飛ばぬ鳥の籠
赤い格子の籠の中。
飛べぬ鳥と飛ばぬ鳥。
一切買われて閨しても明けて去る鳥見送れば。
今日は今日で違う鳥一切買われて閨をする。
三味線の音に合わせてそんな唄が詠まれる遊郭を平松小十郎はフラフラと歩いていた。
酔いどれで足元は覚束なく頭はグルグルと回っていた。
ドンっと町人と肩が当たっても
「悪いな」
と言ってまた前へと進んだ。
この時、小十郎はこのまま何処かの何かに殺されてももう良いかと思っていたのである。
赤い格子のその向こうで遊女が笑みを浮かべている。
そう、買えぬと思ってずっと見ていた格子の向こうの美しい彼女の手を今日はどうしても取りたかったのだ。
小十郎は一軒の店の前に立つと黒地に美しい鶴を描いた古典柄の着物を来た格子を見て戸を潜った。
遊郭は吉原以外にも点在し、帯刀は許された士分でも一番低い身分の徒士や軽輩などが通うのはそういう吉原ほど高級ではない場所の遊郭である。
同じ徒士の友に連れられて小十郎が前に訪れたのがここであった。
深川のそれほど大きくはない遊郭である。
その中で見つけた天女と見紛う格子に一目で恋に落ちた。
いや、その格子の目に惹きつけられたのだ。
強い。
強い。
意志を秘めた眼に心を鷲掴みにされたのだ。
だから今日はその格子の手を掴みに来たのである。
小十郎が中に入ると女将が姿を見せた。
「これはこれは…今日は誰にいたします?」
小十郎はそう言って近づく亡八の女…つまり女将を一瞥すると中へ入り目当ての格子の前に立った。
「お、お前の一生を…買う!」
じ、自由にしてやる
酔いの回ったシドロモドロとした口調でそう告げた。
女将は驚くと
「ちょっと、お客さん…行き成りそんな話は」
と言いかけた。
格子も驚いたように小十郎を見て手にしていた扇子を膝の上に置くとふっと笑って
「ほう、幾らかかるか分かって言っているのかい?」
と告げた。
小十郎は懐から布に包んだ何枚もの小判を格子の前に置き、続いて袂からも小判をがさっと取り出して置いた。
格子は目を見開き
「おやおや、こりゃ一寸した絡繰り師のようだねぇ」
と小さく笑った。
小十郎は座りさらに反対の袂からも小判を出して
「これで」
と見つめた。
店の前ではこの騒ぎに人々が集まりざわざわと噂の声をたてていた。
女将は小十郎の出した小判を布に包んで立ち上がると
「遊郭には遊郭の仕来たりってのがあるのでね」
お客さんも淡路もこっちへ
と店の用心棒を横に二人を奥へと連れて行った。
小十郎は格子を見て
「淡路…か」
古事記だったら最初の神の名だな
と小さく笑った。
淡路は驚いたように見るとふっと笑って
「そりゃ、因果な名前だねぇ」
と小さく呟いた。
小判は全部で60両。
女将は腕を組むと
「60両で見受け出来るのは切見世か局見世だよ」
と息を吐き出した。
「淡路のような格子や太夫を見受けするなら1000両くらい持ってきな」
そう吐き捨てた。
小十郎は息を吐き出すとふらりと立ち上がり
「じゃあ、この金で淡路の好きに出来る時間をやってくれ」
と告げた。
「どうせ、あぶく銭だ」
あんたにやる
淡路は少し考え
「本気かい?」
60両とはいえ
「大層な金額だよ」
と立ち上がると60両を包んだ布を手にすると小十郎に握らせた。
「本気であたしを自由にしてくれるっていうのかい?」
本当はあんたという籠に入れたいだけじゃないのかい?
小十郎は強く見つめてくる淡路を見つめ返すと
「惚れた腫れたの気持ちはあるけどな」
そういう生きた目を見たかったのが一番だ
と苦く笑った。
「それさえ出来れば…もう良い」
淡路はふぅと息を吐き出すと腕を組み
「つまらない男だねぇ」
と言い
「店に乗り込んできてあたしを欲しいっていうくらいの意気込みに惚れたんだけどねぇ」
それじゃあ鳥を籠から出して鷹の餌にするような残酷なものじゃないか
「それで慈悲のつもりかい?」
と肩を竦めた。
小十郎はドカッと座ると
「じゃあ、どうしろと?」
と聞いた。
「俺は元々金持ちじゃねぇ…傘張りしている程度の徒士だ」
淡路はプッと笑うと
「じゃあ、一緒に傘張りくらいしろっていえねぇのかい?」
と実しやかに笑った。
「まあ、あたしは三味線を教えたりも出来るけどねぇ」
女将はあわわと慌てながら
「淡路!!」
お前のあのお方になんていえばいいんだい!!
と叫んだ。
淡路は平然と
「あたしの見受けすら考えない男など知りはしないね」
まあ
「場合によっちゃ袖で相手くらいはしてやるけどね」
と笑った。
女将は蒼褪めて
「淡路!!おまえは!」
と怒鳴った。
そこへ一人の身なりの良い若侍が姿を見せると
「淡路らしいな」
と笑い
「その残りの940両を私が払おう」
と告げた。
「それで淡路が袖で相手をしてくれるなら安いものだ」
どうだ?女将
小十郎はえ!?と驚くと酔い覚めと同時にサーと蒼褪め
「…それって…」
と固唾を飲みこんだ。
殆ど貴方が払ってるのでは?と心で突っ込んだ。
女将は一気にやつれたように脱力するとヘタヘタと座り込み
「淡路…あんた分って言ったんだねぇ」
と言い、淡路がふっと笑うのを見ると頭を振り
「60両でかまいません」
店が取りつぶしになっては夫に顔も向けられませんからね
と若侍に向いて両手をついて頭を下げた。
淡路は小十郎の手を握ると
「あたしはこれで自由の身」
あんたの好きなところへ連れて行っておくれ
と笑みを見せた。
小十郎はその手から伝わる温かさに頬を染めるとそっと握り返した。
「淡路は…飛べぬ鳥ではなく飛ばぬ鳥なのか?」
自由にはなりたくないのか?
淡路は笑うと
「自由っていうのは自分で決めることじゃないのかい?」
あたしはあたしを初めて欲しいと
「籠から出してやろうと言ってくれたあんたの手に留まるのが良いと思った鳥なのさ」
と答えた。
若侍はふっと笑って背を向けると
「今日は淡路をと思ったが…淡路の心がそうなら仕方があるまい」
と言い
「またな」
と立ち去った。
そして、店の前で控えていた侍の二人に目配せをすると遊郭を後にした。
小十郎は淡路の手を握りしめて店を出ると遊郭の門を潜った。
見上げた空は青く白い雲が東へと流れていく。
二人は遊郭を出ると荒川の武家屋敷の区画へと向かった。
小十郎の家は武家屋敷の片隅の小さな家であった。
徒士というのは士分で言えば下位になり裕福な身分ではなかった。
淡路はぼろったの家屋の門前に立って
「…その、よく60両も持っていたね」
と呟いた。
とてもではないが60両用意できる家には見えなかったのである。
小十郎は門を潜って中に入り家の戸を開けると
「あの金はあぶく銭だ」
と告げた。
「唯一の身内だった姉が大名屋敷の女中に行っていたが…突然死んで帰ってきた」
肩から袈裟懸けに斬られて
「その見舞金だ」
淡路は驚いて小十郎を見た。
小十郎は土間を上がって一番広い部屋の膳の前に座ると
「だから、本当に金はない」
それでも良いか?
と淡路を見た。
淡路はふぅと息を吐き出すと
「なるほどねぇ」
そういうことだったのかい
「最初、死んでもよさそうな顔をしていたのは」
と言い、帯を緩め着物を脱ぎ始めた。
「あたしはあの店で働いていた太夫の子供でね」
母はどこの誰か分からない男の子供を身籠って産んだ
「産むなと言われたらしいけどね」
遊郭の子は禿になって母と同じ道を歩む
「私の場合もそうだったんだけど」
本当は夜鷹になっていても可笑しくはなかったんだけどね
そう告げて微笑んだ。
ただある方のお手がついて
「格子となってそれなりの扱いはされていたんだけど」
でも惚れた腫れたじゃないからねぇ
小十郎は淡路が襦袢を落とすと大きく目を見開いた。
淡路はにこりと笑い
「こういうことなのさ」
と告げた。
その美しさに変わりはなかったが、肩から背中にかけて奇妙な形をした痣があった。
竜を模したようなだが完全な形になっていない見るからにゾッとするような入れ墨ではなく痣であった。
小十郎は暫く呆然としたものの淡路が脱ぎ捨てたその着物を手に取って彼女の肩にかけた。
「俺にとっては痣など小さなことだ」
気になどならない
そう告げて
「俺は初め淡路の目に惹きつけられて姿に惚れた」
だが、今日淡路の手の温もりに惚れた
「そして今は淡路の心に触れて惚れた」
それが全てだ
と、そう微笑んだ。
淡路は笑みを深めると
「やっぱりあたしの目に狂いはなかったね」
と言い、座って両手を着くと
「これからよろしくお願い申します」
と告げた。
小十郎もまた両手を着くと
「俺もこれからよろしくお願いする」
と頭を下げた。
それから一か月。
荒川の近くに小料理屋が姿を見せた。
女将は淡路と言い、その美しさと女っぷりの良さに庶民だけでなく近くの武家屋敷からも客が訪れた。
時代は徳川家宣から家継そして吉宗へと変わる過渡期にあり江戸の下町でも様々なことが起きるのだが、小料理屋あわじでは旦那の小十郎と女将の淡路の仲睦まじい様子も見られ大層賑わっていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があると思います。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。