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「こっちに戻ってこようかな。」
短くなっていく髪を見ながら考えずに口にした言葉に、口にしたとたん、すんなりと納得している自分に気づく。
「帰ってきなよ。」
有馬の口からそれ以外の言葉が出てくるとは思えないから、特に後押しされた気もしないけど、頭の中で引っ越しの算段を始める。
結局リア充にはなり切れなかったし、私をうるさく干渉する兄たちも、もうそれぞれに家庭を築いていて、実家に住んでいるのはすでに父と母だけになった。
有馬が実家に併設されている美容室にいるのは、単に母の後を継いだだけで、住んでいる家は他にある。
だから、私が家を出た理由はもうすでになくなったとも言っていい。まだ近くに住んでる兄たちが実家に顔を出さないわけではないことはわかっているけど、それでも、既に嫁なり子供なりいる生活を営んでいるわけだから、6年前と同じような関りはもうできないだろう。
つまり、わざわざ一人暮らしする理由なんて、もうないのだ。
引っ越しするにもお金はかかるけれど、どうせ来年の4月には更新を迎える部屋だったのだから、今引っ越しするのでも問題はない。これが更新費用を払ったばかりだったら躊躇したと思うけど、既に1年半近くは過ごしているのだから、もとは取ったと考えていいだろう。
「今日みたいに遅くなりそうなら、駅まで迎えに行くから。」
「…それいらない。ここから通うなら車通勤にするし。」
家賃分が浮くのだから、面倒な電車通勤なんてしない。駅から実家までは徒歩20分だ。バスがいる時間ならまだいいけど、今の時間にはいなくて、歩いて帰ってきた。…気持ちを整理したかったのもあったから、ちょうどよかったけど。
「車! 危ないよ。菊花に何かあったら困るよ。」
鏡の中の有馬を見る限り、これを本気で言っているんだから、頭が痛い。
「会社の車運転したりしてるから、大丈夫だって。運転うまいって言われるよ?」
これに嘘はない。
「菊花が運転うまくても、巻き込まれたりするかもしれないでしょ。」
本当に頭が痛い。
そんなこと言ったら、電車も事故に巻き込まれることだってあるし、移動手段なんて何も使えないってことになりかねない。
「巻き込まれ考えてたら、どこにも行けなくない?」
皮肉を込めて鏡の中の有馬を見れば、有馬が、あ、と目を見開いた。
「そうだよ、菊花。ここでアシスタントしてくれればいいから!」
何がいいこと思いついた!だ! 全然全くこれっぽっちもいいことじゃないからね?
「今の仕事楽しいから絶対嫌。」
私の返事に有馬が口を尖らす。
どこぞのお姉さまが、その拗ねた顔をみて“かわいい”とのたまっていたのはもう10年くらい前だったけど、もう30半ばの男がそんな顔をしているのを見ても、あほか、としか思えない。
その顔が自分とそっくりだとすれば、ますますそうとしか思えない。うん、気を付けよう。
「どうせ実家に帰ってくるんだし、別にいいじゃん?」
何がどうせ、だ。因果関係があるように話してるけど、まったく因果関係はないからね?
「私美容師になろうと思ったこと、1ミクロンもないんだけど。」
「1ミクロン未満はあるわけでしょ?」
屁理屈!
「1ミクロン未満がどれくらいのサイズであるのか説明してくれたら、考えてもいいよ?」
一瞬眉間にしわを寄せた有馬が、次の瞬間にはニカッと笑う。
「説明できたらいいわけね?」
…考えてもいいと話しただけで、やるとは言ってないがな。私が頷くと、有馬が口笛を吹く。
「あ、でも今この場で説明できなければ無効だからね。」
もう一つ抵抗を加えると、有馬がへにょりと顔を崩す。
「それはないよ! 皐月じゃあるまいし、そんなの説明できるわけない!」
皐月はうちで一番お勉強のできる人で、今は大学で研究職をやっている。
「それに説明できたとしても、私は考えるって言っただけだよ。」
「それ屁理屈!」
最初に屁理屈言ったのは自分でしょ、と流し目で見ると、拗ねた顔をした有馬と目が合う。
「菊花はこんなに素直じゃない子じゃなかった!」
どんな幻想を抱いているんだ、兄よ。
「昔から変わりませ~ん。」
変に兄たちに構いまくられ過ぎたせいで、私はその愛情を素直に受け取るというすべを持たなくなってしまった。逆にひねくれて、いかにその愛情をそらすかを考えてばかりいた。
重い愛は、時に人をひねくれさせる。
うーん。迷言(笑)。
「昔は素直だった!」
「素直だったのは有馬たちの方でしょ。素直にストレートに私に対して愛情表現してくるくらいだったし。おかげでひねくれたんだと思ってるんだけど。」
もし私が、かわいらしくてほわっとしたような女の子だったら、きっと兄たちの言葉を素直に受け取っていたのかもしれない。でも、私はそんな女の子じゃなかったから。兄たちにそっくりな顔をした、女の子たちに王子様扱いをされる女の子だったから。
だから、私をかわいいと褒めそやす兄たちの言葉も素直に聞けるわけなんてなかったのだ。
10才、8才、6才と少し離れた年の兄たちは、小さいころから無条件に私をかわいがってくれていた。それはありがたいことだとよくわかっている。
それでも、もう少し現実的な褒め言葉で褒めていてもらいたかったと、いまだに思う。
髪の毛を有馬に任すと、次々にやるべきことを思い出す。
「ね、桜佳って明日予定ある?」
鏡の中の有馬に問えば、鼻唄混じりで機嫌が良さそうだった顔がとたんに歪む。
「一緒に住んでもないのに知るか。何でそんなもの気にすんだよ。」
歪んだ理由がそれではなく、私が他の兄弟の予定を気にしたからだというので間違いないだろう。
「瑠美暇かな。」
どちらかと言えば、と言うか間違いなく桜佳の嫁の予定が気になっている。明日桜佳との予定があれば、瑠美は迷わず桜佳を取るだろう。桜佳が激務で二人で出掛ける暇があまりないのを知ってるから親友のその選択に文句をいう気は更々ないが、明日は買い物に付き合ってもらえると助かる。
昔バイトでショップ店員をしてただけあって、センスはいい。しかも安物を安物に見せないテクニックを持っている。
洋服にお金をかけれはしないけど、手持ちの服をまるっと総替えするなら瑠美の協力が不可欠だ。
「あー、どうだろうね。髪切ったら連絡してみたら?」
瑠美の名前に機嫌を戻した有馬に、何だかなと思いつつ、その提案には素直に頷く。
「そうする」
桜佳には悪いけど、明日は休日出勤をお願いします。
「ところで荷物何も持ってきてないでしょ?日曜には一旦帰るの?」
数日を過ごすくらいの荷物は実家にも置いてある。
「明日の戦果によるかな。仕事着さえあれば月曜まで戻らないと思うよ。」
引っ越しをするにも、部屋の片付けは必要だろう。月曜からは片付けに入ろう。…ああ、仕事は忙しくなるんだった。…さてどうしよう。でもうちならご飯あるしな~。
「部屋の荷物なら、俺らで片付けるけど?持って帰って来てからでも選別はできるでしょ?」
…何て甘やかしだ!しかも勝手に皐月と桜佳も人手に加えられてるけど、本人の同意は要らないのか?…たぶん要らないんだけど。
「流石にそれは…」
下着以外にさわられたくないと思うような物はないけど。流石にね。
…下着も全部買い換えるかな…。いやでも出費が…。
と思いつつ、宝塚にも行かず、デートで出掛けることもなく、使うお金は洋服代くらいのものだった私には、そこそこ蓄えはある。ただ、それが一気に減ってしまうのは、流石に痛みを伴う気がする。
…でも、いいかこの際。
レース一杯の下着に比べればシームレスの飾りも何もない下着なんて値段は安いだろうし。多分。いっそのことワイヤレスの楽チン下着にしてしまおうかな。あれ気になってたんだよね。
このささやかな胸を支えるワイヤなんてあまり役には立ってないんだし。…赤沢にも所望はされてなかっただろうけど、つい頑張って寄せたりあげたりしてみてたんだよね。何頑張ってたんだろ。
うん、そうしよう。
…赤沢を諦めるイコール女を捨てる方向に動いている気がするのはきっと気のせいだ。うん、気のせい気のせい。
「菊花聞いてる?」
「へ?」
聞いてませんでしたよ!と鏡の中でニヘと笑ってみると、有馬はため息だけついて許してくれた。すまん兄よ。
「引っ越し代もバカになんないだろ。それに部屋に戻ってるときにあいつに会いたいって言われて部屋に上げないでいる自信あるか?」
あー。そうか、まだ決定的なことは伝えてないから、赤沢に会わなきゃいけないかもしれないんだ。
…今言うかな。でも2番目の女の楽さを知ってる赤沢がもしかしたらごねるかもしれないしな…。
…引っ越し終わってから伝えよう。
「有馬頼める?」
それまでは接触しない方向で。どうせ赤沢から連絡なければ会わないし、連絡きても断れば今日みたいにあっさり引き下がるだろう。
考えても虚しくなるぐらい、軽い存在だな、私って。
「喜んで。」
にっこり笑う有馬は本気で嬉しそうだ。
「万が一そいつが顔出したらボコっとくな。」
「暴力反対。それに桜佳だと本当に洒落にならないじゃん。」
桜佳は空手黒帯だ。
「桜佳は行けないだろうから、俺か皐月のへなちょこパンチだよ。」
嘘つけ。
「有馬も皐月も空手習ってたじゃん。私覚えてるよ。」
桜佳は大学までやってたけど、有馬と皐月だって中学生か高校生くらいまではやってたのだ。私が小さかったからって3人で空手着を着てる写真も残っているから知ってるし覚えているのだ。
「ダメか。」
企みが潰えたことを残念そうに言う有馬だけど本当に洒落にならないから。
単なる妹の不毛な恋に払う代償として警察沙汰は高すぎる。
「妹がバカなことしてただけでしょ。それやめるんだからそれで良しとしてよ。」
「かわいい妹が泣かされたんだよ?それでよしとは出来ないよね?」
いやシスコンめんどくさい。
「実加さんと深月に泣かれるよ。」
とたんに有馬の表情が困った顔になる。
このシスコン兄をおおらかな気持ちで受け止めれる出来た義理の姉実加さん。そしてそんなシスコン父を当たり前のものとして受け止めている娘深月。この二人も私を可愛がってくれている。小学生にならない姪にかわいがられるって何?とは思わないでもないけど、深月が満足してるからいいかと思っている。
そしてその二人も愛してやまない兄を止めるには、二人に泣かれるよ、と言っておけばよし。
シスコンと言えども、愛する妻と娘は優先してくれていてほっとする。
ちなみに、皐月と桜佳の嫁もおおらかな心の持ち主だ。兄3人とも見る目は間違いなくある。
「それは出来ないな。他のこと考えとく。」
しゅんとして言ってるけど、余計なこと考える気満々だ。
「私にも責任は間違いなくあって、痛み分けだと思うよ?」
「どこが。そいつは本命を失ってないんだろ。痛み分けどころか痛みがあるのは菊花だけだろ。」
「…むしろ、有馬がやり返そうと考えてる辺りが更に私の傷を深くするんですけど。私がやり返したいと思ってるならわかるけど、そっとしておいてほしい。私は決めたらきちんとやるでしょ?」
鏡の中の有馬に目を合わせれば、有馬が苦々しい表情になって、何を考えたのかすぐに分かる。
「勝手に一人暮らしするとか、あれはない。」
「兄に許可を求めることじゃないからね。」
未だにあのときの引っ越しは有馬にとって苦々しい思い出らしい。
「次は許さん。」
真面目な顔でそうのたまう有馬の一人娘を思い出し、彼氏ができたら大変だろうな、と本気で思う。
「はいはい。好きなだけ反対してくださいな。」
次、がいつあるかもわからないし、もしかしたら二度とないかもしれないけど。
つきんとした胸の痛みは、この恋の代償だ。仕方ないしばらく付き合うしかないだろう。そのしばらくがいつまでかはわからないけど。