014 馬鹿/馬
2010年 10月
池川厩舎は、非常に活気に溢れている。
というか、五月蠅い。
「貴様! 何度我を煩わせれば気が済む! 言ってみろ!」
『下郎! 頭を垂れて我を世話する栄誉を賜るがよい!』
宇田川が来てから、オルフェーヴルウは引っ切り無しに嘶いている。
(またやってるよ……)
池川はベテランであって、何頭もの馬を見届けている。
その中でも随一ウルサイのがオルフェ、というか、あのペアだ。
それでも他の馬は興味深げに、もしくは呆れたように無視しているのか、厩舎全体としては雰囲気が悪くない。
普通、近場で馬が激すれば馬もまた動揺するのであるが。
(落ち着いたもんだ、全く)
飼葉の食いも落ちない。寧ろ、毎日のようにコントショーを見ているためか、厩舎全体で食いが平均的に良い傾向にあるのも事実だ。
『全く、困った弟だ』
特に、兄であるドリームは泰然としている。
そろそろ種牡馬として移動になるので、健康管理には神経質になっているこちらとしては有難いことに、至って健康体である。
『だが、それも良い。オルフェ、君の道を進むといい』
モリモリと食べ、運動を適度に、まるでこれから自分がどこに行くのかを悟っているかのように淡々としたものである。
2010年 12月
「貴様、勝つ気があるのか?」
『当然だ。我には勝利のみが相応しい』
「であれば、真面に修練をせよ! 次の相手は! その辺の雑魚とは比べ物にならないと知れ!」
『慢心、怠慢、大いに罵るがよい。我は天馬ぞ』
「言っておれ。今回、貴様の負け面をとくと見てやろう」
『抜かすがよい、下郎』
池川は、その会話を聞いていた。
と言っても、オルフェの言葉は理解できないが、宇田川の言っている内容から凡その見当はつく。
新馬のGⅠ、ホープフルS。
オルフェもその条件を満たしているので出馬しているが、今回は今までの競争とは文字通り訳が違う。
イエモレディー2008の双子。
イエモシュンザン
アヤラコウラン
伊右衛門牧場で生まれ育ち、エファー先生以下の薫陶を直接受けている二頭である。
弱いわけがない。
実際、ステップレースを簡単に蹴散らしてホープフルへの切符を手にしている。
それを理解している(というより、元々伊右衛門陣営であるので知らないはずがない)宇田川は、オルフェを何とか調教に引っ張り出そうとしているが、無駄に終わっている。
「貴様! 貴様ァー!」
『我は動かん! 動かんぞ!』
馬鹿やってるなあ、と池川は思う。
一度、オルフェが宇田川を蹴った場面を見たところがある。
馬の蹴りは人間であれば即死級のダメージであるが、宇田川はまるで何事も無かったかのように接していた。
以来、オルフェの方でも、宇田川を蹴ろうとはしない。
無意味だからだ。
2011年 1月
ホープフルSは、予想通りと言うか、何というか。
イエモの二頭でワンツーフィニッシュ、数馬身遅れてオルフェである。
敗北は馬主の方でも承知している。
オーナーのサイレースーレーシングの代表がレースの一週間前に厩舎に来た。
そして、オルフェと宇田川を見た。
「これは……今回は無理ですか」
落胆しているのかと、顔色を覗くと喜色が浮かんでいる。
池川は不思議に思った。
「オルフェは、見どころアリですか?」
遠回しに聞くと、代表は何でもない事の様に言った。
「もちろん。池川先生は、宇田川の情報を精査したことがありますか?」
無い。
栗東の面白い人で止まっている。
その反応に、代表はニヤリと笑った。
「“宇田川が関わる馬に駄馬なし”ですよ。その宇田川が、ここまで入れ込んでいる。ダイヤスカーレットですら、調教には参加しなかったと言えば、分かりますか?」
その時の事を池川は思い出した。
同時に、後悔した。
宇田川がホープフルSの前に、しきりにオルフェのケツを叩こうとしていたのは、“オルフェに勝算があるから”だ。
自分が伊右衛門牧場所属なのに。
“伊右衛門牧場、何するものぞ”と立ち上がっていたのは、宇田川だけである。
池川は自分を恥じた。
クラシックシーズン。
イエモの馬は全くの別路線に行った。
牝馬であるアヤラコウランは牝馬三冠。
牡馬であるイエモシュンザンは“米国の”三冠へ繰り出した。
胸を撫でおろしたのは、池川厩舎以外の競馬関係者である。
『ホープフルのワンツーが抜けた。我々にも勝機はある』という安堵である。
皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞。
牡馬三冠は十分に射程圏内。
そういった空気感は、
オルフェを、大激怒させた。
『下民が! 我を何と思うか!』
バケツに当たり。
厩務員に当たり。
更には飼い葉の入った自らの餌箱すらベコベコに踏みつぶした。
『三番だ。格下だと、貴様は舐め腐られとる』
即座に水をぶっかける女が居る。
宇田川である。
『一生、そこで腐っているがよい。はーあ、見どころがあると思えばこれだ。エファーはよくも付き合えるもんじゃな』
『口を閉じろ』
『閉じん。散々我を煩わせて、忠言に耳も貸さずに負けて』
『貴様……!』
『黙 れ! 貴 様 は! 勝てるレースを負けたんじゃ! 泣きっ面を眺めれば良いと言った我が愚かであったわ! 増上慢甚だしい!』
途端、宇田川がブッチギレた。
あれだけの大声が出るのかと、池川は驚いたし、普段のコントを見ている厩舎の馬もただ事ではないと、耳を絞っている。
『我は天馬……』
『何が天馬か! 我の牧場でほっつき歩いとるわ!』
※宇田川ことヴーヴァは馬神として、天上馬を管理する立場である。決して、ヴーヴァの牧場があるわけではない。
『……』
宇田川の迫力に、流石のオルフェとて尻込みする。
それに、言い分としては正しいのだ。
どれだけ宇田川が修練を求めても、それを拒否したのは他でもないオルフェである。
『ドリーム! 兄として何か言ってやれ!』
宇田川としては、援軍を求めたつもりだった。
『宇田川、君の言い分は正しい。でも、貴様は殺す』
殺気。
濃厚な殺気だ。
『君は、弟を担当したんだ。それで負けた。理由は、十分すぎるほどにあるんじゃないかな』
もし“エリン”であれば、数百発はトリガーを引いている。
そうヴーヴァに確信させるほどの――。
「すみませーん! イケゾエです!」
その空気は一人の男によって中断させられた。
ドリームの、そしてオルフェの鞍上である伊家添騎手である。
「何の用だ」
宇田川がそっけなく問うと、イケゾエはあっけらかんとした様子で答えた。
「いやー。前回があれだったので。オルフェを見に来ました」
「アイツはもう駄目じゃぞ」
「そうかなあ?」
テクテクと。
警戒心の欠片もない歩調でオルフェに近づいた。
「オルフェ。今回はダメだったな」
なでなで。
「俺の指示を無視しただろ? 勝てるって思ったんだけどね」
なでなで。
「なーに、やつらは別路線で走るんだ! こっちも、力を付けて、絶対にリベンジだ!」
ナデナデ。
「年末の有馬か、来年の国際レースか。機会はいくらでもある」
ナデリコ。
「勝とうぜ……相棒」
撫でり。
しばらく、オルフェはイケゾエに身を任せていたが、口を開いた。
『宇田川、すまなかった。だが、こいつに勝ちを下賜したい。我を、強くしてくれ』
『その言葉を待っていた』
『ほら行くぞ、相棒』
オルフェは躊躇なく、撫でるイケゾエに前足でケリを放ち、それは過たず腹に突き刺さった。
だが、矢田道場に三か月居るのだ。
カッチリしていた腹筋は、ガッチリしているのだ。
反射的に腹筋防御をしたイケゾエは、多少の苦悶の表情を浮かべても、悶絶して寝っ転がる無様は晒さない。
「痛ッつ、突然だな……これから走るのかい?」
「こやつも、ようやく競走馬だ。我が指導してやる」
そりゃ有難い、とイケゾエと宇田川がオルフェと連れ立ってコースに出るのを、ドリームは見送った。
『大きくなったな、イケゾエ』
後方彼氏面どころか、後方師匠面をしているのである。
『あとで、俺の所にもコイ』
否、後方ヤンデレ風味である。
「イケゾエ、こいつの強みは何だ」
宇田川もとい、ヴーヴァの練習が始まる。
「色々ありますけど……追い込みの強さですかね、宇田川さん」
「ババだ」
「え?」
「我の本名は馬場だ。真名に近いが、我らはチームだ。そう呼ぶことを許す」
ヴァヴァと、ヴーヴァは言ったつもりであったが、ババに変換される。
「ええ、と。馬場さん」
「よろしい。オルフェも同じ意見か?」
『違う。レースを運べる支配力だ』
「それは両方の意見が大体正しい。オルフェは、最高速度と頭の良さに長ける」
「頭が良いのに、僕には踏んだり蹴ったりだよね」
イケゾエの独り言は風に紛れた。
「オルフェの走り方は、条件付きで勝利の方程式を組んでいるのに等しい。例えば、最後の何メートルで、何馬身であれば勝てる、という計算じゃな」
『フム。その通りだ』
「へえ、馬って、それだけ考えるんだ」
「安心しろ。こいつだけじゃ」
「安心した。それでどういうことです?」
「こいつが負けた先のレース。こいつの計算が狂ったのが根本的な敗因じゃ」
「え?」『は?』
「オルフェは、走りながら相手の競争能力をある程度見抜くことができる。その能力自体は評価してやろう。だが、そこを逆手に取られたんじゃ」
「ああ、そういうことか」
『んん? 詳しく説明してくれ』
「イケゾエはもう気が付いたか。オルフェ、あのレースでイケゾエが鞭を打ったタイミングを覚えているか?」
『中盤の最初で一度、中盤の最後で一度、あとは追い込みで複数だ。我の美尻を何だと思っているのか』
「イケゾエ、説明してくれ」
「OK。一回目は、イエモが“意図的に下げた場面”。二度目はアヤラが“イエモの仕掛けを利用しようとした場面”だ。両方とも、先手を取れれば優位に立てる局面ではあったからね。追い込みの足が多少落ちようとも、特に二回目に関してはあの場面で先手を取れれば負けることは無いと思っていた」
「そういうことだ、オルフェ。貴様は、相手に研究されていた。“相手の競争能力を見て走る馬だ”と感づかれていたのだ。だから欺瞞策を取った。オルフェの勝利の方程式に代入される数値を偽ったんじゃな。その上で、鞍上の指示も聞かずにレースをして負けている。貴様の頭の良さは表裏一体というわけじゃな」
『我はどうすれば良かったのだ』
「先のレースでは、イケゾエの指示に従えば勝てたかもしれん。だが、今後のレースではむしろ、オルフェの感覚が正しいかもしれん。いずれにせよ、人馬一体の呼吸を目指すのが一先ずの目標じゃ」
「オルフェと、人馬一体か」
『イケゾエが我に合わせれば……否、それでは人馬一体ではないか』
「その通り。見本を見せたいが……今は無理じゃな」
「それって、モモとエリン……」
「否、そのペアで挑んだ漆黒の馬が居るじゃろう? コクトーという名じゃが、モモの本来の愛馬はやつじゃ」
「マジか……あれ以上があるのか」
『ほう、挑んでみたいものだ』
イケゾエの士気が上がった!
オルフェの士気が上がった!
それから、イケゾエは時折奇妙な夢を見る。
デュランダー
スイープ
ドリーム
そして、オルフェ。
たった一頭の馬に挑んでは、惨敗する夢だ。
その鞍上に、人影はない。
あたかも、『貴様ら相手に、鞍上など要らぬ』と言われているかのように。
目が覚めると、不思議と、体は軽い。
彼ら彼女らに乗っていた期間は、わずかだ。
今では、レースに出場できるのはオルフェのみ。
だからこそ、自分の相棒たちと、挑みかかれるのが嬉しくて、負けるのが悔しくて仕方がないのかもしれない。
何度も、何度も、同じような夢を見る。
ついには、デュランダーが腰の聖剣を抜いてコクトーに切りかかった
(いったれ! 斬馬刀!)
僕のツッコミ能力は、夢では失われるらしい。
切りかかってはいけないとか、
何処にそのブットい聖剣があったんだとか、
馬の腰ってどこだよ、とか。
聖剣は、コクトーの体毛で弾かれ、真っ二つに折れた。
スイープは魔法を使いだした。
禁じられた魔法を躊躇なく使う様に、正直笑った。
スイープらしいなあ。
と、思うのと同時、僕は即死魔法を食らった。
目覚めた僕は、本当にスイープじゃないか、と思った。
ドリームは、重火器を持ち込んでいた。
「やっこさん、なかなか硬いですね」
と言いながら、弾丸の雨を眉一つ動かさずにぶち込めるのだから、恐れ入る。
最後はボクと一緒に爆死して、満足そうに笑みを浮かべた。
「あとは、オルフェとあなたに任せましょう」
夢の中でもオルフェはオルフェだ。
正々堂々と戦い、正々堂々と負け続けた。
『次だ、臣下。我の能力不足は良い。戦術面で不足は無かったか?』
あれだ、これだ。
敗因はいくつも見つかる。
どうすればいい。
『我に聞け』
宇田川、もとい馬場が夢の中でも助言をくれる。
ほうほう、ふむふむ。
夢の中では、ボクとオルフェは会話することができる。
アレコレと言い合って、対策をコクトーにぶつけては、また負けて。
だけど、馬場には、段々と腹が立ってくる。
助言は的確だけど、お前は騎乗してないじゃないか。
完全な八つ当たりである。
『君が、馬か鞍上であれば、メタクソにしてやるよ』
ある時、夢の中で僕がそう言うと、
非常に、非常に嬉しそうな表情で、馬場は笑った。
『その意気やよし。我が、鞍上モモで迎え撃ってやる。貴様らが権利を得たらな』
ああ、楽しみにしておけよ。
それ以来、コクトーの夢を見ない。
2011年 11月
オルフェは、牡馬三冠を達成した。
残念ながら、無敗とはいかなかったけれど、それは良い。
年末、有馬記念。
イエモシュンザン 米国三冠+ジャパンカップ王者
アヤラコウラン 牝馬三冠+エリザベス女王杯
オルフェーヴルウ 牡馬三冠
空前絶後の三冠三頭対決である。
シュンザン有利と目されているが、格上相手の対戦は散々積んでいるんだ。
それはそれとして、聖地巡礼だ
伊右衛門牧場に、モモが来ているらしい。
行こうぜ、オルフェ。
『触るな、恥ずかしいやつ』
段々とオルフェの幻聴が聞こえてくるのだから、僕も大したものだ。
驚くべきことに、伊右衛門牧場はまた様変わりしていた。
観光地兼、養育施設兼、何故か馬の慰労施設でもある。
温泉(人用)と温泉(馬用)と、コースと訓練所と。
『我はあそこに行く』
脳内のオルフェがそう言うので、申し込む。
すぐに使えるらしい。
僕はオルフェを馬温泉に突っ込むと、人温泉で寛いでいる。
「イケゾエ君、随分とリラックスしているじゃないか」
人温泉には人が来る。
当たり前だ。
「猛騎手、お疲れ様です!」
直ぐに直立不動の体勢になる。
基本、運動部というのは体育会系であって、競馬の世界もそうである。
基本的には。
「おいおい、猛。イケゾエが可哀そうじゃないか」
恵比寿騎手が入ってくるものだから、ますます気が抜けない。
僕の休日はどこに行った。
「さて。今更、探りを入れようとは思わないよ」
「そうだな。ざっくり聞くよ」
「「オルフェは強いか?」」
大先輩二人の圧は強い。
だけど、馬場の本気に比べればマシだ。
「強いです」
僕は言い切った。
「世界一、オルフェーヴルウは強いです」
大先輩二人は、それを聞いて顔を見合わせた。
そして、呵々大笑した。
僕はそれについていけない。
だが、追従笑いもしない。
それが矜持だ。
「これは、手強い」
「本気で、行かせてもらうよ」
「全力で、挑ませてもらいます」
男三人、素っ裸。
闘気と意地がぶつかり合う。
伊右衛門牧場、本浴場。
一時間後。
僕たちは、休憩場に隣接してる食堂でビールを飲んでいるのである。
風呂上がりの一杯は、百万の罪より尊し。
百万も罪は重ねていない。
冷奴をパクリといった武騎手に、問うた。
「人馬一体とは、何でしょうね」
武騎手はあっさりと答えた。
「ディープと僕。本当は、サイレンスと僕、と答えたいけど」
恵比寿も話題に乗っかる。
「僕は浮気性だからね。馬に勝たせてもらうか、僕の戦略に乗せるか、だ」
うーん、と。
どうやら僕の考える答えはここには無いぞ、と思う。
「もしかして、オルフェーヴルウと上手くいってない?」
さっき、風呂で探りを入れないと言っていた大先輩が、聞いてくる。
「そうじゃないんですが。……コクトーって知ってますよね」
大先輩方が、間髪入れずに答える。
「見てるよ」
「その時、君も居たじゃないか」
少し、ほっとした。
僕の幻覚ではないのだと。
「僕の話は、少し、いや大分馬鹿馬鹿しいのですが……」
どうせ酒の席だ。
ぶちまけちまえ。
「……で、ですね。“資格さえ満たせば”、モモが鞍上の馬場と戦えると、ハハハ」
自分で言っていて、何と馬鹿らしい事か、と自嘲する。
だが、僕は見誤っていた。
大先輩は、二人して僕に関節を決めに来ている。
「良い情報ですね、エビスさん」
「ええ、本当に。ええ、本当に」
お二方とも、眼が座っている。
おかしいな、ビールは二杯程度しか飲んでないじゃないですか。
「“モモ”と戦える権利! イケゾエは良く分かって無いですねえ」
武騎手は口調が変になっている。
「教育が必要だ」
恵比寿騎手に至っては、キャラそのものが変わっている。
「「少し、オハナシをしようじゃないか」」
僕は大先輩二人に根掘り葉掘りで、眠る時間は無かった。
2011年 12月末
有馬記念。
史上最高の、有馬記念だ。
イエモシュンザン
アヤラコウラン
オルフェーヴルウ
三冠馬が三頭という、矛盾した表現。
だからこそ、盛り上がる。
可児塚厩舎でも、池川厩舎でも、もれなく百々(チート)は封印となっている。
矢田先生は僕らの先生であり、ある意味中立である。
なので、可児塚厩舎対、池川厩舎という図式ではある。
だが、育成環境に関して僕は劣っていないと口を大にして言いたい。
「勝てるか、と我に聞くのか」
「走れば分かる」
「貴様が最強? ハ! 良くて三番手だ」
「噛むな!」
いつも通り、宇田川こと馬場は、オルフェとアホなコントをしている。
馬場は、本当に馬と意思疎通できると、僕は確信している。
オルフェだけではなく、ドリームだって、馬場といるときには大人しくしているのだ。
僕と会うと、両馬共に蹴ったり噛みついたりするのは何でだろう?
馬場は愛情表現だと言っていたけど。
「さて、イケゾエ。阿保が心配していたぞ? 勝てるのかと」
一切の不安を見せない馬場の眼差しに、敗北の二文字は無い。
「勝てるでしょ」
僕は軽口を言った。
軽口を装ったが、本気だ。
「よし」
馬場は、それだけ答えた。
満席の観客。
怒涛のような声援、もしくは怒号。
慣れたものだ。
それは、ライバルたちも同じようで。
イエモシュンザン 鞍上 猛
アヤラコウラン 鞍上 恵比寿
シュンザンの方は海外では違う騎手で走っているが、十分に慣らしたようで人馬の間に齟齬は一切見えない。
コウランは言うまでもない。デビュー戦から、ずっと恵比寿騎手だ。
「怖いか」
僕はオルフェに聞いた。
「僕は怖いよ」
本音を言った。
途端、オルフェは僕を振り落としにかかり、逆らわずに振り落とされて着地した。
眼前には、彼の目玉が、僕を見据えている。
「僕は、怖い」
「君の全力に、僕が付いていけるのかが、怖いんだ」
「オルフェは、絶対に勝つ」
「だけど、僕は君の相棒でいていいのかな?」
下らん。とばかりに、オルフェは僕の首根っこを咥え、さっさと乗れと促した。
『貴様以外が乗れば、全身骨折ぞ』
また、幻聴が聞こえた。
僕は、勝てる、と思った。
猛豊は、イエモシュンザンの鞍上で、気を落ち着けていた。
素晴らしい馬。
米国三冠に、ジャパンカップ制覇。
強い。
ディープですら果たしていない快挙を成し遂げている。
だが、恵比寿騎手もそうだが、可児塚厩舎は一切の油断をしていない。
「宇田川には気を付けろ。アイツがあんだけ入れ込んだ以上、資質は本物だ」
モモに押し付けられた形でオルフェーヴルウを見ることになったらしいが。
それを継続している以上、ヤツを魅せる何かがあるに違いない。
矢田先生はそう言っていた。
だからこそ、狙い目は鞍上のイケゾエ君だと思っていたのだが……。
「これは、期待できないかな」
目の前の人馬を見れば、イケゾエ君が“穴”だなんて思えそうにない。
一度振り落とした時には、悲鳴が上がったが、
『おっと、オルフェーヴルウ! 勝利のパフォーマンスを出走前に! これは勝利宣言でしょうか!』
などと実況が口にするくらいには、日常茶飯事ではある。
“勝ち馬になると、振り落とす馬”
オルフェーヴルウは、そんな認識だ。
だが、僕の視線はそこにはない。
再びイケゾエ君が跨った時、不意にエリンとモモを思い出した。
あの“漆黒の巨馬”に挑みかからんとする、人馬の姿を。
彼は、彼らは今日。
挑戦者として、このターフに居る。
僕の緊張感を敏感に察知したシュンザンが嘶いた。
「シュンザン。相手は、強敵だ」
無敗であることが、良い事か、どうなのか。
数分後には、僕もシュンザンも、そして観客も。
その答えを得るだろう。
優駿 年末特別号
そこに寄港された記事は、等身大の彼らを綴っている。
『僕らの闘い』 伊家添騎手
有馬記念 優勝
「皆さんの応援のおかげで、僕たちはここまで来ました。
オルフェは、それはもう癖の強い馬で、指導員の宇田川先生? も癖の強い人で。
そんな僕らで二人三脚、三人六脚でやってきました。
有馬という栄誉は最高の名誉ですが、それでも僕たちの闘いは続いていきます。
実のところ、この世界にはテレビゲームのRPGで言うところの、“裏ボス”が存在します。
ゲームをクリアして、最後のボスを倒して大団円。
そこまで強くなった主人公たちでも、尚、力及ばす倒れるモノ。
挑みかかるものを待ち受けるモノ。
それが、裏ボスです。
僕の目標は、その“裏ボス”に、オルフェーヴルウに乗って勝つことです。
敢えて相手についての明言はしません。
僕たちは“裏ボス”から挑戦権のチケットを貰いました。
後は、その挑戦の資格を得ることが、来年以降の目標となるでしょう。
僕らは戦い続けます。
いや、挑み続けると言った方が良いのかもしれません。
僕たちは、いつまでも挑戦者なんです。
シュンザンとレディー二世を軽視しているわけではありません。
彼と彼女も、別の“裏ボス”から挑戦権のチケットを貰っていると聞いていますから、ある意味では不可能に挑戦し続ける同士であり、ライバルであると思っています。
タイトルの“僕ら”とは、そういう意味です。
来年、更に僕たちの挑戦は白熱することでしょう。
僕たち同士のライバル対決もまた。
僕たちは挑み、もしかしたら、敗北で終わるかもしれません。
それもまた、僕らの道の果てかもしれません。
ですが、僕は、僕らは、本気で勝ちに行きます。
覚悟してください。」
「ふふ……ふはっはは! かかってくるがいい、イケゾエ」
池川厩舎でそれを読んだヴーヴァはご満悦である。
「で、宇田川。説明してくれ」
同じくイケゾエの寄稿文を読んだ厩舎主が問うと、宇田川は上機嫌に口を開いた。
「ま、どうせ“あの白馬”がエファーだと知っているから言ってやるが、我も同じような存在だという事だな」
トンデモない爆弾発言だが、池川はそういう“オカルト”にすでに慣れ切っていた。
「何となくは察していたが……オルフェ相手に手心を加える気も無いんだろ?」
「愚問だ」
フンス、と鼻息荒い宇田川に、池川は『そういうやつだよな』と変に納得した。
「で、ウチのオルフェに勝算は?」
「100%無い。那由他の果てでも、一勝すら無い。我とオルフェにはそれほどの差がある」
「ふうむ? おかしな話だ。負けの存在しない闘いなど、宇田川の好みではないと思ったが」
それを聞いて、宇田川は“我が意を得たり”とばかりに大きく頷いた。
「“今”は、な。那由他より一筋の勝機を。文字通り、不可能を可能にする挑戦を、イケゾエの言う“僕ら”は選んだのだ。これほど嬉しいことは無い」
池川はその瞳に、強い好奇と、闘志を見た。
イカ焼きを食っている普段の彼女の本性を見た気がした。
「じゃ、俺はモモに連絡するわ」
「それはイカん。エリンでコクトー相手に引き分けるチーターを使ってはならんぞ」
こいつら基準でもモモは反則なのか。
池川はディープの時代に偶然声を掛けた自分の豪運を思い知った。
2012年。
海外レースも含め、三頭の嵐が吹き荒れた。
イエモシュンザン BCターフ
アヤラコウラン ドバイワールドカップ
オルフェーヴルウ 凱旋門賞
純粋な賞金的な意味では、コウランがトップの成績である。
だが、シュンザンのドイツ蹂躙とアメリカGⅠ制覇。
オルフェーヴルウの英仏冠独占という偉業もまた、遜色ない実績である。
『もう来ないでくれ』
とヨーロッパの競馬関係者は思った。
『次も来てくれ』
と中東競馬関係者は思った。
『荒らすのはサッカーだけにしてくれ』
とアメリカの競馬関係者は思った。
“イエモ”は確かに、アメリカ人の一部にとって忘れられない名前である。
2012年 秋。
地方競馬に、伝説のレースが生まれた。
園田競馬場。
ラスト三レースは、間違っても地方競馬でやっていい対決ではない。
JCも、天皇賞すら出走しなかった名馬が、出走する。
『伊右衛門・綾鷲記念』
イエモシュンザン VS XXX
アヤラコウラン VS XXX
オルフェーヴルウ VS XXX
各レース、出走頭数、2。
文字通りタイマンレースであり、馬券購入は配当が一切ない記念馬券のみの販売となった。
だが、会場は満場。
記念馬券は即時売り切れとなった。
優駿の記事を読んでいた観衆は、待ち望んでいたのだ。
“裏ボス”の姿を。
挑戦者の姿を。
最高の、死闘を。
ちなみに、こっそりと、何処かのジョウオウヘイカや、何処かのテンノウヘイカや、何処かのプレジデントや、何処かのオウデンカが会場入りしていたことを追記しておく。
『さーてさて。シュンザンとの一騎打ちじゃ。ま、気楽にやれよ』
『うるさい』
その日の『伊右衛門・綾鷲記念』は、他の名で呼ばれていた。
天上杯、である。
裏ボス杯、という意見はあったらしいが、どうも俗っぽいという事で却下されたらしい。
天上杯、第一レース。
イエモシュンザンVSエリン。
出走馬登録できないエリンが何故ここで走ることができるのか。
地方競馬のレギュレーションがガバガバナンスというわけではない。
特例として、JRAが許可したというだけのお目こぼしに過ぎない。
「エリンか。あの黒馬に比肩する馬が相手とは、光栄だね」
猛騎手は、それでもやりようはある、という構えである。
純粋に“走り”のスペックを比較した場合、あとから出てくる馬の方が高性能ではある。
実際、ディープを相棒にしてエファーに挑んた猛は、その辺りは正確に把握していることだろう。
そんな猛を目の前にして、エリンは涼しい顔である。
自分に勝てるかもしれない、と目の前で思っている猛に、エリンはしかして。
『シュンザンは私が育てたようなもの。勝てる道理はないわ』
シュンザンの指導をほとんどエファーがしていたという事実を差し置いて、鼻高々に勝利宣言である。
『お久しぶりです、百々殿』
シュンザンはワシらに挨拶をしに来た。
『おお、あのガキンチョがのう』
『いえ、出産時に立ち会ってもらって以来ですから、某のガキンチョ時代は知らないはずでは』
見ての通りの堅物である。
『シュンザ。胸を貸してあげる』
『エリン殿。微力ながら、全力で向かわせていただきます』
シュンザンの闘気に、エリンも気分が良い。
『モモ、手を抜いたら』
『ワシに不要な注文じゃな』
言われなくとも、全力で答えてやるわい。
そうして、第一レース、第二レースが終わった。
エファーもといエーちゃんが走った第二レースの歓声はまるで大瀑布の様でもあり、大震撼のようでもあった。
そして、天上杯はラストレースとなるのである。
エリンもエーちゃんも、観客は一度は見ているのだ。
だから、第三レースで何が出てくるのか、想像もつかない。
想像がつかないから、胸が高鳴るのだ。
「オルフェ、ついに来たぞ」
イケゾエは、いよいよ“馬場”と戦えるとなって、まるで初めてプロの戦場に立ったかのような心持で相棒を撫でた。
いつもは気難しい相棒も、黙ってされるがままに、否、これからの死闘に集中している。
いつも、遊んでいた相手。
いつも、叱られていた相手。
いつも、傍にいた相手。
馬場。
どれほど強いのか。どうレースを組み立てるのか。イケゾエの頭では、様々な思念が渦巻いている。
(これが本気のババか。我にとって不足なし)
レース場に向かう地下道の先から、すでに尋常ではない気配がする。
思わずオルフェは足を止めた。
多くの人の声がする。
立ち止まり、気が付けば足元が揺れている。
ニンゲンがスタジアム全体を震わせているのだ。
(イケゾエ、貴様は)
行けるのか?
オルフェはブツブツ言っている自分の背中に耳を傾けた。
「この展開もダメ。……先に……並んで……これもダメか。……」
ブツブツ言っている。
こんな姿は、走り辛かったレース(※オルフェは知らないが、凱旋門賞である)でも、見たことは無い。
昨年の大き目なレース(※オルフェは以下略、有馬記念)以来である。
(我と、相棒次第だ。)
相棒がいくら策を練ろうと、恐らくババとモモには通用せんだろう。
小手先なんぞ効かない相手だ。分かっている。
オルフェは、イケゾエを振り落とした。
再び騎乗しようとする相棒を拒否して、そのまま戦場へ促す。
イケゾエは、言う事を聞かないオルフェの馬体を一度、叩いた。
「すまん。ビビってた」
そうして、騎乗せぬままに決戦場へと向かった。
そこで、信じられないものを見た。
対戦相手は、手綱すら着けていない。
鞍と鐙だけの姿で、イケゾエ達を待っていた。
モモは、その傍で洋々とした気配で以って地面に立っているのだ。
『なんだ、あの馬は』
アラン=スティーブンが呆然とそう言うのを、さもありなんとスタウトは聴いていた。
天上杯の一戦目と二戦目。
素晴らしい白馬が二連戦で、圧倒的な力量でBCとドバイを千切った馬を一閃したのだ。
その三戦目。
“VAVA”と言う馬は、まるで。
(能力と、気性と……いや、そんな陳腐な例えは要らない。馬の理想形だ、こいつは)
ワークフォーズは昨年のあのレースを優勝して引退した。
イエモ陣営が如何に驚異的なトコロか、分かってはいたはずだった。
深紅。
血よりも深い、悪魔のような深淵の紅さだ。
だが、驚いたのはそれだけではない。
挑戦者を待ち受けるように、先に入場したVAVAとモモは。
“手綱すら無しに”睥睨するような立ち位置で待ち構えるように立っていたのだ。
『俺のワークを勝たせた奴だな』
スタウトは少しの敗北感で以って、そう言った。
『俺のエレクトロも世話になったな』
対して、アランは爛々と目を輝かせている。
恐らく、アランにとって興味があるのは、その走りなのだろう。
だが、スタウトは別の事を考えている。
(もし、ここで(深紅馬)スカーレットホースで勝ったとして。馬の性能を称える声もあるだろうが。俺ならすぐさまモモの抱き込みにかかるぜ)
スタウトの考えは半分正解で、半分不正解であった。
『よう、久しぶりじゃな。モモじゃ』
『我に挨拶は不要だ。掛かってくるがいい』
『我はオルフェーヴルウ。貴様らを、今日、討ち果たす名だ』
「騎手のイケゾエです」
イケゾエは、腹を括っていた。
最悪で、“オルフェが死ぬ”という事態さえ起こさなければ、どうにでもなるだろう。
“自分が死ぬ”事を最悪の事態でないと思うほどに、イケゾエは可笑しくなっている。
それに、イケゾエとしては、“たかが落馬くらいで死なない”という自信がある。
何人の騎馬民族が、落馬が原因で死んでいるのかは、彼の頭にはない。
矢田道場とは、そういうところである。
「ところで、ジャジャ馬。“天才”とは知っているか?」
『我の事だ』
間髪入れずに、オルフェは答えた。
モモはしばらく笑った。
「宇田川、オルフェはこう言っているぞ」
『そういう奴だ。言わせておけ』
「そうじゃな」
人馬でワイワイ言っているのに、イケゾエは口を挟んだ。
「モモ君、天才とは、君の事だ」
途端、人も馬も口を開かない。
無言。促されるように、続けた。
「君ほどの騎乗の才能を、僕は見たことが無い。もし君が明日にでも公式にライセンスを取るならば、“僕の”オルフェさえ僕は鞍上の資格を失うかもしれない。それほどの才能だ」
本心だ。嫉妬もある。
「でも、僕は、君に勝つ」
本心だ。虚勢もある。
「ほれ、見たか」
『ああ、見たな』
モモと馬場は、向き合って笑った。
その様子を、オルフェは『やれやれ』とばかりに首を振った。
振った首はバシバシとイケゾエに当たる。正直痛い。
「イケゾエ。ワシの眼は間違いなかったな」
モモは尊大に笑った。
大バカ者を見る目であって、同族を見る目でもある。
「天才は、存在しない。ただの記号に過ぎない」
だから、
「“諦めの悪いやつ”は、天才だと言われる事が多い」
単なる事実を語るのだ。
「ワシらに勝てば、間違いなく貴様が天才だ、イケゾエ」
優駿 特別企画
対談、今年の三人
猛騎手
恵比寿騎手
伊家添騎手
年始、とある居酒屋で私たちは席を設けた。
多忙である三人は、何気なく入って来た。
「寒いね、ほんと」
――猛騎手。昨年の有馬は記憶に新しいだろう。シュンザンの雪辱戦で優勝したジョッキー界の生ける伝説である。
「良い料理が出てくるって、君はワクワクしていたじゃないか」
――恵比寿騎手。昨年の最多獲得賞金を得たジョッキーであり、イエモの牝馬と言えばこの男である。
「先輩方、まずは熱燗ですか」
――伊家添騎手。“あの赫馬”との戦いは、読者諸兄も記憶に新しいだろう。
まずは、乾杯。
なお、今回の接待費用は綾鷲グループから頂いている。つまり、コウランのオーナーからの頂き物である。
『お疲れさんだあ。こいつで美味いモノを飲み食いさせて、労ってくれや』
年末、コウランのオーナーから言われて、分厚い、万券がぎっしりと詰まった封筒を手渡された編集長に、否やは無いのである。
実質予算無制限。
と言うより、仮に銀座で好き勝手に豪遊したとしても、この資本金が尽きることは無いだろう。それだけの額である。
なので、予算面での制約が無い、というより遠慮したらこちらが〆られる事情を、コウランのオーナーの件も明かしたうえで、お三方には説明している。
記者である私も含めて、お店で最もお高い日本酒の熱燗でカンパイである。
なお、予算面ではかすり傷すらつかない。
「勝ったなあ、有馬」
太々しくも、猛騎手から口火を切った。珍しい、もしくはこちらが素の表情だろうか。
「オルフェは、まあ。あれでしたからね」
苦笑するのは伊家添騎手だ。“見えない何か”を追いかけるように大逃げを打って、最終的にはシュンザンとコウランにぶっ刺されて三着である。気持ちは分かる気がする。
「ランは、落ち着いてましたよ。シュンザンの成長を見誤りましたね」
オルフェのハイペースを利用したのはコウランの恵比寿騎手も同様だったか。
だが、シュンザンには一歩及ばなかった。
「見に行き過ぎたんじゃないですか?」
「年間ジョッキー様には頭が上がりませんね」
猛騎手は先輩を揶揄い、恵比寿騎手もフッとカウンターを決める。
夜は長いのだ。
「しっかし、強いよなー」
お酒が入り始めてどのくらい経ったのか。
表向きの取材の分量はすでに稼いでいるので、あとは人の金で好き勝手に飲み食いする場に変わっていた。
僕も完全にプライベート状態であって、ふと思ったことを口にしてしまった。
「エリン、エーチャン、VAVA。そういえば、お三方は……」
口を噤んだ。
対面で飲んでいた三人が、真剣な表情だったからだ。
当代を代表するジョッキーが、臍を嚙んでいるのだ。
「あれは、僕のミスだ」
最初に口を開いたのは猛騎手だった。
「エリンの戦闘能力を把握していた、と勘違いしていたんだ。彼女の全力の闘いを目の前で見ていたからね。だから、そこが最高到達点だと思い込んでいたのが、僕らの敗因だ」
心底悔いるように、年間ジョッキーが吐露する。
このレベルであっても、なお、山の裾である。
「俺の方は、まあ。エーチャンだからな」
恵比寿騎手は、変わってカラッとしたものだ。
「ランも凄い馬なんだが……エーチャンを師匠と思ってるからな。デカいレース場で、師匠とレースで、満足しちまったのかな。その本人が……本馬か? 自己レコードを叩きだしたのは良いかもしれねえが、万が一にも勝てる気はしないな」
言って、グイッと手元のお猪口を飲み干して、手酌である。
その視線は、最後の一人に向けられている。
「いやー。強すぎでしょ」
軽い口調にはそぐわない、重い色がそこにはあった。
当然、そのレースを猛騎手も恵比寿騎手も、僕も見ている。
だから知っている。
“レースにしてもらった”。
そんな、屈辱としか言えない内容であることも。
ずっと、一馬身。
初めから、最後まで、一馬身。
オルフェーヴルウの戦闘力を知っている競馬関係者であれば、鼻血を吹くようなレース内容である。
順行速度の序盤でも、最高速を発揮する追い込みの最終直線でも、一馬身なのである。
“舐めプ”。
その尻を追っていたオルフェーヴルウはどのような心境であったのか。
有馬で大暴走している時点で、答えは出ているのだ。
僕は、ICレコーダーの録音を切った。
彼らの目の前で。
僕が本当に聞きたいことを、個人的に聞くためだ。
「イエモ、モモ。彼は何者ですか」
「最もこっち(競馬)に来てほしくて、最もこっちに来てほしくない子かな。僕の懐が寒くなってしまう」
猛騎手は、冗談交じりに本音を言った。
「彼がこっちに来たら、直ぐに調教師に転向するね。で、彼の馬を預かる」
恵比寿騎手は、本気なのか冗談なのか分からない。
「恵比寿さん! それは酷いでしょう!」
良い年したオッサンのレスリングが開催されるが、幸いなことに個室である。外に醜聞が漏れることは無いだろう。
「モモは、いつだったか、“天才とは何か”を僕に訊いた」
伊家添騎手は、オッサンレスリングを見ないことにして答えた。
その返答に、おっさん共も解れ合いを中断して耳を傾けている。
「僕が、モモに“天才は君だ”と言った。彼はそれを、肯定しなかった」
一息。
「天才とは、記号に過ぎないと、モモは言った。ワシに勝てば僕が天才だとも言った。つまり――」
グイッと、お猪口ではなく徳利を飲み干して、イケゾエは言った。
「――彼は、リトマス試験紙じゃないかな」
良いことを言ったとイケゾエは思った。
数瞬後、先輩二人と記者に大笑いされるまでは。
2013年 年末
結果的に、イケゾエは“天才”になることなく、オルフェの引退式を迎えることになった。
イエモシュンザン BCC優勝
アヤラコウラン サウジ・ドバイワールドカップ優勝
オルフェーヴルウ 英仏冠連覇
この三頭が勇退とあっては、競馬場に詰め込めるだけの人を詰め込んでも、まだ足りない。
ちなみに、ここには何処かのジョウオウヘイカ以下略。
観客は、待ち望んでいる。
騎手もまた、待ち望んでいる。
オーナーも、貴賓室の尊い人たちも。
イエモシュンザンの傍には、ヤツが居るのだ。
ディープとレディーとハーツの引退式を、覚えていない人間は、ここには居ない。
まず、やるだろう。
きっと、やるだろう。
やってくれ。
ディープ連合VSエーチャンの闘いに脳を焼かれた人間は、それなりに多いのだ。
各陣営の挨拶が終わった後、自然な動作でアナウンサーがモモにマイクを渡した。
いい仕事だ、ボーナスをやる、と。ある程度の人間は思った。
「伊右衛門、百々じゃ」
大歓声。これから起きるエンターテインメントに、心を躍らせる人々の叫びである。
「さて、こいつらも走りたいらしいから、相手を用意してやったぞ」
オオオオオォォォォォ!!!
「ワシじゃ!」
ウオオオオオオ!
「馬なんぞ要らん。ワシが、この三頭を千切ってやる」
無音。
しばらく。
「ふざけんな!」
「お前の走力は知ってるよ!」
「だけどそうじゃねーだろ!」
「馬を出せ! 馬を!」
「そうだ!」
10万人以上の罵倒を受けたことが、諸君にはあるだろうか。
モモは首を振った。
「じゃろうな。さて、イエモレディー、という馬を知っているか?」
知らないはずがない。
伝説の無敗馬ディープと、海外路線を切り開いたハーツのライバルである名牝であり、現にシュンザンとコウランの母でもあるのだ。
「では、初お目見えじゃな。イエモレディー2009。知るはずがない。こいつでワシは戦ってやろう」
「アイツを出してくるのか」
獅子座先生が苦虫を噛む表情で言うのを、コウランから最も近かった恵比寿は聞いた。
「どういうことです?」
獅子座は頭を振った。そして、言う。
「悪いが、勝利は諦めてくれ」
カチンときた。だが、理性的な部分が質問した。
「理由を聞かせてください」
「レディー2009。霊馬だ。つまり」
獅子座は、これから自分の仕事が確定しているように、非常に硬い表情である。
「コクトーを疑似的に“降ろす”ことができる。肉体的なケアは私ができるが……」
恵比寿は、その内心を慮った。
つまり、コクトー。
世界最強と、獅子座と矢田と、宇田川が認める存在。
モモの、愛馬。
つまり、“本当の裏ボス”である。
で、あるならば、獅子座が気にしているのは、“私たち”だ。
獅子座は言っているのだ。
コクトーを相手にすれば、競馬を辞めかねないと。
心を圧し折られると。
獅子座の良心には申し訳ないが、恵比寿も、その相棒も、この時を待っていただけだ。
仮に影すら踏ませないほどの差を付けられたとしても。
悔いはない。
競走馬 その伝説。
№88 イエモレディー2009
イエモレディー2009に、競走馬としての名は無い。
『イエモコクトレス』という名前が、彼女の名前である。
彼女は、公式戦を一戦も走らなかった。
あまりに鮮烈な一戦は、彼女が世界最強であるという証左となったかもしれない。
シュンザンとコウラン、オルフェを、その引退式で圧倒的な強さで千切ったからだ。
生涯戦績、一戦一勝。
非公式戦であるから、その記録すら公式には存在しないのだ。
【ウマ娘】総合スレ6005【なんじゃろホイ】
名無しのウマファン
さて、今回のピックアップは何でしょう
名無しのウマファン
オルフェーヴルウ希望
名無しのウマファン
ゴールドシップが出てきているから、年代縛りは無いんだろうな
名無しのウマファン
イエモシュンザン
アヤラコウラン
オルフェーヴルウ
奇跡の三頭を出してくれよ!
名無しのウマファン
ダメです
名無しのウマファン
ディープとレディーがまだ出てきて無いのでお察し
名無しのウマファン
何なら、ハーツクロウも出てないからな。
“SNSでハーツの実装を嘆願するクリフ”動画
名無しのウマファン
いきなり笑わせるな
名無しのウマファン
スカーレットシナリオで出てくるイカ焼き女が実装されているんだ。
オルフェは出てくるだろ
名無しのウマファン
オルフェの調教員をやっていたという
名無しのウマファン
獅子座先生を実装してくれ
名無しのウマファン
江風先生を実装してくれ
名無しのウマファン
江風先生?
名無しのウマファン
シュンザンとコウランの実質調教師だ。
ディープとレディーにも競馬を教えたらしい。
レジェンド級の美貌の調教師だ。
名無しのウマファン
ゲームバランスがね
名無しのウマファン
一気にヌルゲーと化しそう。
名無しのウマファン
エファー調教師はともかくとして、コクトレスを実装してほしい。
名無しのウマファン
単なるラスボス定期
名無しのウマファン
BCC制覇、凱旋門賞連覇、年度最高金額獲得を一刀両断した馬を?
無理だろ。
名無しのウマファン
コクトレスは“一戦しか走れない”って、公式から声明があるからな。
育成シナリオなら、難易度ナイトメアよ
名無しのウマファン
一戦だけで伝説ですがね……。
名無しのウマファン
あの一戦はな……。
凄く凄いレースではあったな
名無しのウマファン
負けた悔しさで、オルフェが鞍上を地面に叩きつけたからな
名無しのウマファン
いつもの
名無しのウマファン
馬に叩きつけられて、「チクショー!」って男泣きするのは胸に来た。
名無しのウマファン
俺は腹に来た。
お前、普通に事故ってんのに慟哭してんじゃねーよ。
名無しのウマファン
ガアン!(地面激突)
サッ(イケゾエが立ち上がる)
「ゴメンな! オルフェ!」(慟哭)だからな
改造人間だろ、アイツ。
名無しのウマファン
コクトレス実装は当分ないかな
名無しのウマファン
まず、シュンザンとコウラン、オルフェを先に実装かな
名無しのウマファン
おい、公式発表来たぞ
名無しのウマファン
イエモレディー実装!
そして、あの二頭も!
名無しのウマファン
は?
名無しのウマファン
嘘だろ?
名無しのウマファン
イエモレディーと、あと二頭。
非常に、覚えがある馬ですねえ。
名無しのウマファン
ディープとハーツだろこれ。
ってことは?
名無しのウマファン
凱旋門チャレンジの時間である。
名無しのウマファン
ハーツが出てくるってことは、あの人が実装されるのか?
名無しのウマファン
頼むぜ、獅子座を実装してくれ。
本当に頼む。
名無しのウマファン
ゴットハンド実装マジか!?
名無しのウマファン
有馬を忘れてないぞ、俺は
名無しのウマファン
笹針なんて御免だ。
俺の愛馬を頼む!
名無しのウマファン
シシザを出してくれ!
待ちきれないよ!
名無しのウマファン
“イエモレディー実装で狂喜乱舞する何処かの騎手”
名無しのウマファン
お前は、そうだろうな
名無しのウマファン
ハーツ実装の実質的な予告だからな
名無しのウマファン
公式アカウントでバチバチやっていて笑った。
名無しのウマファン
クリフ「引退式で、僕らが勝つ」
猛「言うね。僕はディープにつぎ込むよ」
恵比寿「レディーが実装したと聞きました。何万回でも、取得するまでガチャします」
怖いなぁ、ガチ勢は。
名無しのウマファン
脳を焼いた馬たちだからね、しょうがないね。




