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喉の乾きを覚えて目を覚ます。
もう慣れた室内を水を求めて動く。
冷蔵庫を開けてみたけど目ぼしい飲み物はなくて、そういえば夜ご飯の時に飲み干したのだと思い出す。
コップを水切りかごから取り出して水道を捻る。
赤沢は東京の水は飲む気がしないといつも言うけど、こうやって飲むときには、喉の乾きもあってか、おいしいと感じる。私の喉は潤されるだけで十分なのかもしれない。
申し訳程度のサイズのシンクにコップを置くと、するりとベッドに潜り込む。
赤沢の住むワンルームは、本当に必要最低限が揃っているだけの部屋で、シンクからベッドまで5歩もいらない。
本当にコンパクト過ぎる作りに、初めて足を踏み入れた時には、びっくりした。
赤沢が、狭いって言っただろ、と言ったけど、田舎の狭いと東京の狭いがこんなに感覚が違うのかと思った。
5畳って言われたけどなって引っ越し当日に赤沢が苦笑していた理由にようやく納得した。田舎の5畳と都会の5畳は違うらしい。
それでなんで今この部屋のことを思い返しているかと言えば、こんな小さな部屋じゃ壁も薄いんじゃないかと思っているからだ。…実際に、隣の音を漏れ聞いた記憶はないけれど、こんな簡素な部屋の壁が、厚いはずもないと思うのだ。
水を求めたのは…かすれてしまった喉が水を欲したからで、きっとこの部屋じゃ声が漏れてしまっていると思う。それに水を飲みながら思い至って、少し…いや、とてもいたたまれない気分になってそれを押し込むようにベッドに潜り込んだ。
今の今まで、この部屋の壁の厚さが気にならなかったわけではないけど、少なくとも前回?…いや、前々回の時までは、理性がどこかで生きていて、声を漏らさないように気を付けていたのだ。
前回は…確かに夜中に喉が乾いて目が覚めて、私は水を汲んだのだ。そして今日みたいにおいしいと感じていた。
…いつの間にか、赤沢を受け入れられていたという事実に、自分でも驚く。
いつの間に。
…でもきっと頭で考えることじゃないんだろう。
これで、赤沢のことを信じ切れたと言えるのかはわからない。
だけど、少なくとも心の奥にあったシミは、私には気にならなくなった、ということなんだろう。
消え去った、と言えはしない。あったことをなかったことにはできない。でも、佳奈ちゃんが言ってたように、終わったことを考えても仕方がないのだ。
そう私がたどり着くまでに1年以上かかったことは、長かったんだろうか、短かったんだろうか。
窓に向かって眠っている赤沢の背中に身を寄せる。
赤沢の心臓の音を感じながら、目を閉じる。
この穏やかな気持ちが、いつまでも続けばいいと願いながら。
「え? 今月も?」
1週間ぶりくらいになる赤沢からの電話は、7月もこっちに来れない、という電話だった。最近忙しいらしくて、ゴールデンウィークに来た後は帰ってこれてなくて、6月は私が東京に行って会っただけだ。
『悪い。土日もどっちか出勤したりしてるぐらいで、帰れそうにない。でも、菊花が来るときには休むから。』
2週目の来週に私は東京に行くつもりで、最終週に赤沢はこっちに来てくれる予定になっていた。
「…そんなに忙しいなら、無理しなくていいよ。夜会えればいいし…むしろ、私行かないから、その日はゆっくり休んだ…。」
『それは嫌だ。俺はその日は菊花と過ごすの。』
少しむきになったような赤沢に、ちょっと嬉しくなる。
「…それなら、私の行く日ずらす? 3連休のほうが、会える時間増えるし…。」
元々そうするつもりだったんだけど、赤沢が用事があるからと前の週に決めたのだ。
『いや、3連休は普通に仕事入りそうだから、そのままの予定にしといて。』
「…赤沢の職場、そんなに休日出勤多かったっけ? むしろほとんどなかったよね?」
『…力試しのうち、らしいよ。』
赤沢がため息をつく。
「そんなに大変なことになるんだね?」
『もちろん、その分の休みはもぎ取るから。』
「じゃあ、5日くらい代休もらえるってこと?」
『そうなるかな。菊花も平日に休みとってよ。一緒にどっか旅行行こう。』
「そうだね。行きたいね。」
平日に休みを取って旅行、か。悪くはないかもしれない。
『花火、一緒に見に行けなくてごめんな。』
赤沢の声が陰る。最終週は、地元の花火大会があって、赤沢と一緒に行きたいと話していたのだ。
「ううん。仕方ないよ。」
『一緒に花火見たかったんだけどな。』
「そう思ってくれてるだけで嬉しいかも。また次の機会にすればいいよ。花火大会はいくらでもあるから。」
『菊花の浴衣姿楽しみにしてたのに。』
「…それ、下心入ってるよね? 何か純粋じゃない感じなんですけど。」
何だか素直に嬉しい気持ちにならなかったのは、6月に東京に行ったときに、一緒に浴衣を買ったけど…ほぼ1か月ぶりだからとちょっとえらい目に遭ったからだ。疑いたくもなる。
『いや、本当に純粋にだって! 菊花と花火大会行ったのなんて、大学4年の時にゼミのみんなで行ったのぐらいだろ。』
「そうだけど。…一応そっちで着て見せたでしょ。」
浴衣の着付けは昔習ったことがあって、それで着て見せたわけだけど…。うん。以下略。
『浴衣を着た菊花と花火大会に行きたいわけ。それは本当だから。』
「うん。私も赤沢と二人で浴衣着て花火大会に行きたい。また、今度どっかの花火大会行こうね。」
電話の向こうで赤沢がほっとした息をついて、ついそれに笑ってしまった。
確かに赤沢が忙しくなってあまり会えなくなったけど、前よりもずっと幸せだと感じる。




