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「行ってきます。」
声をかけてドアに手をかけたタイミングで、ドアが開く。
「あれ、菊花。出かけるのか?」
玄関の外に立っていたのは桜佳だった。
「ん。東京。」
私の答えに、桜佳が頷く。
「駅に行くんだろ? 送るよ。」
「本当? 助かる。」
自分の車は置いていくつもりでいたから、ありがたい申し出だった。
「たいしたことじゃないしな。」
「ありがとう。」
外に出ると、夕暮れが暗闇に覆われそうになっていた。
「日が落ちるのが案外遅いな。」
私の視線をたどった桜佳がつぶやく。
「もう3月だしね。って言うか、桜佳がこの時間にいるのって不思議なんだけど。仕事は?」
今日は普通の金曜日で、いつもなら桜佳は仕事中(がっつり残業中)のはずなんだけど。
「今日は早退した。」
「へぇ。珍しい。」
いつも仕事一筋って感じなのに。
「留美が妊娠した。」
「え? 本当? おめでとう! って、こんなところにいないで家に帰りなよ。」
「…報告しに来たから。それに、構いすぎて鬱陶しがられた。静かに寝かせてって言われたから、家にいたら構いたくなるから出てきた。」
…構いたくなるって…。そうか、桜佳は好きな子を構い倒すのか…。特に知らなくて良かったかも。
「…でもいると思ってたのがいないと寂しいと思うよ。帰りなよ。」
「とりあえず駅に送ってく。」
「いいよ。バスで行けばいいだけだし。父さんも母さんも家にいるよ。報告したら帰りなよ。」
「…でも。」
「いいの。いい、桜佳? 優先するのは私より留美のことでしょ! 留美が妊娠したって聞いて仕事バカの桜佳が早退するぐらい留美のことが心配だったんでしょ? そばにいられるときはいてあげてよ。…留美の親友である私からの願いでもあるから。」
私は確かに桜佳に甘やかされた妹ではあったけど、留美の親友でもあるのだ。親友の幸せは祝いたいし、いつまでも幸せであって欲しいと願っている。
「…わかった。ごめん、送ってやれなくて。」
「ううん。最初からバスのつもりだったから、気にしなくて大丈夫だよ。」
「なあ、菊花。」
「ん? 何?」
「お前も、いい大人になったんだな。」
「…何それ。今更気付いたの? 私も26は過ぎましたけど?」
「いや。ずっと子供だと思い込んでたのはなんでなんだろうな。」
「何? 自分が親になるってわかってようやく私の年齢理解したの?」
「…いや、そういうことじゃないけど。菊花さ、別に俺らの許可なんかいらないんだよ。」
桜佳の言いたいことがいまいちつかめなくて、首をかしげてしまう。
「どういうこと?」
「結婚。菊花がしたいと思うなら、していいと思うよ。」
思いがけない桜佳の言葉に驚く。
「どうしたの?」
「…どうしたって…いや、まあ、そういうことだよ。ほら、もう行くんだろ? バスの時間は大丈夫なのか?」
桜佳の言葉に、少し慌てる。そういえばバスの時間を考えて出てきたんだった。
「あ、まずい。じゃ、留美によろしく。」
少し余裕をもって出てきた時間だったけど、今じゃぎりぎりの時間になってしまっていた。
「気をつけろよ。」
「はいはい。行ってきます!」
旅行というにはちょっと身軽なリュックの肩紐を握りしめると、バス停に走る。
その気持ちは、少しだけ軽やかだった。
新幹線の座席に座って、ほうっと息をつく。
新幹線が動き出したのを確認して、おにぎりを一つ早々に食べ終わると、目をつぶる。終点まで、4時間。今日は仮眠に使うつもりでいた。
目をつぶりながら、出がけに、桜佳から言われた言葉を思い出す。
“俺らの許可はいらないんだよ”
あの事を知って一番怒っていたのは、桜佳だった。
それは、赤沢のことを知っていたから、ということも影響していたのかもしれない。
その一番怒っていたはずの桜佳が許してくれた、という事実は、きっと赤沢を喜ばすだろう。
だけど、桜佳は勘違いをしている。
私たちの結婚に桜佳たちの許可がいらないことは、私だってわかっているのだ。
今私たちが結婚せずに遠距離恋愛をしているのは、それを私が望んだからなのだ。
赤沢が8月に転勤が決まったとき、私が結婚の話に即答できなかったのは、あの小さなシミは間違いなく影響していたと思う。
だけど、私が結婚を渋った理由は、それだけでもないのだ。
仕事。
…きっと、人によっては、なんだそれ、な理由だろう。
私がいなくても、仕事が回ることだって、それは知ってる。残念ながら、私がいなきゃ成り立たない!って言われるような存在じゃないから。
ただ、今やっている仕事が楽しい。
赤沢は1年後か2年後に帰ってくる。…必ず。
それであれば、私が仕事を辞める理由にはならないと思ったのだ。
今仕事を辞めてしまって、また同じような仕事に就けるとは思えない。
だから、私は今結婚することに頷くことはできないのだ。
職場の先輩からは、脅されることもある。
“浮気されるんじゃないの”“心変わりされるんじゃないの”
それは、変に私に構おうとする不埒な輩、ではなくて、私をかわいがってくれる女性の先輩からの声だ。
遠距離恋愛になったことで、会う時間を考えなくて良くなった分、仕事に熱中しだしたのは自分でもわかっていた。
その熱中具合に呆れた先輩たちが、私を仕事中毒にしないように脅してくるのだ。
でも、その言葉は、私には響かない。
強がり、というのも違う。
それが今現実として目の前にないから、というのが正しいだろうか。
目の前にないことは信じない。
それは、遠距離恋愛を始めてから決めたことだ。




