場で見せびらかした。

その日のうちに、親父は社長室に呼び出された。




2006年 9月


パリにいる。


10月1日にロンシャン競馬場で開催されるレースに出走するディープの、まあ見守りのようなものだ。


ワシが世界一の馬にならんのか、と焚きつけたのだ。

その責任は取らんとな。


凱旋門賞。


またの名を、日本競馬の呪縛。


いつもの四神と、エファーとエリン。

それに、日本競馬の偉い人たちも、ぎょうさん集まっている。


体調管理は獅子座こと獣神モダ。

オーナーも調教師も、鞍上も本馬も、全幅の信頼を置いている。

レース前も、レース中も、レース後も。

何が起きたとしても、ワシとモダで絶対に守ってやるわい。


防犯関係は、戦神ヤダル。

おそらく、世界一安全な場所だろう。

核ミサイルが何百発飛んで来ようとも、ヤツには屁でもないわ。


メディア対応は、契約神アルス。

噓は一切通用しない。

また、“嘘は言っていない”発言で誤魔化すこともできない。

アルスの神眼は、“内心も含めた、あらゆる事実の把握”を行うことができる。

さらに言えば、“契約の強制執行”すらも可能である。


後の一神ヴーヴァは、まあ適当に楽しんでくれ。



『僕は勝てるかな?』

『勝つさ』

『でも、相棒は不安がってるよ』

『そんなもんだ。デカいレースだからな』

モダは調整をしているディープとしばしば会話する。

ワシが話すと、『コクトーと戦わせてくれ』となるからだ。

ルーティンを繰り返すことは、不安を紛らわせるためには悪くない。

だが、レースまで残り僅かとなれば、勝ちのイメージを固めていく段階である。


「ディープは何て言ってるのかな」

「相棒が不安がってて、僕も不安、だとさ」

「はあ、僕もまだまだ、だなあ」

鞍上の猛は、ワシかエファーとよく話す。

エファーが先生だとすれば、ワシはロバの耳である。

何でも吐き出せる相手じゃと言う意味で。

「モモならどう戦う?」

「もし、ワシが凱旋門を戦うとすればコクトーに乗るから、そもそも戦略が必要ない」

「そうじゃなくってね」


「エファーにはエリンが、ワシにはコクトーがいる。そして自分たちが絶対に勝つと思っている。ディープでは不足か?」


そこである。

贔屓目があるかもしれないが、ワシとコクトーに、エリンとエファーは百回やっても一度も勝てないだろう。

だが、千回に一回、勝つ。勝負が絶対でない以上、天才エファーは勝負を諦めることは無いし、勝機を見出すだろう。

だからエファーなら、「コクトーとモモ相手でも勝つ」と言う。

そしてエリンは、「グスタフとコクトーに引き金を引き続ければ、勝機はある」という。

外道戦法はやめるのじゃ。


「そこなんじゃよ。猛。おそらくこの中で、ディープに関わり続けた面子の中で、勝利を信じていない者は誰もおらん。じゃが、それはあくまで“よそ者”なんじゃ。ワシも、池川先生も、エファーも、よそ者なんじゃ。究極的に、レースで走るのは一頭と一人じゃ。猛とディープだけ」

「ボクと、ディープだけ……」

「ディープは強いか?」

「強いよ。うん、強すぎるくらいだ」

「では、猛が同じくらい強くなればよかろう」

「……今から競馬の技術を磨くって言っても」

「違う違う。強くなればよいのだ。手始めに、あそこの警備員ヤダルに喧嘩を売ってこい」

「明らかに尋常じゃない雰囲気なんだけど?」

「“お願いします、強くしてください”と言えば、多少の手心は加えてもらえるかもしれんぞ」



「あれ、お前だろ?」

夕食後、ガバガバとワインを飲んでいるヤダルがワシを呼び止めた。

「そうじゃ。ディープの鞍上をちょいと鍛えようかと思ってな」

「それでド素人に戦神の稽古を付けようと?」

「ディープの為じゃ」

「そりゃそうだな」

変わらず、水でも飲むかのようなペースでワインを口に運ぶ。

「別に強くならなくてもいいってことでいいよな?」

「強くなった気になればそれで充分じゃ」

「ほーん。じゃあ、棒術でもやらせるか」

「悪くないな。槍に比べれば“事故”も少なそうじゃし」

「馬鹿言え。地上では棒術の方が槍術に比べて事故は多いぞ」

「そりゃ、指導側が未熟な場合じゃろ?」

「そうだな」

時折、ひっかけをしようとするのは、戦神としての癖のようなものじゃろう。

兵は詭道なり、というもんじゃ。


「ディープは普通にやれば勝てるだろうが、どうもキナ臭いぞ」

ヤダルが話題を変えた。

「アルスは何と?」

「嘘八百、だとさ」

「よくある事じゃな」

「違いない」

「それも含めて、猛騎手とディープに稽古を付けてくれんか?」

「エファーじゃダメなのか?」

「こういうヨゴレは、ワシと貴様で折半じゃ。それに」

「それに?」

「貴様みたいな怖面コワモテの方が、説得力があるじゃろ」

聞いたヤダルは、嬉しそうに大笑した。




2006年 10月1日。

凱旋門賞。


ヤダル先生もとい、矢田先生の指導は効果覿面である。

猛騎手は、武術の指導も相まって、眼光は武士のように鋭い。

ディープも、いつもどこかフンワリとした雰囲気を持っていたが、名刀の切れ味の、寄らば切るという剣吞な仕上がりだ。


当日の人馬の仕上がりを確認した池川先生は、何かを悟ったかのように苦笑した。

「モモ君たちが来てくれて、人馬共に素晴らしいコンディションだ。ありがとう。だけどね」

一呼吸置いて、


「大丈夫? 事故とか、起こさないかな」


心底不安そうな顔でワシに訊ねた。


背後にアルスが居たワシは、できるだけ誠実に答えた。


「相手に期待しましょう」


偽らざる、本心である。




―――THE LEGENDS


2006年、凱旋門賞


名刀。

否、妖刀。


日本の悲願、凱旋門。

固く閉じられたはずの門を、

一刀、両断。


誰も近寄れぬ。


誰が近付ける?


影すら踏ませぬ、凱旋門13馬身。


ディープインパクトー。


呪いを絶つのは、妖刀。



次の伝説は―――。




ディープは勝った。

凱旋門賞を圧勝することで、呪いを絶ったのだ。


いや、彼の事だから、“そんなこと”はどうでも良いのかもしれない。

ただただ、自分が勝ったという、それだけが彼が走る意味だからだ。


レイルリンカー。

プラド。

相手が悪かったね、最強馬ディープが相手じゃなかったら、おそらく君たちが持て囃されていただろう。


「おめでとうございます、猛騎手。ご感想は聞かせてもらっても?」


おっと、いけない。

今は口取り式で、インタビューを受けているんだった。

欧米だけでなく、アジアからも報道陣が駆けつけている。

もちろん、日本からの取材陣も複数だ。


「やっと。やっと、日本の悲願を達成することができました。池川先生、オーナーの小川さん、応援してくれた日本の皆さん。そして何より! ディープのおかげだと思います! ありがとう、という言葉以外が見つかりません!」


“ディープ”と僕が言うと、『何だ何だ』とばかりに擦り寄ってくる。その鼻面を丁寧に撫でると、ご満悦に嘶く。

こんな可愛い馬が世界一だ。最高だね。


「ありがとうございます」


「勝因は何だと思いますか?」


その質問に、僕はふと考える。

ディープに乗ろうと思ったのは、素質があったからだ。

だけど、それ以降の、彼の実力の多くを占めるものは何だろうか?

……決まっているじゃないか。


「ディープはとにかく、練習を嫌いませんでした。何度でも何度でも、“壁を乗り越える”チャレンジをしてきました。彼の意思ハートが、闘志が、ここに僕を立たせているのだと思います」


通訳されたそれを聞いた報道陣が、いささか動揺したように思える。

無敗の馬が、“練習の積み重ねによって”強くなった。

競馬と言うのは、生まれ持った才能がほとんど10割を占める、というのはある意味常識である。

だからディープも、それと同じだと思っていたのだろう。

だが、その予想は裏切られ、だから動揺しているのだ。


「練習、ですか。詳しい話を聞いてもいいでしょうか?」


これは答えられない質問だ。適当にはぐらかそう。

「ディープだからできたことでしょう、それが答えです」


エファー先生と獅子座先生、それと矢田先生の事は言えない。

池川厩舎所属ではなく、日本の競馬界に身を置いているわけでもない。

あくまで、レディーとディープ、それにハーツが走っているから手を貸している、という立場らしいのだ。

問い合わせで済めば御の字、強引な引き抜きや、実害があるような行為に発展する可能性もあるのだ。

下手を打てば、クリフが味わったという“ワキバラ”の餌食になるかもしれない。


『これで、世界一の馬になりましたね、ディープインパクトーも誇らしいでしょう』


その質問をしたのはフランス紙のインタビュアーだったかな。

他の国の、特にイギリスとアメリカの記者は『何言ってんだこいつ?』という表情だ。

だけど、その点を僕が指摘するのは味が悪い。

悪意が無い分、この場で“勝利者”である僕がそれを指摘するのは、他の陣営が良く思わないだろうからだ。


「えーと」

さて、どうしようか、と頭をひねっていると、僕のマイクは分捕られた。

奪い取ったのは、コワモテの、矢田先生だ。

そして流暢なフランス語で問い詰める。


『何言ってんだ、手前。仮にうちのJCジャパンカップで一位取った馬が世界一って言ったら、お前さんら、鼻で笑うんだろ? 自分とこの国際競争が、世界一決定戦だとでも言いてえのか? ダートは? 障害は? 短距離は? 長距離は? 耐久レースはどうなるんだ? イキがってんじゃねーよ。ディープは凱旋門勝った、それで十分な名誉じゃねーか。他を落とすようなナマ抜かしてんじゃねえ』


聞いたイギリス人らしき記者は大満足で大きく頷き、

アメリカ人の記者も、同じく国際競争を持っている国の記者はご満悦である。

どれだけ内心腹を立てていたのか、一目で分かる光景だ。


『すみません、ミスター。あなたは……』

何かに気が付いた米国競馬紙の記者の一人が、興奮気味に矢田先生に問うた。

『ドクター・シシザと、KGVI&QEDSを見に来てませんでしたか?』


矢田は、それを聞いてチラリと僕の方を見た。

(ディープと手前の場なのに、こんなのの相手しなきゃならんのか?)

というメッセージである。

僕は人差し指を立てた。

(この質問だけに答えてくれませんか?)である。

矢田先生は、フン、と鼻息を一つ付いた。

甘っちょろいやつ、とでも思ったのだろう。


『手前で最後の質問だ。以降、俺に対する質問は受け付けねえ。タケとディープの口取りだってのに、非常識すぎだろてめえら。タケのやさしさに感謝しな。で、手前、名は?』


『スティーブンです』


『おう、良い目をしているな。その通り、俺らはKGVI&QEDSを見に行ってる。どうせだから手前の疑問に答えるぜ。エレクトロを治したのは獅子座だ。言っとくが、質問は受け付けないぜ』


『いえ、一言』


『おん?』


『“ありがとう。俺のファームでいくらでも飲んでくれ”、叔父からの伝言です。もちろん、あなたも』


『確かに伝えるぜ。そんときゃ、俺も獅子座も飲みまくってやるからな。最低でも十ガロン(約38ℓ)はウィスキーを用意しときな。間違いなく、それ以上は飲むぜ』


『ええ。楽しみにしときます』


この時、スティーブンは、ジョークだと思った。

数年後、ツケを払う事となった。


「今回の戦い方は……」


「海外でのレースという事で……」


僕への質問は続く。

矢田先生が後方で睨みを聞かせているので、下手なことを聞いてこないのは、正直助かる。


「では、今後は、海外レースでしょうか?」


更なる展望に、眼を輝かせた日本の記者が、聞いてきた。

(これは言ってもいいのか?)

咄嗟にディープのオーナーである小川さんに振り向くと、笑顔で親指を立てている。


そうだ。

いずれ、言わなきゃならないことだもんね。


「いえ、ディープは、あと二戦で引退します。JCと有馬を戦って、引退です」


「イエモレディーとJCで、ハーツクロウと有馬で。因縁の闘いですからね」


「ハハハ、それは彼の後継馬に任せるとしましょう。僕とディープの物語は、最終章なんです」


「悲しくはありません。僕とディープは、本当に、本当に恵まれた旅路です。あとは……いえ、有馬の後でこの話はしましょう。その時、僕がちゃんと喋られるか、不安ですが」




2006年 有馬記念後 引退式。


12月24日 中山競馬場。


僕とディープは勝って、

ハーツとレディーと一緒に、ディープも引退だ。


幸いなことに、誰も故障や疲労で、参加できないという事は無かった。

だが、寒い中で、10万人以上がナカヤマに残っている。

そりゃそうか。


ハーツクロウ。

海外先兵。

行く先々で賞金と金星を荒稼ぎした、“日本大将軍”

“奇跡の復活”も相まって、非常に人気が高い。


イエモレディー。

土足のシンデレラ。

ディープとハーツが海外戦をしている間、一切勝ちを譲らなかった、“防人”

オーナーである伊右衛門氏は初年度種付けを、すでに決めている。

そりゃそうだ。だって……。


ディープインパクトー。

世界最強。

その二つ名は間違っていると、僕は声を大にして言いたいが、

“日本の愛馬”

こう呼ばれると、頬がニヤケてしまうのを、許してほしい。

内密に、レディーの初年度種付けはディープとなっている。

レディー(気性難)×ディープ(気性難)か。

管理が伊右衛門牧場だから、エファー先生が付くのだろう。

獅子座先生も、矢田先生も付くのか。

……僕が乗りたいなあ。



色んな人が色んな事を言って。

僕はそれをほとんど覚えていない。

だって、

だってさ。


ディープとはこれで、一旦とはいえ、お別れなんだ。


一緒にシバかれて、一緒にシバかれて、一緒に飯食って、一緒にシバかれて……。

あれ、シバかれた記憶しかない。

まあいいか。

僕らは、戦友で、相棒で、友人で……。

親友なんだ。


僕の番が、回ってきた。

何を言おうか。

喉元に、嗚咽の気配がする。

泣くんじゃない、僕。


咄嗟に、泣きだしそうになった僕は、非常にバカなことに、

ディープにマイクを付き出した。

相棒、喋ってくれ。

場を繋いでくれ。

その時の僕は正気を失っていた。

だって、ぼくは。

“ディープが喋れる”と確信していたんだ。


「あー」


良く知った声だ。

モモだ。

ディープに突き出したマイクを、モモが握っていた。

レディーの関係者としてここ(引退式)にいるので、不思議ではない。


「武騎手も、ディープと別れがたい、という事で、ワシが時間を稼ぐとしよう。伊右衛門、百々じゃ。名前の通り、イエモレディーのオーナーはワシの爺さんなんで、よろしくのう」


何でもないように、自己紹介すると、競馬場にざわめきが広がる。

レディーとディープは、ライバル。

あるいは人によっては、不倶戴天の相手として認められるところだ。

だが、それがどうした、とばかりに、モモはツラツラと話していく。


「で、ディープはクソ生意気な馬でのう、『貴様らのレールに乗れば、僕は生きられる』なんぞと言っていた。カチンときて、じゃあ、競馬を教えてやると言って、ぼっこぼこにすれば、途端に闘志を燃やし始める、シメシメ、と思ったもんじゃ」


モモの話術は優れていて、10万人の聴衆は、その言葉に一喜一憂した。

僕は、ただただ、そのことがありがたい。時間を上手く稼いでいるのだ。


「で、レディー。こやつも、なかなかのお転婆での。ワシが見に行った時、馬房でドッタンバッタン、『出しなさい、ワタシを誰だと思っているの!』と来たもんじゃ。これは良い馬じゃと、ワシと爺さんは高ぶっていたわい」


「そんで、レディーもディープも、併せ馬が居らんで、じゃあ、やらせるか、となるわけじゃ。二年前の秋、栗東で。芝1600メートル。奴らの対決の、知られざる一戦目が始まった」


無言。

モモが取った一息は、聴衆を引き込んだ。


「始まった。先行したのはレディー。ディープは、その二馬身後につけながら、レースコントロールを目論んだ――」


「そして、ゴール! ディープが先にゴール版を踏み、対決の決着が着いたわけじゃな」


「――そんなわけで、レディーとディープは、天敵と言う言葉はその関係を正しくは示していない。新馬戦以前から競っていた、まぎれもない、ライバルと言うやつじゃ」


もう、行ける。

僕はモモにハンドサインを出すと、襟を正した。

モモの独演会は五分弱だったみたいだ。あとから聞いた。

だけど、その濃密さに、僕は十分以上時間を稼いでいたと思い込んでいた。

そのモモは、獅子座先生と矢田先生に思いっきりタメ口である。

だけど、何か分かる気がする。

モモに認められたみたいで、文句を言いたいくなくなるのだ。


「えー、ディープインパクトーの鞍上、猛です」


「ディープとの旅路も、これで終わりです。皆さん、寂しいですか?」


中山の10万人は、口々に叫ぶ。

僕はそれが、愛だと知っている。


「ありがとうございます。ディープのアレコレは、さっきどっかの誰かが喋っていたので、そこは割愛しましょう」


途端、場内を埋め尽くす笑い。

いいね。調子が出てくる。

だから、本音をブッコんでやろう。


「ディープは、ディープインパクトー号は、最強ではありません」


聴衆は、絶句した。

無言の中で、武は一人、笑った。

掴みはOKという、芸人の心である。


「ディープは、最強ではない。“最強にしてもらった”馬です」


無音の場内で、僕は続ける。

言いたいことも、伝えたいことも、整理が付いた。

仮にミスったとしても、フォローできる人員が揃っているのだから、僕は気楽なものだ。


「池川先生、そしてイエモレディーを通して、可児塚先生。三冠レースの後で、エファー先生」


「ハーツクロウ。クリフォード。温泉からは、獅子座先生、凱旋門直前で、矢田先生」


「……最後にオーナーの小川さん。僕たちの旅路は、ディープは、数えられるだけでも、これだけの人々に支えられて」

大きく、息を吸った。


「そして、あなたたちに! ファンに支えられて走りきることができました」


「僕は、ディープは。あなた達に最強にしてもらいました。最強の馬と呼ばれるよりも、“最愛の馬”と呼ばれることが何よりの誇りです!」


言い切った。


自分の、思ったよりも大きな声が場内に反響している。


――拍手が、聞こえた。

はじめは僅かなそれは、直ぐに会場に伝播し、やがて満場となり、怒号に似た歓声となった。

それがサザナミのように引くのを見計らって、言葉を繋ぐ。

本音が混じった、ちょっとした茶目っ気である。


「もし僕が、本当に世界最強の馬を見るとして――おそらく、その鞍上に、僕はいません」


「“誰かが居なくなって、誰かが入って、そうして地球は回り続けている”! その時、僕は調教師として馬に携わっているだろうね」



僕は、夢を語った。

滑稽だけど、本気なんだ。


「僕の馬が、世界一、本当に、世界最強の馬になる」


「でも、」


「僕はその馬に、ディープと僕なら勝てると、そう思ってる」



万雷の拍手は、マイクに混ざった僕の嗚咽をかき消すには、十分だった。


涙を流す僕に、ディープはその涙を拭うように、優しく頬ずりをした。


僕は彼の優しさに嬉しくなり、


「しかしなあ、ここに馬が三頭いるのに、走らないというのも可笑しな話じゃな」


可笑しな話をし始めたモモと、そうだな、と言わんばかりに涙を拭うのを止めた愛馬を見て、乾いた笑いが出て、でも、そうだな、と切り替えた。


“これは、やる”


モモは、素っ頓狂なことを時折、度々、多くの場合、大体するのだが、その言葉を違えたことがない。


(貴様らに、“現時点での”世界最強を見せてやる)


僕に囁かれた言葉は、ディープにも、レディーにも、ハーツクロウにも聞こえただろう。

身震いをすると、騎手に乗れと促す。

鞍上もそうで、すぐにフル装備を持ってくるように、と各オーナーに頼めば、準備がすぐに整うのである。


ゲートは無い。

直ぐに準備できるものでもない。

だが、ディープを含めた三頭は、コース内側に並び。

モモを待った。


モモが騎乗した馬は、あまりにも美しかった。

エリンは何回か見たが、それ以上に輝く馬毛は、純白。

(これは、もしかして)

確信はない。だが、どうしてだろう、

(エファー先生だ)

と思った。

そして、身震いする。


自然に、礼をした。

ディープも、レディーも、ハーツも。

僕ら鞍上も、礼の形を取ったのだ。

エファー先生と、戦えるのだ。

武者震いがした。

生徒と、教師ではない。

同じ地平で、戦える。

……戦える!


「エフ……ごほん、エーちゃんに乗れるのは、ワシしかおらんからの。(おそらくワシが十何回か死ぬけど)、実害は出ない。まあ、お祭り気分で楽しんでくれ」


悪いけどね。

僕もディープも、お祭り気分じゃないんだ。

ハーツも、ハーツの鞍上のクリフも、本気モードだ。

レディーだって、その鞍上も含めて、やる気さ。


モモは、世界最強、と言った。

掛け値なしに、エリンよりも強いのだろう。


僕は、なんと幸せなのか。


やはり、ディープは“世界で最も愛された”馬かもしれない。

だって、引退式で、非公式ながらも最後のレースで、


最強エファーと戦えるのだから”



僕らは中山2500メートルでエファーにケチョンケチョンに負けて、バカみたいに笑い合った。


それを見ていたエファー……おっと、エーちゃんは優しい目をしていた。馬鹿な子供を見つめる、慈愛の眼だ。


競馬も、そして騎手も残酷な競争社会である。

でも、もしその中で、神に縋るとするなら。


僕は、エファー先生が神でいてほしい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ